綺麗な川のせせらぎが聞こえる、山奥の寂れたキャンプ場。
木々が鬱蒼と茂るその自然の中で、禪院朔は一人、自らの箱庭の中に立っていた。
「——領域展開」
印を結び、呪力を爆発させる。
周囲の景色がドロリとした漆黒に塗り潰され、外界から切り離された生得領域が具現化する。
『黒天楽土』
領域内部で、一人、頭上を見上げた。
漆黒の空にポツンと浮かぶのは、黒い星のような何か。領域内を全て照らし、強烈な光ではなく『色濃い闇』を放つことで、地上のあらゆる物体の影を異様に引き伸ばしている。
光が当たる部分が影になるという、太陽とは真逆の性質を持った奇妙な黒星。それが、朔の領域の環境特性だった。
(……さてと)
現在、彼はここで領域展開の実験を行っていた。
目的は、領域の精度の向上。そして何より、領域の結界を固定するための『
以前、五条悟との死闘において、最終的に朔の領域は崩壊した。
あれは呪力切れが原因というわけではない。領域を展開している術者本人が、結界を維持することができないレベルのダメージを負ったからだ。
領域は、術者自身が結界の中心であり、基点となる。術者が意識を失う、もしくは極限のダメージを受ければ、当然領域は割れる。
(……領域を固定するためのアンカーを、僕ではなく式神にする)
そうすれば、自分がダメージを受けて意識が飛ぼうが、そして僕自身が領域の内部に存在していなかろうが、式神が健在である限り結界を維持し続けることができる。
「『虎葬』」
影絵を作り、二足歩行の獰猛な虎を呼び出す。
そして、領域の維持を自分からその式神へとパスしようと試みた。
——ピキッ。
空間に、ガラスがひび割れるような嫌な音が響く。
展開した本人から結界の制御が切り離された瞬間、領域の張力が均衡を崩し、そのままパラパラと外郭が崩壊していく。元のキャンプ場の景色が戻ってきた。
「……ダメだった」
小さく息を吐くと、目の前に立つ虎葬が、気まずげにこちらをチラリと振り向いた。
「ガルゥゥ……」
喉を鳴らす自分よりでかい虎の首筋に手を伸ばし、朔はワシャワシャと撫で回す。
「大丈夫。ほんの数秒だけど、維持できたから」
コツコツと、試行錯誤を重ねていくしかない。
そもそも、領域展開は一日に何度も何度もポンポンと展開できるようなものではない。
朔は今、『必中効果をなしにする』『結界の外郭を極端に脆く設定する』『数十秒という極めて短時間の展開を前提とする』という、省エネのための縛りをこれでもかとモリモリに設定している。それでようやく、一日に三から四度展開できるかどうか、というレベルなのだ。
別のものに結界を維持させる行為。
呪具の呪力を用いて、外部から長時間の『結界』を維持するという技術が既存の呪術にはある。感覚としてはそれに近いはずだ。
式神の呪力は元を正せば自分の呪力だから、操作自体の難易度はそこまで高くない。ただ、維持する対象が『帳』ではなく『領域』となると、一気に難易度が跳ね上がる。
(今月中には、実戦投入できるレベルにしないとな。時間はまだあるし、大丈夫だと思うけど)
ふと、当主である直毘人との会話を思い出す。
『十月初旬くらいになるか。……暇人の集団ではないからな』
それまでに完成させなければ、次は何時になるかわからない。
虎を撫でる手を止め、以前から試していた検証結果を思い出す。
それは、領域展開終了後に訪れる『術式の焼き切れ』についてだ。
領域展開終了後、術式が焼き切れ、一時的に使用困難となる。
知識としては当然知っていたが、実際に自ら検証を重ねてみて、そのペナルティの重さを身をもって実感した。
(焼き切れた状態で、新しく式神を呼び出すことはかなり難しい)
