今、自分が何をしているのか分からない。何をしていたんだっけ。
記憶が曖昧だ。身体が重く、全く言うことを聞かない。目も開けられない、深い暗闇の中。
(……死んだのかな。だとしたら、なぜ?)
脳に靄がかかったように、肝心なことが思い出せない。
僕は一体、何を。
そんな思考のまま、暗い海の中を漂っていると、徐々に、徐々に意識が浮上してきた。
*
「ぐ……、がぁ……」
医務室のベッドの上。
目を開けようとするも、声が上手く出ない。身体も異常なほど重い。たくさん寝てしまったがゆえの気怠さだろうか。いや、それにしてもなぜか、いつもより遥かに重たいような。
「あぁ……、あ……」
そんな声にならない呻き声を漏らしていると、近くにいた誰かがハッと息を呑む気配がした。
「あ、め、目覚めた!?」
白衣を着た医者と思われる女性が、慌ててパイプ椅子から立ち上がり、何事か慌ただしく言葉を並べながら部屋の外へ駆け出していく。
(頭が痛い。そんな大きな声、出さないでほしい。しんどい……)
そして、なぜか左半身が全く動かせない。どうやら、厳重に固定されているらしい。
一体、何なんだろう。自分はどういう状況にあるのか。
そんな風にぼんやりと考えていると、いい加減、動かせない左腕が鬱陶しくなってきた。
ガチャガチャと、器具と思われるものが設置してある箇所を無理やり動かそうとしてみる。だが、感覚がないのか、全く何も感じない。
「うぐ……が……」
ダメだ。動かない。
というか、全身に痺れのようなものを感じる。麻酔でも打たれたのか。それとも、何かの後遺症か。
そんなことを考えていると、バタバタと廊下から複数の足音が近づいてきた。
バタンッ! と、勢いよくドアが開かれる。
(なんでみんな、こんなに慌ただしいんだ)
視線だけを向けると、そこから顔を出したのは、見慣れた人物だった。
紅白の巫女服を着た、京都校の引率教員——庵歌姫先生。
「せん……せい……」
たどたどしく掠れた声を発しながら、ドアの方向へと少しだけ首を傾けた。
「朔ッ!?」
歌姫は血相を変えてベッドのそばへ駆け寄り、まくし立てるように声をかける。
「起きたのね!? 身体は!? 痛むところはない!? 何か異常は——」
(あぁー……うるさい。そんなに大声を出さないでほしい。辛い)
心配してくれるのは素直に嬉しいが、今は鼓膜に響いてしんどいのだ。
そんなことを思いながら、朔はこくこくと縦に首を振った。首自体もコルセットのようなもので固定されているらしく、とても不格好な動きになってしまう。
「お、落ち着いてください。先ほど目覚めたばかりですので……」
先ほど出て行った白衣の医者が、慌てたように歌姫を諭す。
「だってさぁー。ダメだよー、病室でそんな大声で騒いじゃ」
すると、先ほどの扉から、さらに別の人物がひょっこりと顔を出した。
誰かと思い目を向けると、そこにいたのは——目隠しをした現代最強の術師、五条悟。
そして、その後ろには、東京校の学長である夜蛾正道。あの厳ついサングラスのおっさんが、仁王立ちで入ってきた。
「誰のせいで、こんなことになってると思ってんのよ!?」
五条の顔を見た瞬間、歌姫が烈火の如く怒鳴り散らす。
「私の大切な生徒に、何してくれてんのよアンタッ!!」
(さっき、注意されたばっかなのに。すごい大声で文句言ってる、歌姫先生)
めちゃくちゃうるさいし、お医者さんもオロオロしているからね。
「おぉー怖っ。ヒステリック? そんなんじゃ一生結婚できな——ぐふぅッ!?」
「口を慎め」
五条のふざけた軽口を物理的に収めたのは、背後にいた夜蛾学長だった。
彼は背後から五条の首を極め、ヘッドロックの要領で強引に締め上げて黙らせた。「お前は自分がやらかしたことの重大さを理解しているのか」と言わんばかりの怒気が漏れている。
五条を締め上げたまま、ベッドのそばへと近寄ってくる。
「禪院朔くん、だったな」
夜蛾は、厳つい顔に似合わない、本当に申し訳なさそうな雰囲気を漂わせながら深く頭を下げた。
「今回のことは……本当に申し訳ないことをした」
その渋い声での真摯な謝罪。
――何と言うか、すごい似合わないな。
