影をクッションにして着地の衝撃を完全に殺し、朔は十メートル近い木の上から音もなく地面へと降り立つ。
その微かな気配に、地面にうずくまって泣いていた少女——禪院真依が、ビクッと大きく肩を跳ねさせる。
また誰かに虐められる。そう思って怯えた目を向ける彼女の前に、悠然と歩み寄り、穏やかな声で手を差し伸べた。
「——大丈夫?」
だが、真依は朔が前に出した手を取ろうとはしない。
泥と涙でぐしゃぐしゃになった顔を強張らせ、身をすくめる。
「だ、だれ……?」
擦れたような、涙に混じったか細い声が一つ、落ちた。
「……んー」
『誰』と聞かれても困る。おそらく彼女は、僕の名前などの具体的なアイデンティティを聞いているわけではない。「得体の知れない存在に対する警戒」から来る言葉だろう。
ここで自分の素性を長々と説明しても、怯えている今の彼女には意味がない。
(このまま話しても、無駄かな)
迷いは一瞬だった。
朔はあっさりと差し出していた手を引っ込めると、立ち上がった。
「手早くやろうか」
両手を胸の前に掲げ、影絵を結ぶ。
その得体の知れない動作に、少女はヒッと息を呑み、暴力を予感してギュッと強く目を閉じた。
「——円鹿」
――ポォォォ……ッ。
暴力の代わりに彼女を包み込んだのは、陽溜まりのような温かな光。
恐る恐る目を開けた真依の視界に映ったのは、神々しいまでの『生のエネルギー』を放つ、巨大な白鹿の式神。
光に抱かれた真依の身体から、痛みが嘘のように消えていく。
踏みつけられてできた腕の擦り傷が、頬の深い切り傷が、みるみると塞がり、綺麗な肌へと再生していった。
(……なるほど)
他者への反転術式のアウトプット。
対象自身の呪力が治癒を阻害する可能性も危惧していたが、全く問題なく所定の機能を発揮した。
(彼女自身が、呪術師としての才能がほとんどないからか? いや、彼女が纏っている呪力そのものが異常なほど微弱だ。……これも、双子っていう呪縛のせい?)
内心で首をひねりながら、被検体の観察を続ける。
やがて、少女の身体の傷が完全に消え去った。
朔は再びしゃがみ込むと、座り込んでいる彼女の泥だらけの小さな手を、ゆっくりと握る。
「……っ」
「問題はないね」
ビクッとする真依をよそに、朔は彼女の手の甲や腕にあった擦り傷の痕を、値踏みするように確認する。問題なく消えている。
そして次は、一番深かった頬の切り傷だ。
「ごめんね」
そう断りを入れると、真依の小さな顎にそっと手を添え、クイッと上へ持ち上げた。
「……えっ」
至近距離で見つめ合う形になる。
少女の顔が熱を帯びるが、彼の瞳にはいかがわしい感情も、思いやりの感情もない。ただ純粋に、「傷があったであろう位置」の皮膚の再生具合を、ミリ単位で凝視しているだけ。
(うん、問題ない。完璧に治ってる)
見たいものは、全て見れた。円鹿の他者治癒性能は申し分ない。
満足した朔は、あっさりと手を離して立ち上がった。
「それじゃあ、僕はこれで」
実験は終了だ。さっさと自室に帰って寝よう。
そう思って踵を返し、華麗に去ろうとした朔だったが。
「——待って」
――クィッ。
着物の袖が引かれる。
振り返ると、立ち上がった真依が、朔の手を両手でしっかりと握りしめ、引き留めていた。
――なぜに?