通常時の二倍ほどの莫大な呪力を用いて、強引に式神を顕現させたとしても、結果として出てきたのは、影と中途半端に溶け合い、物理干渉がほとんどできない『出来損ない』だった。
真っ黒なスライムのような獣が、ゆらゆらと蠢いているだけ。明確な意思も感じられず、正直ちょっと気持ち悪くて怖かった。全く使い道がない。
影の操作自体も、強引に呪力で制御すればできなくはないが、とてつもなく難易度が上がる。
しかし、それでも。
気が狂うような領域の展開と崩壊を繰り返し、検証を続けた結果、朔はひとつの活路を見出していた。
(……領域が割れ、術式がショートするほんの一瞬。そこにパスを強引に繋ぎ止める感覚……)
最初は、領域が崩壊した瞬間、焼き切れの余波に巻き込まれて式神たちも強制的に霧散してしまっていた。だが、何度も何度も失敗を繰り返すうちに、そのわずかな隙間に干渉することに成功していた。
結果として、術式が焼き切れた状態だったとしても。
『すでに召喚している式神』に限っては、そのまま強引に維持し続けることができるようになった。
現在、肩に乗っているウサギも、目の前の虎葬も、領域崩壊後からずっと健在だ。
百%のポテンシャルこそ発揮出来ないが、解除さえしなければ、確かな戦力として残り続ける。焼き切れた後に新規で呼び出すことは不可能でも、これなら、ある程度の安全は担保される。
「あっ、戻った」
よしよしと虎を撫でていた手の平に、確かな術式が戻ってくるのを感じた。
「……じゃあ、もう一回」
朔は深く息を吸い込み、再び両手で来迎印を結ぶ。
ここからが、狂気的な反復練習。彼の実験は、呪力が底を突くまで果てしなく続くのだった。
*
実験も一通り終わり、朔は高専の寮へと戻ってきた。
「さてと」
自室で泥や汗のついた服を着替え、外へと歩き出す。
実際のところ、彼が先ほどまでいたキャンプ場近くの山は、いつもの私的な実験場ではなく、高専から割り当てられた『任務』として赴いていた場所だ。
さっさと目的の呪霊を爆発四散させたあとに、ついでとばかりに領域の実験をしていたに過ぎない。
近場かつ、そこまで難易度の高い任務でもなかったため、今回は補助監督が同行していなかった。そのため、自分で高専の窓口まで事後報告をしに行かなくてはならないのだ。
「行くか」
重い腰を上げ、寮を出て高専の敷地内を歩く。
(真依と三輪さんは、今日は一緒に任務に行ってたけど。まだ戻ってないのかな)
三輪霞といえば、数日前の神隠しの山での任務を共にしたせいか、以前よりも距離がかなり近くなった気がする。
仲良くなったというより、『遠慮がなくなった』と言うべきか。最初は僕に対しておどおどしていたが、今では平気で文句を言ったり、はっきりと物を言うようになった。
(……弟がいるらしいし、色々と面倒見がいいんだろうな)
なんかちょっとだけ、世話を焼くように構ってくる。すごいどうでもいいことで。
(そういうのは、間に合ってるんだけど)
そんなことを考えながら歩いていると。
「お、朔か。ちょうどいいところに」
不意に背後から、野太い声で呼び止められた。
振り向くと、そこにいたのは。
――げッ
筋肉の塊。京都校二年のゴリラ——もとい、東堂葵。
ここでエンカウントするとは全く思っていなかった。朔は反射的に周囲を見回す。どうにかして逃げるルートはないか。しかし、不運なことに周囲には誰もいない。
(ちょうどいいところって何だ)
朔は逃走を諦め、渋々ながら会話をすべく向き直る。
「お疲れ様です。それじゃあ」
挨拶だけして一瞬で家へと引き返そうとしたが、背を向けた瞬間にガッ! と肩を掴まれた。速い。
