もう一つの英雄譚   作:FeIron

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第2話

 トムは最後まで話を聞かなかった。

 

「じゃあ、俺がやる」

 

 木箱に腰かけたまま、膝の間で両手を組んでいた。ルークが学校の場所も、いつまで留守にするのかも知らないと言った、その途中だった。

 

「まだ何を頼むか言ってない」

「同じだろ。お前がいない間、俺がやる」

 

 倉庫の高い窓から、西日が差していた。

 床にはほこりと古い藁がたまり、壁際に毛布が重ねてある。雨漏りする場所を避けて寝るうち、全員の寝場所が片側へ寄った。反対側は空いているのに、誰も使わない。

 トムは顎を上げた。

 

「飯を集めて、ちびどもが変なとこに行かないように見てりゃいいんだろ」

「それだけじゃない」

「分かってる」

 

 返事が早い。ルークが隣の木箱に座った。木箱は片脚が少し短く、いつも体重をかけるとグラグラする。座ると無意識のうちにグラグラさせてしまうのがルークの癖だった。

 普段ならトムがそれを笑う。しかし今日は下を見たままだった。その様子を視界の隅に入れながら、喋りかける。

 

「市場の裏、木曜は行くな」

「魚屋の親父がいるからだろ」

「親父じゃない。息子だ。親父は怒鳴るだけだ」

「……そうだった」

 

 トムは靴の先で床をこすった。

 

「パンは、小さい子から先に渡せ。残りを見せてから選ばせると喧嘩になる」

「知ってる」

「雨が続いたら、奥の毛布も動かせ。壁から水が染みてくる」

「知ってるって」

 

 ルークは口を閉じた。

 外で車輪の軋む音がした。誰かが荷車を引いているらしい。二人とも、開け放した戸口を見た。

 やがてトムが言った。

 

「ほかには」

 

 ルークはトムの組み合わされた指へ目を落とした。爪の端が白くなっていた。

 

「……具合の悪い奴がいたら、飯が食えるか聞くな。食ってるとこを見ろ」

「なんで」

「食えるって言うからだ」

 

 トムは少し考えて、うなずいた。

 戸口から、小さな女の子が顔を出した。両手で抱えた紙袋に、油の染みが広がっていた。

 

「これ、もらった」

 

 トムが立ち上がった。

 

「こっち持ってこい。みんな呼んで」

「ルークに渡すんじゃないの?」

 

 一瞬、トムがこちらを見た。しかしルークは動かない。

 女の子もルークを見たが、やがて戸惑いながらもトムのところへ袋を運んだ。中身には端の焦げた焼き菓子。割れた物が多く、人数分には足りない。

 トムは袋の中をのぞき、それから集まってきた子どもたちを数えた。

 

「でかいのは半分な」

「俺、それがいい」

「待てって。まだ配ってないだろ」

 

 ルークは、袋ごと床に置いたほうがやりやすいと言いかけた。

 トムが自分でしゃがんだのを見て、口を閉じ、ルークは木箱から腰を上げた。

 

「ちょっと出てくる」

「飯までには戻れよ」

 

 トムは焼き菓子を割りながら言った。

 それは、いつもルークが言っている言葉だった。

 

 

 

 

 三人を見つけるのに、それほど時間はかからなかった。

 

 酒場の裏口近くに、割れた椅子が二脚置かれていた。三人目は壁にもたれ、腕を組んでいた。こちらを見た途端、その腕がほどけた。

 

「お前──」

 

「話がある」

 

 ルークは足を止めた。三人へ近づきすぎない位置を選んだ。背後の路地は空いている。酒場の扉は閉まっていた。

 椅子に座っている一人が腰を浮かせる。

 

「そこで聞け」

 

 右手で制しながら、ルークが命令すると、男は腰を浮かせたまま止まり、浅く座り直した。

 ルークがさらに右手を少し上げた。

 昨日、あの老人に会ってから、何度も試していた。手を握ったり、開いたり。以前、あの熱が込み上げてきたときのことを思い出したり。けれど、今も何も起きなかった。

 

「なんだ、その手は」

 

 男の口元が緩む。目元が歪み、何も起こらないことに確信を持とうとしているようだった。

 深呼吸をする。指先が熱い。そこまでは来ている。逃がすな。もう少し。

 ピクリと指先が動く。人差し指の先に、火がともった。蝋燭ほどの、小さな炎だった。しかしその火を見て男の口が閉じ、またあの日のような怯えた表情をする。

 ルークは炎を見ない。見れば自分まで驚いた顔をしてしまいそうだった。

 

