ちり、ちり……。
磨き上げられた鶯張りの廊下が、踏みしめるたびに微かな悲鳴を上げる。
日が落ちかけた本家の屋敷は、ひどく静まり返っていた。朔の歩く音と、その後ろを数歩遅れてついてくる女中の衣擦れの音だけが、等間隔で冷たい空気を揺らしている。
(……どこか、ちょうどいい場所はないかな)
歩きながら、朔は半開きの目で自身の指先を微かに擦り合わせた。
親指と人差し指の間で、薄い粘膜のような呪力が生み出されては消え、また生み出されては消えていく。意図的に練り上げているのではない。呼吸をするのと同じレベルの無意識下で、呪力というエネルギーの変換効率を極限まで最適化する「作業」を続けているのだ。
彼の内包する呪力総量は、本家の武闘派術師たちと比べれば決して多くはない。だからこそ、彼は「無駄遣い」を極端に嫌う。常に体内で呪力を循環させ、ロスをなくし、必要な時に必要な分だけを即座に出力できるよう、歩いている間も、飯を食っている間も、密かに操作技術を研ぎ澄ませていた。
「あ、あの……朔様」
歩みを止めず、朔はわずかに眉をひそめる。
「……何?」
「そ、その……朔様は、なぜ道場での鍛錬を……あのように、抜け出されるのでございましょうか……」
女中の声は、まるで薄氷の上を歩くように震えきっていた。
彼女自身が聞きたくて聞いているのではない。本家の大人たちから「あの分家の小僧が普段何を考え、どこに隠れているのか探れ」と命じられ、逆らうこともできずに口を開いているのだ。
戦う力を持たないただの女中にとって、相伝の術式を持つこの幼児は、機嫌を損ねれば自分の首など簡単に消し飛ぶ「絶対的な暴力の象徴」でしかない。
ゆっくりと足を止め、首だけを後ろへ向けた。
無気力で、焦点の合っていない虚ろな瞳。自分の思考を邪魔されたことへの、微かな鬱陶しさだけがそこにあった。
ビクリ、と女中が肩を竦ませ、息を呑む。
「……必要ないから」
ぽつり。温度の一切ない声で言い捨て、朔は再び前を向いて歩き出した。
強くなろうとしない理由。汗を流さない理由。それらを言語化してこの女中や、その後ろにいる大人たちに理解させるプロセスを想像しただけで、途方もない疲労感が込み上げてくる。
これ以上の対話は無駄だ。話しかけるな。
五歳の幼児の背中から放たれる明確な拒絶のオーラに、女中は青ざめた顔で口を引き結び、ただ慌ててその後を追うことしかできなかった。
*
しばらく歩を進めると、屋敷の敷地の外れ、手入れの行き届いていない雑木林の奥に、古びた一つの建物が見えてきた。
色褪せた板壁。閉ざされたままの埃まみれの引き戸。周囲の空間からは、人の発する呪力の残滓が一切感じられない。
「あれは、何?」
朔が足を止めずに尋ねると、女中は安堵したように、早口で答えた。
「あ、あれは……以前まで使われていた古い道場でございます。今は新築の修練場ができましたゆえ、すでに立ち入る者はおりません」
「誰もいないの?」
「はい。誰も」
——ちょうどいい。
当主からの厳命である、調伏の儀式の禁止。
もし広大な庭や森の中で儀式を行えば、すぐに邪魔が入る。第三者が介入した時点で、調伏は無効化されてしまう。
絶対に誰にも見つからない、完全に閉絶された空間が必要だった。
儀式の場所は決まった。
実行は、今夜だ。
*
夜の帳が下り、巨大な屋敷が深い静寂に包まれた頃。
自室の布団の上に胡座をかきながら、朔は頭の中で『十種影法術のマニュアル』のページを猛烈な勢いでめくっていた。
(やるのは確定。問題は、何を相手にするかだ)
一通り、式神の能力と特性は脳内に叩き込んである。
蝦蟇か? いや、駄目だ。あいつの舌による打撃力は、未発達な肉体には重すぎる。呪力による防御が間に合わなければ、一撃で内臓が破裂する。
大蛇か? 論外だ。巻き付かれた瞬間に全身の骨が砕けて終わる。
自分の力が、実戦でどこまで通用するのか未知数すぎる。自分が死ねば、術式の検証もそこで終わってしまう。
だからこそ、朔が選んだのは「最も自身が傷つくリスクが低い相手」だった。
(——『脱兎』)
無数に増殖する、兎の式神。
一匹一匹の戦闘能力は極めて低く、爪も牙も脅威にはならない。群れによる撹乱と圧殺が主な戦法だ。
何千匹に分裂しようと、その中には必ず一匹だけ、文様が腹部に刻まれた「本体」が存在する。その本体さえ見つけ出し、潰せば調伏は完了する。
