禪院家の影法術使い   作:りー037

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第伍話:神出鬼没の死角とメモリの差異

 

 

 軽く息をつきながら自室の畳に寝転がると、どっと重たい疲労感が朔の全身にのしかかってきた。

 

(……少し疲れたね)

 

 先ほど終えてきたばかりの調伏の儀式の記憶が、脳裏に鮮明に蘇る。

 要した時間は、わずか二十分にも満たなかっただろうか。その短い時間で、朔は三体の式神を立て続けに調伏し、手札に加えていた。

 

 『蝦蟇』、『大蛇』、そして『鵺』。

 

 特に死の危険を感じるような場面はなかった。強いて言うなら、最後に挑んだ鵺の処理が少しだけ面倒だった程度。

 空を飛び回り、上空から厄介な雷を降らせてくる怪鳥。だが、指定された道場は天井がそれほど高くなく、飛翔の範囲が限られている。そこへ、直前に調伏したばかりの蝦蟇の長い舌を撃ち込んで空中で拘束し、鵺が雷で舌を焼き切る前に、兎の群れを雪崩れ込ませて食い殺した。

 耐久力そのものは高くなかったため、あっけない幕切れだ。

 

(これで、手札は半分揃った)

 

 蝦蟇の拘束力。大蛇の圧倒的な質量と奇襲性。鵺の飛行能力と電撃。

 増えた手札の運用方法と、それらを組み合わせたコンボの構築が、朔の脳内で次々とシミュレートされていく。その思考プロセスは、彼にとって何よりも甘美な麻薬。

 

 ただ一つ、イレギュラーがあったとすれば。

 三体の調伏を終え、その場で大蛇を呼び出して性能を確かめていた時のこと。玉犬の時と同じように「大蛇を破壊して別の式神に継承させたらどうなるか」という純粋な好奇心が湧き、自身の呪力で大蛇の頭をねじ切ろうとした瞬間、背後に控えていた監視役の男に顔色を変えて止められたのだ。

 

 結局、あの巨大な男が誰だったのか、朔は未だに思い出せない。

 

(まあ、いいか)

 

 そんな些末なことはどうでもいい。

 重要なのは、自分の術式の可能性が、また一つ大きく広がったという事実だ。

 疲労を感じながらも、ゆっくりと右手を持ち上げ、指先で鵺の影絵を結んだ。

 

 ぽん、と。

 部屋の隅の影から、怪鳥が姿を現す。

 バチバチと微かな放電音を立てる翼。

 

「……うん、いいな」

 

 気怠げな瞳の奥に、爛々とした探求の光が宿る。

 

 呪力の効率的な運用。操作技術の極致。

 肉体を動かす疲労は「だるい」の一言で切り捨てる彼だが、己の術式という世界を広げるこの知的作業に関してだけは、どれだけ疲労しようが別腹だ。

 辛くても、しんどくても、それ以上に「自分の想定通りに術式が組み上がり、機能する」という現象があまりにも美しい。

 結局、朔は夕食の時間が来るまでの数十分間、自室で式神を呼び出してはいじり倒し、ひたすらに至福の時間を貪り続けたのであった。

 

 

 

*

 

 

 

 翌朝。

 朝食を済ませた朔は、肩に一匹の小さなウサギを乗せたまま、自室を出た。

 この家にいる時、彼は常に一匹のウサギを手のひらサイズに調整し、自身の肩に乗せて歩いている。索敵のためか、それとも別の理由か。ともかく、それが最近の彼のスタンダードなスタイル。

 

 向かったのは、当主である直毘人の部屋だ。

 女中に取り次いでもらい、今日も調伏の許可をもらいに来た旨を伝えると、直毘人は二日酔いの頭を押さえながら「ああ、いいぞ。好きにしろ」と、ひどく投げやりな態度で了承した。

 

(なんか、軽いな……)

 

 そう思いつつも、朔にとっては好都合。

 直毘人は「こちらで手配しておくから、修練用の第一道場へ行け」と場所を指定してきたので、今日もまた、監視役の『炳』の術師が派遣されるのだろう。

 

 朔は一度自室に戻り、多少動きやすい和装に着替えると、指定された道場へと足を向ける。

 

(よし、やるぞ)

 