そんな場違いなことを考えながら、朔も掠れた声で返す。
「いいえ……ぼくは、ぜんぜ、ん……だいじょ、ゴホッ、ぐぅ……!」
激しく咳き込んでしまう。
慌てたように、歌姫が声をかけてきた。
「無理して喋らなくていいから……!」
そう言って、彼女は優しく朔の右肩に手を置いてくれた。こちらを労わるような、温かい手。
そして、歌姫は夜蛾学長に向き直り、きっぱりと言葉を発する。
「夜蛾学長。此度の件についてですが——」
「あぁ、分かっている。上にも報告し、厳正に処罰するつもりだ」
夜蛾はサングラスの奥の目を細め、苦々しいような、心底怒っているような雰囲気を漂わせる。
「教師が、それも他校の生徒に対して、私闘でここまでやるとは……」
(なんか、五条先生が百パーセント悪い、みたいな空気になってる)
確かにボコボコにされたが、元はと言えば僕が無理やり喧嘩を吹っかけたのだ。完全に自業自得である。
状況を説明して訂正すべく、朔は再び口を開く。
「あ、の……今回のことは、僕が……ぐっ」
「だから無理に喋んなくていいから! 大人しくしてなさい、アンタは!」
歌姫にピシャリと言い放たれるが、それでも訂正しなくてはいけない。
そんな思いで口を開こうとするも、夜蛾が先に言葉を発した。
「事の顛末は、悟から全て聞いている。君が模擬戦を申し込んだことも、その過程もな」
夜蛾は静かに、諭すように告げる。
「確かに、君が望んだ事なのかもしれない。だが、大の大人が、子供に対してここまでやるというのは、決して許されるものではない」
「……」
「過程がどうであれ、結果として君は重傷を負っている。教師としての責任問題だ」
夜蛾学長は、とても真面目に、僕に言葉をかけてくれる。
(うん、それはいいんだけど。……さっきから、五条先生がずっと夜蛾学長に首を締められ続けてるんですけど。これはいいの?)
視界の端で、顔を青くしてタップし続ける最強の術師が気になって、話に集中できない。
「そうよ。アンタにも後々しっかり話は聞くけど、今は大人同士で話し合うから気にしなくていいわ」
歌姫がフンッと鼻を鳴らす。
「こんな馬鹿目隠しのことなんか、擁護してあげる必要もないから」
「いやー、ホントに悪いとは思ってるよぉ?」
締められながらも、五条が強引に口を挟む。
「ついテンション上がっちゃってさぁ! まさかあそこまでやるとは思わなく——ぐへぇッ!?」
「お前は少し黙っていろ」
さらに無慈悲に腕を締め上げた。
夜蛾学長も歌姫先生も、割とこの状況にガチでキレてる。
「なんてことしてくれたんだ」という大人としての責任感だろうか。
まあ、確かに教師が生徒を本気でボコるって、普通に考えてヤバい事案かもしれない。だが、全ては僕の戦術が招いた結果なのだ。
(何だろう。僕のせいで他人がめちゃくちゃ怒られてる、この絶妙な居心地の悪さ)
そして、話し合いに一段落がついたところで、白衣の医者から厳しい注意を受けた。
「患者さんはかなりの重傷なのですから、ここでの話し合いは控えてください!」
まごうことなき、大正論だ。
「……すまない。また後で来よう」
夜蛾と五条は、医務室の出口へと向かう。最後に軽くこちらへ頭を下げ、二人は出て行った。
そして、ようやく部屋が静かになる。
「はぁ……あの男は、本当に……」
歌姫は心底馬鹿を見るような冷ややかな視線で、五条が消えた扉を見送った。
(とりあえず、この状況から脱却したい)
怪我自体は、反転術式を使えばある程度自力で治せるはずだ。
「せんせ……い……」
「ん? どうしたの? 何か、欲しいものでもある?」
「いえ……式神で怪我を治したいので。手伝って、ください……」
朔がそう告げると、彼女は少し驚いたように目を丸くした。
「えっ? アンタ、そんなことできるの?」
だが、彼の術式を知っている彼女はすぐに一人で納得し、ベッドのそばへと近づいてきた。
「手伝いって……私は、どうしたらいいの?」
「手を、貸して、もらえれば……」
そう言って、布団の中から右側の手を出そうとするが、上手く痺れて動かない。やはり、これは医療用の麻酔のせいだ。
「うぅ……ぐ……」
