白煙が立ち上り、焦げた肉とオゾンの匂いが道場に充満している。
圧倒的な質量を持った雷撃が落ちた直後。
道場の中央には、黒焦げになり、大の字に倒れ伏している特別一級術師・禪院扇の姿があった。
「……ふぅ」
小さく息を吐きながら、痙攣を繰り返す扇の巨体を無感情に見下ろす。
(死んでは、いないな)
別に手加減をしたわけではない。
扇自身が『焦眉之赳』という強力な術式を発動中であり、極限まで呪力を高め、肉体を強固にコーティングしていた状態だった。それを上から叩き潰したため、ギリギリのところで即死は免れたのだろう。
自身の掌を軽く握り、開く。
(……僕の出力じゃ、まだこんなものか)
扇が倒れたことへの達成感も、勝利の喜びもない。朔の脳内を占めていたのは、ひどく冷徹で分析的な自己評価。
呪力のコントロール技術においては、自分は優れていると自負している。強化や操作に伴うロスを限りなくゼロに近づける技術は、この二年間で異常なレベルに達した。
だが、根本的な「出力」の最大値が、まだ全然足りていない。
もし相手が扇ではなく、さらに高次な防御力を持つ特級クラスの術師や呪霊だった場合、今の鵺の雷撃では致命傷に至らない可能性がある。
(やれやれ。これからの課題か)
首を横に振り、自身の思考をコンマ数秒で完結させると、意識を目の前の「現実」へと引き戻した。
(さて。……この現状、どうしようか)
道場の壁際では、先ほどまで鍛錬を行っていた若い術師たちや指南役、そして朔の監視役である『炳』の男が、信じられないものを見るような顔で完全に固まっている。
誰も動かない。声すら出せない。
あの禪院扇が、たかだか七歳の子供の式神に一撃で焼き払われたのだ。その驚愕は、彼らの脳の処理能力を容易く超えている。
――まじで、どーすっかなー……。
朔は気怠げに呟き、再び足元の焼け焦げたおっさんを見つめた。
じっくりと観察する。うん、やはり死んではいない。
――殺そうか?
ほんの一瞬。
朔の脳裏に、水滴が落ちるような自然さで、その思考が浮かんだ。
この家で、自分のことを目の敵にしている男。また面倒くさい絡み方をしてくるのは目に見えている。ならば、今ここで息の根を止めてしまった方が、今後の効率がいいのではないか。
彼ら禪院家の将来がどうなるのかは、朔の中で既に見切りがついている。どのみち、早いか遅いかだ。
ならば今、ここで……。
朔がほんの少しだけ迷い、鵺の追加攻撃を指示しようかと考えた、その時。
——パーンッ!!
道場の引き戸が、乱暴な音を立てて開け放たれた。
誰かが急を知らせて呼んできたのだろう。今朝、自室で顔を合わせたばかりの禪院家当主・直毘人が、数人の女中を従えて道場に入ってきたのだ。
当主の登場に、凍りついていた周囲の空気がさらにピリッと張り詰める。
ハッと我に返った指南役の一人が、慌てて状況を説明しようと直毘人に詰め寄った。
「と、当主様! これは……その、扇様が朔様に稽古をつけようとされたのですが……っ!」
「……」
直毘人は指南役の言葉を完全に無視し、真っ直ぐに道場の中央へと歩いてきた。
その視線は、周囲にウサギたちを侍らせ、空中に鵺を待機させている朔と、足元で黒焦げになっている扇とを、交互に行き来している。
「ふむ……ふむ」
直毘人は顎を撫でながら、合点がいったというように右拳を左の手のひらにポンッと打ち付けた。
「なるほど、なるほど。そういうことか!!ガハハハハハハ!!!」
直毘人は、まるで腹の底からこみ上げるような爆笑を弾けさせた。
道場にいる全員が、狂ったように笑う当主を呆然と見つめる。
「またこっぴどくやられたものだな、扇のやつは!」
自分の実の弟が黒焦げになって倒れているというのに、直毘人の顔には心配の色など微塵もない。むしろ、最高に面白い見世物を見たかのように愉快そうな。
「お前も災難だったな、朔。こんな真っ昼間から。くくくっ……」
(……マジ、何なんだよこの人)
どうやら、直毘人はこの状況を一瞬で理解した。その上で朔に対して怒っているわけではないらしい。それは助かるが、相変わらず絡み方が鬱陶しい。
「おい」
「は、はいっ!」