「しばらく、ここを離れる」

 

 三人とも返事をしない。僅かにルークとは反対方面に体が向く。

 

「俺といた子どもらは残る。あいつらに手を出すな。物も取るな。誰かに言ってやらせるのも同じだ」

「も、もう関わる気はねえよ」

 

 壁際の男が言った。

 

「ほかの奴が来たら追い払え」

「は?」

 

 炎が大きく揺れた。指の腹がひりひりする。

 ルークは顔を動かさず、ゆっくり手を握った。消えてくれたことに、ほっとした。

 

「聞こえただろ」

 

「待てよ。なんで俺たちが、あんなガキどもの──」

 

 ルークは握った手を、もう一度開きかけた。男が口を閉じる。

 

「近づいて恩を売るな。お前らが世話するんじゃない。変な奴がうろついてたら追い払う。それだけだ」

 

 三人が顔を合わせる。三つの顔の間で視線が行き来した。アイコンタクトでどうするか決めかねているようだった。ルークは待った。早く返事をしろと言いたかったが、言わなかった。

 やがて、覚悟を決めたようにリーダー格の男がクチュを開く。

 

「俺たちと関係ねえところで、何かあったらどうすんだ」

 

「何もないように見てろ」

 

「ずっと見張れってのかよ」

 

「この辺にいるだろ、いつも」

 

 男は口を開き、また閉じた。文句を言いたげな表情だったが、恐怖心が勝ったようだった。

 ルークは一人ずつ顔を見る。

 

「あいつらには、週に一度、手紙を書かせる」

 

 届け方は、まだ知らなかった。しかしそんなことはおくびにも出さない。あの老人に聞けばいい。四十何通も訳のわからない方法で手紙を送りつけてきたのだ、学校に手紙を送るくらいは訳ないことだろう。

 

「手紙が来なくなったら、最初にお前らを探す」

 

 酒場の中から、笑い声が漏れた。こちらでは誰も笑わない。

 

「それと、俺が来たことは言うな」

 

 ルークは手を下ろした。

 

「分かったか」

 

 リーダー格が最初にうなずき、残る二人も、それに続いた。

 その表情をみて、背を返し、その場を立ち去る。角を曲がるまで、ルークは歩く速さを変えなかった。

 

 三人の姿が見えなくなってから、右手を開いた。指先が赤くなっていた。息を吹きかけると、かえってひりひりした。

 

「……熱いんだな」

 

 小さくつぶやいた。

 後ろから足音はしなかった。

 もう一つ角を曲がり、それでも誰もついてこないことを確かめてから、倉庫へ戻った。

 

 

 

 

 トムが、戸口に座っていた。

 

「遅い」

「まだ明るいだろ」

「飯までに戻れって言った」

 

 隣には、欠けた皿が置いてあった。

 焼き菓子が一つと、小さな欠片が二つ。

 

「俺の?」

「ほかに誰がいるんだよ」

 

 少し驚いた表情をしながらルークは皿を拾った。

 倉庫の中では、子どもたちが毛布を広げていた。誰かがふざけて足を引っかけられ、怒っている。トムが振り返って一声かけると、二人とも静かになった。

 ルークは戸口の反対側にある椅子に座った。この椅子もグラグラする。口に運んだ焼き菓子は固く、焦げたところが苦かった。

 

「みんな食ったのか」

「食った」

「お前は」

「食ったよ」

 

 ルークが見ていると、トムは顔をしかめた。

 

「本当だって」

 

 クスリと笑顔をこぼし、ルークは視線を外した。

 通りを女が歩いていった。大きな籠を腕に下げ、二人を見ることもなく角を曲がった。空はまだ明るかったが、建物の間にはもう日が入ってこない。ルーク達のいる空間には冷え冷えとした空気が入り込んできていた。

 

「週に一回、手紙を書けよ」

 

 トムが顔を向けた。

 

「誰に」

「俺に」

「学校に?」

 

 ルークはうなずいた。

 

「どうやって送るんだよ」

「明日、聞く」

「あのじいさんに?」

「ああ」

 

 トムは靴底についた泥を、戸口の段差で削った。

 

「……俺、まだ書けない字がある」

「書き方は教えただろ。分かる言葉で書けばいい」

 

