むせ返るような沈香の匂いと、肌を刺すような濃密な呪力の圧。
禪院家本家、その中枢たる大広間は、かつてないほどの重苦しい空気に支配されていた。
上座には、禪院家当主である直毘人が、瓢箪から酒を煽りながらどっかりと腰を下ろしている。その隣には、当主の弟であり、特別一級術師の地位にある禪院扇が、獲物を狙う猛禽のような鋭い眼光で、下座のただ一点を射抜いていた。
彼らの背後には、本家の重鎮たちや精鋭の術師たちが何人も控え、皆一様に険しい顔つきで視線を落としている。
彼らが睨みつけている先。
広間の中央に正座させられているのは、ただ一人。禪院朔であった。
(……面倒くさいことになったな)
無数の殺気にも似た視線を浴びながら、朔は内心でひっそりとため息を吐いた。
このような事態を招いた理由は、極めてシンプルだ。バレたのである。昨夜、廃道場で行った『脱兎』の調伏の儀式が。
呪術師の戦闘には、必ず術式の「残穢」が残る。玉犬を顕現させ、呪力を強化し、無数の兎を調伏した痕跡を、本家の大人たちが感づかないはずがない。
己の好奇心を優先するあまり、隠蔽工作という面倒な手順を省いた結果がこれだ。
「……それで?」
静寂を破り、直毘人が低く響く声で問うた。
「お前は昨夜、本家の敷地内で、単独で調伏の儀式を行った。……その認識で相違ないな?」
当主の顔を気怠げに見上げ、こくり、と小さく頷いた。
隠す意味などない。バレてるのだから。
「何を勝手な真似をしている!!」
その頷きを見た瞬間、直毘人の隣にいた扇が、激昂と共に床を強く叩いた。
ビキリ、と分厚い板間が悲鳴を上げる。
「相伝の術式が、この家にとってどれほどの価値を持つか理解しておらんのか! 分家の分際で……っ! もし儀式に失敗し、貴様が死んで『十種影法術』が失われていたら、どう責任を取るつもりだったのだ!!」
扇の怒声が広間にビリビリと響き渡る。
術式至上主義の家系。彼らにとって、朔という人間の命などどうでもいい。「術式という財産」を、未熟な幼児が勝手に危険に晒したという事実が許せないのだ。
だが、朔の心には、さざ波一つ立てていなかった。
(……うるさいな。なんでこの人、こんなに怒ってるんだろう)
家系の重要性。相伝の価値。自分が負っているとされる責任。扇が並べ立てる言葉の意味は理解できるが、それがなぜ「自分自身の行動」を制限する理由になるのか、全く腑に落ちない。
その反省の色が微塵もないふ抜けた表情が、扇の怒りに油を注ぐ。
「貴様、その態度はなんだ! この愚か者には徹底的な折檻を——」
「ガハハハハハハ!!」
扇が言葉を続けようとしたその時、それを制するように、当主である直毘人が唐突に豪快な笑い声を上げた。
信じられないという顔で隣を見る。他の重鎮たちも戸惑い、ざわめきが広がる。
「よいよい! 生きているのだ、結果オーライというやつだろう!」
直毘人は瓢箪の酒をぐいと煽り、口の端を酒で濡らしながら、ひどく楽しそうな顔で朔を見下ろした。
「まあ大体分かった。その涼しい顔を見るに、調伏は成功したのだろう?」
「……はい」
朔は無気力に短く答える。
周囲の重苦しい空気とは裏腹に、直毘人からは怒りではなく、奇妙な「好奇心」の匂いがした。
「それで? どの式神をものにした?」
「……ウサギ」
「ほう」
直毘人は顎を撫で、面白そうに目を細めた。
「だが、指南役の者から聞いておらんかったか? 調伏の儀式は行うなと、俺が直々に厳命していたはずだが」
直毘人のその問いには、扇のような怒気は混じってはいない。どちらかといえば、「なぜ命令を無視したのか」という純粋な疑問に近い。
「……いいえ、聞いてました」
「ではなぜ、やった?」
「やりたかったから」
「……あ?」
朔は、至極当然のことのように、平坦な声で答えた。
「気になった。自分の術式で、どこまでできるのか。ただ、それだけです」
家のためでも、強くなるためでもない。純粋な好奇心。ただ、実験をしてみたかっただけ。
そのあまりにも身勝手で、呪術師としての使命感を欠いた回答に、扇の額に青筋が浮かび上がる。
「き、貴様……っ! 禪院の相伝の術式を、なんだと思っている!!」
「クハッ……カッカッカッカッ!!」
扇が再び怒鳴り散らそうとした瞬間、直毘人は腹を抱え、さらに大きな声で笑い出した。
広間中の人間が、呆気にとられて当主を見る。朔の底抜けのマイペースさが、直毘人のツボに深く刺さったらしい。
「いい! 分かった! ならば何も言うまい!」