直毘人が、背後に控えていた女中に機嫌の良い声で命じた。
「扇を医務室に運んでやれ。死んではおらん」
「か、かしこまりました!」
直毘人の命令で、周囲の術師たちと女中たちがようやく動き出し、せっせと扇の巨体を運び出し始める。
「さて、朔よ」
直毘人が、ニヤニヤと笑いながら朔を見下ろす。
「何があったか、話を聞かせてもらおうか」
(……いや。あんた、だいたい察してるだろ。なんでわざわざ話さなきゃいけないんだ)
内心で盛大にため息をつく。
「……周りの人たちが見てたと思うんで。そっちに聞いてみては?」
適当にはぐらかそうとする朔の肩を、直毘人はバンバンと乱暴に叩いた。
「いいから行くぞ! カッカッカッカ!」
――相変わらず、人の話聞かねーな……。
結局、朔は投げやりな思考のまま、有無を言わさず直毘人の部屋へと連行されることとなった。
*
「適当に座れい」
「……失礼します」
直毘人の私室に戻るなり、当主はまたしても瓢箪から酒を煽り始めた。
(今朝二日酔いだっただろ。なんでまた飲んでんだよ)
呆れを通り越して感心すら覚えながら、朔は言われた通りに適当な座布団の上に胡座をかく。
「で、どうだった?」
「……どうだったとは?」
直毘人の抽象的すぎる質問に、平坦な声で聞き返す。
「大方、扇のやつがお前に絡みに行って、返り討ちにあったんだろう?」
「まあ、そんなところ」
「ハッハッハ! 嫌われたものだな!」
直毘人は愉快そうに酒を飲む。
「扇のやつは、日頃から裏でお前に対する愚痴を腐るほど言っておったからな」
――知るかよ。
扇の行動や態度、その全てが朔とは根本的に相性が悪いのだ。それに加え、自分が十種影法術を持っているという事実が、扇に火をつけている部分も大きいのだろう。
(こんなめんどくさい術式、受け継いだのが運の尽きか……)
強力な術式を持てば、過剰に期待され、同時にどうしようもない嫉妬とやっかみを受ける。
純粋に術式を研究したいだけの朔にとって、その人間関係のドロドロとしたしがらみは、クソほどだるいノイズでしかなかった。
「くっ、くくく……。相変わらず、ひどくめんどうそうな顔をしているな。お前はいつもそんな感じか」
「……めんどくさい」
素直に本音を吐露すると、直毘人はまた腹を抱えて笑い出す。
(いい加減、ガチでうるせえな……)
朔が冷ややかな視線を送っていると、笑いを収めた直毘人が、ふと、とんでもないことを口走った。
「そんなにこの家が面倒に感じるのなら……いっそ、お前が禪院家の『当主』になってみたらどうだ?」
「……は?」
あまりにも突拍子もない提案。
――なーに言ってんだコイツ。
とんでもない戯言だが、直毘人の目は少しも笑っていなかった。
だが、朔の答えは決まっている。
「興味ない」
「カッカッカ! そう言うと思ったわ!」
当主は嬉しそうに膝を叩く。
「だがな、朔よ。この家で『その術式』を持つということの意味が、お前はまだ分かっていないようだから言っておくが……お前は遠からず、当主争いという面倒事に巻き込まれる。それは自明の理だ」
当主争い。
直毘人が、息子がどうのこうのと言い始めた。
「直哉のやつも、そろそろ家に戻ってくる頃合いだしな」
「……」
――直哉? 息子? ……だれやねん。
何かしらの理由で長らく家を空けていた男が帰ってくるらしいが、朔にとってはどうでもいい情報だ。
自分には関係ない。誰が当主になろうと、自分の邪魔さえしなければそれでいい。
「まあ、その時はその時だ。……話は以上、下がってよいぞ」
直毘人がそう言って酒を煽り始めたので、朔は立ち上がり、部屋を出ようと動く。
だが、その時、ふと思いついた。
「ねえ」
「ん?」
「あの人のこと、黒焦げにしちゃったけど……僕が治そうか?」
直毘人が、意外そうな顔で朔を見る。
「あのままボロボロなのも、気分のいいものじゃないでしょ」
もっともらしい理由を口にしたが、そこに善意など一ミリも含まれていない。
ただ純粋に、今日調伏したばかりの『円鹿』の反転術式を、人間に対して使うとどうなるか、「治療実験の被検体」として使えないかと思っただけ。