心底不思議そうに首を傾げた。
先ほどは自分から手を差し伸べたのに、完全に拒否された。それなのに、用が済んで帰ろうとしたら、今度は彼女の方から手を握って引き留めてくる。
(どして? わからん)
同年代の女の子の心理など、一ミリも理解できない。
振り返り、どうしたのだろうかと、覗き込むように彼女の瞳を見つめた。
「え、なに? 僕、何かした?」
真っ直ぐ見つめられ、真依は「えっと、あ、あの……っ」としどろもどろになりながら、完全に挙動不審になっている。
顔を真っ赤にして俯き、何か言葉を探しているようだが、いくら待っても一向に次の言葉が出てこない。
(どうしたらいいの、これ)
同世代とのコミュニケーションなど、朔にとっては初めての経験である。
目の前の彼女が何を求めているのか、全く見当がつかない。
いや。彼は思考を回し、一つの結論を導き出した。
(多分、明確に何か伝えたい要件があるわけじゃないのかな? なんとなく、心細かったから、立ち去ってほしくなくて手を握ってしまった、とか。……まあ、そこまで深い理由はないか。そういうことにしておこう)
朔の中で、適当な納得が完了する。
しかし、問題は「今現在、立ちっぱなしである」という事実だった。
(立ったまま待ってるの、疲れるな……)
ものぐさの極致とも言える理由から、握られている手をクイクイッと軽く引く。
「えっと、取りあえず、そこに座らない?」
そのまま、手を引いて先ほどの巨木の根元へと向かう。
少女は「うん……」と小さく頷き、引かれるがまま、素直にトコトコとついてきた。
二人並んで、木漏れ日の落ちる根元に腰を下ろす。
沈黙。
風が木の葉を揺らす音だけが、二人の間に流れていく。
(……これ、僕が何か話をするべきなのかな?)
朔気怠げに空を見上げながら考える。
しかし、彼の方から真依に対して話したいことなど、何一つとしてない。
朔がチラリと横に視線を向けると、真依はビクッとしてモジモジと身をよじり、恥ずかしそうにスッと視線を逸らしてしまう。
(人見知り、かな? ……まあ、こんな閉鎖的なドロドロした空間にいて、虐められてたりしたら、こうもなるか)
ただの被検体としてしか見ていなかった少女の境遇に、朔はほんの少しだけ、客観的な理解を示した。
そんな静寂の中。
「……ねぇ」
隣から、消え入りそうなほどか細い声が聞こえた。
「なに?」
気怠げに応じると。
真依は、自分の膝の上で小さな両手をきつく握りしめ、勇気を振り絞るようにして言葉を紡いだ。
「怪我、治してくれて……ありがとう」
それは、打算も何もない、純粋な感謝の言葉だった。
勇気を振り絞るように紡がれた、純粋な音。
朔は、隣で俯いたまま両手をぎゅっと握りしめている真依を目で見つめ相槌を返す。
「……うん、いいよ」
感謝されるほどのことをしたつもりは全くない。ただの実験であり、彼女の傷を治したのは、あくまで自己満足の結果でしかない。
だが、ここで無下にすれば、この人見知りの少女はまた泣き出してしまいそうだ。それは非常によくない。だから、飛んできた感謝の言葉は、とりあえず受け取っておく。
「名前は?」
「……まい」
「そっか。よろしく」
これ以上、何を聞けばいいのか朔にはわからなかった。「なんでここで泣いてたの?」と聞けば、当然先ほど直哉に踏みつけられていたことを思い出し、また空気が重くなるだろう。
――どうしたものかな……。
ぼんやりと空の雲を数え始めた、その時。
「——きゃあッ!」
「うお、びっくりした……」
いきなり、隣に座っていた真依が悲鳴を上げ、朔の左半身に縋り付くようにして強く抱きついてきたのだ。
急なスキンシップに目を丸くしながら、朔は真依が怯えている方向へと視線を向ける。
庭の茂みの奥。木の陰に、ドロドロとした黒い泥の塊のようなものが、這いつくばるようにしてこちらを見つめていた。
低級の呪霊だ。
(あー)
小さくため息をつく。
あまりにも弱すぎて、朔の呪力探知にすら引っかかっていなかった。人間に害を与えられるようなレベルの存在ですらない、ただの呪力の吹き溜まり。