直毘人は豪快に手を振り、事態をあっさりと収拾しようとした。好きにさせてやれ、と言わんばかりの態度だ。
「ですが、直毘人様!!」
「甘すぎます! 此度の掟破り、不問に付すわけには——」
周囲の重鎮たちが、たまらず一斉に異を唱え始めた。
だが、直毘人は彼らの不満の声を完全に無視し、身を乗り出して朔に顔を近づけ告げる。
「なぁ、朔よ。調伏したというその式神……見せてみろ」
怒声飛び交う大広間で、当主一人だけが酒の肴を求めるように、上機嫌に微笑んでいる。
「……はい」
朔は特に嫌がる様子もなく、小さな両手を胸の前で合わせ、親指と人差し指で兎の影絵を作った。
「こい」
気怠げな声と共に、朔の足元の影がポコッと泡立ち、一匹の小さな式神が床にぽすんと着地する。
――その瞬間。
「……なっ」
「こ、これは……」
大広間から、一斉に息を呑む音が響いた。
扇の目が驚愕に見開かれ、文句を言っていた重鎮たちも声を失っている。
それは、直毘人も例外ではなかった。瓢箪を持った手が空中で完全に停止し、信じられないものを見るような目で、その小さな式神を見つめている。
「……なぁ。お前、調伏したのは『ウサギ』だと、言っておったな?」
直毘人が、恐る恐る口を開く。
当然のことのように首を縦に振る。
「……ならば、それは……何だ?」
直毘人の震える指先が指し示した先。
床に座るその小さな式神は、確かにウサギのような丸みを帯びたシルエットをしていた。
しかし、その姿は根本的に異質。
真っ白な毛皮には、所々、墨をぶちまけたような黒い斑模様が混じっている。
そして何より――その顔。
長い耳を持つウサギの輪郭でありながら、顔の造形は明確に『犬』のそれ。
玉犬にしては小さすぎ、脱兎にしては大きすぎる。二つの生物の特徴を無理やり縫い合わせたような、醜悪で不気味なキメラ。
どういうことだ、と広間に困惑の声がざわめく中。
朔は、きょとんとした顔で、当たり前のように答えた。
「玉犬を潰しました」
「……は?」
「玉犬を二匹とも潰して、脱兎に『継承』させた。マニュアルに書いてあったので」
静寂。
水を打ったような、圧倒的な無音。
――あれ? 自分、また何かやっちゃいましたか?
ぽかんと口を開けた大人たちを不思議そうに見つめ返す。
反省? もちろんしていない。ルール通りに調伏し、術式の仕様に沿って継承を行っただけだ。自分は何も間違ったことはしていない。
先程まで豪快に笑っていた直毘人のこめかみが、ピクリと不自然に引き攣る。
その顔は、明確に「お前、何してんの?」という、当主という立場を忘れた純粋なドン引きの色に染まっていた。
*
重苦しい殺気と困惑の入り混じった大広間から解放され、朔はようやく自室の和室へと戻ってきた。
一人になった空間で、彼は「ふぅ」と深く、そして気怠げなため息を吐き出す。
(……めちゃくちゃ怒られたな)
玉犬を自らの手で潰したという事実を告げた直後、大広間は先程までの静寂が嘘のように荒れ狂った。特に禪院扇の激昂ぶりは凄まじく、顔を真っ赤にして唾を飛ばし、今にも刀を抜きそうな勢いで朔に詰め寄ってくる。
当主である直毘人も、さすがに頭を抱えた。十種影法術の要である初期式神を、何の理由もなく(強いて言うなら好奇心だけで)二頭とも喪失させたのだ。
結局、本家の下した処分は以下の通り。
『一ヶ月間の自室謹慎』。
そして、『今後二年間の、調伏の儀式の禁止』。
この二年の禁止令は、単なる口約束ではない。呪術師同士が結ぶ『縛り』として、朔の魂に刻み込まれた。もしこの縛りを破れば、どのようなペナルティが降りかかるか分からない。指南役から散々聞かされていた「縛りの恐ろしさ」を思えば、さすがの朔もなんとなく「破ったらマズい」という直感は働く。
本来なら、呪力操作が安定してくる七歳あたりから本格的に調伏を始めさせる腹積もりだったのだろう。その計画を根底から破壊したのだから、大人たちが発狂するのも無理はない。
(大人気ないというか、なんというか……)
朔は畳の上にゴロリと寝転がる。
どんな暴言を浴びせられようと、彼は嫌な顔一つせず、ただ「マジだるいんですけど」と言わんばかりの半眼で扇の怒鳴り声を聞き流していた。全く反省の色を見せないその態度が、大人たちをさらに苛立たせたのは言うまでもない。
(でもまあ、謹慎は別にいいか)
むしろ、好都合。
一ヶ月間、あの鬱陶しく疲れる体術訓練に参加させられることがないのだ。自室に引きこもって自分の好きなことだけを考えていられる。朔にとって、これは罰どころか極上の