「ほう……?喧嘩をふっかけてきた者を、己で治すと? ……くくく、器がでかいな、お前は」
「……別に、全くそういう意図はないんだけど」
「まぁ、必要ないだろう」
直毘人は手をヒラヒラと振った。
「奴にもいい薬になったはずだ。しばらくは寝かせておけ」
「……あっそう」
実験対象を失った朔は、小さく肩をすくめる。
(なら、しょうがない。また今度、別のを探そう)
そう呟きながら、七歳の異端児は当主の部屋を後にした。
*
扇を焼き払った騒動から、さらに数日が経過した。
部屋の中で一人、調伏したばかりの式神『円鹿』を呼び出していじり倒していた。
神々しいまでの生のエネルギーを放つ巨大な白鹿。朔は、その反転術式のアウトプット量や、自身の呪力との接続感覚、オンとオフの切り替えのレスポンスなどを細かく検証していく。
(……うん。かなり良い感じだ。大方の性能は把握できた)
円鹿だけではない。蝦蟇の舌の射程と拘束力、大蛇の奇襲スピード、鵺の帯電量。手札が増えたことで、バリエーションが爆発的に広がり、時間を忘れて没頭してしまっていた。
「……ふぁ」
あくびを一つ、噛み殺す。
いくら好きなこととはいえ、連日の夜更かしで睡眠時間はゴリゴリ削られている。
それでも朔は、自らの周囲に侍らせた式神たちを眺め、うんうんと満足げに頷いた。
(かっこいいな、やっぱり)
自らの手で組み上げ、最適化された術式という名の箱庭。
それに惚れ惚れとしていた、その時だった。
ドタドタドタッ! と、廊下の奥から遠慮のない大きな足音がこちらに向かって迫ってくるのが聞こえる。
肩に乗っていたウサギがピクッと耳を立て、その鋭敏な感覚で足音の主を特定した。
(……指南役だ)
朔の顔が、一瞬で「無」になる。
今日もまた、懲りずに朝練の参加を促し(というより強制連行し)に来たのだろう。
「はぁ……そろそろ諦めてくれないかな」
逃げても逃げても、数日経てばまた連れ出しに来る。あの大人たちの執念たるや、ある意味で尊敬に値するが、今はただただ鬱陶しい。
朔はため息をつき、式神たちを影へ還すと、自身の足元に広がる影の沼へ音もなく身を沈めていく。
「朔ッ! 鍛錬の時間だぞ、いつまで寝て……む?」
バンッ! と勢いよく襖が開け放たれた時、そこにすでに朔の姿はなかった。
抜け殻のような部屋を見渡し、指南役の男が舌打ちをする。
「……また逃げおったな! 者共、探せ! 庭の隅から蔵の裏まで徹底的にだ!」
廊下に怒号が響き渡り、血気盛んな武闘派術師たちによる、不毛な「捜索」が今日も幕を開けた。
*
大人たちの怒号を遠くに聞きながら、朔は影の中を器用に潜り抜け、こまめに位置を変えて逃げ回っていた。
現在、彼が潜伏しているのは、本家の広大な庭園の奥深く。
樹齢何百年という巨大な老木の、遥か上方に伸びた太い枝の上。
禪院の庭は無駄に植物が多く、春という季節柄、青々とした葉が生い茂っているため、下からは完全に死角になっている。
もちろん、自身の呪力は極限まで薄く、探知されないように完璧な制御も行う。
(あー、めんどくさい……)
太い枝の上に仰向けに寝転がり、木の幹に背中を預けながら、朔はぼんやりと空を見上げた。
思考の端に浮かぶのは、最近指南役の座学で聞いた、どうでもいい知識や噂話。
御三家に伝わる対領域の術式『落花の情』のメカニズムについて。あるいは、最近どこかの特級呪術師が呪詛師に堕ちて姿を消したという、きな臭い噂話など。
(まあ、僕には関係ないか……)
春の陽光が葉の隙間から差し込み、心地の良い微風が朔の頬を撫でる。
連日の夜更かしによる睡眠不足が、ぽかぽかとした暖かさによって一気に限界を突破した。
気怠げな目は自然と閉じられ、その意識は深く、心地よい闇の中へと沈んでいく。
*
どれくらいの時間が経っただろうか。
ふと、下から聞こえてきた「嘲るような男の声」によって、朔は微睡みの中から意識を引き上げられる。
「……ん、ねむい。なんだ?」
目をこすりながら、朔は枝の隙間から下を見下ろした。
自分を起こした騒音の発生源。そこには、見知らぬ男と、その男に地面へ組み伏せられ、無慈悲に踏みつけられている小さな女の子の姿があった。
(……だれあれ?)