「まぁ待て。お前に渡しておくものがあってな」
振り返りざまに、これ以上ないほどの迷惑顔を披露してやるが、東堂は全く気に留める様子もなく、手に持っていた紙袋を突き出してきた。
「前に言っていた、例の物だ。じっくりと、楽しむといい」
「……」
何か怪しげなブツを渡された。嫌々ながら受け取る。本当は受け取った瞬間にその辺のゴミ箱へ即ぶん投げたいのだが、それが何かは持った重さで分かっている。この前も渡されたから。
彼が推している、アイドルのあれこれ。CDやら雑誌やらを、事あるごとに布教してくるのだ。
(理由? そんなものは分からんよ。ゴリラの思考なんて理解できるわけないでしょ)
紙袋の中をチラリと覗くと、満面の笑みを浮かべたアイドルの写真とバッチリ目が合った。
「東堂先輩?」
「んん? どうした? 喜びで言葉も出ないか?」
腕を組み、フッ……と意味深なドヤ顔をしている東堂に、感情の死んだ声で告げる。
「いや、ですね。前にも言ったと思うんですけど。アイドル、全く興味ない」
バッサリと切り捨てる。実際に、本当に一ミリも興味がないからだ。
しかし。
「それは前も聞いた。お前の言いたいことはよく分かる。——だからこそだッッ!!」
――うわ、ビックリした。
いきなり鼓膜を劈くような大声を張り上げられた。
だからこそって何? どういう論理展開?
困惑しながらも、冷静に問い返す。
「……あの、興味ないと言ったんですが」
「そうか。ならば、これを聴け」
なぜか、追加で一枚のCDを渡されてしまった。荷物が増えた。
「なにこれ」
「見ての通りだ。高田ちゃんファーストアルバム。以前渡したものとは違う、限定版だ」
「いや、興味がないって言ってる僕に対しての返答が『限定版のCDを追加する』っておかしくない?」
―― 何がしたいんだこの人。
通常の人間の思考ではない。東堂は「やってやったぞ」と言わんばかりの満足げな表情を浮かべている。
「知っている。だからこそだと言っただろ?先入観のない真っ白な状態で聴いてみろ」
東堂はビシッと人差し指を立てて、朔に向かってバチコンッ! と暑苦しいウインクを飛ばす。
「一曲目から順番に聴いてくれ。絶対に飛ばすなよ。あと、歌詞カードも見るんだ。歌詞の深い意味を理解したうえで、もう一度頭から聴き直すと、二曲目の印象が劇的に変わるッ」
すごい早口で語り出した。これだ。早口のオタク特有の、息継ぎのない怒涛のプレゼン。
彼に初めて色々渡された時も、こんなんだった。
『朔よ、アイドルに興味はあるか?』
『ないです』
『そうか。ならば、興味を持つところから、だな』
そんな意味不明なやり取りから始まったのだ。思い出したくもない記憶が、走馬灯のように脳裏に浮かんでくる。
『まずは曲を聴け!』とCDの山。
『高田ちゃんの魅力はライブにある』とライブ映像のBlu-ray。
『とりあえず、彼女の全てを見るんだ』と分厚い写真集。
『基本情報は入れておけよ』とエクセルでまとめられたプロフィール資料。
『この号、絶対に見てみろ』と推しが表紙の雑誌。
『どうだ? 仕上がってるだろぅ?』と大量のアクリルスタンドやキーホルダー。
『お前に合わせて資料を作ってきた』と自作の布教用パンフレット。
(いや、嘘だろ。どんだけ熱意あるのこの人)
本当、どうなってんの。その情熱を、少しは別のところに向けたらどうなんだ。
「——聞いているのか?」
東堂の声で、現実へと意識が浮上する。何か言っているようだ。
今すぐに逃げ出したいんだが。
東堂葵の布教活動が、とてつもなくうざい。そしてキモい。
「お前には、見どころがある」
――なんのだよ。
アイドルのオタクとしての素質の話かな?