 静かな熱意を胸に道場へ近づいていく。

 だが、建物の前に差し掛かった瞬間、朔の顔がこれ以上ないほど露骨に嫌そうに歪んだ。

 

「うわ……」

 

 道場の中から、むせ返るような熱気と、鼓膜を揺らす大勢の怒号が響いてきたのだ。

 打ち合う木刀の音。踏み鳴らされる床板の振動。厳しく指導する指南役の怒声と、それに呼応する若い術師たちの叫び声。

 

(……ここでやるのか)

 

 昨日は夕方だったため、道場は空いていた。

 しかし今の時間は、禪院家の武闘派術師たちが汗と血を流して体術の鍛錬を行う、まさにピークの時間帯。

 

(めんど……帰ろうかな)

 

 心底うんざりした朔が踵を返そうとするも。

 

「おお! 当主様からお話は伺っております!」

 

 背後から、やたらとハキハキした暑苦しい声が飛んできた。

 振り返ると、そこには見知らぬ若い男。彼が今日の監視役らしい。昨日の巨大な男とは別人のようだ。

 

「準備はできてますんで! どうぞ中へ!」

「……はぁ」

 

 元気すぎる監視役に急かされるように、朔は渋々道場の引き戸を開けた。

 

 その瞬間。

 

「「「…………」」」

 

 道場内に響いていた熱を帯びた声が、ピタリと止んだ。

 鍛錬を行っていた数十人の術師たちの視線が一斉に、入り口から入ってきた禪院朔へと突き刺さる。

 

 それは、決して好意的なものではない。

 むしろ、明確な侮蔑と、反感、そして嫉妬が入り混じったドロドロとした視線だった。

 無理もないだろう。この三年間、朔がこの体術の鍛錬にまともに参加した日は、片手の指で数えられる程度しかない。参加したとしても、竹刀を振るどころか隅で座り込み、最後までいたことは一度もない。

 彼らからすれば、朔は「相伝の術式を持っているというだけで優遇されている、ふざけた分家のガキ」に過ぎないのだ。

 

(……なんでこっちを睨むんだ。体術がやりたいなら、勝手に自分たちだけでやってればいいのに)

 

 朔は周囲の刺すような視線を路傍の石ころのように完全に無視し、気怠げな歩調で道場の中へと進んでいく。

 

 見れば、広大な道場の「奥の半分」だけが、ぽっかりと不自然に空けられている。

 どうやら、直毘人の命令によって、朔の調伏の儀式のためにわざわざ場所を確保させられたらしい。鍛錬を中断させられ、場所まで譲らされた術師たちの不満は頂点に達しているはずだ。

 

「それじゃあ、ここでお願いします! 自分はそちらで見ておくんで!」

 

 ハキハキとした監視役の男が、空いたスペースを指し示して壁際に下がっていく。

 周囲の術師たちは、指南役に「よそ見をするな!」と怒鳴られ、忌々しそうに舌打ちをしながら鍛錬を再開していく。

 

(はぁ……さっさと終わらせよ)

 

 今日調伏するのは、『円鹿』。

 事前に暗記したマニュアルによれば、「反転術式」を使用できるという極めて特異な式神。

 他者を治癒する生のエネルギー。朔自身は反転術式など使えないし、使えるようになるための努力をするつもりも一切ない。式神が代行してくれるのであれば、それで十分すぎる。

 

 朔は両手を合わせ、鹿の影絵を結ぶ。

 

「——円鹿」

 

 影が広がり、そこに顕現したのは、神々しいまでの『生のエネルギー』を放つ、巨大な白い鹿だった。

 美しい。好奇心を刺激され、朔の気怠げな瞳が輝く。

 

 だが次の瞬間、円鹿の眼光が鋭く光った。

 

 

 ——ブォンッ!!

 

 円鹿を中心として、不可視の波動が道場に放たれる。反転術式による生のエネルギーの広範囲アウトプット。

 それが身体に触れた瞬間、彼の内側を巡っていた呪力が、強制的に中和され、じわじわと削り取られていく強烈な感覚に襲われる。

 

(……気持ち悪っ!)

