トムは最後まで話を聞かなかった。
「じゃあ、俺がやる」
木箱に腰かけたまま、膝の間で両手を組んでいた。ルークが学校の場所も、いつまで留守にするのかも知らないと言った、その途中だった。
「まだ何を頼むか言ってない」
「同じだろ。お前がいない間、俺がやる」
倉庫の高い窓から、西日が差していた。
床にはほこりと古い藁がたまり、壁際に毛布が重ねてある。雨漏りする場所を避けて寝るうち、全員の寝場所が片側へ寄った。反対側は空いているのに、誰も使わない。
トムは顎を上げた。
「飯を集めて、ちびどもが変なとこに行かないように見てりゃいいんだろ」
「それだけじゃない」
「分かってる」
返事が早い。ルークが隣の木箱に座った。木箱は片脚が少し短く、いつも体重をかけるとグラグラする。座ると無意識のうちにグラグラさせてしまうのがルークの癖だった。
普段ならトムがそれを笑う。しかし今日は下を見たままだった。その様子を視界の隅に入れながら、喋りかける。
「市場の裏、木曜は行くな」
「魚屋の親父がいるからだろ」
「親父じゃない。息子だ。親父は怒鳴るだけだ」
「……そうだった」
トムは靴の先で床をこすった。
「パンは、小さい子から先に渡せ。残りを見せてから選ばせると喧嘩になる」
「知ってる」
「雨が続いたら、奥の毛布も動かせ。壁から水が染みてくる」
「知ってるって」
ルークは口を閉じた。
外で車輪の軋む音がした。誰かが荷車を引いているらしい。二人とも、開け放した戸口を見た。
やがてトムが言った。
「ほかには」
ルークはトムの組み合わされた指へ目を落とした。爪の端が白くなっていた。
「……具合の悪い奴がいたら、飯が食えるか聞くな。食ってるとこを見ろ」
「なんで」
「食えるって言うからだ」
トムは少し考えて、うなずいた。
戸口から、小さな女の子が顔を出した。両手で抱えた紙袋に、油の染みが広がっていた。
「これ、もらった」
トムが立ち上がった。
「こっち持ってこい。みんな呼んで」
「ルークに渡すんじゃないの?」
一瞬、トムがこちらを見た。しかしルークは動かない。
女の子もルークを見たが、やがて戸惑いながらもトムのところへ袋を運んだ。中身には端の焦げた焼き菓子。割れた物が多く、人数分には足りない。
トムは袋の中をのぞき、それから集まってきた子どもたちを数えた。
「でかいのは半分な」
「俺、それがいい」
「待てって。まだ配ってないだろ」
ルークは、袋ごと床に置いたほうがやりやすいと言いかけた。
トムが自分でしゃがんだのを見て、口を閉じ、ルークは木箱から腰を上げた。
「ちょっと出てくる」
「飯までには戻れよ」
トムは焼き菓子を割りながら言った。
それは、いつもルークが言っている言葉だった。
三人を見つけるのに、それほど時間はかからなかった。
酒場の裏口近くに、割れた椅子が二脚置かれていた。三人目は壁にもたれ、腕を組んでいた。こちらを見た途端、その腕がほどけた。
「お前──」
「話がある」
ルークは足を止めた。三人へ近づきすぎない位置を選んだ。背後の路地は空いている。酒場の扉は閉まっていた。
椅子に座っている一人が腰を浮かせる。
「そこで聞け」
右手で制しながら、ルークが命令すると、男は腰を浮かせたまま止まり、浅く座り直した。
ルークがさらに右手を少し上げた。
昨日、あの老人に会ってから、何度も試していた。手を握ったり、開いたり。以前、あの熱が込み上げてきたときのことを思い出したり。けれど、今も何も起きなかった。
「なんだ、その手は」
男の口元が緩む。目元が歪み、何も起こらないことに確信を持とうとしているようだった。
深呼吸をする。指先が熱い。そこまでは来ている。逃がすな。もう少し。
ピクリと指先が動く。人差し指の先に、火がともった。蝋燭ほどの、小さな炎だった。しかしその火を見て男の口が閉じ、またあの日のような怯えた表情をする。
ルークは炎を見ない。見れば自分まで驚いた顔をしてしまいそうだった。
「しばらく、ここを離れる」
三人とも返事をしない。僅かにルークとは反対方面に体が向く。
