鬱蒼と茂る樹木が陽の光を遮り、森の入り口は真昼だというのに薄暗く、ひんやりとした空気が淀んでいた。
行方不明事件が多発しているという、山奥の心霊スポット。すでに複数の若者が失踪し、未だ誰一人として帰還していないという曰く付きの場所である。
呪術高専という組織から禪院家に回されてきた、推定3級から2級の呪霊討伐任務。人手不足の呪術界にあって、御三家といえどもこうした泥臭い任務をこなすしがらみはあるらしい。
「こちらが、情報にあった場所になります。お気をつけて、坊っちゃん」
地図を広げ、森の奥を指し示しながら声をかけてきたのは、禪院家が抱える術師の部隊「躯倶留隊」の隊長である、禪院信朗。
現在、七歳になった朔にとって、実戦の任務はこれが初めてではない。これまでに何度も駆り出されては、特に躓くこともなく対象を処理してきた。今回は本家からのお目付け役として信朗が同行しているが、朔からすれば、自分の護衛兼監視としてついてきているこの大人は、端的に言って邪魔だった。
(必要ないって言ったんだけどな……まあ、上の命令じゃ仕方ないか)
朔は信朗の言葉に適当に頷き返すと、広大な森の奥へと気怠げな視線を向けた。
小さな両手を胸の前で合わせ、親指と人差し指を交差させる。
「
静かな声と共に、朔の足元の影が沸き立った。
――ポプッ、ポポポポポポポポッ!!
気味の悪い破裂音を響かせながら、影の中から次々と「それ」が溢れ出してくる。
玉犬と脱兎を縫い合わせたような異形の式神が、異常な速度で増殖していく。
「いけ」
朔が言葉少なに命じると、数十、数百という群れに膨れ上がった式神たちが、カサカサと落ち葉を踏み鳴らし、薄暗い森の奥へと津波のように呑み込まれていった。
これで勝手に森中を索敵し、呪霊を見つけ次第、数の暴力で食い殺す。
腹に文様を持つオリジナルのウサギだけは、手のひらサイズに調整して朔自身の右肩に乗せる。さらに周囲の警戒用として、十数匹を足元に待機させていた。
「おぉー、これはこれは。何度見ても、さすがですなあ」
術式を持たない信朗が、無数に増殖した異形の式神たちの背中を見送りながら、感嘆の息を漏らす。
朔はそんな信朗の反応を完全に無視し、軽く目を閉じた。
(……情報量が多いな。でも、処理は追いついてる)
脳内に、森へ放った数百匹の式神たちからの視覚、聴覚、そして玉犬から受け継いだ鋭敏な「嗅覚」の情報が、濁流のように流れ込んでくる。
並の術師であれば、脳が焼き切れ発狂するほどの多重感覚の共有。
だが、彼は涼しい顔でその情報群を捌く。
調伏を禁じられたこの2年間。彼は体を鍛えることを放棄し続けた代わりに、自身の脳髄と呪力操作を極限までチューニングしていた。
呪力の総量が並である彼にとって、最も優先すべきは「燃費の良さ」である。式神を強化し、使役する際に発生する呪力のロスを、神がかった操作技術によって「ゼロ」に近づけること。
そしてもう一つ。彼は呪力を脳へ意図的に集中させ、循環させることで、「思考速度と情報処理能力を強制的に底上げする」というイカれた技術を発見していた。
数百の眼球。数百の鼻。
森のどこで枝が折れたか。どこから血の匂いがするか。
高速で流れ込む膨大なデータを、強化された脳髄が瞬時に整理し、全体図を構築していく。
軍隊の指揮官が、盤面上の駒の動きを神の視点で俯瞰しているような状態。
身体を動かす必要はない。圧倒的な情報処理能力によって式神を精密に操作することこそが、彼のたどり着いた「効率の極致」。
調伏の儀の禁止。あの縛りは、結果的に術師としての地盤を異常なまでに強固なものにした。
(あ、潰れた)
放って数分。
脳内のレーダーの一つが、微かな呪力の残滓を捉え、直後に数匹の式神が「何か」に破壊される感覚がフィードバックされた。
「どうしました?」
彼が目を開けたのを見て、信朗が不思議そうに声をかけてくる。
「呪霊の場所がわかった」
「おっ、そうですか。さすがは坊っちゃん。では、自分が先導しますんで、少しお待ちを——」
「もう、潰しました」
「……はい?」
腰の刀に手をかけようとしていた信朗が、間の抜けた声を出す。
「僕の式神が、今、呪霊を食べてるのを感じます」
