もう一つの英雄譚   作:FeIron

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ルーク・ウォルフと封じられた教室
第1話


 人を殴るとき、拳を握り込みすぎてはいけない。親指を中に入れれば折れる。手首を曲げれば、自分の方が痛い。

 それから、相手が三人以上いるなら、最初に一番強そうな奴を殴ってはいけない。

 

「おい。聞いてんのか、ガキ」

 

 だから少年──ルーク・ウォルフは、目の前に立つ三人の男を見ながら、一番弱そうな男を探していた。

 場所はロンドンの裏路地。表通りから二本入っただけなのに、昼間でも薄暗い。

 雨で濡れた煉瓦。腐った木箱。壁際に積まれた空き瓶。

 ルークの少し後ろには、煤けた顔の子どもが四人、怯えた表情で固まっていた。

 

「聞いてる」

 

 答えると、ぴくりと男の眉が動いた。

 

「じゃあ金を出せ」

 

「ない」

 

「さっきパン買ってただろ」

 

「あれでなくなった」

 

「嘘つけ」

 

「本当だよ」

 

 ルークは肩をすくめた。

 

「だから帰れば?」

 

 三人のうち、右端の男が笑った。

 その男に決めた。一番若く、身体も細い。そして何より、笑う前に隣の男の顔を見た。

 こういう人間は弱い。喧嘩が弱いのではない。一人で決めることができない。判断が遅いことは喧嘩では致命的な弱点となる。

 

「……こいつ」

 

 中央の男がルークの胸倉を掴もうとすると、ルークは半歩下がった。伸びた腕を避け、そのまま右端の男へ向かう。

 

「は?」

 

 相手が声を出すより先に、鼻へ掌底を叩き込んだ。

 鈍い音。男がよろける。

 

「てめ──」

 

 膝を蹴る。崩れたところでもう一度、今度は顎。男は後ろの木箱に突っ込んだ。派手な音が路地に響く。

 一人、まず一人。

 

「ルーク!」

 

 後ろから声が飛んだ。

 振り返らない。

 

「走るな!」

 

 ルークが怒鳴る。子どもたちの足が止まった気配がした。今走れば追われる。

 三人が三人ともこちらを見ている今だけは、まだ子どもたちは獲物ではない。

 

「このガキ!」

 

 左から拳。頭を下げる。耳の上を掠める。

 痛い。でも、まだ立てる。

 ルークは男の腹へ潜り込み、そのまま身体ごとぶつかった。

 十一歳の身体では、大人を倒せない、当然だ。倒す必要はない。後ろへ二歩動かせればいい。路地裏なら空き瓶なんか腐るほど落ちている。二歩下がった男の足元にも、酒瓶。

 

「うおっ──!」

 

 踏んだ。転んだ。二人目。

 残った中央の男を見る。最初に話しかけてきた男。身体は一番大きい。目もまだ死んでいない。逃げる気もない。

 ルークは息を吐いた。左頬が熱い。たぶん切れている。相手の手にはいつの間にかナイフがあった。

 

「ガキが……」

 

「それはずるくない?」

 

「黙れ」

 

 まずい。

 ルークは喧嘩に慣れていた。殴られることにも、蹴られることにも。けれど刃物は違う。一度でも間違えれば終わる。

 逃げよう。そう決めた。

 ルーク一人なら簡単に逃げられる。足には自信があった。問題は後ろの四人だ。

 

「俺が合図したら──」

 

 そこまで言ったところで。

 

「殺してやる!」

 

 男が踏み込んだ。ナイフの先端が、自分へ向かってくる。時間が妙に遅くなった。

 銀色。濡れた石畳。男の歯。後ろで誰かが息を呑む音。

 ああ。嫌だな、とルークは思った。

 死ぬのは嫌だ。こんなところで。こんな男に。何より、自分が死んだら後ろの連中はどうなる。

 

「──触るな」

 

 誰に言ったのか、自分でもわからなかった。

 次の瞬間、火が出た。

 音はなかった。爆発でもなかった。ただ、男とルークの間に、突然炎が生まれた。

 

「ぎゃあっ!」

 

 男が悲鳴を上げた。炎は生き物のように地面を這った。男の袖へ、ナイフを持つ腕へ。慌てて振り払おうとしても消えない。

 