「俺といた子どもらは残る。あいつらに手を出すな。物も取るな。誰かに言ってやらせるのも同じだ」
「も、もう関わる気はねえよ」
壁際の男が言った。
「ほかの奴が来たら追い払え」
「は?」
炎が大きく揺れた。指の腹がひりひりする。
ルークは顔を動かさず、ゆっくり手を握った。消えてくれたことに、ほっとした。
「聞こえただろ」
「待てよ。なんで俺たちが、あんなガキどもの──」
ルークは握った手を、もう一度開きかけた。男が口を閉じる。
「近づいて恩を売るな。お前らが世話するんじゃない。変な奴がうろついてたら追い払う。それだけだ」
三人が顔を合わせる。三つの顔の間で視線が行き来した。アイコンタクトでどうするか決めかねているようだった。ルークは待った。早く返事をしろと言いたかったが、言わなかった。
やがて、覚悟を決めたようにリーダー格の男がクチュを開く。
「俺たちと関係ねえところで、何かあったらどうすんだ」
「何もないように見てろ」
「ずっと見張れってのかよ」
「この辺にいるだろ、いつも」
男は口を開き、また閉じた。文句を言いたげな表情だったが、恐怖心が勝ったようだった。
ルークは一人ずつ顔を見る。
「あいつらには、週に一度、手紙を書かせる」
届け方は、まだ知らなかった。しかしそんなことはおくびにも出さない。あの老人に聞けばいい。四十何通も訳のわからない方法で手紙を送りつけてきたのだ、学校に手紙を送るくらいは訳ないことだろう。
「手紙が来なくなったら、最初にお前らを探す」
酒場の中から、笑い声が漏れた。こちらでは誰も笑わない。
「それと、俺が来たことは言うな」
ルークは手を下ろした。
「分かったか」
リーダー格が最初にうなずき、残る二人も、それに続いた。
その表情をみて、背を返し、その場を立ち去る。角を曲がるまで、ルークは歩く速さを変えなかった。
三人の姿が見えなくなってから、右手を開いた。指先が赤くなっていた。息を吹きかけると、かえってひりひりした。
「……熱いんだな」
小さくつぶやいた。
後ろから足音はしなかった。
もう一つ角を曲がり、それでも誰もついてこないことを確かめてから、倉庫へ戻った。
トムが、戸口に座っていた。
「遅い」
「まだ明るいだろ」
「飯までに戻れって言った」
隣には、欠けた皿が置いてあった。
焼き菓子が一つと、小さな欠片が二つ。
「俺の?」
「ほかに誰がいるんだよ」
少し驚いた表情をしながらルークは皿を拾った。
倉庫の中では、子どもたちが毛布を広げていた。誰かがふざけて足を引っかけられ、怒っている。トムが振り返って一声かけると、二人とも静かになった。
ルークは戸口の反対側にある椅子に座った。この椅子もグラグラする。口に運んだ焼き菓子は固く、焦げたところが苦かった。
「みんな食ったのか」
「食った」
「お前は」
「食ったよ」
ルークが見ていると、トムは顔をしかめた。
「本当だって」
クスリと笑顔をこぼし、ルークは視線を外した。
通りを女が歩いていった。大きな籠を腕に下げ、二人を見ることもなく角を曲がった。空はまだ明るかったが、建物の間にはもう日が入ってこない。ルーク達のいる空間には冷え冷えとした空気が入り込んできていた。
「週に一回、手紙を書けよ」
トムが顔を向けた。
「誰に」
「俺に」
「学校に?」
ルークはうなずいた。
「どうやって送るんだよ」
「明日、聞く」
「あのじいさんに?」
「ああ」
トムは靴底についた泥を、戸口の段差で削った。
「……俺、まだ書けない字がある」
「書き方は教えただろ。分かる言葉で書けばいい」
拾った本と看板を見比べながら自分で覚えた字を、ルークは子どもたちにも少しずつ教えていた。
「何を書くんだ」
「何でも。飯のこととか。誰かと揉めたとか」
「揉めてない週は?」
「揉めてないって書け」
「それだけ?」
「それだけでもいい」
トムはしばらく黙っていた。
「お前も書くのか」
ルークは最後の欠片を口へ入れた。飲み込んでから答える。
「書く」
「じゃあ、難しい字は使うなよ」