 拾った本と看板を見比べながら自分で覚えた字を、ルークは子どもたちにも少しずつ教えていた。

 

「何を書くんだ」

「何でも。飯のこととか。誰かと揉めたとか」

「揉めてない週は?」

「揉めてないって書け」

 

「それだけ?」

 

「それだけでもいい」

 

 トムはしばらく黙っていた。

 

「お前も書くのか」

 

 ルークは最後の欠片を口へ入れた。飲み込んでから答える。

 

「書く」

 

「じゃあ、難しい字は使うなよ」

「読めなかったら、次の手紙で聞け」

 

 トムは鼻を鳴らした。

 

「学校に行くのはお前だろ。なんで俺まで勉強すんだよ」

 

 今度はルークが笑った。

 少し遅れて、トムも笑った。

 

 

 

 

 

 翌朝、ダンブルドアが来たとき、ルークは小さい子の靴紐を結び直していた。

 長いローブが戸口に影を落とし、子どもたちの声がやんだ。老人は少し頭をかがめて中をのぞいた。

 

「おはよう。迎えに来たんじゃが、少々早かったかの」

 

「行ける」

 

 ルークは立ち上がり、ぱんぱんと誇りを払う。ルーク達は所有物というものがほとんどない。だから持っていく物は、ポケットに収まる程度で、身一つで行動できた。

 

「その前に、聞きたいことがある」

 

「何かね」

 

 ルークは戸口まで歩き、声を落とした。

 

「あいつらから、手紙をもらいたい。週に一回」

「うむ」

「ここには住所がない。それに普通の郵便じゃ、あんたの学校にも届かないんだろ」

 

 ダンブルドアはルークを見た。それから、奥の子どもたちへ目を向けた。その表情は柔らかい。

 

「決まった日に、ふくろうを寄越すよう手配しよう。返事を預けられるようにな」

「鳥に?」

「手紙を運ぶのは得意じゃよ」

「……噛まないか」

 

 ふ、と笑みを浮かべ、答える。

 

「礼儀正しいのを頼んでおこう」

 

 ルークは悩むそぶりを見せ、少し間を空けて答える。

 

「あいつらにも、やり方を教えてくれ」

「もちろんじゃ」

 

 振り返ると、トムがすぐ近くに立っていた。どこから聞いていたのか、眉を寄せている。

 

「ふくろうって、あのふくろう?」

 

「そうらしい」

 

 トムは老人を見上げた。ダンブルドアは真面目な顔でうなずく。

 

「……変な学校だな」

 

「俺もそう思う」

 

 奥で、小さい子が笑った。ルークはそちらをチラリとみて、再度トムを見た。

 

「今日、戻る。買い物だけだ」

「分かってる」

「もし遅くなったら──」

「先に食ってる」

 

 言葉を取られて、ルークは口を閉じた。

 トムは昨日より少しだけまっすぐ立っていた。靴紐を結んでもらった子が、その袖を引っ張っている。

 

「行ってこいよ」

 

 ルークはうなずきかけ、それから言った。

 

「留守、頼む」

 

 トムの口元が動いた。

 

「おう」

 

 ダンブルドアが先に通りへ出た。続いてルークも戸口をまたいだ。

 後ろで、トムが子どもたちを呼び集める声がした。

 

「ほら、靴履け。市場に行くぞ」

 

 ルークは振り返らず、老人の隣へ並んだ。

 

「買う物に、紙も入ってるか」

「羊皮紙なら入っておる」

「普通の紙は」

「手に入るじゃろう。何に使うのかね」

 

「手紙」

 

 老人は歩調を緩めずに、うなずいた。

 

「では、忘れずに買わねばの」

 

 ルークはポケットの中で、赤みの残る指先を親指に押しつけた。もう、昨日ほどは痛まなかった。

 

 

 

 ダンブルドアが足を止めたのは、小さな薄汚れたパブの前だった。つられてルークも足を止め、吊り下げられた看板を見上げる。

 

「漏れ鍋?」

 

「ここじゃ」

 

「買い物に来たんだろ」

 

「そのつもりじゃよ」

 

 老人は扉を開けると、当然のように中へ入っていく。

 ルークは左右を見た。通りを歩く人々は、長いローブを着た老人にも、この店にも目を向けない。一人の男など、こちらを避けながら歩いたのに、その視線は隣の店へ向いたままだった。

