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あれから、さらに数週間の時間が過ぎた。
朔の生活サイクルそのものは、良くも悪くも大きく変わっていない。睡眠時間を削って術式と向き合い、鬱陶しい大人たちから逃げ回る日々。
強いて言うなら、彼の手札となる式神が『九種類』すべて揃ったことだ。
未だ呼び出すことすら許されない『十種目』を除き、現時点で調伏可能な式神は、一切の問題なく彼の手中に収まった。
「ふふん」
本家の敷地内、人目のつかない木陰に腰を下ろしながら、上機嫌で鼻を鳴らした。
九つの異なる能力を持つ式神たち。それらの性能が彼の中で咀嚼され、磨かれ、組み合わせのパターンを生み出していく。新しい発見があるたびに、朔の脳内には甘美なドーパミンが溢れ出す。
自身の成長と、術式が拡張されていく感覚。それは彼にとって、何よりも心地が良いものだ。
朔は今、目の前に顕現させている蛙の式神の頭に手を置き、静かに呪力を流し込んでいる。
最近、座学で指南役から『落花の情』という秘伝の技術を教わった。何でも、必中効果を伴う「領域展開」に対するカウンタープログラムらしい。術師も呪霊も、いまだ領域を展開するようなバケモノを見たことはないが、防衛手段として知っておいて損はない。
(とはいえ……)
ぶっちゃけた話、朔は自分自身の肉体に呪力を巡らせ、コントロールするのが非常に苦手だった。
正確には、真面目に取り組んでこなかったのだ。
本来、呪力による自己の肉体強化や操作は、式神や呪具に呪力を通すよりも難易度が低い「基礎」である。だが、朔はその基礎を完全にすっ飛ばし、いきなり「式神の強化と操作」という一つ上の段階の技術のみを磨き上げてきた。
基礎をやっていなかったが故に、いざ自身の肉体で複雑な呪力操作を行おうとすると、感覚が鈍くておぼつかない。自己の肉体強化すらまともにできない状態で、落花の情などという高度なカウンタープログラムを肉体に纏えるわけがない。
――だから、式神にやらせる。
蛙の頭に手を置いたまま、集中する。
自身の肉体ではなく、式神という外部の媒介を通して落花の情のプログラムを発動させる。それが成功すれば、いざ領域に引きずり込まれた際、自分は「落花の情を纏った蛙の口の中に隠れる」という方法で、必中攻撃をやり過ごせるのではないか。
そんな突拍子もない遠隔発動の実験は、本人の予想以上にうまくいっていた。自身の肉体よりも、式神というインターフェースを介した方が、彼の培った操作精度は遺憾なく発揮される。
(うん、もう少し調整が必要かな。ちょっと手が痛い)
頭から手を離し、軽く息を吐いて脳内の呪力を解除した。式神越しに高度なプログラムを構築するのは、やはり負荷が大きい。
最近は結界術の基礎なども学んでいるが、そちらはまだまだ実用レベルではない。才能がいる分野らしいが、まあ問題ないだろう。
深く考えるのをやめ、鹿の角が生えた蛙を影へと還した。
とてとて、と。
草を踏む小さな足音が、こちらに近づいてくる。
朔より先に、彼の肩に乗っている手のひらサイズのウサギがピクッと耳を動かして気配を察知した。しかし、それが「敵性存在ではない」と判断すると、再び目を閉じて丸くなる。
「朔くん!」
木陰の向こうから、朔の名前を呼ぶ声。
立ち上がり、振り返る。
「やっ」
朔が軽く手を上げて応えると、駆け寄ってきた着物姿の少女——禪院真依が、嬉しそうにはにかんだ。
最近、木陰で術式をいじっていると、たまに彼女がこうして一人で会いに来るようになった。
これで三回目か、四回目。週に一回程度の頻度だろうか。
なぜこんなに懐かれてしまったのか。暇なのかな?
そういえば、以前彼女を踏みつけていた金髪の男が誰なのか、最近になって判明した。
禪院直哉。当主・直毘人の息子らしい。
どこかで聞いた名前だと思ったが、どうでもいい。あの酔っ払いの息子なら、ろくな人間じゃないだろう。極力顔を合わせないように動いているため、まだ遭遇はしていないが、絶対に関わると面倒くさいタイプだ。
「こっちおいで」
手招きすると、真依はトテトテと木陰に入り、朔の隣にちょこんと座る。
「なにしてたの?」
「ちょっとね」
特に深い話をするわけではない。
だが、同年代との他愛のない交流は非常に新鮮だった。彼女にとっても、この家で対等に話せる同年代の存在は貴重なのだろう。
真依は、朔の肩で丸くなっているウサギにそっと手を伸ばし、優しく撫で始める。
(……これ、そんなにかわいいか?)