何故、ここまで絡まれるのか。
大体、僕はこの暑苦しい先輩と一緒に任務へ行ったことすら一度もない。彼とのこれまでの関わりといったら、初対面の時に意味不明な質問に答えたのと、この前の任務終わりに鉢合わせて、一度だけ模擬戦をやったことくらいだ。
(……あぁ、思い出しただけで気分が悪くなる。あの時、普通に左腕を叩き折られたし)
脳裏に、数日前の東堂との戦闘の記憶が蘇る。
あのゴリラ、見た目は完全に脳筋のくせに、戦闘思考だけは異常なほど緻密でクレバーだった。手を叩くことで対象の位置を入れ替える『不義遊戯』とかいう術式。
自分と僕、さらには僕が展開した複数の式神や呪具までもが入れ替えの対象になり、盤面の不確定要素と、同時に考えなければならない選択肢が多い。
初手から位置を入れ替えられ、丸太のような剛腕が飛んできて、左腕の骨をメキッと軽々とへし折られた。
真っ向からぶつかるのは、面倒だと早々に判断し、手っ取り早く決着をつけるため、彼を『領域』で囲い込み、頭上から『満象』を落として押し潰そうとしたのだ。
(まさか、あの見た目でしっかりと『領域対策』まで持っているとはね)
最終的には『……二個目はどうする?』をやる羽目になった。
(……つくづく思うけど。やっぱり高専って、ろくでもない所だな)
じわりと蘇る左腕の鈍痛の記憶に、朔は内心で深く、重たい溜息を吐き出した。
そもそも、彼の戦闘スタイルは『術者自身が絶対に傷つかないこと』を大前提として構築されている。危険な前線に立つのはすべて式神の役割であり、自分は安全な影の底や後方から盤面を動かすだけ。ゆえに、これまでどれほど厄介な任務を押し付けられようと、彼自身の貧弱な肉体が直接的な損傷を負うことなど、ほとんど皆無に等しかった。
それなのに、ここ最近は本当にどうかしている。散々だと言ってもいい。
――柄にもなく熱くなった、僕のせいだけど。
まず、五条悟との死闘では、左半身の骨という骨を文字通りグチャグチャに粉砕された。
東京校の秤とかいうチンピラとやり合った時は、肋骨が折れた。
そして極めつけは、今目の前でドヤ顔を決めている東堂葵との遭遇戦で、初手から左腕を枯れ枝のように無慈悲に叩き折られている。
(……いやぁ、おかしい)
高専に本格的に関わるようになってから、まだほんの数週間しか経っていない。
だというのに、すでに『三度』も骨折を経験しているのだ。これまでの人生十数年分の負傷ノルマを、たった数週間でまとめて強制消化させられているような異常事態。反転術式があるから後遺症こそ残っていないものの、骨が砕けるあの嫌な感触と激痛は、何度味わっても慣れるものではないし、慣れたくもない。
右を見ても左を見ても、規格外のフィジカルと理不尽な暴力性を振りかざすゴリラばかり。教育機関の皮を被った怪獣の巣窟か何かだろうか。
――うん、やっぱり間違いない。ここは、本当にろくでもない所だ。
そんな記憶を思い返していると、東堂がポンと僕の肩を叩いた。やめろッ!?
