こうして、神隠しの山を支配していた呪霊は、あっけなく祓われた。
これで、向こうも領域を展開してきたらどうしようかとも思ったが。そのレベルではなかったようだ。
概念的な術式としては強力だったが、結界術の練度は皆無に等しいのか。
朔は小さく息を吐き、領域を解除する。
漆黒の外郭がドロドロと崩れ落ち、世界が元の鬱蒼とした森の景色へと戻っていく。その中心から、無傷の禪院朔が姿を現した。
(……かなり、呪力を消費した)
ズキリと、頭の奥に鈍い痛みが走る。
まだまだ燃費が悪い。もう少しロスを減らせるかなと、冷めた頭で反省点を弾き出す。
そんなことを思いながら、朔は数メートル離れた位置で簡易領域を張り続けている三輪に声をかけた。
「もういいよ。簡易領域、解いても」
「——っ! は、はい!」
朔の声を聞き、三輪はゆっくりと刀を納め、簡易領域の展開を解除する。
「や、やった? 倒したんですか!?」
「それ、あんまり言わない方がいいけど。うん、問題ないよ」
メタ的なツッコミを入れてへし折ると、彼女は露骨に安心したように「ふにゃぁ」と地面にへたり込んだ。
「よ、よかったぁ……。これで、山も出られますね……」
「そうだね。でも、まだ油断しないで。領域を展開したせいで、術式が焼き切れて今僕はクソ雑魚だから。何か来たら守って」
「えっ、あ、はいっ! 任せてください!」
そう言って、へたり込む彼女を立ち上がらせた。
少しだけ息を整え、休むことにする。まだ終わりではない。この後は、森の中に散らばっているであろう救助者たちの捜索が待っているのだ。
(もう、さっさと帰りたいんだけど)
サボり魔は、早くも帰宅の算段を脳内で立て始めていた。
*
しばらくして。
術式が戻った後、二人は山に囚われていた村人たちを探すために歩き出した。
「どうですか? 見つかりそうです?」
隣を歩く三輪が尋ねてくる。
「いま、しらみ潰しに探してる。時間の問題だよ」
といっても、朔は森のあちこちに兎を雑に散らして自動捜索させているだけだ。呪霊が祓われた今、術式効果は消滅しているため、すぐに見つかるだろう。
「そうですか……!」
三輪は安心したように、ホッと深く息を吐いた。
朔はそんな彼女をチラリと見つめる。
「あの、禪院くん。ありがとうございます」
「ん?」
何に対してのお礼だろうか。
「なにが?」
「いえ、色々と助けてもらいましたし。その、私がわがまま言って、無理なお願いしたり、とか……」
ほんの少しの、彼女なりの後ろめたさだろうか。
「結果論ではあるけど、別にそれが枷になって僕が死にかけたわけじゃないから。気にしなくていいんだけど」
「……」
「いいよ。僕の方こそ助かった。最初は、術式が焼き切れた僕の次くらいに役に立たないと思ってたけど」
「そんなこと思ってたんですかッ!?」
ガーンッ! とショックを受けたように肩を落とし、うなだれる。
「『最初は』ね」
あくまで最初はそう評価していたという部分を強調して伝える。
「でも、助かった。君の簡易領域がなかったら、ここまでスムーズに解決できなかった。それは間違いない」
彼女のサポートは、間違いなくこの任務を解決するのに多大な貢献をしてくれた。
「えへへ……そうですかぁ!」
三輪は、嬉しそうな、それでいて少し恥ずかしそうな顔で笑った。
ずっと張り詰めていたからか、彼女のその気の抜けたような笑顔を見るのも、久しぶりに感じる。
「そういえば、この任務……なんで最初『三級』って言われてたんでしょう? あんなの、私と本来同行するはずだった二級の方の二人で解決とか……絶対に無理だと思うんですけど」
「確かに。その二級の人が誰かは知らないけど、君、今日死んでたかもね」
その率直な言葉に、三輪はゾッと背筋を凍らせて身を震わせた。
(まぁ、こういう理不尽が当たり前に起こるのが、社会の辛いところだよね)