 

 息が詰まり、術式の維持そのものが危うい。この波動の中に留まり続ければ、呪力を完全に打ち消され、式神を顕現させることすらできなくなる。

 

 自身の肩に乗せていたウサギを鷲掴みにすると、反転術式の影響が及ばない数十メートル後方、道場の端ギリギリの空間へと全力でぶん投げた。

 

 ウサギが宙を舞うのと同時。

 朔は自身の足元の影へと、頭からダイブするように潜り込む。

 

「グルァッ!」

 

 円鹿が、朔の沈んだ影に向かって前足を振り下ろす。

 だが、打撃が床を砕くよりコンマ数秒早く、朔の身体は、先ほど後方へ投げ飛ばされて床に着地した「ウサギの影」から、ぬるりと浮上していた。

 

 

 ——『影門(ゲート)』。

 

 瞬時のポータル移動による完全回避。

 距離を取ることに成功した朔を、円鹿が首を巡らせて再びロックオンする。

 

(あの波動の内側には、絶対に入りたくないな)

 

 ウサギを再び肩に乗せると、両手で新たな影絵を結ぶ。

 

「鵺」

 

 バチバチと火花を散らす怪鳥が顕現する。朔はその背中に飛び乗り、道場の低い天井すれすれまで一気に飛翔した。

 反転術式の波動を下方に避けながら、鵺の翼に莫大な呪力を込める。

 

「撃て」

 

 ドゴォォォンッ!! と、道場内に雷鳴が轟き、鵺の翼から放たれた極太の雷撃が、円鹿の頭上に直撃した。

 

 眩い閃光。

 しかし、円鹿は自身の反転術式によって雷のダメージを即座に治癒していく。

 致命傷にはならない。……だが、朔の狙いはダメージではなく、雷撃による「神経の麻痺」。

 

 ビリビリと全身を駆け巡る電流に、円鹿の動きが硬直する。反転術式の放出が一瞬、完全に途切れた。

 

「大蛇」

 

 兎を戻し、間髪入れずに次の影絵を結ぶ。

 

 影から、巨大な白蛇が出現。麻痺して動けない円鹿へと肉薄し、その巨体でギリギリと締め上げた。

 

 鵺を解除し、自らは空中から自由落下する。

 床に激突する寸前、自身の影をクッションのように液状化させて衝撃を完全に殺し、無音で着地。そのまま両手でウサギの影絵を作る。

 

「群牙散兎(ぐんがさんと)」

 

 床一面の影から、数百のキメラ兎が爆発的に増殖し、拘束された円鹿の肉体へと群がっていく。

 しかし、円鹿もただでは終わらない。麻痺から回復し、大蛇の拘束を強引に引き剥がしながら、再び反転術式のアウトプットを開始しようと光を放ち始めた。

 

(……やらせない)

 

 朔は一切の焦りも見せず、大蛇と入れ替わる形で再び鵺を顕現させた。

 オリジナルの本体兎は自身の側にいる。群がっている数百匹はただの分身。

 朔は、兎の群れごと、円鹿に向かって容赦のない二発目の雷撃を落とした。

 

 閃光と轟音。

 群がっていた兎たちが感電して次々と弾け飛ぶ中、再び強烈な麻痺に襲われた円鹿の膝が完全に折れる。

 反転術式を封じられたその瞬間、生き残っていた数十匹の兎が一斉に円鹿の首元へ跳躍。獰猛な牙を突き立て、その喉笛と頭部を完全に噛み砕いた。

 

 ドサリ、と神々しい鹿の巨体が崩れ落ち、墨のように黒く溶けて消えていく。

 

(……よし。これで終わり)

 

 息一つ乱さず、完全に論理的に組み上げられたパズルのような戦闘。

 朔は満足げに、小さくガッツポーズを作った。

 円鹿の調伏、完了である。

 

「いやあ、お見事! さすがです!」

 

 パチパチと拍手をしながら、監視役の男が近づいてきた。

 道場の半分を使っていた周囲の術師たちも、雷鳴と巨獣たちの乱舞に圧倒され、呆然とこちらを見つめている。

 

「次、どうしましょうか? 昨日も続けて数体やられたと聞いてますが」

 

 元気な男の問いかけに、朔はだるそうな顔を浮かべて道場を見渡した。

 マニュアルを記憶している彼には、他の式神——『満象』や『貫牛』の特性も理解できている。

 

(象と牛を、この狭い道場の半分で呼び出すのは、ちょっとな……)

 

 純粋に、空間の広さが足りないというのが本音。

 

「もう少し広く使いたいんだけど……無理そうだし。今日はこれでいいや」

 