だが、幼い真依にとっては、得体の知れない恐ろしいバケモノであることに変わりはない。
「ちょっと待ってね」
朔は、自分の服を強く握りしめている真依の頭を、ポンポンと適当に撫でて落ち着かせると、抱きついている彼女をゆっくりと引き剥がした。
そして、影絵を結ぶ。
「——円鹿」
再び、神々しい白鹿が朔の背後に顕現する。
「洗い流せ」
円鹿から放たれた強烈な『反転術式』が、一直線に低級呪霊へと照射された。
呪力のみで構成されている呪霊にとって、生のエネルギーは猛毒に等しい。
ジュワァァァッ!! という水蒸気が弾けるような音と共に、低級呪霊は断末魔の叫びすら上げることなく、一瞬にして跡形もなく消し飛んだ。
(……よし、いいね。素晴らしい)
円鹿の本領は治癒だけではない。対呪霊においては、問答無用の「消滅兵器」として機能する。初めての実戦運用だったが、その威力と効果範囲は想定以上。
(アウトプットの指向性もコントロールできる。いい感じ)
朔が自分一人の世界で術式の解釈を広げていると、隣で震えていた真依が、恐る恐る目を開けた。
「……これで大丈夫。もういなくなったよ」
淡々と告げると、真依は周囲を確認し、呪霊が消え去っているのを見て、心底ほっとしたような表情を浮かべた。
そして、朔を見上げ、恥ずかしそうに頬を染めながら。
「……また、ありがとう」
「うん」
被検体としてのテストは十分にできた。そろそろ自室に帰りたい。
そう思って、立ち上がろうとした朔の耳に、遠くから別の女の子の声が聞こえてきた。
「まーい! 真依ー!」
繰り返し、彼女の名前を呼ぶ声。
声のする方向を見やると、真依も同じように顔を上げた。
「……お姉ちゃん」
迎えが来たらしい。そういえば、双子がどうこうという話だったか。
――よし、ここだ。
帰るタイミングとしては完璧だ。
朔は立ち上がり、座っている真依の小さな背中を軽く押す。
「それじゃあ、またね。まい……ちゃん?」
一瞬呼び方に迷い、適当にちゃん付けをして肩をポンと叩く。
すると、真依は姉の方へ一目散に走り去る……かと思いきや、数歩歩いては立ち止まり、名残惜しそうにチラチラと何度も朔の方を振り返った。
――どうしたんだろう。え、なに?
朔が首を傾げていると、真依は姉の元へ向かう足を完全に止め、不安そうにこちら見つめて言った。
「また、あえる……?」
(なんでこんなにずっと不安そうなんだ、この子)
内心で呆れながらも、適当な言葉を返す。
「うん、まぁ。同じ場所に住んでるからね。どっかでまた会うんじゃない?」
当たり障りのない、社交辞令。
だが、その言葉を聞いた真依は、パッと顔を輝かせ、嬉しそうに小さく頷いた。
「また」
短く言い残し、朔も軽く手を振って走り出す。
ほんの少しのやり取り。互いが互いを全く違うベクトルで意識した、奇妙な時間だった。
「おーい! どうしたんだよ、どこいってたんだ?」
朔が立ち去ってすぐ、ショートヘアの少女——禪院真希が駆け寄ってきて、妹の手を取った。
姉妹は合流し、仲良く手を繋いで母の待つ部屋へと戻っていく。
ほんの少しの時間だったが、真依の心には、あの気怠げな少年の姿が深く刻み込まれていた。
数日前に実の父を雷で黒焦げにした男であることなど、今の少女には知る由もない。
*
なんだかんだで、夕方。
体術の鍛錬が終わり、道場から完全に人がいなくなった時間帯。
朔は、調伏の儀式を行うために第一道場の中央に立っていた。
ちなみに、儀式については「炳の立ち会いはもう不要である」と直毘人から許可をもらっている。特別一級である扇を倒したという実績が理由だろうか。何にせよ、監視役の目を気にせず自由に術式をいじれるのは、朔にとって大歓迎。
(円鹿も、ある程度性能は把握したし。次だ)
式神一体一体ともう少し向き合う時間は必要だが、円鹿については、すでに「潰す」ことは決定している。誰に継承させるかまでは未定だが。
だからこそ、別の式神をさっさと揃えたいという気持ちがあった。
今回調伏するのは、『貫牛』。
朔は両手を合わせ、牛の影絵を結ぶ。
「——貫牛」
儀式開始。
――ブモォォォォォォォォッ!!!