感覚の同調により、森の奥で兎の群れが、対象の呪霊を跡形もなく噛み砕き、咀嚼している生々しい感触が朔に伝わってきている。
「え、あ、もうですか? いや、しかし、目視で残穢を確認しないことには……」
信朗が戸惑いながら森の奥へ歩き出そうとした瞬間。
朔は無言のまま、彼のズボンの裾をちょこんと摘んだ。
「……? 坊っちゃん?」
「僕が連れて行く。息、止めてて」
「は?」
信朗が聞き返すよりも早く。
朔は信朗の服を掴んだまま、自身の足元に広がる黒い影の沼へと、強引に身を沈み込ませた。
「うぉッ!?」
悲鳴は、瞬時に粘度の高い影の底へと吸い込まれ、物理的に遮断される。
無酸素の暗闇の中、朔は森の奥——呪霊を捕食している最中の式神が落としている影の位置を正確に把握し、己の影と強制的に繋ぎ合わせる。
——『
直後、数百メートル離れた森の最深部。
原型を留めないほどに噛み砕かれた呪霊の肉片に群がる式神たちの影から、ぬるりと二人の人間が浮上した。
「ぶはぁッ!! ゲホッ、ゴホッ! な、何事ですかい今のは……っ!」
突然の無酸素状態と空間移動に、信朗が激しく咳き込みながら膝をつく。
その横で、朔は全く息を乱すことなく、気怠げに周囲を見渡した。
「任務、完了。帰ろう」
血生臭い森の中で、七歳の少年は己の手を汚すこともなく、ただ退屈そうにそう呟いた。
*
血と土の匂いを微かに纏わせたまま本家へと帰還した朔は、もろもろの任務報告を大人たちに丸投げし、早々に自室へと向かって鶯張りの廊下を歩いていた。
頭の中で、先ほどの実戦データを整理する。脳への呪力集中による情報処理は完璧に機能した。だが、少しだけ疲労感が残っている。早く畳の上に倒れ込んで寝たいな。
「あ、あの……朔様!」
角を曲がろうとしたところで、不意に女中の一人が声をかけてきた。
普段、朔の身の回りの世話をしている女中ではない。見知らぬ彼女は、廊下の端に膝をつき、ひどく思い詰めたような顔で深く頭を下げる。
「申し訳ありません。当主様が、朔様をお呼びでございます」
「……断っておいて。疲れてるから」
間髪入れずに返し、そのまま歩き出す。
無駄話に付き合っている体力はない。当主の呼び出しであろうと、今の彼にとっては「睡眠」の方がよほど価値のある行動だ。
「お、お待ちくださいませ……っ!」
だが、背後の女中は悲鳴のような声を上げ、膝立ちのまま縋り付くように朔の前に回り込んだ。
畳に額を擦りつけ、ブルブルと肩を震わせている。
「どうか、どうかお願い申し上げます! 絶対にお連れしろと、厳命されておりまして……っ!」
必死。その言葉すら生ぬるいほどの、異様な切迫感。
朔は、深々と額を擦りつける大人のつむじを、気怠げな半目で見下ろした。
彼女に同情したわけではない。ただ、大の大人がなりふり構わず土下座をしているこの光景が、ひどく滑稽で、同時に何とも言えない居心地の悪さを感じさせた。これ以上ここで泣き喚かれる方が、よほど面倒くさい。
「……はぁ。わかったよ」
これ見よがしな長いため息を吐き、朔は踵を返す。
どうか面倒事でありませんように。そんな叶わぬ願いを抱きながら、直毘人の待つ部屋へと重い足取りを進めた。
*
「おお、戻ったか朔よ。ご苦労だったな」
「……ただいま戻りました」
広い座敷に入るなり、むわっとした強烈な酒の匂いが鼻腔を殴りつける。
上座には、昼間から瓢箪を片手に完全に出来上がっている禪院直毘人が、だらしなく胡座をかいていた。当主という最高権力者であり、卓越した実力を持つはずの男だが、今の姿はただの酔っ払いの老人にしか見えない。
「そう硬くなるな。どうだ、お前も一杯やるか?」
「いいえ」
冗談だとは分かっているが、七歳の子供に酒を勧めてくる神経はどうなんだ。
この二年間で、朔はこの当主の性質をなんとなく理解し始めていた。何度か呼び出されては、こんな風に二人で話(というか一方的な愚痴)を聞かされる。その用件の九割が「どうでもいいこと」であった。
「なあ。昨今の解像度やフレームレートを上げたがる風潮……あれはひどく無粋だとは思わんか?」
またか。朔は無表情のまま、畳の目を数え始める。
24fpsのフィルムの美しさがどうの、4Kの鮮明さが想像力の余地を奪うだの。この男は定期的に、呪術とは全く関係のない映像技術の愚痴を七歳の子供に向かって垂れ流す。
