数百メートル離れた距離で、五条悟は簡易領域を一層強固に維持し続けていた。
四方八方から途切れることなく殺到する『群牙散兎』の津波を、純粋な体術のみで捌き続けている。
(……完全に、正気じゃない)
ただ両足を地面に固定し、移動という『縛り』を課すことによって、簡易領域の出力を極限まで高めている。だが、移動ができないため、当然ながら全てのウサギの爪や牙を躱しきることはできない。
それでも無数の攻撃をその肉体に受けてはいるが、傷が浅すぎる。
常軌を逸した呪力強化による肉体の硬度。さらには反転術式による即時再生の速度が、ウサギが与えるダメージを完全に上回っているのだ。
――どうする。どうしたらいい。
呼吸を整えながら、高速で思考を回す。
五条悟は、影の中から這い出てた朔の姿に気づき、薄らと笑みを浮かべながらこちらを見つめてくる。
「ぐっ……ハァッ、ハァッ……っ」
無意識に、心臓の辺りを手で強く押さえる。
あの狂気を孕んだ蒼い瞳に見つめられると、どうしても本能的な恐怖が這い上がってくる。息が上がる。
そんな弱者の感情を無理やり押し殺し、現状を正しく把握するために前を向く。
五条悟は、瞳で語りかけていた。
『次はどうする? これで手札は全て出し切った?』と。
「……」
その瞳の問いに答えるように、鵺にさらなる呪力を注ぎ込み、翼への雷撃のチャージを再開させる。
接近戦用の式神を呼び出せば、あの理不尽な拳で一瞬にして粉砕される。そんな最悪のイメージを植え付けられてしまったがゆえの、遠距離攻撃という負け犬の思考。
だが、今はそれが最適解であると理解して行動する。
それと同時に、朔の唇が新たな呪詞の詠唱を紡ぎ始めた。
「『
ポンッ、と。
現在召喚されていた本体の『ウサギ』を一度解除し、瞬時に両手で全く同じ『影絵』を結び直す。
「
一瞬だけ、領域内を埋め尽くしていたウサギの波が止む。
だが次の瞬間、新たなウサギの群れが影の沼から再召喚された。
先ほどの呪詞は、単純な増殖を促すものではない。ベースとなった『脱兎』ではなく、そこに継承させた『玉犬』の要素を強制的に強めるための儀式。
その証拠に、再召喚されたウサギたちは、先ほどの絶望的な数には及ばないものの、その一体一体の呪力が異様に高まり、肉体が一回り以上大きく強化されていた。
鋭い嗅覚、強靭な爪、そして獲物を噛みちぎるための巨大な牙。それらの身体能力が格段に上昇している。
――『質より量』から、『量より質』への変換。
相手が縛りによってその場から動かない以上、目眩ましや足止めのための『数』は不要。
必要なのは、肉体を削り取るための純粋な暴力。
朔から、殺意の乗った極めてシンプルな命令が群れへと伝達された。
『喰い殺せ』
「……ん?あぁ」
一瞬群れの攻撃が止んだことに怪訝な顔をした五条だったが、そのひと手間加えた再召喚の意図を察し、目を見張ってからやはり楽しそうに笑った。
「呪詞の変更で、式神の別側面を強化した? まだそんな裏技が残っていたなんてね!」
二種の式神の複合タイプだからこそ成せる業。状況に合わせて、それぞれどちらかの要素をチューニングし直す。
一回りスペックと物理的な質量が膨れ上がった群牙散兎が、中央の五条を『餌』であると認識し、獰猛な咆哮を上げながら殺到していく。
――グチャッ! グチュゥゥッ!
五条は変わらず、殺到する猛獣たちを的確に迎撃し続ける。
だが、その場から動けないこと。そして、ウサギ一体あたりの質量と攻撃力が格段に跳ね上がったこと。これらの要素が積み重なり、反転術式で回復する端から、五条の肉体に刻まれる傷がどんどん増えていく。
(……それでも、足りない)
あのデタラメな回復速度と呪力出力を上回ることができない。
五条悟にはいまだ、明確な『余裕』がある。
おそらく、彼の狙いは時間稼ぎだ。
皮肉なことに、先ほどまで朔がやっていたことと同じ。形勢が完全にひっくり返っている。
朔は五条の簡易領域を飲み込もうと『黒天楽土』の出力をさらに上げるも、移動を捨てたことによる縛りの恩恵は凄まじく、結界の皮一枚をどうしても剥がすことができない。
徐々に削れてはいるものの、その速度は先ほどの半分以下に落ち込んだ。彼自身の集中力が限界を迎えつつあるのも大きな要因だろう。
(五条悟は、領域の押し合いを経験して……僕に領域を展開・維持する『技量』がそこまで高くないことを正確に理解したんだ)
だからこその、自分が絶対に勝てる『我慢比べ』への持ち込み。
このまま無為に時間が過ぎていくとまずい。この不完全な結界が五条の簡易領域を押し潰すよりも早く——五条の『術式が回復』する。
――そうなれば、全てが終わる。
それが分かっているからこそ、五条はあえてこの戦法を選んだのだ。
相手のフィールドに乗れば、確実に負ける。ならば、乗らない。
(このままでは、負けるのはこっち)
ここにきて。
禪院朔は、当初思い描いていたルートを完全に捨てさった。
本来であれば、相手の領域対策を完全に削り切り消し飛ばした後に、一切の反撃を許さぬ『最後の一手』として打つつもりだった、隠し玉。
(……ここで、勝つ)
その気怠げな瞳の奥に、明確な闘志の炎が宿る。
辛い。しんどい。死にそうだ。
——勝ちたい。
「鵺ッ!!」
朔が大声で式神の名を呼んだ。
その珍しく感情の乗った声に、五条は巨大ウサギの頭を握り潰しながらも、上空へと意識を向けた。
「また、何かやるの?次は何を魅せてくれる?」
――ピキャァァァァァァッ!!