「読めなかったら、次の手紙で聞け」
トムは鼻を鳴らした。
「学校に行くのはお前だろ。なんで俺まで勉強すんだよ」
今度はルークが笑った。
少し遅れて、トムも笑った。
翌朝、ダンブルドアが来たとき、ルークは小さい子の靴紐を結び直していた。
長いローブが戸口に影を落とし、子どもたちの声がやんだ。老人は少し頭をかがめて中をのぞいた。
「おはよう。迎えに来たんじゃが、少々早かったかの」
「行ける」
ルークは立ち上がり、ぱんぱんと誇りを払う。ルーク達は所有物というものがほとんどない。だから持っていく物は、ポケットに収まる程度で、身一つで行動できた。
「その前に、聞きたいことがある」
「何かね」
ルークは戸口まで歩き、声を落とした。
「あいつらから、手紙をもらいたい。週に一回」
「うむ」
「ここには住所がない。それに普通の郵便じゃ、あんたの学校にも届かないんだろ」
ダンブルドアはルークを見た。それから、奥の子どもたちへ目を向けた。その表情は柔らかい。
「決まった日に、ふくろうを寄越すよう手配しよう。返事を預けられるようにな」
「鳥に?」
「手紙を運ぶのは得意じゃよ」
「……噛まないか」
ふ、と笑みを浮かべ、答える。
「礼儀正しいのを頼んでおこう」
ルークは悩むそぶりを見せ、少し間を空けて答える。
「あいつらにも、やり方を教えてくれ」
「もちろんじゃ」
振り返ると、トムがすぐ近くに立っていた。どこから聞いていたのか、眉を寄せている。
「ふくろうって、あのふくろう?」
「そうらしい」
トムは老人を見上げた。ダンブルドアは真面目な顔でうなずく。
「……変な学校だな」
「俺もそう思う」
奥で、小さい子が笑った。ルークはそちらをチラリとみて、再度トムを見た。
「今日、戻る。買い物だけだ」
「分かってる」
「もし遅くなったら──」
「先に食ってる」
言葉を取られて、ルークは口を閉じた。
トムは昨日より少しだけまっすぐ立っていた。靴紐を結んでもらった子が、その袖を引っ張っている。
「行ってこいよ」
ルークはうなずきかけ、それから言った。
「留守、頼む」
トムの口元が動いた。
「おう」
ダンブルドアが先に通りへ出た。続いてルークも戸口をまたいだ。
後ろで、トムが子どもたちを呼び集める声がした。
「ほら、靴履け。市場に行くぞ」
ルークは振り返らず、老人の隣へ並んだ。
「買う物に、紙も入ってるか」
「羊皮紙なら入っておる」
「普通の紙は」
「手に入るじゃろう。何に使うのかね」
「手紙」
老人は歩調を緩めずに、うなずいた。
「では、忘れずに買わねばの」
ルークはポケットの中で、赤みの残る指先を親指に押しつけた。もう、昨日ほどは痛まなかった。
ダンブルドアが足を止めたのは、小さな薄汚れたパブの前だった。つられてルークも足を止め、吊り下げられた看板を見上げる。
「漏れ鍋?」
「ここじゃ」
「買い物に来たんだろ」
「そのつもりじゃよ」
老人は扉を開けると、当然のように中へ入っていく。
ルークは左右を見た。通りを歩く人々は、長いローブを着た老人にも、この店にも目を向けない。一人の男など、こちらを避けながら歩いたのに、その視線は隣の店へ向いたままだった。
少し迷ってから、老人の後を追って扉をくぐった。
中は外から見た以上に薄暗い。酒と煮物の匂いが混ざり、奥では暖炉に火が入っていた。
空いたテーブルがいくつもある。隅に座った二人が小声で話していたが、扉の音に気づくと口を閉じ、店の中の顔が一斉にこちらを向く。
「ダンブルドア先生!」
カウンターの向こうから声がした。
店主らしい男が布巾を置き、こちらへ出てくる。その声を聞いて、隅の二人も肩の力を抜いた。
「お久しぶりです。何かお飲みに?」
「今日は買い物でな。また今度、ゆっくり寄らせてもらおう」
「それはぜひ。……そちらのお坊ちゃんは?」
男の視線がルークへ下りた。
ルークは少し顎を上げる。睨むわけではない。しかし見つめてくる目をじっと見返していた。