 そっけない返しに、男は「そうですか?」と疑問の声を上げつつも、「了解しました」と頷いた。

 

 これ以上の用はない。

 朔は踵を返し、さっさと自室に帰って円鹿の性能を検証しようと歩き出す。

 

「儀式は終わったようだな」

 

 引き戸に向かって歩く朔の背中に、ドスを聞かせた大人の声がぶつけられた。

 

 体術の指南役。

 

(うわ、めんどくせ……)

 

 朔は内心で毒づきながら、気怠げに振り返る。

 

「何ですか」

「ちょうどいい。儀式も終わったのなら、お前も鍛錬に参加していったらどうだ」

 

 当然の義務だと言わんばかりの圧力。

 今は手に入れたばかりの式神をいじりたい。じゃなくても、こんな汗臭い場所で無駄な労力を使いたくない。マジで帰りたい。

 

「いや、パスで。やることがあるので」

 

 そう言って再び出口へ向かおうとした、その瞬間だった。

 

「——待て」

 

 道場の空気が、凍りつく。

 次は指南役ではない。周囲の人間たちに紛れていたのか。

 気配を完全に消していた一人の男が、ゆっくりと朔の前に歩み出てきたのだ。

 

 眉間に深い皺を刻み、常に何かに対する怒りを抱えているような、凄みのある中年の男。

 

(……何してんだ、この人。なんでこんなところにいるの?)

 

 特別一級術師、禪院扇。

 

 心底不思議そうな朔の内心など知る由もなく、扇は冷たく、そしてドロドロとした暗い感情を宿した目で、七歳の幼児を見下ろした。

 

 

 道場内の空気が、急激に温度を失っていく。

 先ほどの式神たちの乱舞が残した熱気を塗り潰すように、一人の男から発せられる重く、粘り気のある呪力が空間を支配し始めていた。

 

 当主・直毘人の実弟であり、特別一級術師として禪院家の武を牽引する重鎮。

 

(……てか、なんでこんなにキレてんの?)

 

 眉間に深いシワを刻み、親の仇でも見るかのような目でこちらを睨みつけてくる扇に対し、朔の内心はただただ「面倒くさい」の一色。

 心なしか、周囲で鍛錬をしていた術師たちも、扇から発せられる異様な空気に当てられてビクビクと身を縮めている。

 

「先ほどの調伏、見ていたぞ。……見事だ」

 

 凄みのある低い声が、静まり返った道場に響く。

 

「はぁ」

 

 何が言いたいのだろうか。用があるなら前置きなど省いて早く結論を言ってくれないか。

 

「貴様は本家に引き取られてから、およそ三年といったところか。多少目に余る傍若無人な振る舞いはあるが、己の術式について勤勉に学んでいる。その姿勢自体は、評価に値する……」

 

(……話、なっが。マジで長い。早く終わんないかな)

 

 扇の口から出る言葉は朔を褒め称えるような形をとっているが、その声色にも表情にも、好意的な感情など欠片も含まれていない。

 そして扇は、案の定、本題へと入った。

 

「だが。……なぜ、近接戦闘の鍛錬をやらない?」

「……」

「式神使いだからといって、己の肉体を鍛えることを放棄するなど許されることではない。呪術師の戦闘において、最終的に生死を分かつのは基礎的な肉体の強度だ」

 

 扇は、一歩ずつ朔へと歩み寄りながら、持論を滔々と展開し始める。

 

「血反吐を吐いて肉体を極限まで鍛え上げ、そこに自らの呪力を通して強固にコーティングする。その完璧な器があって初めて、生得術式はその真価を発揮するのだ。相伝の術式に胡座をかき、自ら汗を流そうとしない貴様の態度は、呪術師としての矜持に欠ける。いや、それ以前に——」

 

(あー……長い。限界)

 

 ダラダラと続く「呪術師たるものかくあるべし」という時代錯誤な精神論。

 朔は、自身の疲労ゲージがマッハで削られていくのを感じ、扇の言葉を無慈悲にぶった切った。

 

「はぁ。……もう、いいですか?」

「……何?」

「僕、まだやることがあるんで。それじゃ」

 

 これ以上の対話は時間の無駄だ。

 朔は扇から視線を外し、さっさと道場の出口へと向かって歩き出した。

 

 

 ——ヒュッ。

 