「な、なんだ、これ……!」

 

 ルークはただ見ていた。橙色の炎が石畳を走る。

 空き箱を焼く。紙屑を焼く。男たちの足元を取り囲む。けれど、ルークの靴の先まで来た火だけが、左右へ裂けた。まるでそこに見えない壁でもあるように。

 

「……またか」

 

 ルークは小さく呟いた。男たちには聞こえなかったらしい。三人はもう、喧嘩どころではなかった。転んでいた男を引き起こし、炎から逃げる。

 

「化け物!」

 

 誰かが叫んだ。足音が遠ざかる。

 ルークは追わなかった。路地に静けさが戻る。

 ぱち、ぱち、と。燃える木箱の音だけが残った。

 ルークが後ろを見ると四人の子どもたちがこちらを見ていた。

 

「……ルーク」

 

「怪我した奴は?」

 

 答えがない。

 

「トム」

 

「え?」

 

「怪我」

 

「あ、いや。してない」

 

「エマは」

 

「だ、大丈夫」

 

「ならいい」

 

 ルークは頬を袖で拭った。血がついた。

 

「パン、残ってる?」

 

 一番年下の少女が、小さな紙袋を抱えたまま頷いた。

 

「なら帰ろう」

 

 歩き出す。

 誰もついてこなかった。

 数歩進んで、ルークは振り返る。

 

「何してるの?」

 

 四人が顔を見合わせた。その視線が、ルークから、その背後の炎へ移る。ルークはようやく気づいた。

 

「……ああ」

 

 怖いのか、自分が。

 

「別に、燃やしたりしないよ」

 

「わ、わかってる」

 

 トムがすぐ答えた。そしてタタタと走ってすぐに隣にやってきた。ルークは少しだけ笑った。

 

「そっか」

 

 再び歩き出す。今度は足音がついてきた。それで十分だった。

 

 

 

 

 ルーク・ウォルフは、自分が普通ではないことを知っていた。正確には、六年前から知っている。

 怒ると物が壊れた。怖がると鍵が勝手に閉まった。高いところから落ちたときには、何故か地面へ叩きつけられなかった。そして時々、火が出る。

 理由は知らない。誰に聞けばいいのかも知らない。両親なら知っていたかもしれない。けれど、いない。死んだのかと聞かれれば、ルークはいつも首を振った。死んだところを見たわけではないからだ。

 五歳のある日、二人はルークを置いて家を出た。それきり戻らなかった。だからルークにとって、両親は死んだのではない。

 戻らなかった。ただ、それだけだった。

 最初の一年は待った。二年目から、待つのをやめた。待っても腹は膨れない。待っても冬は暖かくならない。待っても誰かが助けに来るわけではない。

 だからルークは、待つという行為をあまり信用していなかった。

 ──手紙についても同じだった。

 

「また来てたぞ」

 

 夕方、彼らが寝床にしている廃屋へ戻ると、年上の少年が一通の封筒を差し出した。

 

「俺に?」

 

「お前以外に誰がいるんだよ」

 

 厚手の羊皮紙。宛名は緑色のインク。そこには、かなり正確な住所が書かれていた。住所と呼べるなら、だが。

 ──ロンドン、ウェストミンスター某地区、旧印刷所跡。二階北側、壊れた窓から三番目。ルーク・ウォルフ様。

 

「気持ち悪いな」

 

 ルークは言った。

 

「だろ?」

 

「捨てていい?」

 

「俺に聞くなよ」

 

 封筒を裏返す。赤い蝋。

 大きな『H』を囲むように、獅子、鷲、穴熊、蛇。

 

「学校か?」

 

「たぶん」

 

「行くの?」

 

「金ないよ」

 

「じゃあ捨てる?」

 

「うん」

 

 暖炉代わりのドラム缶へ放り込んだ。紙が燃える。妙に上等な紙だったせいか、少しだけ惜しい気もした。

 

 そして三日後。また来た。今度は二通。

 それも燃やした。すると翌日は四通。その次の日には、窓の隙間から七通入っていた。

 

「呪われてんじゃねえの?」

 

「俺もそう思う」

 

 全部燃やした。翌朝、十三通になった。

 