彼を見る目は靴から顔までゆっくりと観察している。慣れてはいても気持ちのいいものではない。次に何を言われるのか待ったが、男はただ不思議そうにダンブルドアに顔を向けるのみだった。
「ワシの古い友人の子じゃよ」
とっさに老人の顔を見る。ダンブルドアがこちらの表情をみていないことを確認し、驚いた表情を隠して心を落ち着かせるように一息ついた。
「今年からホグワーツへ通うのでな。今日はその支度じゃ」
「それはそれは。先生自らご案内とは」
近くの席にいた魔女が顔を向けた。
「先生、学校のほうは……」
そこまで言って、ルークを見る。
「新学期の支度を進めておるよ。例年どおりにの」
「そうですか」
魔女はうなずいた。その手が、卓上のカップへ伸びる。何かを確かめられて安心したようだった。
ダンブルドアはほかの客にも挨拶を返し、店の奥へ足を進める。ルークはその隣で、老人と客の顔を交互に見ながらも、ついていくしかなかった。
小さな裏庭へ出る。背にした扉が閉まるのを待ってから、ルークは尋ねた。
「さっきの、どういう意味だ」
ダンブルドアが振り返った。惚けた表情をしているのを見て、言葉を続ける。
「友人って。俺の親を知ってるのか」
「ご両親には、会ったことがある」
あまりにあっさり答えたので、次の言葉が一瞬出てこなかった。
「……父さんと、母さん、両方か」
「うむ」
「じゃあ、どこに行ったかも知ってるのか」
老人はすぐには答えなかった。ルークはその顔を見た。店の中で浮かべていた笑みは、もうなかった。
「君が聞きたいことは、買い物のついでに話してよいことではない」
「ついででいい」
「ルーク」
穏やかな声だった。それでも、先を続けさせない響きがあった。
「その話をする時間は、改めて取ろう」
ルークは口を結んだ。
答えたくないとき、大人はよくそう言う。今じゃない。そのうちに。また今度。そう言った大人が、その後答えてくれたことはない。
「忘れんなよ」
「覚えておく」
老人から目を離さないまま、ルークは一歩下がった。
ここで何度聞いても、返事は変わらないらしい。そういうときの顔も、知っていた。
ダンブルドアが壁へ向き直り、こほんと一回咳き込む。
「では行くかの。開け、ごま」
ふざけたセリフの後、杖で煉瓦を叩く。乾いた音がする。
なんていい加減な老人だ、とルークがその仕草を少し呆れながら見ていたが、その煉瓦が、動いた。
思わず足を止まる。一つが奥へ引っ込み、隣の一つが横を向く。煉瓦が次々とずれていき、さっきまで隙間もなかった壁に、人の通れる穴が開いていった。
穴の向こうから、車輪が石を踏む音がした。紙包みを抱えた魔女が、開いた壁を見もせず通り過ぎていく。
ルークの足が自然と前に進んでいた。
視界の先には石畳の通りが、奥へ長く続いていた。両側には店がぎっしり並び、曲がった看板がいくつも突き出している。軒先には大きさの違う鍋が積み上げられ、その向こうでは籠の中のふくろうがこちらを見た。店の窓に積まれた本が、ひとりでにページをめくられる。隣の店先では、銀色の器具が細い煙を吐いていた。煙は途中で輪になり、小さく縮んで消える。また新しい輪ができた。
「今の、どうやって──」
言いかけて、隣を見ると、ダンブルドアは店先ではなく、ルークを見ていた。目尻が緩んでいる。ルークが何か言うのを、急かさず待っていた。
ルークは口を閉じ、前へ出ていた身体を戻した。背筋を伸ばし、少し顎を上げる。
「……どこから行くんだ」
「まずは必要な物を確かめようかの」
老人は何も指摘しなかった。それがかえって面白くなく、ルークは煙から目を外した。
そこでようやく、店先を見ているのが自分ばかりだと気づいた。人はいる。それなのに、通りに立ち止まっている者が少ない。
すれ違う魔女は買った物を胸へ抱え、ローブの裾を忙しなく揺らして歩いていく。子どもが窓へ近づこうとすると、母親らしい女がその手を引いた。
「今日はそれだけ。早く帰るわよ」
子どもは不満そうにしたが、逆らわなかった。
店の扉が開くたび、中にいた客がそちらを見た。通りの先には、昼間なのに鎧戸を閉めた店がある。その隣では店主が品物を外へ出さず、入口の内側から客を呼んでいた。