「失礼いたします……朝食をお持ちいたしました」
襖が細く開き、女中が盆を持って静かに入ってきた。謹慎中であるため、食事もすべてこの部屋に運ばれてくる。
朔は軽く礼を言い、盆を受け取って白米を口に運ぶ。
(二年、か……。長い)
咀嚼しながら、朔は自身の掌に視線を落とし、すうっと呪力を集める。
調伏の儀式はできなくなった。だが、術式と向き合うこと自体を禁じられたわけではない。
しばらくは、この呪力の変換効率をさらに極限まで高める。そして、影の操作精度の向上と、『拡張術式』の構築。
「……こい」
食事が終わると、朔は再びウサギの影絵を結んだ。
ぽんと、先程大広間をドン引きさせた異形の式神が顕現する。
白黒の毛皮に、犬の顔を持った、小型犬より少し大きいくらいのウサギ。
(これの運用方法も、詰めないと)
調伏ができなくても、やるべきことは山ほどある。
薄く微笑み、新たな手札との検証作業へと没入していった。
*
数日後。
朔は自室の畳の上に座り、異形の兎を自身の周囲に十匹ほど顕現させ、自由に走らせていた。
(……うん、大方性能は理解した)
玉犬の力を継承したことで、脱兎本来の『無限増殖』という特性は残ったまま、一匹一匹の戦闘能力が底上げされている。元の玉犬ほどの圧倒的な攻撃力や速度は失われたが、それでも人間の皮膚や薄い木板程度なら容易く噛みちぎるだけの膂力はある。
何より素晴らしいのは、玉犬特有の『嗅覚』が備わっていることだ。
(感覚の同調もかなりいい感じ)
朔は目を閉じ、兎たちの視覚と嗅覚を自身のパスラインに繋ぐ。
この式神を数百匹に増殖させ、広範囲に配置すれば、死角のない集団索敵網が完成する。さらに群れ全体で一斉に噛みつけば、立派な集団戦闘にもなる。
玉犬を失ったマイナスを補って余りある、凄まじい汎用性。
自身の好奇心がもたらしたこの式神の可能性に、朔の胸の奥で純粋なワクワク感が弾けた。
「よし、次は『影』だ」
式神の検証を終えると、朔は自身の足元の影に意識を集中させる。
影とは本来、光の遮断によって生まれる平面であり、物理的な質量を持たない。だが、十種影法術という術式を通すことで、影の空間に自身の意思を介在させ、ある程度物質に干渉させることが可能になった。
(……でも、これ、あんまり意味ないな)
朔は影の一部を液状に伸ばし、部屋の隅にある湯呑みを持ち上げようとしたが、動きがひどく鈍い。
いくら呪力を巡らせても、影自体で物を掴んだり攻撃したりするのは、出力が薄すぎる。こんなことに呪力を使うくらいなら、式神を顕現させて物理的に攻撃させた方が、よほど効率が良く、燃費も威力も高い。
朔の中で、影を使った直接的な物質干渉への興味は一瞬で消え失せた。
「物を運ぶのにも向いてないし」
影の中に物を出し入れすることも可能だが、収納した物質の重量は、そのまま術者自身が引き受けることになる。彼の貧弱な肉体では、石ころをいくつか入れるだけで足が重くなる。致命的に噛み合ってない。
(やっぱり、一番の運用法は僕自身が影に潜って攻撃を回避する『隠密・防御』の方向か。……ん?)
その時、朔の視線が、部屋の中を走り回っている兎たちの足元で止まった。
——当たり前だが、式神たちにも『影』がある。
近くにいた兎の影にそっと手を伸ばす。
ずぶっ。
指先が、何の抵抗もなく兎の影の中へと沈み込んだ。
「……おぉ!」
術者と式神は、呪力というパスラインで繋がった同一の存在。だからこそ、自分の影を操作する延長線上で、式神の影にも干渉できる。
朔は自身の影に足から潜り込む時の感覚を思い出しながら、今度は兎の影に向かって、頭からダイブするように身を沈めた。
冷たく、重力のない泥のような空間。自身の影に潜る時と全く同じ感覚だ。
朔は影の海を泳ぎ、十数メートル離れた部屋の対角——別の兎が落としている影の裏側へと向かって浮上した。
――ぬるり、と。
先程まで自分が座っていた場所から遠く離れた部屋の隅から、朔の頭が飛び出す。
「……成功だ」
自分の影から潜り、離れた位置にいる式神の影から浮上する。
それは、空間の物理的な距離を完全に無視した、影を経由するポータル移動。
「『影移動』、か」
疲れたように畳の上に仰向けに寝転がりながらも、朔の顔には満足げな笑みが浮かぶ。
二年の調伏禁止という縛りの中で、異端児は、また一つ、術式の凶悪な可能性をこじ開けたのであった。