キメラの異形であるウサギを見ながら朔は内心で首を傾げるが、真依はとても嬉しそうに目を細めている。可愛いものが好きらしい。
彼女が普段、この家のどこで何をしているのか、朔は知らないし興味もない。下手に詮索してドロドロとした事情を知るのも嫌だ。
一通りウサギを撫でて満足したのか、真依は何かを思い出したようにハッとして、自分の懐に手を入れる。
「これ、みて!」
「ん?」
真依が手のひらを開いて見せてきたのは、三つの綺麗なビー玉だった。
それを見て、「ああ、なるほど」と納得する。
禪院真依の生得術式は、『構築術式』。
自身の呪力を元に、無から物質を構築する術式だ。
以前、真依が朔の式神について尋ねてきた際、お返しに彼女も自分の術式を教えてくれた。
一度作った物質は術式を解除しても消えずに世界に残り続けるという、非常に特異で面白い術式。だが、物質をゼロから構築するため、呪力の消費量が尋常ではない。ぶっちゃけて言えば、燃費がカスなのだ。
「すごいね。よくできてる」
ビー玉を指先で撫でながら言うと、真依はパァッと顔を輝かせる。
以前に彼女が術式を見せてくれた時、出来上がったビー玉はいびつな形をしていた。朔が「また今度見せてね」と適当な社交辞令を言ったのを、彼女は律儀に約束だと受け取り、完璧な球体を作れるようになるまでこっそり練習していたのだろう。
自分の術式の最適化にしか興味がなかった彼だが、真依の構築術式には、ほんの少しだけ純粋な知的好奇心を惹かれていた。
「さて」
ビー玉の鑑賞を終え、朔は立ち上がる。
すると、真依の顔から露骨に嬉しそうな色が消え、名残惜しそうな視線が朔に向けられる。
「もう、いっちゃうの……?」
週に一度会えるかどうかの時間。彼女にとっては、ここでの何気ない会話が数少ない拠り所なのだろう。
別に今すぐ帰ってもよかったのだが。
「いや。ちょっと、こっち来て」
座っている真依の手を握り、ゆっくりと引っ張り上げた。真依は不思議そうに目を瞬かせながら、大人しく朔に引かれて歩き出す。
着いたのは、本家の外れにある、今はもう使われていない古い道場の裏手。
あの日、朔が初めて脱兎を調伏した場所のすぐ裏、誰にも見つからない死角。
「ここは、どこ……?」
「前にも一回見せてもらったと思うんだけどさ」
不安そうに尋ねる真依に、朔は真っ直ぐに向き直って言った。
「もう一回、見たいと思って。モノを、作るところ」
驚いたように目を見開き、はにかむ。自分の術式に興味を持たれたことが嬉しかったのか、この時間がまだ続くことが嬉しかったのかはわからない。
真依は真剣な顔つきになり、両手を開いて胸の前にかざした。
ふっ、と息を吐き、呪力を練り上げる。
朔は、その手のひらを、そっと下から支えるように両手で包み込む。
「えっ……!」
突然の接触に真依が驚き、集まりかけていた呪力が霧散した。
「ちょっと、手伝おうかなと思って」
朔は構わず、真依の手を包み込んだまま、自身の呪力を彼女の術式起動のプロセスへと流し込む。
――君の術式はすごく燃費が悪いから、エネルギーを肩代わりしてあげる。
そう言って、真依の構築に合わせて莫大な呪力をブーストしていく。
「じゃあ、ビー玉を。やってみて」
その言葉に、真依は一つ頷き、再び深く集中した。次は失敗しないように。
重ねられた手の中で、呪力が光を帯び、凄まじい密度で収束していく。
やがて光が収まり、真依の手のひらには、先ほどと同じ綺麗なビー玉が『三つ』出来上がった。
「で、できた……!」
「…………」
嬉しそうに微笑む真依。
しかし、その工程をゼロ距離で観察していた彼の内心は、強烈な驚愕に支配されていた。
――やばすぎだろ……。
朔自身の呪力総量は並だが、それでも今回の構築には、かなりまとまった量の呪力を彼女に注ぎ込んだ。
それなのに、出来上がったのはたった『三つ』のビー玉だけ。
(……問題点は効率、かな? どうなんだろう)