ルークはダンブルドアの歩く速さに合わせた。足早に歩く人々の中で、老人だけが特に急ぐ様子もなく歩いている。
向こうから来た男が、不意に足を止めた。
「ダンブルドア先生」
脇に抱えた包みが傾き、男は慌てて押さえ直した。さっきまでは前の人間を追い越そうとしていたのに、今は道の端へ寄り、老人へ手を差し出している。
「お会いできるとは。今日は学校から?」
「この子の買い物に付き合っておってな」
男はルークを見た。意外そうに眉が上がる。
「そうでしたか。お忙しいところ、失礼しました」
握手を終えても、男はすぐには立ち去らなかった。
「先生がいらっしゃるなら……」
言葉を切り、もう一度ダンブルドアの手を握る。
「どうか、お気をつけて」
「君もな」
男は頭を下げて歩き出した。数歩離れると、また元の速さに戻っていく。ダンブルドアとルークはその背中を見送った。
「あんた、有名なのか」
「長く教師をしておると、知り合いも増えるものでな」
「さっきの店でも、みんな知ってたぞ」
「宿題を多く出しすぎたかもしれん」
ルークは思わず老人を見た。ダンブルドアは涼しい顔で歩いている。
「あいつ、急いでたのに」
「うむ?」
「あんたのために止まった」
ダンブルドアは少しだけ笑った。肯定も否定もしない。
ルークは通りへ目を戻した。
「なんでみんな、そんなに急いでるんだ」
「家で待っている者がおるのじゃろう」
「全員か?」
目の前の店から出てきた魔女が、一度左右を見てから歩き出す。
ルークはその女を顎で示した。
「あれも、ただ帰りたいだけか」
ダンブルドアは女の去ったほうを見た。
「……近頃は、外で長居をしたがらない者が増えておる」
「何かいるのか」
「人を脅し、傷つける者たちがな。家族と連絡が取れなくなった者もおる。誰を信じてよいか分からず、不安に思うのも無理はない」
「捕まえればいいだろ」
「そうできるよう、働いている者もおるよ。ただ、簡単にはいかん」
ルークは老人の横顔を見た。
誰なのかは言わない。どこにいるのかも、何人いるのかも分からない。それでも、通りの人間が何を気にしているのかは理解できた。
「絡まれる前に帰りたいってことか」
「それだけでは済まぬこともある」
「だから、一人になるなって?」
ダンブルドアがルークへ視線を下ろした。
「そうじゃな。それも大切なことじゃ」
ルークはうなずいた。
大人が子どもの手を離さない理由も、入口を気にする客の目も、知っているものだった。ここには勝手に動く本や、手紙を運ぶ鳥がいる。それなら何か違うのかと思ったが、道を歩くときに気をつけることは、ロンドンの裏路地と大して変わらないらしい。
「魔法が使えても、そんなもんか」
老人の視線が、少し長くルークの顔に留まった。
「慣れてよいことではないのじゃがな」
「慣れないと、毎日困るだろ」
ルークはそう答え、老人から路地に視線を移した。
「で、服はどこで買うんだ」
少し物寂しそうな顔をしたダンブルドアは一拍置いてから、先の店を示した。
「金はないぞ」
必要な物の一覧を広げられて、ルークは最初にそう言った。
ローブ。教科書。大鍋。天秤。知らない名前の物まである。紙は欲しいと言ったが、これ全部を買えるとは言っていない。
「学校に、学用品を買うのが難しい生徒のための基金がある」
「そこから借りるのか」
「返す必要はない。ただし、いくつかは中古になるじゃろうな」
「使えればいい」
ダンブルドアはうなずき、どこかからか小さな革袋取り出し、手渡してきた。受け取ると、見た目より重い。口を開くと、中で金銀銅の硬貨が重なっている。
「君の支度に使う金じゃ」
ルークは袋の口を閉めた。
「全部、俺が持ってていいのか」
「店で払うたびに、わしを探すのも面倒じゃろう」
ルークは革袋をポケットの奥へ入れた。歩き出してからも、上から一度押さえる。
ローブの店では、台の上に立たされた。
店の魔女が肩へ手を伸ばし、ルークは反射的に身体を引いた。
「動くと測れないわよ」