 道場内の人間全員が、息を呑む。

 その空調が止まったような静寂の中で。

 

「き、貴様ァ……ッ!!」

 

 扇のこめかみに、太い青筋がボコリと浮かび上がった。

 話の途中で背を向けるという、目下の者としてあり得ない非礼。特別一級術師である自分に対する、完璧なまでの無関心。

 相伝の術式を持っているからといって、調子に乗っているのか。

 扇の目にはそう映ったのだろうが、完全な誤解である。朔は相手が誰であろうと、自分にとって「無駄な時間」だと判断すれば平気でこういう態度をとる。そこには悪意はない。

 

「そうか。貴様は以前、体術など必要ないと言い放っていたな……」

 

 ギリッ、と扇が奥歯を噛み鳴らす音が響いた。

 

「ならば、見せてみろ。己の持論にそれほどの自信があるというのなら、その傲慢、我が手で完膚なきまでに叩き潰してやろう!!」

 

 扇は腰に差していた木刀を抜き放ち、朔の背中へ向けて切っ先を突きつけた。

 

 ――えぇ、なんでぇ?

 

 

 

*

 

 

 

 禪院朔と禪院扇は、道場の中央で十数メートルの距離を空けて向かい合っていた。

 なぜこんなことになっているのか、朔自身にも全く理解できていない。ただ早く帰りたかっただけなのに、どうして三十歳以上も歳の離れた重鎮と木刀で立ち合う羽目になっているのか。

 

「安心するといい。貴様ごときに、本気を出すような大人気ない真似はせん」

 

 扇は木刀を正眼に構え、冷酷に言い捨てた。

 

「術式を使うつもりはない。木刀と基礎的な呪力操作のみで、貴様のその腐った根性を叩き直してやる」

 

(……軽く捻って、わからせようって魂胆かな。ほんとに)

 

 周囲の術師たちは、巻き添えを食うのを恐れて道場の壁際まで大きく下がっている。

 その中で、監視役として派遣されていた若い男だけが、オロオロと顔色を窺いながら前に出た。

 

「お、扇様! お言葉ですが、本日の儀式の監視と護衛は私が当主様から仰せつかっておりまして、その、私闘は……!」

「黙れ」

 

 扇の一睨みと低い声に、監視役の男はビクッと肩を震わせ、すうっと壁際まで後退した。

 

 

 ――もうちょっと頑張ってくんねーかな、あの人……

 

 朔はため息をついた。どうやら、この戦いは避けられないらしい。

 実力があるから鍛錬をしないとか、扇を舐め腐っているとか、そういうことではない。ただ純粋に、「自分の人生に体術は不要だから」やっていないだけなのだが、この頭の固いおっさんには絶対に理解されないだろう。

 

「なら、さっさとやってしまおう」

 

 朔は一歩だけ前に出た。

 右肩には、先ほどからずっと待機させている、小さなウサギの式神が一匹。

 

「もう、してもいいですか?」

「ふん。いつでも来い」

 

 扇が木刀の柄を握り直す。

 

 その瞬間。

 

(よし、やるぞ)

 

 朔は、肩に乗せていた『群牙散兎』のオリジナルを、真上の空中に向かってふわりと放り投げた。

 

 扇の視線が、反射的にウサギを追う。

 

 

 ――ポプッ、ポポポポポポポポポッ!!!!

 

 天を舞った一匹のウサギが、空中で爆発的な速度で増殖を開始した。

 一匹が十匹に、十匹が百匹に。

 白黒の斑模様を持つ、鋭い牙を備えたキメラ兎の群れが、文字通り「空から降り注ぐ豪雨」となって、扇の頭上へ殺到する。

 

「目眩ましか。これしき……ッ!」

 

 彼は動じない。

 木刀に莫大な呪力を纏わせ、下から上へ、竜巻のように振り抜いた。

 

 

 ——ドォォンッ!!

 

 凄まじい風圧と呪力の刃が、視界を覆い尽くすウサギの群れを一網打尽に粉砕する。墨のように弾け飛ぶ式神たち。

 だが、群牙散兎の真の恐ろしさは、その『尽きることのない物量』にある。

 いくら斬り払おうが、新たな個体が次々と分裂し、全方位から扇の肉体目掛けて牙を剥いて飛びかかる。

 

「シッ!」

 

 四方八方から襲い来るキメラ兎たちに対し、扇は流麗な足捌きと木刀による迎撃で完全に対応していた。

 だが、彼の視線は周囲の有象無象にはない。

 

(これでは埒が明かん。本体を叩く!)