「……ルーク」

 

「何」

 

「学校、怒ってない?」

 

「学校って怒るものなの?」

 

「知らねえよ」

 

 その日の午後、とうとう学校がやって来た。

 

 

 

 

 扉が三回叩かれる。廃屋に住む人間は、扉を叩かない。勝手に入ってくる。だから、その時点で全員が黙った。ルークだけが立ち上がった。

 

「ここにいて」

 

「また昨日の奴ら?」

 

「だったら扉なんか叩かない」

 

 階段を下りる。一階。腐食した鉄扉の向こうに、人影があった。

 

「誰?」

 

「アルバス・ダンブルドアという者じゃ」

 

 扉越しに聞こえた声は老人のものだった。

 

「知らない」

 

「うむ。そうじゃろうな」

 

「何の用?」

 

「君に会いに来たのじゃよ」

 

「帰って」

 

「ほう」

 

 扉の向こうで、老人が小さく笑った。

 

「それは困ったのう」

 

「俺は困らない」

 

「それも、そうじゃな」

 

 妙に素直に認められて、ルークは眉をひそめた。

 

「では、こうしようかの」

 

 老人は、まるで世間話でもするように続けた。

 

「ルーク・ウォルフ君。君が燃やした三十八通の手紙について話をしたい」

 

 ルークは黙った。

 

「……三十八?」

 

「いや」

 

 老人は少し考えるように間を置いた。

 

「四十一通じゃったな。三通は川へ捨てた」

 

「なんで知ってるの?」

 

「それを説明するために、わざわざここまで来たのじゃよ」

 

 信用できない。けれど気になる。ルークは鉄扉を少し開けた。立っていたのは、見たこともない格好の老人だった。

 長い銀髪。長い髭。半月型の眼鏡。紫色の長衣。

 どう考えても怪しい。ルークは扉を閉めようとした。

 

「おやおや。待ってくれんか」

 

「どうみても怪しいだろ。ここらでは怪しい人間と関わると次の日すら怪しい」

 

「ふむ」

 

 老人は自分の服装を見下ろした。

 

「なるほど。否定するには少々無理があるのう」

 

「警察呼ぶよ」

 

 まあこんなところには来ないだろうけど、という言葉は胸の奥にしまい込んだ。

 

「それはできれば遠慮したいところじゃ」

 

「じゃあ帰って」

 

「そうしたいのは山々じゃがな」

 

 老人の声色が、ほんの少し変わった。

 

「昨日の火事について、君に話しておいた方がよいことがある」

 

 扉を閉める手が止まった。

 半月型の眼鏡の奥から、青い瞳がルークを見ていた。責めているようには見えない。驚いているようにも。そしてなにより、怖がっているようにも見えなかった。

 

「これまでにもあったのではないかね?」

 

「何が」

 

「説明のつかんことじゃよ」

 

 老人はゆっくりと言った。

 

「腹を立てれば物が壊れた。怖いと思えば、ひとりでに扉が閉まった。ひどく困った時には、あり得ぬことが起きた」

 

「誰から聞いた?」

 

「誰からも聞いてはおらん」

 

「じゃあ、なんで知ってる」

 

「なぜなら――」

 

 老人の眼鏡の奥で、瞳がわずかに笑った。

 

「君だけではないからじゃ」

 

 長衣の内側から細長い棒を取り出す。ルークの身体が強張った。

 

「なにそれ、武器?」

 

「杖じゃ」

 

「棒じゃん」

 

「ほっほ」

 

 老人が笑った。

 

「これは手厳しい。じゃが、杖なのじゃよ」

 

 軽く振る。壊れていた街灯に、ふっと明かりが灯った。

 ルークは黙った。

 もう一度。今度は足元に落ちていた空き缶が宙へ浮いた。缶はゆっくりと回転する。老人が杖を下ろすと、今度は空き缶も落ちた。

 からん、と乾いた音。

 

「……手品?」

 

「君はなかなか用心深いのう」

 

「手品なの?」

 

「違う」

 

 老人は少し微笑んだ。

 

「魔法じゃよ」

 

 ルークは空き缶を見つめた。

 仕掛けはなかった。糸も、磁石も。そして何より、ルーク自信が知っている。ああいうことが本当に起こることを。

 