責めるような声ではなかった。魔女は巻尺を見せ、それからもう一度手を伸ばした。今度は動かなかったが、首の後ろを測られる間、ルークは店の奥の鏡を見ていた。
黒いローブを合わせられる。肩も袖も、まだ途中なのに、いつもの服とは違って見えた。
「少し余裕を持たせましょうね。これから伸びるでしょうから」
「もっと長くてもいい」
「歩くたびに踏んでしまうわ」
「折ればいいだろ」
魔女はルークの足元を見て、それから顔へ視線を戻した。
「折らなくていい長さにするのが、私の仕事なの」
諭すような言葉にルークは黙った。入口近くで、ダンブルドアが棚の帽子を眺めている。聞こえていたはずだが、何も言わない。
採寸を終えて台を下りると、魔女は仕上がりを待つ間にほかの買い物へ行ってよいと言った。
「今日は早めに閉めますから、それまでにお願いしますね」
ルークは受け取った控えの紙を二つに折り、金とは別のポケットへしまった。
次の店では、本を選んだ。中古の棚は、表紙の色も大きさも揃っていない。角の潰れた本を一冊取り、途中を開く。余白に誰かの字があった。
そのまま何枚かめくって、抜けたページがないか確かめた。
「何か気になるかね」
「ここ、書いてある」
ルークが余白を示すと、ダンブルドアがのぞき込んだ。
「前の持ち主の覚え書きじゃな。必ず正しいとは限らんが」
ルークは本文と書き込みを見比べた。
「間違ってるのか」
「君はどう思う?」
「まだ分からない」
「では、授業で確かめられるの」
ルークはそのページの端を指で押さえた。知らない言葉がいくつも並んでいる。読めても、何を指しているのか分からない物もあった。
少し迷ってから本を閉じ、買うほうの山へ置いた。
外で、何かが倒れる音がした。
近くの客が顔を上げる。ダンブルドアも入口へ目を向けた。通りの向こうで、荷車から落ちた鍋を男が拾っている。
店員が小さく息を吐き、帳面へ視線を戻した。
ルークも本へ目を戻した。大きな音がすれば、何が起きたか確かめる。それも、いつもどおりだった。
杖の店の窓には、一本だけ杖が飾られていた。
ルークは看板の文字を読み、それから窓の奥をのぞいた。暗くてよく見えない。ダンブルドアが扉を開けると、小さな鐘が鳴る。
細長い箱が棚の上まで積まれていた。奥にも、そのまた奥にも箱がある。通れる隙間は狭く、ルークは荷物を身体へ寄せ、縮こまりながら奥へ進んだ。
「これはこれは、ダンブルドア先生」
棚の間から声がした。
思わずルークが顔を向けると、淡い色の目をした男が立っていた。いつからそこにいたのか分からない。少しの警戒がルークの中に走る。
「久しぶりじゃの、ギャリック。今日は、新しい生徒の杖を頼みに来たのじゃ」
「ええ。そのようですね」
男の目がルークへ移った。
「お名前は?」
「ルーク・ウォルフ」
ダンブルドアが親しげに会話を交わすのを見て、すこし警戒心を解き、名前を答える。
「杖を持つのは、どちらの手ですか」
ルークは右手を少し上げた。
男──オリバンダーは、その手へ目を留めた。指先にはまだ薄く赤みが残っている。
何か聞かれるかと思ったが、男は巻尺を取り出しただけだった。
「腕を伸ばしてください」
肩から指先まで測られる。ローブの店で済ませたばかりなのに、ここでも測るらしい。途中から巻尺が勝手に動き始め、ルークは腕を引きかけた。
「そのままで結構」
もうこちらを見てすらいない。オリバンダーは棚へ向かっていた。
「……どこまで測るんだ」
「必要なところを」
気づけば姿すら見えず、返事だけが箱の間から戻ってきた。
ダンブルドアを見ると、壁際の椅子に座っていた。こちらを助ける気はなさそうだった。
やがてオリバンダーは箱を三つ持って戻った。巻尺が床へ落ち、ルークはようやく腕を下ろした。
「まずは、こちらから」
一つ目の蓋が開く。
「ブラックソーン。ドラゴンの心臓の琴線。十三と四分の一インチ。やや硬めです」
ルークは差し出された杖を受け取った。
思ったより長い。握り直し、先を少し上げる。