 

 扇は木刀にさらなる呪力を込め、群れの中で最も密集している箇所——朔がいるであろう正面へ向かって、渾身の突きを放った。

 

「はぁぁぁぁッ!!」

 

 轟音と共に、ウサギの壁が一直線に吹き飛ぶ。

 

 しかし。

 そこに、朔の姿はなかった。

 

「……なに?  どこだ!」

 

 扇の顔に、一瞬の動揺が走る。

 正面にいたはずの幼児が、忽然と姿を消したのだ。

 だが、動揺している暇はない。背後から、死角から、無限に増殖し続けるウサギたちが、扇の肉体を削り取ろうと殺到してくる。

 

「くっ……!」

 

 鋭い爪が、扇の頬を掠め、浅い一筋の傷を刻む。

 扇は忌々しそうに表情を歪め、木刀を振り回しながら呪力感知を全開にした。

 

 朔の呪力はどこだ。

 だが、見つからない。無理もない。今この道場を埋め尽くしている数百匹のウサギは、すべて朔の呪力によって顕現した存在。空間のすべてが「朔の呪力」で満たされており、波長が完全に同化しているため、本体を特定することなど不可能だ。

 

「どこだ! どこに隠れた!」

 

 扇の怒鳴り声が空しく響く。

 隠れていても勝負はつかんぞ、と叫んだところで、返ってくるのは獣たちの獰猛な唸り声と、容赦のない爪牙の連撃だけ。

 木刀で一匹の頭を叩き割っても、その死角から二匹が腕に噛み付いてくる。

 決定的な殺傷力を持ったキメラの群れ。それを捌き続ける扇の額から、じわりと汗が流れ落ちた。

 

 

 

*

 

 

 

 その頃。

 朔は、道場の床に落ちている『ウサギたちの影』の底——冷たい無酸素の空間の中で、ひどく無機質な思考を巡らせていた。

 

(そろそろ、かな)

 

 息が苦しくなってきた。

 朔は、自分の影と式神の影を繋ぐ『影門(ゲート)』のパスラインを操作し、扇から数メートル離れた位置で跳躍している、一匹のウサギの影を指定する。

 そして、両手で『鵺』の影絵を密かに結びながら、指定した影の表面から頭だけをぬるりと浮上させる。

 

「ぷはっ」

 

 

 

*

 

 

 

 道場を埋め尽くす数百のキメラ兎たち。木刀で一匹の頭を叩き割っても、その死角から二匹が腕に噛み付いてくる。

 

「いい加減にしろ! 何を考えているのだ!」

 

 疲労を押し殺し、扇は怒りの咆哮を上げる。

 

「隠れてばかり……このような貴様に、呪術師としての誇りはないのか!」

 

 その声を聞きながら、ウサギたちの影の底に潜む朔は「そろそろか」と無機質な思考を巡らせる。

 

『誇り? ……僕にそれを求めてるの?』

「そこかッ!!」

 

 背後から響いた声に、扇が猛然と振り向いて木刀を振り下ろす。

 

 しかし、そこには誰もいない。

 

『僕はさ』

 

 今度は、全く別の方向。扇の斜め前方の影から声が響く。

 

『呪術師としてのどうこうって、あんまりよくわからないんだよね』

「チィッ!!」

 

 扇が再び声の方向へ斬りかかるが、やはりそこには誰もいない。

 道場を埋め尽くすウサギたちの影。それは朔にとって、道場内のあらゆる場所から顔を出し、また潜ることができる無数の「呼吸穴」であり「スピーカー」

 

「どうなっている……!」

 

 理解不能な現象に、扇の冷静さが削られていく。

 その焦りと動揺の隙を突くように、背後から跳躍した一匹のウサギが、扇の背中を鋭い爪で深く引き裂いた。

 

「ぐぅあっ!?」

 

 思わず苦痛の声が漏れる。振り向きざまにウサギを両断するが、群れの数は一向に減る気配がない。

 

『もうそろそろ、終わりそう? 辛そうだけど』

 

 本気で気遣っているような声が、今度は右斜め後ろの死角から響いた。

 