構築術式というシステム自体が莫大な呪力を食うのは事実だ。しかし、燃費の悪さの一番の原因はそこではない。
原因は、真依自身の「操作技術の圧倒的な未熟さ」にあった。
呪力を物質に変換する過程で、彼女の操作のブレや無駄な力みが、膨大な『ロス』を生み出している。注ぎ込んだエネルギーのほとんどが、物質になる前に大気中へ無駄に散逸してしまっているのだ。
これでは、朔がいくら外部からエネルギーを肩代わりして注ぎ込んでも意味がない。術式を発動し、構築の設計図を組み上げるのはあくまで真依自身だ。その彼女の操作にロスがある以上、根本的な解決にはならない。
「ねぇ、どう……?」
思考の海に沈んでいた朔が顔を上げると、真依が褒めてほしそうな、少し期待を含んだ上目遣いでこちらを見つめていた。
「……綺麗だね。すごく上手だよ」
「ふふ、ありがとう!」
無邪気に笑う真依の顔を見つめながら、朔は思う。
操作の非効率さは絶望的だが、術式の概念自体は非常に優れており、使い道はいくらでもある。
(いいね。凄くおもしろい)
自身の術式とは全く違うベクトル。
朔はただ純粋に、その術式の存在を肯定していた。
*
夕方。
茜色に染まる本家の第一道場には、むせ返るような汗と血の匂い、そして濃密な呪力の残滓が充満していた。
現在行われているのは、基礎的な体術の鍛錬ではなく、術式を持つ者たちが集まって行う実戦形式の『術式訓練』である。
幼い子供から血気盛んな大人まで、禪院家の未来と武を担う術師たちが、己の術式を極めようと鎬を削る場。朔は普段、強さそのものに興味がないためこうした訓練への参加を徹底して拒否していたが、今日は自分からこの場に足を運んでいた。
調伏の儀式がひと段落し、手に入れた式神たちの「対人戦闘における性能評価」を手っ取り早く済ませておきたかったから。
「ぐぅあっ!?」
道場の中央で、野太い悲鳴が上がる。
木刀を構えて突進してきた若い術師の胴体に、凄まじい速度で叩き込まれた重い一撃。
男の身体はくの字に折れ曲がり、道場の端まで十メートル近くも吹き飛ばされて床を転がった。
彼を吹き飛ばしたのは、朔の足元の影から這い出た二足歩行の式神。
筋骨隆々とした肉体に、獰猛な虎の頭部を持つ異形の獣——『虎葬』である。
(……うんうん、なるほど)
朔は、自身の術式によって顕現した虎葬の動きを、冷徹な目で分析する。
純粋な格闘能力。呪力による肉体強化を施した大人の術師を、物理的な打撃のみで圧倒するパワーとスピード。
――悪くない、でも……。
「隙ありィッ!!」
虎葬の膂力に朔が思考を割いていたその一瞬の死角を突き、背後から別の術師が気合いの籠もった斬撃を振り下ろしてきた。
「落とせ」
バチィッ!! と、朔の頭上の空間が弾けた。
天井の梁に待機させていた怪鳥が、急降下しながら極太の雷撃を背後の術師へと叩き落とす。
「ガ、アァァァッ……!?」
強烈な電撃に見舞われ、男は全身を痙攣させてその場に崩れ落ちる。
打撃による制圧と、空からの落雷。
息一つ乱すことなく二人の術師を無力化した朔は、気怠げなため息をこぼした。
「……あんまり、強くないな」
それは、彼らに向けた言葉ではない。対人戦闘における『虎葬』と『鵺』の出力が、彼の想定していたシミュレーションの域を出なかったことに対する、純粋な落胆の呟き。
だが、道場に響いたその無自覚な煽り文句は、周囲の術師たちのプライドをズタズタに引き裂くには十分すぎた。
「群牙散兎」
朔は追撃として足元からウサギの群れを放ち、感電して倒れている術師に群がらせて完全に戦闘不能に追い込む。
(データは取れた。もういいかな)
対人での性能把握という目的は達成した。これ以上、汗臭い空間に留まる理由はない。
式神たちを影へと還し、道場の出口へと向き直った時だ。
「朔ッ! 次は俺が相手だ、構え——」
「もういい」
血走った目で名乗りを上げてきた別の術師の言葉を、朔は感情のない声で無慈悲にぶった切った。
「用は済んだので帰ります。助かりました」