右手を出すのに苦戦していると、歌姫が手伝ってくれた。彼女の両手が朔の右手をそっと握り、布団の外へと引き出してくれる。
「これでいい?」
「はい。あと、影絵を作りたいので……先生の、左手を貸してください」
そう言って、朔は歌姫の左手をギュッと握った。
まるで、恋人繋ぎのように指を絡ませる。
ここからカエルの影を形作るだけでいいのだが、指の感覚が鈍く、思ったように動かなくて少し苦戦する。
「こ、こう? こうしたらいい?」
歌姫が自分の右手を用いて、朔の指の形を丁寧に調整してくれる。彼女は影絵の形についてある程度詳しいらしい。
「何の影絵を作るの?」
「……カエル」
その一言だけで、彼女には伝わった。
ほんの少しだけ四苦八苦しながらも、ついに二人の手で一つの完璧な影絵が完成する。
「『
朔が掠れた声で式神の名前を呟き、召喚に成功する。
ベッドの足元から現れた巨大なカエルに、朔は短く命じた。
「治して」
そう言うと、蛙はその分厚い舌を伸ばし、朔の動かない左半身へと舌を這わせた。
そして、生のエネルギー——反転術式を直接アウトプットし始める。
じわじわと、千切れた筋肉や砕けた骨が再生していくのを感じる。
「へぇー。不気味だけど、便利なものね……」
「……あぁ、いい感じ」
舌から流し込まれる反転術式によって、砕けた細胞が急激にくっついていく感覚がする。
これほどの重傷を負うなど初めての経験だったため、肉体が治癒していく奇妙な感覚は少しだけ新鮮だった。身体の麻痺も徐々に抜け、少しずつ自分の意思で動かせるようになってきている。
感覚が戻ってきた身体をなんとなく確認している最中――ふと、自分の右手に目が留まった。
見れば、先ほど一緒に影絵を作った自分の右手と、歌姫先生の左手が、指を絡ませたまま繋がりっぱなしになっている。
傷を治す際、急激な再生に伴う痛みを堪えるために、つい強く握りしめてしまっていた。そして彼女もまた、それを振り払うことなく、優しく握り返してくれていたのだ。
「……あの」
繋がれた右手を、ちょいちょいと軽く引く。
「ん?」
「手、もう大丈夫です」
「あ……え、ええ。そうね」
そう言うと、重なり合っていた指がスルスルと静かにほどけていく。
朔は先ほどまで繋がれていた自分の右手を見つめ、稼働を確かめるように、ゆっくりと開いたり閉じたりしてみた。
痺れが抜けたその手のひらには、先生のじんわりとした温かな熱が、未だ確かに残っている。
「ぐぅぅ……っ」
朔は小さく唸り声を上げ、上半身を起こそうと力を込めた。
「ちょ、ちょっと! まだダメよ、動いちゃ!」
歌姫が慌てて制止に入る。
「いくら治ってきたからって、アンタかなり酷い状態になってたんだから!」
「もう大丈夫です。完全ではないけど、軽く動かすくらいなら」
嘘ではない。まだ舌から反転術式を摂取し続けてはいるが、自力で起き上がれる程度には回復した。
――酷い状態ってどんな感じだったんだろう。
「ちょっと休んだら治る。それより、僕の怪我の状態ってどんな感じだったんです?」
何気なく尋ねると、部屋の隅でパソコンに何かしらのカルテを打ち込んでいた白衣の医者が、くるりと椅子を回してこちらを向き、真剣な顔で教えてくれた。
「……禪院くん。君の負傷内容はですね……」
医者は手元のメモを読み上げる。
「
「……」
朔は無言になった。
「特に、胸部損傷と肺挫傷があるため、呼吸状態を厳重に管理しながらの絶対安静。加えて
医者から、とても真剣なトーンで告げられた。
要するに、「おとなしく寝ていろ」ということだ。
「……改めて聞くと、とんでもないわね」
歌姫が呆れたように呟き、医者から渡されたカルテの資料へ目を落とした。
「先生」
「ん? 何かしら」
「……ありがとうございます」
朔は、とりあえず短い礼を口にした。
意識がない間に色々と迷惑をかけたと思うから、まずは感謝を伝えるのが筋だろうと思ったからだ。
「えっ? いきなり何よ」
「いえ、なんとなく。色々、迷惑をかけたみたいなので」
「はぁ……。分かってるなら、あんな無茶しないの」
歌姫は心底呆れ果てたという雰囲気で、「やれやれ」と小さくため息をついた。