「黙れェッ!!」

 

 怒髪天を衝く勢いで扇が咆哮する。

 煽られている。馬鹿にされている。本気で心配しているかのようなその声のトーンが、扇のプライドをこれ以上ないほどに逆撫でする。

 

「このような雑兵、いくらいようが問題にはならん! 貴様こそ、そろそろ限界なのではないか!」

 

 扇は荒い息を吐きながら、必死に思考を回していた。

 朔は先ほど、式神の調伏儀式を終えたばかりだ。そして今、二十分近くもぶっ通しでこの凄まじい数の式神を顕現・使役し続けている。

 呪力総量など、とうの昔に枯渇していてもおかしくない。限界寸前の小僧の悪あがき。そうに違いない。

 

「はぁぁぁッ!!」

 

 扇は己を鼓舞するように、さらに強力な上段からの斬撃でウサギの群れを薙ぎ払う。

 呪力を込めた木刀の威力は凄まじく、一帯の空間を真空の刃が切り裂いた。

 

 だが。

 

『大丈夫だよ、 めちゃくちゃ絞ってるからね』

 

 どこからか聞こえてきた朔の声には、疲労の色も、焦りも、全く混じっていない。

 

『なんだっけ。呪術師は、体を鍛えて、その上で呪いで強化する……って言ってたね』

 

 世間話をするように、朔の無慈悲な分析が始まる。

 

『やることいっぱいだね。すごく大変そう』

「……ッ!!」

 

 ウサギの群れが、扇の疲労を察知したかのように、さらに勢いを増して襲いかかる。

 

『扇さん……はさ。体を鍛えて、近接の技術を磨いて、呪いで強化して。そして、自分の生得術式とも向き合ってるんだよね』

 

 左から。右から。上から。

 数秒たりとも同じ位置に留まらない朔の声が、扇の鼓膜にへばりつくように響く。

 

「それがどうした!! それが呪術師というものだ!!」

『ふーん』

 

 大量の汗を流し、息を乱しながらも必死に体を動かし続ける扇。

 

『大変だな、と思って。僕はさ、ここ三年間、体を全く鍛えなかったし、格闘の技術も磨かなかった』

 

 ドロリと暗い、狂気的な合理主義。

 

『僕はただ、術式と呪いだけに向き合ってきた。呪力の効率、操作精度、そして術式の解釈。そこにリソースの全てを絞って、磨き上げてきたんだよ』

「……ッ!!」

『無駄なものは削ぎ落とした。近接戦闘の技術は不要。体を鍛えるのも不要。僕に絶対服従する式神がいれば、それらは全部代替できるから。……人間、全部を完璧に手に入れることなんてできないでしょ』

 

 

 ――だから僕は、一番必要な『術式』をすくい取った。

 

 その言葉は、扇の心の一番柔らかく、脆い部分を容赦なく抉り抜く。

 

『でも、あなたは『全部』をやっている。……だから、すごく大変そうだなって、思ったんだよね』

「くっ……!!」

 

 扇の脳内で、何かが限界を超えて軋む音がした。

 今まで長く生きてきて、血を吐くような鍛錬を積み重ねてきた自分。

 それなのに、たかだか数年呪術と向き合っただけの、この分家の小僧風情に、上から目線で哀れまれている。

 

 生まれつき、十種影法術という至高の術式に恵まれただけの子供。

 呪術師としての矜持も誇りも持ち合わせていない、ただ運が良かっただけの存在。

 

 

 ——自分は、直毘人以上の実力を持っている。

 

 ——当主になれなかった自分。出来損ないの娘たちを生んでしまった自分。

 

 

 己の内側に渦巻く、巨大なコンプレックス。

 この小僧が、ただ「相伝を持って生まれた」というそれだけの理由で優遇され、当主の座すら約束されているかのような現状が、どうしても許せない。

 気に入らない。すべてが気に入らない。

 

 ドス黒い負の感情が、扇の中で爆発的に膨れ上がった。

 

『……あのさ』

 

 そんな扇の精神状態など全く意に介さない、無自覚で残酷な声が、頭上から降り注ぐ。

 

『——メモリ、足りてる?』

 

 

 ピクリ、と。

 

 扇の全身の動きが、完全に停止した。

 全部をやろうとして、処理落ちしてない?