「軽く振ってみてください。そう、そちらへ」
人のいないほうへ向け、手首を動かすと、杖先から乾いた音がした。赤い火花が二つ飛び、カウンターの手前で消える。
杖を見て、もう一度振ろうとしたところで、オリバンダーが手を差し出した。
「なるほど。では、次を」
「今、出たぞ」
「ええ。見ていましたよ」
「これじゃないのか」
「ほかも試しましょう」
ルークは少し迷ってから返した。
使えるなら、それでいいような気もした。けれどオリバンダーは火花の飛んだ場所を気にすることもなく、次の箱を開けている。
「黒檀。同じくドラゴンの心臓の琴線。十三と四分の一インチ。こちらもやや硬い」
二本目は黒い杖だった。
指をかけると、今度は握ったところがわずかに温かくなった。
ルークはさっきと同じほうへ向け、振った。杖先に赤い光が走る。火花は散らず、細い筋を残して消えた。
先ほどより動かした手についてくる感じがあった。ただ、止めるときに少し力が入る。ルークは親指の位置を変えた。
その指をオリバンダーがじっと見つめる。
「どうです?」
「さっきよりは」
「ええ。私もそう思います」
男は三つ目の箱へ手を置いた。
「もう一本」
ルークは黒い杖を返した。
「スギ。ドラゴンの心臓の琴線。十二と四分の三インチ。適度なしなりがあります」
受け取った瞬間、ルークは手を止めた。
何も光ってはいない。音もしない。けれど、今度は握り直さなかった。
指を閉じたところに、そのまま収まっている。手の中の重さを確かめようと少し動かすと、先も思ったところへ向いた。
ルークは杖先を見た。
昨日は火を出すために、息を止め、指先の熱を逃がさないよう必死になっていた。今は、そこまで力を入れなくていい気がした。
ゆっくり手首を動かす。
杖の先に、橙色の光がともった。それは短い弧を描いて広がり、細かな火の粉になって、床へ届く前に消えていった。ルークは最後の一つが消えるまで見入っていた。今度は指は熱くなかった。
「……これだ」
確信する。それを声に出してから、オリバンダーを見た。
「これがいい」
男は口元を緩めた。
「そのようですね」
ルークはもう一度、自分の手を見る。
三本とも同じような棒だった。長さは少し違ったが、それだけでこんなに変わるとは思わなかった。
「何が違うんだ」
「木も、芯も、一本ごとに違います。そして、それを握る人も」
オリバンダーは空いた二つの箱へ蓋をした。
「スギは、よく物を見る人の手に収まることが多い。目がいいというだけではありませんよ」
ルークは顔を上げた。
「人の仕草や、言葉にされなかったことにも気づく。そういう人です」
トムの組み合わされた指が、ふと頭に浮かんだ。ルークは答えず、杖を持つ手へ視線を戻す。
オリバンダーは蓋を閉めた箱を重ねながら、続けた。
「それに、大切な人を傷つけられたときには、なかなか恐ろしい相手になる」
ルークは男を見た。
赤くなった指先を、見られていたことを思い出す。
「……持っただけで、そこまで分かるのか」
「スギを選んだ方々を、長く見てきましたから」
オリバンダーはルークの顔を見たまま、静かに言った。
「もっとも、あなたについては、これからです」
ダンブルドアの椅子が小さく鳴った。振り返ると、老人が立ち上がるところだった。
「よい一本が見つかったようじゃの」
ルークはうなずきかけ、杖を見た。
「ほかの二本でも、使えたけど」
「靴も、履ければ全部同じとは限らんじゃろう」
ルークは今度こそ深くうなずく。
オリバンダーへ杖を渡す。
箱へ収められるのを見て、ほんの少し手が追いかけそうになった。金を払わなければならないことを思い出し、その手をポケットへ入れ、支払いをすませた。包まれた箱を受け取ると、ルークは両端を確かめてから持ち直していた。
店を出てから、ルークは箱の蓋へ指をかけた。
開けかけて、やめる。
「気になるかね」
「学校に行けば、ちゃんと使えるようになるんだな」
「練習は必要じゃよ」
「それは分かってる」
今度は、早く教えろと言いかけて飲み込んだ。