(僕自身が前に出る必要はない。肉体に呪力を回して防御を固めるより、安全圏に引きこもって、本体の索敵に専念する)
暗闇の部屋の中、布団の上で指先を動かしながら、朔は廃道場の間取りと式神の配置をシミュレーションしていく。
自分が群れに圧殺されればゲームオーバー。だから、徹底的に自分を守る。手持ちの玉犬・白と黒を盾として最大限に利用し、自身はいつでも『影』に潜って逃げられる準備をしておく。
――接近戦が弱いなら、接近戦をしない。
自身の極端な戦術思想を、完璧な形で盤面に構築する。
すべての計算が終了し、頭の中で勝利への道筋が一直線に繋がった。
「……よし」
女中たちが完全に寝静まったことを確認し、音もなく障子を開ける。
生ぬるい夜風が、彼の細い前髪を揺らした。
怠惰な呪術師が、初めて己の意思で牙を剥く。
密やかで、ひどく冷たい夜が始まろうとしていた。
*
月明かりすら届かない、カビと埃の匂いが立ち込める廃道場。
長年放置され、床板は所々腐り落ちているその空間の中央に、禪院朔は一人で立っていた。周囲の気配は完全に途絶えている。己の探求を邪魔する者は、ここには存在しない。
朔は無言のまま、足元の影へ微かに呪力を流し込み影絵を象る。
泥のように波打つ漆黒の沼から、二頭の獣が音もなく這い出した。玉犬の『白』と『黒』。
白を自身の足元――守りの要として待機させ、黒を攻めの遊撃として配置する。
準備は整った。
朔は、小さな両手を胸の前で合わせ、影絵を作る。
親指を立て、人差し指と中指を伸ばし、残りの指を絡め合わせる。ウサギの形。
「――――」
気怠げで平坦な詠唱が、静寂の道場に吸い込まれた。
ゴポォッ、と目の前の空間が歪み、影の中から一匹の白い兎が跳び出す。
朔の視線は、瞬時にその兎の腹部へと向けられる。白い毛並みに紛れるように刻まれた、奇妙な文様――『品々物之比礼』。あれが、大群を統率する「本体」の証。
半開きの瞳を僅かに細め、その一匹が発する固有の『呪いの波長』を、己の脳裏に深く、鮮明に焼き付けた。
直後。
――ポプッ、ポポポポポポポポッ!!
気味の悪い破裂音と共に、一匹の兎が二匹に、二匹が四匹に、四匹が数十匹へと、ネズミ算式に異常な速度で増殖を始めた。
瞬く間に、廃道場の床はうねる真っ白な毛玉の波で埋め尽くされる。
(……来る)
兎の群れが一斉に朔に向かって跳躍した瞬間、彼は動いた。
逃げるのではない。避けるのでもない。
ズブッ、と。自らの足元に広がる影の沼へと、自ら進んで全身を深く沈み込ませたのだ。
文字通り、彼は盤面から自身の物理的実体を消去した。
「グルァッ!!」
玉犬の『白』が猛然と牙を剥く。
白い津波のように押し寄せる脱兎の群れに対し、白は鋭い爪と牙で海を割るように兎たちを蹴散らしていった。血肉が飛び散ることはない。破壊された兎はただ墨のように黒く弾け、霧散する。しかし、数は圧倒的だ。白一匹では全てを捌ききれず、何匹かの兎が朔の潜む影の上へと雪崩れ込んでくる。
だが、影の底――絶対的な無音と暗闇、そして無酸素の空間の中で、朔はひどく冷静だった。
息を止めながら、彼は己の呪力探知を極限まで研ぎ澄ます。
視覚の完全な共有とまではいかない。しかし、術者と式神を繋ぐ呪力のパスラインを通じて、朔は玉犬たちが感じ取っている『感覚』を、自身の皮膚の上のことのようにおぼろげに把握し始めていた。
(……脱兎も、本体が前に出ることはない。安全な後方から増殖を続けているはずだ)
暗闇の中、先ほど脳裏に焼き付けた『紋様』を持つ個体の呪力波長を探る。
無数のダミーの波長に紛れた、たった一つのオリジナル。
数秒の探査。肺の酸素が限界に近づき、視界がチカチカと明滅し始めたその時――見つけた。
道場の対角、群れの最後尾。
遊撃として待機させていた『黒』に対し、明確な殺意を持った指示をパスラインに乗せて飛ばす。
——本体を、潰せ。
命令を受諾した黒が、弾かれたように駆け出す。
その瞬間、朔は自身の肉体ではなく、黒の肉体に向けて『呪力強化』の気を限界まで流し込んだ。自身の身体を強化する技術は未熟でカスのようなものだが、こと「術式の運用」「式神への呪力供給」に関する操作においてのみ、彼は異常なほどの習熟度を誇っている。
黒の四肢に莫大な呪力が纏われ、その爪が日本刀のように鋭く研ぎ澄まされる。
兎の群れを飛び越え、黒は一直線に道場の隅へと肉薄した。
そこに隠れていた、腹部に文様を持つ一匹の兎。
ザシュッ!!