 その、純粋な疑問を装った極悪な煽り文句が、扇の理性の糸を、プツリと断ち切った。

 

「……ダァマレェェェェェッ!!!!」

 

 扇の口から、絶叫が迸った。

 その瞬間、彼が自らに課していたルールは、怒りの炎と共に燃え尽きる。

 

「術式解放——『焦眉之赳』!!」

 

 木刀の刀身を、爆発的な炎が覆い尽くす。

 それは、扇の鬱屈した感情そのもののような、全てを焼き尽くす灼熱の業火。

 

「はぁぁぁァァァァァァァァッ!!」

 

 今日一番の巨大な咆哮と共に、扇は炎の刀を三百六十度、円を描くように薙ぎ払った。

 

 

 ――ゴォォォォォォンッ!!

 

 凄まじい熱波が道場を包み込む。空間を埋め尽くしていた数百匹のウサギたちが、悲鳴を上げる間もなく、一瞬にしてチリと化して消し飛んだ。

 

 

 ――えぇ……術式、使わないって言ったのに。

 

「はぁ……はぁ……はぁ……ッ!」

 

 炎が収まった道場の中央。

 扇は肩で激しく息をしながら、完全にウサギが一掃された空間を見渡し、勝ち誇ったように口角を吊り上げた。

 

 これならば、隠れる場所はない。

 影を経由しようが、本体を炙り出せば一撃で終わる。

 

 ふと、背後の気配。

 扇が振り返ると、そこにはいつの間にか抜け出していた、朔が立っていた。

 

「……満足した?」

 

「!!」

 

 ようやく目の前に姿を現した獲物。

 扇の目に、狂気的な歓喜の光が宿る。これで終わりだ、この生意気なガキの息の根を止めてやる。

 炎を纏う木刀を振りかぶり、扇が朔へと飛びかかろうとした、その時。

 

 朔は、冷め切った目で扇を見つめながら。

 

「——うえ」

 

 気怠げに、一本の指を「上」に向けた。

 

「……あ?」

 

 反射的に頭上を見上げる。

 

 

 そこには——。

 

 ――バチバチ、バチバチバチッ!!

 

 道場の天井の梁に逆さまに張り付き、尋常ではない量の呪力をスパークさせている、怪鳥の姿があった。

 

 『鵺』。

 

 戦闘開始直後に影の中から顔を出したあの瞬間から、密かに鵺の影絵を結び、天井へ潜伏させていた。

 ウサギの群れによる視覚と呪力のノイズで、扇は頭上からの強烈な呪力反応に全く気づくことができなかった。

 長時間の戦闘の中で、鵺は莫大な雷撃のチャージを、すでに完全に終えている。

 

 兎の囲いも、言葉による煽りも、全ては意識を逸らすため。

 

「あ——」

 

 扇が絶望的な声を漏らした瞬間。

 

 

 ――ドッッッシャァァァァァァンッ!!!!

 

 道場全体を白昼夢のように染め上げる強烈な閃光と、鼓膜を破る轟音。

 鵺から放たれた極太の落雷が、回避の隙すら与えず、扇の脳天へと直撃した。

 

「ガ、アァァァァッ……!?」

 

 炎の術式ごと神経を完全に焼き切られ、扇の巨体が白目を剥いて硬直する。

 

 数秒の放電の後。

 炭化した木刀を取り落とし、特別一級術師・禪院扇は、糸の切れた人形のように道場の床へと崩れ落ちた。

 

 

 ――ドサリ。

 

 鈍い音が響き、後には静寂と、微かに焦げた匂いだけが残る。

 

 戦闘終了。

 圧倒的な、そして残酷なまでの「リソース管理」の差がもたらした、必然の結末だった。

 

「……ふぅ」

 

 朔は小さく息を吐き、肩からウサギを下ろして影へと還すと、床に倒れてピクピクと痙攣している扇の顔を、無感情に見下ろす。

 

「……もし負けそうだったら、満象やら貫牛やら、残りの未調伏式神の儀式に巻き込むつもりだったけど」

 

 その口から紡がれたのは、相打ちをも辞さない、人としての倫理観が完全に欠落した狂気の思考。

 

「必要なかったね」

 

 ――ぽつり。

 

 無機質で冷たいその独白は、誰に聞かれることもなく、静寂の道場に吸い込まれていった。

 

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