鵺が空を割り裂くような咆哮を上げ、黒天の空を舞う。先ほどからチャージを続けていた膨大な雷が、その両翼に臨界点まで溜まっている。
「また、雷? それはさっきも見たよ」
先程とは違う。
拡散する雷撃ではなく、収束する一撃だ。
「放てッ!!」
五条が軽く首を傾げた、その時。
朔の悲痛なまでの叫びが、領域内に響き渡る。
「これが、僕の最後の攻撃だッ!!」
朔の大声が、五条の思考を僅かに遮る。
鵺の翼から、極太の『紫電』が五条目掛けて放出されようとしている。五条もそれを真正面から迎え撃つべく、呪力を防御へと回した。
「……ッ!?」
だが。五条の六眼は、上空からの雷撃と『同時』に——別の座標から、凄まじい呪力の起こりを捉えた。
最後の切り札を切る。
「
十種影法術には、いくつかの絶対的なルールが存在する。
式神が完全に破壊されたら二度と召喚できなくなること。破壊された式神の力は、別の式神に継承できること、など。
そしてそのうちの一つに、『同時に二体までしか式神を顕現・維持できない』というルールがあった。
だが、禪院朔は一つの『縛り』を自らに課すことにより、その制約を強引に突破している。
『自分自身に呪力を纏い、他者に直接攻撃をすること』を、彼は放棄した。一つの武器を捨て去ることで、別の武器を手に入れた状態。
それにより、彼が同時に召喚できるコストの上限は『三体』にまで底上げされているのだ。
朔は現在、この領域において二体しか式神を使用していない。鵺と、群牙散兎の群れ。
この極限の状態で、出し惜しみをする理由などない。
ならば、残りの一枠の式神はどうしたのか。
その答えは、極めて簡単。
刃を、研いでいた。……目の前の男の首元に突きつけるための、最鋭の刃を。
『影』が、不自然に揺らめく。
自身の影と式神の影を、同一のものと定義することによって繋ぐ拡張術式『
逃げるためではない。最後の一撃を叩き込むために。
――バリバリバリバリィィィッ!!!
上空から鵺の電撃が放たれると、ほぼ同時に、背後の影から『それ』が飛び出してきた。
一番初めに、五条悟の『領域』を外側から吹き飛ばした立役者。
そして主の命令通りに、この戦闘中、今の今まで『最高速度で走り続けていた』式神。
「こい……『貫牛』ッ!!」
遠くを走っていた黒牛の影と、自分自身の影が直結し、その絶大な質量が空間を跳躍して現れる。
その狂気的な奇襲に、上空からの雷撃に身を焼かれながらも、五条悟は目を見開いた。
(——来る!)
五条悟を打倒すべく現れた、正真正銘、最後の一手。
五条の簡易領域を剥がし、自らの領域の『必中効果』を取り戻してから、絶対に回避不能の状態でぶち当てるのが当初の計画だった。
だが、今は簡易領域に阻まれており、悠長に待っている時間はない。それに、今現在の五条は、簡易領域を維持するために『動くことができない』状態にある。
ならば、必中効果など関係ない。
――やれる。勝てる
——僕の、勝ちだッ!!
朔の頭の中に、勝利の二文字が閃いた。
脳汁がドクンッと溢れ出し、極度の緊張から解放されたように、気怠げな表情が歓喜に緩む。
骨折した肋骨。
その胸の痛みを忘れるほどの高揚感。
災害そのものと言える、超加速の黒牛が五条へと迫る。
五条悟のその美しい蒼い瞳に映るのは、大半の呪術師が真っ向から受ければ、一瞬で挽肉になるような絶対的破壊の化身。
(……まさか、これほどとはね)
五条悟の胸の奥底から、ゾクゾクとするような熱が込み上げてきた。
僕を打倒すべく、これほどまでに執念深く試行錯誤を尽くし、真っ向から挑んできた。
最強である自分にここまで傷を負わせ、命を削り、ついには逃げ場のない死地へと追い詰めた者は——一体、いつ以来だろうか。
明確な『歓喜』が、五条悟の肉体を包み込む。
迫り来る死の突進を前にしても、その顔には極上の笑みが浮かんでいた。
「ハハハハッ! いいねぇ!!」
奇しくも。
朔も同じく歓喜と共に、確信の笑みを浮かべていた。
(やっぱり、僕は間違っていなかった。最強は、殺せる)
だが。
そんな禪院朔の絶対の確信を根底から吹き飛ばす『理不尽な異常事態』が、眼下で起こる。
五条悟へ、超加速の『貫牛』。
上空からの雷撃と、四方八方からのウサギの群れ。逃げ場のない、完璧な詰将棋。
そして。
――ドォォォォォォォォォンッ!!
貫牛の巨体が激突した瞬間。
世界の色が反転した。
そして、全てを喰らい尽くすような『■■■■』が、空間を割るように弾け飛んだ。
…………。
…………。
「——は?」
鵺×貫牛
【挿絵表示】
画像はイメージです。
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今回も没案を載せておきます。
コンセプトは、天を翔ける牡牛。
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