影がドーム状に隆起し、そこから筋骨隆々とした黒い牛の式神が、獰猛な雄叫びと共に顕現した。
(これは……なるほど、いいね)
純粋な質量と破壊力の塊。
顕現した瞬間、貫牛は前傾姿勢をとり、一直線に朔へ向かって突進してきた。その能力は「直進距離が長ければ長いほど、威力が上がる」という極めてシンプルなもの。
ドスドスドスドスッ!! と道場を揺らす重戦車の如き突進。
だが、脳への呪力集中によって思考速度を限界まで強化している朔にとっては、完全に「見えている」直線的すぎる攻撃だった。
(……問題ない)
肩に乗せていたウサギを空中に放り投げ、増殖させて道場中にばら撒く。
貫牛はウサギの群れを次々と蹴散らしながら朔に迫るが、彼は自身の足元の影にサッと潜り込み、余裕で回避する。
直進しかできない貫牛の背後に浮上した朔は、冷酷な命令を下す。
「群牙散兎ぐんがさんと囲え」
ばら撒かれた無数のキメラ兎たちが、一斉に貫牛の巨体に取り付いた。
集団で獲物を囲い込み、牙を立て、着実にダメージを与え続ける。群れで一つの巨大な獲物を食い荒らすその姿は、過酷な自然界の弱肉強食そのもの。
(もっとだ。もっとやれ)
朔はオリジナルの兎を懐に抱え込み、両手で新たな影絵を結ぶ。
「鵺」
怪鳥を顕現させ、その背に飛び乗って道場の空中へと飛翔した。
貫牛には、空を飛ぶ手段はない。
眼下でウサギに群がられ、苛立ちながら暴れ回る猛牛を見下ろし、帯電する翼に呪力を込めた。
「撃て」
――ドガンッ! ドガンッ!!
容赦のない雷撃が、次々と貫牛の背中に叩き込まれる。
――ブモォォォァァァッ!!
雷に打たれ、ウサギに肉を食われ、巨牛が悲鳴を上げて膝をつく。
(よし。これで詰み)
空からの雷撃と、地上からの無限の喰殺しょくさつ。
この一方的な蹂躙作業を数分間繰り返した末、ついに力尽きた貫牛は、ドスンと崩れ落ちて消滅した。
調伏、完了。
鵺を消し、無傷のまま道場の床に降り立つ。
「何の問題もなかったね」
一人ごち、確認のために自身の呪力で牛の影絵を結んだ。
ぽん、と。
完全に従属状態となった黒牛が、朔の目の前に大人しく顕現する。
「これは、なかなか……」
朔は、その分厚い筋肉に覆われた首筋を撫でながら、悪魔的な笑みを浮かべた。
――とても満足だ。……さてさてさて。
この式神の突進は、距離に比例してどこまで威力を出せるのか。
(ちょっと、実験してみたいところだな。まずは、限界まで走らせてみるか)
「よし、やってみよう」
この時、朔は完全に「好奇心」に支配されており、自分がいる場所が「屋内の道場である」という事実がすっぽりと抜け落ちていた。
――ブモォォォォォォォォォォッ!!!!
そんなこんなで、フル加速した貫牛が第一道場の壁を粉砕し、本家の敷地内に凄まじい轟音と土煙を巻き起こすまで、残り十秒。
その後、当主から指南役まで、いろんな大人からめちゃくちゃに怒られるのは、火を見るより明らかであり、時間の問題であった。