「なんであの男に、決闘なんて挑んだのよ」
「……やってみたかったんですよ」
「それで死にかけたら世話ないわね。もうちょっと、自分を大切にしなさい」
「……もう大丈夫です。部屋に戻っても——」
そう強がって立ち上がろうとした瞬間、肋骨の辺りがズキリと痛んだ。
「うっ……」
「ほら、無理しない! ちゃんと横になりなさい」
そう言って、歌姫は朔の両肩を優しく掴み、強制的にベッドへ仰向けに倒してくる。
そして、膝の辺りに丸まっていた掛け布団を引き上げ、肩の高さまでとても丁寧に掛け直してくれた。
――すごい、優しいな。
「しばらくは絶対安静。……分かった?」
「……はい」
歌姫の優しい諭しに、今は大人しく従うことにした。全て自分が招いた結果なのだから。
「それじゃあ、私は仕事に戻るから。勝手に抜け出したりなんて、しちゃダメよ」
念を押すように言い残し、歌姫は医務室を出て行った。
医者の女性も別の患者の対応のために席を外す。
*
静寂。
この無機質な医務室で、自分は今、一人きりとなった。
ベッドに横になった状態で、目をつぶる。
ぼーっと何も考えずにいようとしても、どうしても『先ほどの光景』が脳裏にフラッシュバックしてきた。
五条悟との、死闘。
記憶を反芻するたびに、胸の奥からどす黒く、熱い感情が溢れ出してくる。止めることができずに、じわじわと滲み出る。
(あの、勝負……)
五条悟に『無量空処』を無駄撃ちさせることができたのは、あの一連のブラフが完璧な奇襲であり、なおかつ彼にとって初見だったからだ。
そのタネと手口を一度見せてしまった以上、二度と通用しない。
次戦えば、五条は領域を展開することなどなく、純粋な体術と呪術で僕を叩き潰してくるだろう。
(……勝てない)
負けたこと自体が悔しいわけではない。
だが、幼少期から己の全てを懸け、信じて突き進んできた『道』を、その絶対的な実力で真っ向から否定されたような気がした。
あそこまで。あそこまで自分に最も有利な条件での盤面を整え、全ての手札を切り、最良のタイミングでフィニッシュを決めたのに。
――何一つとして通用しなかった。
『井の中の蛙、大海を知らず』
その言葉が、心臓の奥深くを容赦なく突き刺す。
自分のロジックは、最強にも通用すると思っていた。
全身に刻み込まれた、五条悟への圧倒的な『恐怖』。あれほどのプレッシャーと死の気配が、禪院朔の中から消えることは永遠にないだろう。魂の根幹を揺るがすほどの、完全なる大敗。
だが。
今この時、この瞬間だけは。
その恐怖を完全に凌駕するほどの、心を焼き焦がすような『悔しさ』が、彼の心の中で渦を巻き、冷静なはずの理性を激しく蝕んでいく。
「……くそッ」
爪が手のひらに深く食い込むほど、朔は両の拳を強く握りしめる。
ガンッ!! と、思い切りベッドの縁に拳を叩きつけた。反動で走る骨の痛みなど、今はどうでもいい。
身体中が熱い。
全霊を懸けても到底届かない、果てしなく高く分厚い『壁』を、この目で見てしまった。
腕で目元を乱暴に覆い隠す。
胸に生まれたこの不快な炎を、絶対に絶やさないように。そう想い続けながら、ひたすらに思考を巡らせ続けた。
そして思い返す。
あの死闘の顛末を。
*
五条悟へ、超加速の『貫牛』。
上空からの雷撃と、四方八方からのウサギの群れ。逃げ場のない、完璧な詰将棋。
そして。
――ドォォォォォォォォォンッ!!
貫牛の巨体が激突した瞬間。世界の色が反転したかのような錯覚。
そして、全てを喰らい尽くすような『黒い火花』が、空間を割るように弾け飛んだ。
「——は?」
その光景を見ていた朔の口から、理解不能な声が漏れる。
意味がわからない。あれは、『黒閃』だ。
この土壇場の、針の穴を通すような極限のタイミングで、まるであらかじめ予約でもしていたかのように、狙って出したというのか?
だが、彼の思考が真っ白に吹き飛んだ理由は、それだけではない。
五条が黒閃を放ったその一撃から、明確な『無下限呪術の残滓』を感じ取ったからだ。
(どういうこと。今の一撃……間違いなく、術式が絡む一撃だった!)
術式が回復したのか?