「ルーク」

 

 老人が言った。

 

「君は魔法使いじゃ」

 

 ルークは顔を上げた。

 

「魔法使い?」

 

「そうじゃ」

 

「……俺が?」

 

「うむ」

 

「なんで?」

 

「それはなかなか難しい質問じゃな」

 

「知らないの?」

 

「知らぬことと、簡単には答えられぬことは違うのじゃよ」

 

「同じじゃない?」

 

「十一歳にしては、ずいぶん厳しい採点をするのう」

 

 老人は少し楽しそうだった。

 

「そしてホグワーツ魔法魔術学校は、君のような子どもが魔法を学ぶところじゃ」

 

「全員、火を出す?」

 

「いや」

 

「物を壊す?」

 

「時にはの」

 

「空を飛ぶ?」

 

「箒を使えばな」

 

「箒?」

 

「これについては、見た方が早かろう」

 

 少し面白そうだった。

 そう思った自分が悔しくて、ルークは眉を寄せる。

 

「金は?」

 

 老人の表情が変わった。ほんの少しだけ。問いの意味を理解した顔だった。

 

「心配はいらん」

 

「いくら?」

 

「そういう意味ではないのじゃ」

 

 老人は穏やかに続けた。

 

「事情のある生徒のための基金がある。教科書も、杖も、必要な物は揃えられるじゃろう」

 

「住むところは?」

 

「学校は寄宿制じゃ」

 

「飯は?」

 

「出る」

 

「毎日?」

 

「毎日じゃよ」

 

「三回?」

 

「少なくとも三回は食べられるじゃろうな」

 

「冬も?」

 

「冬もじゃ」

 

 ルークは振り返った。二階のガラスが割れた窓から何人もの顔が覗いていた。こちらを見ている。

 目が合うと、慌てて引っ込んだ。

 

「……俺だけ?」

 

「何がじゃ?」

 

「あの学校に行けるの」

 

 ダンブルドアも二階へ目を向ける。

 

「彼らに魔法の力がなければ、そうなるのう」

 

 ルークはしばらく黙った。老人も急かさない。

 

「魔法を使える人間は」

 

 ルークが言った。

 

「使えない人間より偉いの?」

 

 その瞬間、老人の表情から、ほんの少しだけ笑みが消えた。

 

「……いいや」

 

 答えはすぐだった。

 

「それは違う」

 

「でも、俺だけ飯が食える」

 

「そうじゃな」

 

「俺だけ暖かいところで寝られる」

 

「そうなる」

 

「それって、偉いからじゃないの?」

 

「違うのじゃよ」

 

「じゃあなんで?」

 

 問い返してくると思っていた。けれど老人は黙った。

 一秒。

 二秒。

 三秒。

 

「世の中はの」

 

 やがて、ダンブルドアは静かに言った。

 

「公平であるとは限らん」

 

「…………」

 

「ある者は、生まれた時から多くの物を持っておる。別の者は、ほとんど何も持たぬ。それを能力や価値の差だと思いたがる者もおる」

 

 青い瞳が、ルークを見つめた。

 

「じゃが、それは間違いじゃ」

 

「なんで?」

 

「持っている物の多さで人の価値が決まるのなら、この世で最も立派なのは銀行ということになってしまうからの」

 

 ルークは一瞬、黙った。

 

「……銀行は人じゃない」

 

「その通りじゃ」

 

 老人は満足そうに頷いた。

 

「ならば、少なくとも一つは意見が一致したわけじゃな」

 

「誤魔化した?」

 

「少しだけの」

 

 ルークは思わず老人を見た。認めるとは思わなかった。ルークの知る大人はこういう時に認めたりせず、拳を挙げるものだった。

 

「納得できんかね?」

 

「半分くらい」

 

「十分じゃよ」

 

「十分なの?」

 

「十一歳で何もかも納得してしまっては、この先ひどく退屈じゃろう」

 

 変な老人だ。ルークは思った。

 

「でも俺、こいつら置いていかないよ」

 

 二階を指さす。ダンブルドアはそちらを見る。

 

「そうか」

 

「止めないの?」

 

「なぜ止めるのじゃ?」

 