男は、金髪で毛先だけが黒いという、禪院家には似つかわしくない派手な髪色をしていた。年齢は十代後半といったところか。
朔が彼を見るのは、これが初めて。
男は、着物姿の小さな女の子の背中を土足で踏みつけ、顔を歪めて何かひどく意地悪な言葉を吐き捨てている。
(何してんだろう?)
そんなぼんやりと疑問を抱いたが、それ以上の興味は湧かなかった。
なぜあんな小さな子が暴力を振るわれているのか。あの男は何者なのか。
そんなことより、下手に動いて見つかり、この厄介ごとに巻き込まれることの方が、今の彼にとっては大問題。
「ふぁ……」
大きなあくびを一つ吐くと、姿勢を変えて再び目を閉じる。
木の下で行われている理不尽な暴力など、彼にとってはどうでもいい些事に過ぎない。朔はあっさりと、二度寝の快楽へと戻っていった。
*
次に朔が目を覚ましたのは、それから十数分ほど経ってからだった。
「……今度は、何」
微かに聞こえてくる、女性のすすり泣く声。
再び下を覗き込むと、先ほどの金髪の男はすでにどこかへ消え去っている。
残されているのは、先ほどまで踏みつけられていた着物姿の女の子だけ。
なぜ彼女が、あんな一方的な暴力を受けていたのか。
その理由は明白。
Q.なぜ彼女は暴力を振るわれていたのか?
A.ここが禪院家だから。
女子供であろうと、呪力や才能を持たない者には、理由のある暴力も、理由のない暴力も、日常茶飯事として降り注ぐ。それがこの家の常識だ。考えるだけ無駄である。
女の子は、地面にうずくまり、泥だらけになった両手で顔を覆って声を殺して泣いていた。
踏みつけられた衝撃からか、その頬には鋭い切り傷ができ、腕や脚のあちこちにも擦り傷から血が滲んでいる。
(……どっか行ってくれないかな。泣き声、気になって寝れないんだけど)
鬱陶しそうに眺めていると、朔の脳裏に、ふと一つの情報が引っかかった。
年齢は自分と同じくらい。着物姿の少女。
(なんか、指南役のおっさんが言ってたな。出来の悪い失敗作がどうのとか、双子の女がどうのとか……)
朔は記憶の糸をたぐる。
呪術界において、双子という存在は「凶兆」として忌み嫌われる。たしか、この家にもそういう双子がいるとか、そんな話をどこかで聞いたような気がした。
(たしか、名前は……禪院、なんとか……なんとか)
……ダメだ。一つも出てこない。
内心で苦笑する。よほど興味がなかったのだろう。同い年の従姉妹である彼女の名前すら、彼の脳のハードディスクには保存されていなかったのだ。
傷だらけで、声を殺して泣いている少女。
それを見て、彼は可哀想だとは全く思わない。ただ、とても惨めで、哀れな存在だということだけは、客観的な事実として理解できた。
――別の場所に移動するか。
そう思って立ち上がろうとした、その瞬間。
朔の頭に、ある閃きが落ちる。
「——あ」
擦り傷、切り傷、そして精神的なショック状態。
目の前で泣いている少女は、これ以上ないほど「ちょうどいい」状態だった。
目的が決まれば、行動は早い。
朔は、十メートル近くある木の上から、躊躇うことなく飛び降りた。
——ズボッ。
影をクッションにして衝撃を殺した、無音に近い着地。
だが、その微かな気配に気づいた少女が、ビクッと肩を跳ねさせ、怯えた子犬のような目をこちらに向けた。
また誰かに虐められる。そう思って身をすくめる彼女の前に、七歳の少年が悠然と歩み寄る。
少女の顔の切り傷を研究者のような冷徹な目で一瞥すると、しゃがみ込み、爽やかな声で手を差し伸べた。
「——大丈夫?」
同情でも、優しさでもない。
ただ純粋な「実験対象」へのアプローチ。
それが、少女――禪院真依にとっての「得体の知れない同い年の少年」との、ファーストインプレッションであった。