それだけ言い残し、呆然とする術師たちを一瞥することもなく、さっさと引き戸を開けて道場を出て行った。
背中に突き刺さる、圧倒的な憎悪と殺意に近い視線。
このような傍若無人で他者を舐め腐った態度こそが、彼がこの家で忌避されている最大の理由なのだが意味はない。彼らの感情など、一ミリの価値もないノイズでしかないのだから。
*
茜色に染まる渡り廊下を歩きながら、朔はぼんやりと思考を巡らせていた。
(みんな、強くなるのに必死だな……)
血反吐を吐いて体を鍛え、術式を磨く大人たち。
なぜ、彼らはあそこまで「強くなること」に固執するのか。
最近になって、朔はその理由がなんとなく分かった気がした。
――彼らと僕とでは、根本的に『目的』が違う。
あの日、自分を焼き殺そうとした禪院扇は、「呪術師としての誇り」がどうこうと熱弁していた。
扇をはじめとする禪院家の人間たち、いや、世の呪術師全般にとって、呪術とは己の目的を達成するための『手段』に過ぎない。
――術式を極めることで、他者より優位に立ちたい。
――家の中で強固な立場を築きたい。
――誰かを守りたい。あるいは、呪霊を祓って金や名誉を得たい。
何かしらの明確な目的を掲げ、それを成し遂げるための道具として、彼らは呪いを用いているのだ。間違いなく、彼らは「呪いを使う者」。
だが、自分は違う。
(彼らにとっての『手段』が、僕にとっては『目的』)
術式の解釈を広げること。
呪力の効率を極限まで高めること。
十種影法術というシステムが持つ可能性を、理屈の底まで探求し尽くすこと。
その果てに、地位や名誉といった俗物的な目的があるわけではない。朔にとって、術式を極めるというその探求行為自体が、目的そのものなのだ。
呪術は彼にとって、何かを成すための道具ではない。
(僕は、決定的に
心の在り方が、呪術師という枠組みに向けて作られていない。
禪院家の人間たちが価値を感じるもの——当主の座、血統の優位性、御三家としての権力。それら全てに対して、彼は欠片ほどの魅力も感じていなかった。
『なぜ、あのような性根の腐ったガキが、十種影法術などという術式を』
すれ違う大人たちから、そんな陰口が聞こえてくる。
才能のない愚者であれば、諦めもつく。だが、あれ程までに恵まれているにも関わらずなぜ……?
『もし俺が、あの術式を持って生まれていれば』
『なぜ、お前のような奴が』
嫉妬。羨望。そして憎悪。
向けられる無数のドロドロとした感情を背中で浴びながら、朔はふと、この家の家訓を思い出した。
『禪院家に非ずんば呪術師に非ず。呪術師に非ずんば人に非ず』
(……意味がわからない。本当に何なの、これ)
呪術師としての力こそが絶対であり、それを持たない者は人間としてすら扱われない。
そんな排他的で凝り固まった思想と、朔の純粋な「研究者としてのフォーマット」は、細胞レベルで明確に合致していない。
だからこそ、この家はこんなにも息苦しいのだ。
他者の期待には応えられない。考え方が違いすぎる。
彼らが望むような「禪院家を背負って立つ術師」になど、なることはできない。
(いずれ……この箱庭から出る)
暮れ泥む空を見上げながら、七歳の異端児は、ひどく冷たく、静かな決意を胸に抱いた。
いずれ出る。そして、この鬱陶しい箱庭を、因習ごと跡形もなく壊してやる。
いつからか、朔はそう思うようになっていた。
そのためには、まだ足りない。
九つの式神を手に入れても、まだ自分の術式は「完成」していない。
最後のピース。歴代の十種影法術師の誰一人として調伏できなかった、絶対的な力を持つ最強の式神。
――早く、たどり着きたい。十種目に。
己の全てのリソースを注ぎ込み、神を地に引きずり下ろすための完璧なプログラムを構築する。
そして、全てを統べる力を手に入れた時、自分は本当の意味で自由になれるのだと。
影の中に潜む未だ見ぬ怪物の姿を思い描きながら、朔は、狂気的なまでの熱情と渇望を、その気怠げな瞳の奥に静かに燃やしていた。