「学校に来いって言いに来たんでしょ」

 

「来てほしいとは思っておる」

 

「じゃあ」

 

「じゃがな」

 

 ダンブルドアが遮った。声は穏やかだった。

 

「ホグワーツへ来るというのは、君の選択じゃ」

 

「…………」

 

「わしは学校について説明することはできる。魔法について教えることもできる。じゃが、君の代わりに決めることはできんよ」

 

 ルークは少しだけ目を細めた。そういうことを言う大人は、これまでほとんどいなかった。

 

「長い休暇には、ここへ戻ってくることもできる」

 

「その間は?」

 

「その間?」

 

「俺がいない間、こいつらはどうするの」

 

 ダンブルドアはすぐには答えなかった。

 

「君は十一歳じゃ」

 

「知ってる」

 

「十一歳の子どもが、他の子どもの食事や寝床まで心配する必要は、本来ならないのじゃよ」

 

「でも誰もやらない」

 

 老人の言葉が止まった。

 

「俺がやらなかったら、誰がやるの?」

 

「…………」

 

「だからやってるだけ」

 

「なるほどのう」

 

「何?」

 

「いや」

 

 老人は、ほんの少し笑った。

 

「君は、自分が彼らを守っておると思っているのじゃな」

 

「実際そうじゃん」

 

「そうかもしれん」

 

「なにそれ」

 

「では、一つだけ覚えておくとよい」

 

 ダンブルドアは二階をちらりと見る。

 

「誰かに必要とされることと、誰かを必要とすることは、案外よく似ておるものじゃよ」

 

「俺は別に──」

 

「そうかもしれんな」

 

「絶対思ってないでしょ」

 

「ほっほ」

 

「笑うなよ」

 

「すまん、すまん」

 

 ルークの言葉が響いているようには見えなかった。ルークはこの老人が少し嫌いになった。

 同時に、少しだけ、気に入った。

 

 

 

 

 アルバス・ダンブルドアは、その少年を注意深く観察していた。

 最初に目を引いたのは、髪だった。埃と煤にまみれてなお分かるほど淡い銀色で、薄暗い廃屋の中でも妙に光を拾っている。

 その下にある瞳は、さらに珍しい。白に、ごく薄く青を溶かしたような色だった。

 顔立ちも整っている。頬についた煤を落とし、伸びた髪を梳かして、身体に合った服を着せれば、今とはずいぶん違って見えるじゃろう。

 

 もっとも、ダンブルドアの注意を引いたのは、髪でも瞳でも、整った顔立ちでもなかった。

 目。十一歳の少年にしては、あまりにも人を見ることに慣れた目をしている。見知らぬ老人を前にしても、視線を逸らさない。

 怯えていないのではない。警戒している。こちらが何者で、何をしようとしているのかを、会話の一つ一つから測っているのだ。

 先ほどから、扉の前に立つ位置も変わっていない。二階へ続く階段とダンブルドアの間に、自然と自分が入る位置だった。

 十一歳、その年齢にしては少々こういうことに慣れすぎている。事前に目を通した記録も、その印象を裏づけていた。

 六年間保護者はおらず、定住先もない。それでいて、彼の周囲には常に数人の子どもがいる。

 食料を分ける。寝床を決める。危険な場所を避ける。大人との交渉まで行う。

 それだけならば、ひどく早熟な少年ということで済んだかもしれない。だが、気になることがある。彼の周囲にいる子どもたちは、ルークの判断に従う。命令されている様子はない。怯えているわけでもない。彼が前へ出れば、皆が下がる。彼が走れと言えば走り、待てと言えば待つ。

 十一歳の少年が、本人すら意識しないまま、小さな集団の中心になっている。

 そして、昨日の火事。

 ダンブルドアは既に焼け跡を確認していた。魔力の暴発。それ自体は、魔法使いの子どもには珍しいことではない。問題は規模ではなかった。

 炎の動き。火は少年から生まれた。

 そこまではいい。強い恐怖や怒りによって、幼い魔法使いが意図せぬ魔法を引き起こすことはある。しかし、炎はただ燃え広がったのではない。襲ってきた男へ向かい、ルークの周囲だけを避け、そして、彼が危険でないと判断した者たちには一切触れていなかった。