当然、朔にはその意味が一つも理解できない。
(……ほんと、だるいなこの人)
だが、不思議と嫌悪感はなかった。
自分を分家の生意気なガキとして目の敵にしてくる扇や、十種影法術の器としてしか見ない重鎮たちに比べれば、意味不明な愚痴をこぼすこの酔っ払いの方が、まだ人間として相手をしやすい。
「おい、聞いているのか?」
「……ああ、聞いてる。4Kやら60fpsやら、意味がわからんなって」
「だろう! お前もようやく分かってきたようだな! ガハハハハ!」
適当な相槌を打つと、直毘人はご機嫌に笑い、さらに酒を煽った。
「……それで、本題は?」
朔は冷めた声で促す。
あの女中が必死に連れてきたのだ。ただの映像技術の愚痴で終わるはずがない。
直毘人は笑いを収め、瓢箪を畳に置いた。
その瞬間、彼の目から酔っ払いの濁りが消え、当主としての鋭い光が宿る。
「あぁ、お前の『術式』のことだ」
「……」
「あの日から、もう二年が経つ」
朔の肩が、微かにピクリと動いた。
気怠げだった半開きの瞳が、静かに見開かれる。
「式神の調伏の禁止。……それを、これより解禁する」
告げられた言葉に、朔は何度か瞬きをした。
ついに、待ち焦がれていたその時が来たのだと。
「嬉しそうだな」
「……まあ」
平静を装ってはいるが、彼の心臓の鼓動は確実に跳ね上がっている。
だが、直毘人はすぐに言葉を続けた。
「だが、条件がある。調伏を行う際は、我が家の精鋭部隊『炳』の者を必ず一人、立ち会わせること」
『炳』。準一級以上の実力を持つ者だけで構成される、禪院家の最強部隊。
その条件を出された瞬間、直毘人の意図をすべて理解した。
(あーね。要するに、安全装置か)
単独で未知の式神に挑んで死なれたら困る。だから、強力な術師を監視役として置き、いざという時は儀式に介入してでも朔の命を——ひいては十種影法術を守る。そういう腹積もりだ。
「分かった。条件は呑む」
立ち上がり、座敷の出口へと向かいながら振り返った。
「なら、今からやるから。その『炳』の人、一人貸してよ」
「ああ、構わん。誰かしら暇な者がいるだろう。道場に向かわせておく」
「うん。……終わったら、報告に来る」
背中越しに直毘人の笑い声を聞きながら、朔は襖を閉めた。
*
道場へと向かう渡り廊下。
朔の足取りは、先ほどの疲労が嘘のように軽く、心なしか弾んでいた。
無気力で感情の起伏が乏しい彼の口元が、今は無防備に綻んでいる。
――ああ、楽しみだ。本当に、楽しみだ
二年間、ひたすらに脳と呪力の最適化を行ってきた。その地盤の上に、新しい手札が加われば、自分の術式はどこまで拡張できるのか。
純粋な探求心が、全身の血を沸騰させるように駆け巡っている。
広大な本家の道場に到着すると、そこにはすでに先客がいた。
「来たか」
低い、地鳴りのような声。
道場の板間の上に立っていたのは、異常なまでに巨大な体躯を持つ男だった。
筋骨隆々とした肉体。顔の半分を覆うような無精髭。小柄な朔など、片手で捻り潰せそうなほどの圧倒的な威圧感を放っている。
特別一級術師であり、『炳』の筆頭格——禪院甚一。
「俺は後ろで見ておく。何かあれば、すぐに介入して儀式を終了させる。そのつもりでいろ」
甚一は、容赦のない厳しい眼光で、朔を見下ろした。
監視役としての絶対的な力。一切の反論を許さない、武闘派術師の凄み。
(……ええと。この人、誰だったっけ?)
そんな甚一の威圧感を正面から受けながら、朔の脳内には全く別の、ひどく間の抜けた感想が浮かんだ。
他人に全く興味がない彼にとって、本家の術師の名前など、覚える価値のない情報の最下層に位置している。
「ええ。よろしくお願いします」
適当に礼儀正しく頭を下げると、甚一の存在など路傍の石ころのように意識から切り離し、道場の中央へと進み出た。
――すうっ、と。
息を吸い込み、肺を満たす。
足元の影が、朔の意思に呼応してドクドクと脈打ち始めた。
小さな両手を胸の前に掲げる。
親指を交差させ、両手のひらを丸めるようにして合わせる。二年間、頭の中で何千回、何万回とシミュレーションし続けてきた、その影絵。
「——蝦蟇」
怠惰なる術師による、二年ぶりの調伏の儀が、静かに幕を開けた。