命がいつ無くなってもおかしくない。今回の任務は、彼女にとってそれを自覚するのに十分すぎる体験だったことだろう。
朔は、式神の視覚情報を処理しながら言葉を続ける。
「あくまでも『推定三級』だしね。補助監督は山の中まで入れないから、敵の正確な等級までは割り出せてなかった。それに、今回の本来の任務って『呪霊の討伐』じゃなくて『行方不明者の調査と保護』優先だったでしょ?」
「は、はい」
「『解決できるならそれでいい。できないのなら、情報だけ持って帰ってくればいい』。それくらいの感覚だったんだよ」
「な、なんか複雑ですね……そう言われると。使い捨て感すごいっていうか……」
「それが現在の呪術界の状況ってこと。呪いの被害が多発しすぎてる」
事前の浅い調査により、ざっくりとした難易度が設定され、それを解決できそうな術師が派遣される。
今回のようにその推定が大きく異なれば、任務の遂行は愚か、術師の死者すら出かねない。
「今回は、割と仕方がなかった部分もあるけど……」
「呪霊の推定等級の話ですか?」
「うん。実際、天狗自体のスペックは弱かったし。窓の話では、事前調査で『集落の付近』で三級相当の呪霊が目撃されたって言ってた」
あくまで山の中ではなく、行方不明者が出た麓の集落を調査している時に見かけた呪い。それが三級と認定された。
補助監督が、あんな山に入って正確な調査なんてできるわけがない。
「あの呪いはさ、術式の『格』こそ高かったけど、ただそれだけだった。その術式自体も、この『お山』という自らのフィールドでしか発揮されないものだった」
「……」
「山の外では、ほぼほぼ呪力を込めた拳銃だけで十分祓えるレベル。鵺の雷撃一発で痺れて、しばらく動けなくなっていたし。本来は三級と見紛うレベルの、貧弱な呪いなんだよ」
「でも、その呪霊の真価は、この場所でこそ発揮できるものだったと」
貧弱な呪いではあったが、それだけの存在ではなかった。
等級詐欺、というより、単なる情報不足だ。分かりきったことだが、その不十分な情報で死地へと駆り出されるのが呪術師という駒だ。
――やっぱこの職業、クソだな。
内心で冷めた毒を吐きながら、朔は言葉を繋ぐ。
「土地神のような伝承が呪いになり、自らが信仰されていた場所でこそ力を発揮する。その範囲外では力が弱まる。信仰こそが、彼らの力そのものだから」
「……はい」
「そういう地縛霊みたいなタイプがいるのは、上も分かってるはずなんだけど。それによって任務の難易度が正確に定まらない。全ての任務に特級や一級を送り込めるような、そんな人手のある状態じゃないことは理解してるけどさ」
朔の口から、ポツリと本音の愚痴が漏れた。
「もう少し、ちゃんと調査してほしいよね、ほんと」
「し、仕方ないですよ……。早期発見が求められていたわけですし」
彼女の言うことは正しい。現状では仕方がなかった。
補助監督の能力の限界。圧倒的な人手不足。
非術師の生存率を上げるか。それとも、術師の生存率を優先するか。そうなった時、迷わず『前者』を取るのが、現在の呪術界の当たり前になっている。
(どうにかならないものかなー)
呪術師に悔いのない死はない。いつ死んでもおかしくない職業と言われるだけのことはある。
――うん。呪術師って、やっぱクソだな。
「——あっ、見つけた。行くよ」
「えっ?」
朔は足を止め、足元の影へと呪力を練る。
「『
「えっ? ちょ、ちょっと禪院く——!?」
三輪の言葉を待たず。朔は彼女の細い腰にガッチリと腕を回し、そのまま勢いよく自身の『影』の中へと二人一緒に飛び込んだ。
「ごぼぁッ!? がぼぁぁあっ……!?」
式神が、囚われていた村人たちを見つけた。その式神の影と、自分の影を接続しての影移動。
いきなり酸素のない、完全な暗闇の影の中へと引きずり込まれた三輪は、息もできずにとんでもない顔になってパニックを起こしている。