いや、早い。五条の領域を外側から破壊し、術式が焼き切れてから、まだ二分経ったか経たないかというところだ。
思考の海に沈みかける。だが、極限状態の戦場は、彼にそんな悠長な考察の時間を与えてはくれない。
「ハハハハハハハッ!!」
狂気的な高笑いと共に、眼下から『何か』が真っ直ぐに跳躍してきた。
凄まじい速度。何が来るのかなんて、考えるまでもない。
「ギャフン!!……まさか、ここまでやるとは思わなかったッ」
すぐ目の前の空中に、血まみれの顔で凶悪な笑みを浮かべた五条悟が迫ってきていた。
「『虎葬』ッ!!」
朔は悲鳴のように叫び、近接に特化した虎の式神を、自らの盾とするべくすぐ隣の空間へ顕現させた。
「正直、舐めてたよ」
五条の右拳が、無慈悲に迫る。
すぐさま虎葬が朔を庇う形で前に出た。ドゴォォォォッ!! という轟音と共に、凄まじい威力の拳が虎の巨体に直撃する。
強靭な式神の肉体をもってしてもその一撃は受けきれず、完全に殺しきれなかった暴力の波が、すぐ後ろにいた朔の身体へ呪力ごと伝播した。
「ぐぅ、がぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
肉を潰され、骨を砕かれる激痛。
おそらく、左半身の骨が、一瞬にしてバキバキに折れた。式神をクッションにして衝撃を殺してもなお余りある、絶望的な威力の拳。
朔は虎葬もろとも吹き飛ばされ、無様に転がった。
「ガハッ……ぁ……っ」
――死ぬ。このままじゃ……!
痛みに視界が明滅する。身代わりとなった虎葬も、今の一撃でほぼ戦闘不能に近い。
「えぇと、なんだっけか? 『これが僕の最後の攻撃だ』、だっけ?」
ゆっくりと、五条悟が影の地面へと降り立つ。
「なら、僕もこれで最後にしようか」
血を流しながらも、五条はひどく楽しそうにそう宣言した。
もはや全身の痛みで、五条の言葉はノイズのようにしか聞こえない。だが、その指先から放たれようとしている『呪力の起こり』だけは、本能が正しく把握した。
五条悟が、右手の指先をこちらへ向け、極限まで呪力を高めている。
(……あれ、は)
直感で理解する。その指先に収束しているのは——『術式反転・赫』。
無限の発散。全てを弾き飛ばす、特級の破壊エネルギー。
五条はそれを、爛々と輝く狂気の瞳で、這いつくばる朔へと撃ち放とうとしていた。
そして、最悪の事態は連鎖する。
これまでの呪力消費と、先ほどの致命的なダメージにより、朔の結界の維持が不可能に陥った。
――ピキッ、パリンッ……。
領域の外殻が、音を立てて崩れ始めている。黒天楽土の崩壊まで、文字通りの秒読み。
(まだ……まだ持ってくれ……っ!)
加速された一瞬の思考の中で、どうするべきかと選択肢を広げていく。
この極限状態。彼は、これまでの人生で一番の速度で、焼き切れそうな脳を回転させた。
どうすればいい。どうすれば生き残れる?
影に潜る?
そうすれば、躱せるかもしれない。でも、領域が崩壊すれば術式が焼き切れる。術式が焼き切れた状態で影に潜ったら、その後はどうなる? 出られなくなるんじゃないか? 分からない。
それに、こんな骨が砕けたボロボロの状態で影の無酸素空間へ逃げ込み、もし意識を手放したら——その時点で窒息死する。
そもそも、術式が焼き切れる寸前のこの状態で、影門は正常に作動するのか? 全てが分からない。実験していないのだから。
(だめだ。影への退避は、不確実だ)
走馬灯のように緩やかな時間の流れの中で、朔は笑う現代最強の男を気怠げに見つめる。
(僕は、ここで死ぬのか?)
——否。
――そんなこは……。
朔が選んだ、最後の選択。
「『
血を吐きながら、極限の底から吠える。
この選択が最善であるかは分からない。でも、やれることは全てやる。
領域は崩壊に差し掛かっている。だが、まだ焼き切れてはいない。領域効果の特権である『影絵抜きでのノーモーション召喚』が間に合う。
朔の少し後ろ。崩れゆく影の下から、白い鹿の角を生やした巨大なカエルが飛び出し、大きく口を開けた。
(頼む。来てくれ……っ!)