「いずれ、お前も現場に連れていってやるから安心しろ」
また話聞いてなかった。なんの話だ。……まぁ、なんとなく察せられるけど。
「あ、はい。楽しみにしてますねー」
「それにッ!!」
一際でかい声が、夕暮れの高専に響いた。
「高田ちゃんの、高たんビーームッ!!」
東堂が、こちらに向けて謎のポーズを決めた。
「ふっ……ここまで言えば、分かるな?」
――分かんねぇよ。
最後まで言え。その「主人公に花を持たせるようなセリフ」はなんなんだよ。
結局、朔は重たいでかい紙袋を押し付けられたまま、深い深い溜息をつき、そのまま高専の窓口へと任務の報告に向かうのだった。
*
特に時間もかからず、高専の窓口での任務報告は終わった。
所詮は二級の呪い。特に新たな人的被害も出していない。
家に帰る通り道に、京都校の校舎がある。
この学校はかなり広大な敷地を持っているため、僕自身まだ全ての施設を把握しているわけではない。
(ちょっと、寄ってみるか)
特に理由もなく、ただ歩くだけ。
真依はまだ任務から帰ってきていないし。今日は領域の複数展開のせいで呪力があまり残っておらず、他にやることがない。
(歌姫先生でもいないかな)
そんなことを思いながら、日が落ちてオレンジ色に染まってきた校舎の廊下を適当に歩く。
すると、一年生の教室で、意外な人物と鉢合わせた。
「あれ?」
「ん? あァ、禪院カ」
誰もいないと思っていた教室にいたのは、からくり人形——メカ丸だった。
「えっと、何してたの? ここで」
「任務の帰りニ、少し寄っただけダ」
「そうなんだ。誰かに会いに来たとか、そういうわけじゃないの? 真依も三輪さんも、まだ任務から帰ってきてないけど」
「……あァ。特にハ」
少しだけ話すことにした。教室に入り、席につく。窓から差し込む夕暮れが、教室全体を赤く照らし出していた。
「はぁ……」
朔は机に突っ伏し、大きく一息つく。
「疲れた」
「お前モ、今日ハ任務だったのカ?」
「そうだよ。大変だったよ」
彼が疲れている理由は、単に一人で山奥へ行き、領域を展開しまくって自己実験をしていたのが最大の理由だが。自分で自分を追い詰めているだけで、任務での疲労はそこまでない。
「そっちは? 特に問題はない?」
「あァ。大したことナイ、三級呪霊の討伐ダ」
「へぇ」
まあ、そうだろう。一年生へ斡旋される任務と言えば、基本的にはそんなものだ。僕が片っ端から受けていたせいで、最近まで彼らの任務が枯渇していたらしいが。
「なぁ」
「ん?」
「お前が持っている、その紙袋ハ何ダ。随分ぎっしりと詰まっているようダガ」
「あー……」
足元に置いた重たい紙袋に視線を落とす。
これ、なんて説明すればいいんだろう。色々な言葉が浮かんでは消えていく。『東堂先輩から』『アイドルの限定版CDが』『布教のために』……。
それらの言葉を一つ一つ説明するだけで、言葉を尽くす気になれなくなってしまった。
「……まぁ、色々とね」
そんな疲労の滲む朔の顔を見て、不思議そうな顔をする。からくりだから顔の造形は変わっていないが、なんとなくそんな気配がした。
(なんで、あの人とあんな距離感になったんだろう。全く心当たりがない)
東堂葵との初めての遭遇。イベントの選択肢でもミスったか?
(……やっぱり、あの質問か?)
『どんな女がタイプだ!!』
そういえば、と。メカ丸の方を見る。
以前、彼と東堂が話しているところを一度だけ見たことがある。
『メカ丸よ、女のタイプも即答できないやつが、呪術師として一人前になれると思うな』
そんな感じのことを言っていた。意味わかんないけど。いや、あの人の言葉の意味が分かることなんてほとんどないけど。
――ジーッ……
朔は、机に突っ伏したままメカ丸を凝視する。
「な、なんダ」
(東堂先輩とこの人くらいの距離感が、理想なんだよね。『女の趣味も即答できんやつが』って言われてたし、あの質問を無回答で突破したのかな?)