「よし、行くぞー」
朔は暴れる三輪を抱えたまま、影の中を迷わず真っ直ぐに進んだ。
*
ザバァッ! と、影の中から二人が飛び出す。
そこは、山奥の少し開けた場所。何かが祀られていたと思われる、苔むした古びた『祠』の前だった。
「ちょっ……! うぐぅっ……げほっ、げほっ!!」
三輪は地面に這いつくばり、肩で激しく息をしながら顔を真っ赤にして抗議する。
「そ、そういうことやるときは、最初に言ってくださいよぉ……ッ! 死ぬかと思いました……!」
苦しそうに息を整える三輪を完全に無視して、朔は前に進む。
祠の前には、行方不明になっていた村人たちが、横に転がされるようにして全員倒れていた。
呪霊の支配から逃れた影響か、数日間呪われていた疲労からか、皆一様に意識を失っている。偽物であることはないだろう。朔が最初に引き金を引いて、肩を貫通させた老人もそこにいるし。
「『
朔は鹿の角が生えた巨大な蛙の式神を呼び出し、指示を出す。
「治して」
蛙が長い舌を伸ばし、肩を撃ち抜かれた老人をペロリと舐める。反転術式が流し込まれ、痛々しい銃創は痕跡すらなく完全に塞がった。
(精神支配じゃない、偽の最適解を選ばされてただけなら。彼らの精神は、正常であったということになる)
撃たれた時の激しい痛みも、死の恐怖も、しっかりと脳裏に刻まれているはずだ。
だから、せめて傷だけは綺麗に治しておく。
「……禪院くん?」
グロッキーから脱した三輪に、後ろから声をかけられた。
朔は振り向き、淡々と報告する。
「全部で九人。全員いるよ。呪われてた影響で意識はないけど、命に別状はないね」
「本当ですか!? な、なら、よかったです……!!」
三輪は、心底安心したと言わんばかりに深く息をついた。
「それじゃあ、半分ずつ持って行こうか。君が四人でいいよ」
「……へ?」
三輪の口から、再び間抜けな声が漏れた。
*
「うっ、ぐぅ……お、おかしくないですか、これぇ……ッ」
帰り道。後ろを歩く三輪から、切実な文句が聞こえてきた。
別におかしいことはしていないと思うが、何がそんなに不満なのだろうか。
――んーん……。あっ、そういうこと?
「私、女なんですけど、ってこと?」
「違いますっ! そうじゃなくて!!」
その的外れな言葉に、即座に怒りの否定が返ってくる。
「なんで私、一人で四人も抱えてるんですか!? もう少し手伝ってくださいよぉ!」
三輪は、小脇に二人を抱え、背中に一人を背負い、さらに胸の前でもう一人を抱えるという、その小柄な体一つで『四人の大人』を同時に運ぶという離れ業をやっていた。
「僕は五人運んでるけど?」
「アナタは『式神』を使ってるじゃないですかッ!!」
三輪の言う通り、朔は顕現させた『虎葬』に四人を抱えさせ、残りの一人を『鵺』の背中に乗せて、自分自身は手ぶらで悠々と歩いている。
「僕だって頑張ってるんだよ。森の中を歩くのってすごく疲れるし。本当は全部放り出して帰りたいのに、必死に頑張って歩いてるんだから」
「手ぶらじゃないですか!!」
「僕にとっては、ただ山道を歩くだけでしんどいんだけどね」
実際、朔はかなり疲れていた。
この意識不明の一般人たちを、無酸素空間である『影の中』に一瞬でも放り込むのは危険だと判断し、こうして歩いている。彼なりの人間らしい情を優先した結果が、これである。
影での転移ができず、式神も気絶した人たちを乗せているため、自分の足で長い山道を歩かなければならない。
正直、全てぶん投げてさっさと帰りたいというのが本音だ。
「なら、起こす? せめて自分で歩いてもらおうか、この人たち」
朔が鵺に乗っている老人の頬を引っぱたこうと手を伸ばす。
「いや、ダメですって!! ……分かりました、頑張りますよぉ!」