強化された黒の爪が、一切の抵抗を許さず、本体の胸を深々と貫いた。
ピタリ、と。
道場を埋め尽くしていた無数の兎たちが、まるで時間が停止したかのように動きを止め――次の瞬間、足元から崩れ落ちるように真っ黒な影となって床に溶け、完全に消滅した。
調伏、完了。
「ぷはっ……!」
影の表面から、朔が上半身を浮上させる。
大きく息を吸い込みながら、彼は気怠げな目を細め、静まり返った道場を見渡した。
「……ふん」
満足そうなため息が一つ。口元には微かな弧が描かれている。普段は感情の起伏が薄い彼だが、自らの仮説と戦術が完璧に機能したこの瞬間だけは、心なしか嬉しそうで、誇らしげだった。
朔は確認のために、再びウサギの影絵を結ぶ。
ぽんと、一匹の白い兎が彼の目の前に顕現した。その腹部には、確かに『品々物之比礼』が刻まれている。
朔は再び満足そうにため息をつき、兎の頭を軽く撫でた。これで手札が増えた。めでたしめでたし、と。
役目を終えた玉犬の二頭――白と黒が、主の元へと戻ってくる。
尻尾を揺らし、朔を見上げて鼻を鳴らす忠実な獣たち。
その二頭を見比べた時。
朔の脳裏に、ふと『十種影法術の
——式神が完全に破壊された場合、再度召喚することは叶わず、手札は永久に失われる。
——だが、遺された術式と力は、別の式神へと『継承』される。
朔は、目の前の二頭の犬と兎を、じっと見つめた。
瞳から、先程までの嬉しそうな子供らしい光が、すっと消え去っていく。
(……ならば、片方が死ねば、もう片方はどう『変化』するんだろう?)
心臓の奥底で、ドロリとした純粋な好奇心が疼く。
強くなるためでも、家の期待に応えるためでもない。彼はただ、既存のルールや仕組みの「その先」を、自分の目で確かめずにはいられない、異常な探求者の気質を持っていた。
朔は無表情のまま、未熟な肉体に、無理やり呪力を回した。
みしみしと筋肉が悲鳴を上げるが、構わない。相手は自分に絶対服従の式神だ。無抵抗であれば、これしきの出力でも事足りる。
彼はゆっくりと手を伸ばし、白と黒、それぞれの首根っこを両手でしっかりと握りしめた。
玉犬たちは、主から向けられる明確な殺意に気づきながらも、一切の抵抗を見せない。ただ、悲しげな瞳で、自身の命を握る幼い主を見上げている。
朔の瞳には何の感情も浮かんでいない。
哀れみも、罪悪感も、子供ゆえの無邪気な残酷さすらない。
ただ、どうしようもなくやってみたかった。知りたいという欲求が、倫理を容易く凌駕したのだ。
メキィッ――。
無機質な音が、道場に響く。
一切の躊躇なく両手に力を込め、朔は二頭の式神の首を、同時にねじ切った。
主の命により、抵抗すら許されずに破壊された白と黒の巨体が、黒い染みとなって床に崩れ落ちる。
残されたのは、ぽつんと佇む真新しい手札の白兎と、己の好奇心を満たすためだけに最大の主戦力を平然と自壊させた幼児。
そして、ひどく静かで、おぞましい冷気に満ちた夜の闇だけだった。