そんな主の悲痛な意識に答えるべく、癒舌跳蛙はその長く分厚い舌を、仰向けに倒れる朔の全身へと瞬時に巻き付けた。
そして、五条の指先から、圧倒的な光が解き放たれる。
「『赫』」
目の前の景色が、真っ赤に発光した。
舌に巻きつかれながら、朔の身体は強引に蛙の巨大な『口の中』へと引きずり込まれていく。
その最中。
丸呑みにされる直前、朔は五条の顔をほんの一瞬だけ見た。
見間違いかもしれない。だが、薄く開けた視界に入ってくる『情報』が、朔の脳内で全てのピースを繋ぎ合わせた。
なぜ、術式が使えるのか。疑問だった。
ただ常人より早く、回復しただけなのかとも思った。だが、頭からダラダラと血を流し、笑っている五条悟の姿を見て、その疑問が完全に氷解する。
――なるほど。そういうことね。
あまりにもイカれた、最強ゆえの理不尽な荒業。
朔は、カエルの口の暗闇に収容されながら、迫り来る無限の発散へ向けて、最後の気休めの指示を出した。
『反転術式、最大出力……アウトプット』
カエルの口内から、朔を護るように。
外側へ向けて、癒舌跳蛙の特性である『生のエネルギー』が最大出力で放射される。それは、迫り来る『赫』の絶対的な破壊エネルギーを、正面から少しでも中和・相殺するための、泥臭い悪あがき。
――ズドォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!
特級の破壊が、演習場を吹き飛ばす。
同時に、領域は完全に崩壊し、彼の術式は焼き切れた。
すでに、禪院朔の敗北は決定的なものとなった。
(……勝てると思ったんだけどな)
暗闇の中、薄れゆく意識の底で。
最強を殺せなかった諦観と、全てを出し切った疲労感を抱いて。
少年は、深い眠りへと落ちていった。
*
どれほどの時間が経っただろう。
意識は一度たりとも落としていない。ただひたすらに、己の『現在地』を考え続ける。
禪院朔にとって、戦闘とは。
磨いた実力を真っ向からぶつけることではない。『自分が絶対に勝てる条件』に、相手を強制的に引きずり込むことだ。
だから、絶対に勝つ。
勝てない敵とは、最初から戦わない。もしくは、勝てない敵を『勝てる状態』へと持っていく。
――やれると思った。自分なら。
でも、無理だった。今ならはっきりと分かる。
(……『特級術師』には、勝てない)
あの乙骨憂太の異常な呪いを見た時。
ある程度はやれる、五分くらいには持っていけると思った。そこからどうにか要素を加えることで、勝てるのだと。
だが、五条悟という『特級の極致』のレベルを実際にこの肌で感じて、嫌というほど理解させられる。
今の自分では、到底無理なのだと。
特級に勝つイメージ。所詮それは、盤上の駒だけを動かして満足する『机上の空論』に過ぎなかった。
戦闘に負けることそのものではなく、自分の積み上げてきた論理が全く通用しないこと。
今までの血の滲むような研究成果が、強者の前では無に帰すこと。それが何よりも恐ろしい。
それは、負けることが辛いこととほぼ同義だが。
積み上げてきた自分が、ただのゴミのように投げ捨てられ、あっさりと地の底へ沈む自分が——どうしようもなく、許せない。
「はぁっ……はぁっ……」
思い出すだけで動悸がする。身体中から嫌な汗が滲み出す。
自分は、どうしたらいい。
この圧倒的な挫折を前に、机上の空論を実現するために、どうすれば——。
『魔虚羅が、いる』
不意に。
腕で目を覆ったまま、ポツリとこぼれた一言。
それは、あまりにもシンプルで、狂気的な結論だった。
己の術式を、完成させる。
奇しくも、魔虚羅を破壊するための最後のピースは、手に入れた。
結界術としてはまだまだ荒削りかつ、必中効果の付与も曖昧だ。だが。
(……やろう)
自分にできることは、もはやそれしかない。
この圧倒的な壁を超えるためには、自分自身のシステムを強制的にアップデートするしかないのだ。
(全てを尽くせ。手段を、選ぶな)
この日。禪院朔の中に、一つの絶対的な『オーダー』が設定された。
それは、ただ十種影法術の最後の式神を調伏することではない。
これまで、己の術式を探求し、その奥深き先へと進むこと自体が『目的』であった彼が。
この時、初めて『手段』として、それを使おうとしている。
静かな病室の暗闇の中で。
少年は、十種影法術における最強にして最悪の式神の調伏へ向けて、ついにその腹を括った。