三輪は投げやりにそう叫び、四人の重さを気合いで支えながら、力強く歩を進めた。
(そんなに不満そうな顔しないでほしいな)
もしここに同行しているのが、禪院家の他のクソ術師たちなら、後始末なんて一切せずに九人全員を三輪に押し付けて、自分だけさっさと帰っていただろう。
(まあ、普通の子なら無理でも、彼女は腐っても呪術師だ。僕と違って近接戦闘もできるし、呪力による身体強化もお手の物だろう)
可哀想な雰囲気出してるけど、割と余裕があるはずだから大丈夫、大丈夫。
「これも経験だよ。がんばれー」
「うぅぅ……ッ」
理不尽なサボり魔の応援を受けながら。
二人は、文句を垂れ流しながら長い長い山道を歩き出したのだった。
*
「はぁ……はぁっ……つ、疲れたぁ……!」
長い長い山道を下り、ようやく山の外——麓の集落付近まで辿り着いた。
空を見上げると、すでに太陽は高く昇っている。どうやら、もう昼過ぎ。かなり時間がかかってしまったようだ。
「……」
朔も無言で式神たちを解除し、倒れた村人たちを安全な地面に寝かせると、そのままドサッと座り込む。
足が棒のようになった。貧弱な肉体には、かなりの疲労と痛みが来ている。
(余計なしがらみとか、人助けなんてものを背負い込むと、やっぱり苦労するんだな)
少しだけ後悔しながら、自分の足をトントンと叩く。互いに、かなり限界まで疲弊している。
すると、遠くの道路から、黒塗りの車がかなりの速度でこちらに迫ってくるのが見えた。
「……? も、もしかして、あれって」
「呪術高専の窓の車、だね」
今更駆けつけたらしい。遅いな。いや、ものすごい速度で走ってきてはいるのだが。
朔はふと疑問に思い、ポケットから携帯電話を開く。
――現在時刻、『12時02分』。
「……んん? あれ?」
補助監督に見送られ、二人がこの森に入ったのが、確か『11時24分』だったはずだ。だとすれば、まだ30分ちょいしか経っていないことになる。
(いや、絶対にそれ以上の時間は森の中を彷徨ってたと思うんだけど。時間の流れがズレてたのかな?)
あのテリトリーの中では、空間的な認識だけではなく、時間的な感覚すらも狂わされていたのかもしれない。
そんなことを考えていると、車がキキィーッ! と激しいスキール音を立ててすぐ近くで急停車し、中から一人の人間が勢いよく飛び出してきた。
それは、紅白の巫女服を着た、顔に傷のある美しい女性——歌姫先生だった。
「先生……!?」
三輪が驚いて前に出ると、歌姫はものすごい勢いで駆け寄ってくる。
「三輪ッ!!」
そう叫んで、歌姫はボロボロになった三輪の体を、強く、強く抱きしめた。
「よ、よかった……! 無事で……!!」
心底からの安堵で声を震わせ、三輪の背中に腕を回す。
そして体を少し離すと、血相を変えてくまなく彼女の体を確認し始めた。
「怪我は!? 大丈夫だった!? どこか痛むところは!?」
「は、はい……っ! 問題ありません、なんとか」
先生の必死な顔を一目見て、三輪は張り詰めていた肩の力が完全に抜けたのだろう。安心したように、力なく、それでも嬉しそうに笑った。
そんな彼女の無事な姿を見て、歌姫先生もようやく安堵の笑みを浮かべる。
その時、歌姫の袖が、ほんの少しだけ震えた。
その巫女服の袖を、ちょいちょいと。下から軽く引かれるような違和感。
「……?」
何だろうと思い、袖の引かれた方向へ視線を落とす。
するとそこには、歌姫の裾を掴んで軽く引っ張っている禪院朔の姿があった。
「僕には?」
そう言って、掴んでいた裾から手を離し、両腕をふわっと広げる。
「——」
そんな彼の姿を見て、歌姫は少しだけ呆れたように、けれどひどく優しい顔でふわりと笑った。
そして、屈み込んで、広げられた朔の腕の中へ入り、抱きしめる。
「ッ」
背中に腕が回され、ポンポンと、優しく軽く叩かれた。