その選択は一番良くないと思っていたんだけど。まさかそれが、東堂との関わりを最低限にするための『最適解』だったのか。
「はぁぁぁぁぁぁ……」
「おい、それハ何の溜息ダ」
「いや、ペッパーくん羨ましいなって」
「だからペッパーくんじゃナイ。メカ丸ダ」
恒例のやり取り。こいつはいつまで自分をそう呼ぶのかと、メカ丸が抗議する。
メカ丸ね、メカ丸。これ、本名じゃないよな。からくりの名前? なんでその名前で通ってるんだろう。
「あのさ、君の本当の名前、なに?」
夕暮れの教室で。朔はふと、そんなことを聞いた。
「……なぜそんなことヲ聞く」
「なんとなくだよ。嫌ならいいけど。同級生だし、教えてよ」
メカ丸は少し迷ったような雰囲気を見せ。
渋々ながら、自らの名を名乗った。
「……幸吉。与 幸吉ダ」
「与幸吉、むた、こうきち」
何度か、舌の上でその音を転がす。
「分かった。与くんね。……それでさ、与くん。お願いがあるんだけど」
朔が真顔で切り出すと、メカ丸はこちらに疑問の顔を向ける。
「次東堂先輩に会った時、『俺の女のタイプは三輪だぁー』って、言ってみてもらえない?」
「は?」
――真依でもいいよ?
この後、数秒の沈黙が教室に降りた後、普通に断られた。
あの人の法則性を知りたいと思っただけなんだけど。本当は知りたくないんだけど。あわよくば、こちらに向けられた鬱陶しい目を、そちらにスライドできないかなって思っただけなのに。
無理か。
「じゃあ、帰るね」
彼は諦めと共に立ち上がり、足元の重たい紙袋を拾い上げて家へと帰った。
*
家に帰ってきた。
与幸吉とそれなりに話して、寮の自室へ。
部屋の隅に積まれた、ジジイから送られてきたアニメのBlu-rayが入っている段ボール。そのすぐそばに、今日東堂からもらった紙袋を置く。
「……部屋に、色々物が増えてきた」
ジジイからはアニメを布教され、ゴリラからはアイドルを布教されている。
謎の板挟み状態。百歩譲ってアニメはいい。なんだかんだ、シナリオの構成とか面白いし。でも、アイドルはない。僕には必要がなさすぎる。
「僕をどうしたいんだ」
アニオタとドルオタの、オタク街道でも歩ませたいのか。
「やれやれ」と首を振り、朔はベッドに横になる。
すると、部屋のインターホンが鳴った。
「どうぞ」
「今帰ったわよ」
ドアをガチャリと開けて入ってきたのは、安心する顔と声の彼女——禪院真依だ。
「お土産買ってきたけど、食べる?」
「食べる」
そんな、平和で奇妙な一日だった。
*
季節は巡り。そろそろ、十月に差し掛かってきた。
朝の気温が下がり、肌寒い。夜になると、もう完全に秋、あるいは冬の気配だと実感する。
禪院真依は、現在任務から帰宅したばかり。
「今日も一日、疲れたわね……」
部屋に荷物を降ろし、ベッドの端に座る。
すると、インターホンが鳴った。
「誰かしら? 霞?」
同級生の彼女を思い浮かべるも、ドアを開けて現れたのは別の人物だった。
「やぁ」
「……」
禪院朔。
真依はそそくさと乱れた髪を少しだけ整え、彼を部屋に招き入れる。
「珍しいわね、アナタが自分から私の部屋に来るなんて」
「ちょっとね。置き手紙でもいいかなと思ったんだけど」
そう言って、彼は玄関に上がりながら、真依へと真っ直ぐに言葉を繋いだ。
「しばらく、会えなくなるから。その挨拶」
いつもなら「めんどくさい」の一言で済ませる彼が、わざわざ直接顔を見て言いに来た。
「いらないと思ったけどね」
そう言って、朔は静かに彼女へと向き直る。
十月の冷たい夜風が、二人の間を吹き抜けていった。
秋宵編がこれで終りになります。
ここまで呼んでくれた方、ありがとうございました。