 偶然。そう片づけるには、少々出来すぎている。

 だが一度見ただけで結論を出すほど、ダンブルドアは若くなかった。少年自身も、どうやら自分の魔法を理解してはいない。

 ならば今は、それでよい。学ぶべき時に学ばせればよい。何者なのかを決めるのは、その後で十分だった。

 

「で」

 

 ルークの声で思考が途切れた。

 

「ホグワーツに行けば、魔法の使い方がわかるんだよね?」

 

「そうじゃ」

 

「火も?」

 

「少なくとも、何が起きておるのかを知る手助けにはなるじゃろう」

 

「じゃあ行く」

 

 あまりにもあっさりした返事だった。ダンブルドアは片方の眉を上げた。

 

「ほう」

 

「何?」

 

「いや。もう少し悩むかと思っておったのでな」

 

「なんで?」

 

「知らぬ場所へ行くのじゃぞ」

 

「うん」

 

「知らぬ者ばかりがおる」

 

「うん」

 

「怖くはないのかね?」

 

 ルークは本当にわからないという顔をした。

 

「ここだって、最初は知らない場所だったよ」

 

 ダンブルドアは少年を見る。

 

「それに」

 

 ルークは肩をすくめた。

 

「嫌だったら戻ってくればいいんでしょ?」

 

「もちろんじゃ」

 

「なら別にいい」

 

「……なるほど」

 

 ダンブルドアは髭の奥で笑った。

 

「君はなかなか面白い考え方をする」

 

「普通じゃない?」

 

「普通というものほど、当てにならん言葉もないからの」

 

「また誤魔化してる?」

 

「さて、どうじゃろうな」

 

「絶対そうじゃん」

 

 ルークは呆れたように言った。それから、燃やさずに残っていた一通の封筒へ目を落とした。

 

「俺、待つの嫌いなんだ」

 

「ほう?」

 

「来るかわからないものを待ってるのって、馬鹿みたいだから」

 

 封筒を拾う。

 

「だったら、自分から行った方が早い」

 

 ダンブルドアは、何も言わず、ただ少年を見た。

 ルークは気づかない。その言葉が、十一歳の子どものものとしては、あまりに重いことに。

 待っても戻らなかった人間がいる。だからこの少年は、待たない。望むものがあるなら取りに行く。道がなければ探す。なければ、自分で作ろうとする。

 それは強さになるだろう。しかし同時に。いつの日か、その強さゆえに、立ち止まることが難しくなるかもしれない。

 

「それじゃ」

 

 ルークは手紙を裏返した。

 

「うむ」

 

 ダンブルドアが頷く。

 

「読んでみるとよい」

 

「燃やしたら?」

 

「できれば、四十二通目を出す手間は省かせてもらいたいものじゃな」

 

 ルークは老人との会話の中で初めて笑った。

 ホグワーツから届いた手紙を、自分の手で開いた。

 

「じゃあ」

 

 羊皮紙を広げる。

 

「魔法使いになりに行こうか」

 

 ダンブルドアは何も訂正しなかった。

 君はすでに魔法使いじゃよ、と、本来ならば、そう言ったかもしれない。

 だが、少年が言った「魔法使い」という言葉が、単に魔法を使える者を指していないことを、なんとなく察したからだった。

 

 この日、ルーク・ウォルフは魔法界へ足を踏み入れた。

 後に彼を知る者たちは、この少年について、様々な言葉を口にすることになる。

 

 優秀な生徒。

 厄介な問題児。

 頼りになる友人。

 危険な魔法使い。

 

 ある者は彼を恐れ。

 ある者は彼を信じた。

 そして彼自身もまた、自分が何者なのかを知るために、長い時間を費やすことになる。

 

 けれど、そんな未来を、この時のルークは知らない。十一歳の少年にとって重要だったのは、魔法界の歴史でも、自分の生まれでも、ましてや、自分が将来何者になるかでもなかった。

 

 ただ一つ。

 目の前に、自分の知らない世界へ続く扉がある。ただそれだけだった。ルークは四十一通目の手紙を握りしめる。

 

 待つのは嫌いだった。だから、自分から、その扉を開けることにした。




2026/09/22 加筆修正
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