「……無事でよかった。よく頑張ったわね」
「まぁまぁ、だけどね」
朔はこともなげに気怠げに返しつつ。彼自身も、彼女の温かい背中にそっと手を回した。
*
そこからしばらくして、他の関係者や処理部隊も集まってきた。
黒塗りの車が数台止まり、周囲がにわかに騒がしくなる。
どうやら、歌姫先生は連絡を受けてから『車を飛ばしてきた』らしい。
今、補助監督の一人から少しだけ注意されていた。
(……すごいな)
森に入ったのが11時24分。
そして、しばらく散策した後に、異常事態のメールをしたのがその数分後。
そのタイミングで、京都高専に「特級クラスの異常事態の可能性あり」と連絡が入ったはずだ。
なのにも関わらず、12時02分には、歌姫先生はここに到着していた。
どんだけ飛ばしてきたんだよ。
(高専からここまで来るのに、こっちは普通に2時間くらいかかったんだけど)
教え子の危機に、常軌を逸したスピードで車を走らせてきた歌姫の必死さが伺える。
だが、感動の再会も束の間。
救出された村人たちの保護が終わり、事後処理が始まると、補助監督からの『事情聴取』に付き合わされる羽目になった。
(あー……あとは勝手にやってほしい。帰ろうかな)
そう思ってコッソリと影に沈もうとした瞬間、ガシッ! と三輪に手を掴まれた。
「この任務は、私と禪院くんの合同任務です。最後まで一緒ですよ」
満面の笑みで逃げ道を塞がれる。
――なんなん、この子……。
「僕、疲れてるんだけど」
「えぇ、私も疲れてますよ!」
早く帰りたい。なんでこんな外でずっと待たされなきゃいけないのか。
補助監督の窓たちに、出来事やら何やらを事細かく説明する。せめて車の中で座らせてくれ。
そんな内なる思いは届かず、集落の端で、何が起こったのか、どういう状況だったのかを全て語らされた。
そして、一段落。
諸々の事情説明や報告を終えて、歌姫先生がようやくこちらに戻ってきた。
「三輪、朔。これで一通り、事後処理は終わりよ。帰りは私の車で送って行くから、乗りなさい」
「はいっ! ありがとうございます!」
やっとだ。そう思ったのは自分だけではなく、隣の三輪も同じなのだろう。疲れた。尋常じゃなく疲れた。
よろよろと立ち上がった三輪は、歌姫先生の車へと歩き出す。
だが、朔は地面に座ったままだ。
「ん? どうしたの?」
動かない朔に、歌姫先生が不思議そうな目線を送る。
「……疲れた。立てない。おぶってください」
昨日のようにとは言わず、真っ直ぐに彼女を見上げて両腕を向けた。
「甘ったれてんじゃないわよ。自分で歩きなさい」
昨日のことで味を占めたのかと呆れたように、歌姫は背を向け、歩き出した。
だが、朔は動かない。
それどころか、地べたにゴロンと寝転がった。おもちゃを買ってもらえずにスーパーの床で駄々をこねる子供だろうか。
だらりと完全に脱力した姿勢。もはや拍手を送りたくなるほどの、究極のだらけっぷり。絶対に自分の足では歩かないという、強固な鋼の意志を感じる。
数秒後。
歌姫先生は痺れを切らしたように勢いよく振り返り、うんざりしたような顔でズンズンと戻ってきた。
「——あぁ、もうッ! 分かったわよ! 運べばいいんでしょッ!!」
先生はため息をつきながら近寄ってくると、しゃがみ込み、朔の腕を取って自分の背中へと回させた。
「直ぐそこじゃないの!」
文句を言いながらも、よいしょと朔の体を持ち上げ、おぶって歩き出す。
「先生」
「……なによ?」
「ありがと」
そんな素直な言葉を、背中越しに聞きながら。
「……昨日も聞いたわよ、それ」
手のかかる子供を見るような、呆れと優しさの入り混じった空気を肩越しに感じる。
温かい肩に頭をコトンと預け、静かに目を閉じた。
とても、懐かしい夢を見ているような気分になる。
呪術界の理不尽も、血生臭い戦闘も、今の彼には遠い世界のことのようだ。