ダンブルドアは箱を見て、それからルークを見た。
「入学まで、大切にしまっておきなさい。試すのは、教わってからじゃ」
ルークは少し不満そうに蓋を押さえたが、うなずいた。
ローブを受け取り、道具を収める中古のトランクまでそろえると、一覧に残った物はなくなっていた。
通りは来たときよりも空いている。店先の品物を中へ運ぶ者が、ちらほらと見えた。
ダンブルドアが紙を畳む。
「これで支度は整ったかの」
「まだ紙がある」
老人が目を上げた。
「手紙の」
「ああ、そうじゃったな」
「書く物も。あいつらの分」
ダンブルドアは一覧をしまった。
「では、そちらも見ていこう」
ルークはポケットの革袋を確かめた。
入っている硬貨は減っていたが、まだ少し重さが残っていた。
倉庫へ戻ると、最初に気づいた子が声を上げた。
「帰ってきた!」
何人もの足音が重なった。
ルークがトランクを地面へ置くより先に、子どもたちが周りを囲んでいる。
「それ、何」
「服?」
「全部お前の?」
「待て。引っ張るな」
ルークは取っ手を握り直した。
ダンブルドアは少し後ろで立ち止まり、子どもたちが落ち着くのを待っていた。
トムが奥から出てくる。
「入口で固まんなよ。入れないだろ」
小さい子の肩を引き、道を空けた。それからトランクを見て、倉庫の中を振り返る。
「こっち」
ルークの寝場所の横が、片づけられていた。
いつも積んであった木切れが別の壁へ寄せられ、床の藁も払ってある。
「本とか買うって言ってたから」
トムはそこを指さした。
「壁にはつけんなよ。濡れると困るんだろ」
「……ああ」
ルークは空けられた場所へトランクを置いた。
少しだけ壁から離す。トムが何も言わず、反対側を押して手伝った。
ダンブルドアは出発の日の段取りをルークと確かめると、子どもたちに手紙の預け方を説明した。ふくろうの話になると質問が重なり、トムが一人ずつしゃべれと声を張った。
老人が帰るころには、通りに長い影が落ちていた。ルークは戸口まで見送りに出た。
「ルーク。今日の話は、覚えておるよ」
先に言われ、ルークは口を閉じた。
老人の顔を見てから、短くうなずく。逆光で老人の表情は見えない。いう気がないのか、何を考えているかはわからなかった。それでも、忘れたふりをされるよりはよかった。
ダンブルドアを見送り、倉庫へ戻ると、子どもたちはトランクの前で待っていた。
「開けていい?」
「今、開ける」
留め金を外すと、いくつもの頭が寄ってきた。
畳まれたローブを広げ、小さい子が自分に当ててみる。裾は床へ大きく余った。
「でかい」
「お前のじゃないからな」
ルークはローブを受け取り、畳み直した。
杖の箱は本の奥へしまい、代わりに紙と鉛筆を取り出す。
「トム」
差し出すと、トムは紙の束を見た。
「こんなに?」
「失敗するだろ、お前」
「しねえよ」
言いながら、トムは紙を両手で受け取った。端が折れないように持ち直し、毛布の上へ置く。
女の子が一冊の本を指で叩いた。
「学校でこれ読むの?」
「ああ」
「これ、動く?」
「それは動かない。店には勝手に開くのがあったけど」
顔がいくつも上がった。
「勝手に?」
「誰も触ってないのに。こう、ページがめくれるんだ」
ルークは本を開き、指で端を送って見せた。
「あと、壁が開く」
「扉じゃなくて?」
「壁だって。煉瓦が一個ずつ動いて、道になる」
「崩れるの?」
「違う。ちゃんと横によけるんだ。で、通ると戻る」
最初から説明しないと分からないらしい。
ルークは本を閉じ、近くにあった木切れを拾った。床へ並べて壁に見立て、その一つを動かす。
「ここがこうなって──」
トムが笑った。その声を聞いて、ルークは顔を上げる。
「何だよ」
「いや。続けろよ」
まだ笑っている。
ルークは眉を寄せたが、小さい子が袖を引いて、話の続きをせがんでいた。
「それで?」
目の前の木切れへ視線を戻す。
もう一つを横へずらし、人が通れる隙間を作った。
「それで、向こうが全部、魔法の店なんだ」
その日は珍しく、遅い時間まで倉庫には声が響いていた。