 少し迷ってから、老人の後を追って扉をくぐった。

 

 

 中は外から見た以上に薄暗い。酒と煮物の匂いが混ざり、奥では暖炉に火が入っていた。

 空いたテーブルがいくつもある。隅に座った二人が小声で話していたが、扉の音に気づくと口を閉じ、店の中の顔が一斉にこちらを向く。

 

「ダンブルドア先生!」

 

 カウンターの向こうから声がした。

 店主らしい男が布巾を置き、こちらへ出てくる。その声を聞いて、隅の二人も肩の力を抜いた。

 

「お久しぶりです。何かお飲みに?」

「今日は買い物でな。また今度、ゆっくり寄らせてもらおう」

「それはぜひ。……そちらのお坊ちゃんは?」

 

 男の視線がルークへ下りた。

 ルークは少し顎を上げる。睨むわけではない。しかし見つめてくる目をじっと見返していた。

 彼を見る目は靴から顔までゆっくりと観察している。慣れてはいても気持ちのいいものではない。次に何を言われるのか待ったが、男はただ不思議そうにダンブルドアに顔を向けるのみだった。

 

「ワシの古い友人の子じゃよ」

 

 とっさに老人の顔を見る。ダンブルドアがこちらの表情をみていないことを確認し、驚いた表情を隠して心を落ち着かせるように一息ついた。

 

「今年からホグワーツへ通うのでな。今日はその支度じゃ」

「それはそれは。先生自らご案内とは」

 

 近くの席にいた魔女が顔を向けた。

 

「先生、学校のほうは……」

 

 そこまで言って、ルークを見る。

 

「新学期の支度を進めておるよ。例年どおりにの」

 

「そうですか」

 

 魔女はうなずいた。その手が、卓上のカップへ伸びる。何かを確かめられて安心したようだった。

 

 

 ダンブルドアはほかの客にも挨拶を返し、店の奥へ足を進める。ルークはその隣で、老人と客の顔を交互に見ながらも、ついていくしかなかった。

 小さな裏庭へ出る。背にした扉が閉まるのを待ってから、ルークは尋ねた。

 

「さっきの、どういう意味だ」

 

 ダンブルドアが振り返った。惚けた表情をしているのを見て、言葉を続ける。

 

「友人って。俺の親を知ってるのか」

 

「ご両親には、会ったことがある」

 

 あまりにあっさり答えたので、次の言葉が一瞬出てこなかった。

 

「……父さんと、母さん、両方か」

「うむ」

 

「じゃあ、どこに行ったかも知ってるのか」

 

 老人はすぐには答えなかった。ルークはその顔を見た。店の中で浮かべていた笑みは、もうなかった。

 

「君が聞きたいことは、買い物のついでに話してよいことではない」

 

「ついででいい」

 

「ルーク」

 

 穏やかな声だった。それでも、先を続けさせない響きがあった。

 

「その話をする時間は、改めて取ろう」

 

 ルークは口を結んだ。

 答えたくないとき、大人はよくそう言う。今じゃない。そのうちに。また今度。そう言った大人が、その後答えてくれたことはない。

 

「忘れんなよ」

 

「覚えておく」

 

 老人から目を離さないまま、ルークは一歩下がった。

 ここで何度聞いても、返事は変わらないらしい。そういうときの顔も、知っていた。

 

 ダンブルドアが壁へ向き直り、こほんと一回咳き込む。

 

「では行くかの。開け、ごま」

 

 ふざけたセリフの後、杖で煉瓦を叩く。乾いた音がする。

 なんていい加減な老人だ、とルークがその仕草を少し呆れながら見ていたが、その煉瓦が、動いた。

 思わず足を止まる。一つが奥へ引っ込み、隣の一つが横を向く。煉瓦が次々とずれていき、さっきまで隙間もなかった壁に、人の通れる穴が開いていった。

 穴の向こうから、車輪が石を踏む音がした。紙包みを抱えた魔女が、開いた壁を見もせず通り過ぎていく。

 ルークの足が自然と前に進んでいた。

 視界の先には石畳の通りが、奥へ長く続いていた。両側には店がぎっしり並び、曲がった看板がいくつも突き出している。軒先には大きさの違う鍋が積み上げられ、その向こうでは籠の中のふくろうがこちらを見た。店の窓に積まれた本が、ひとりでにページをめくられる。隣の店先では、銀色の器具が細い煙を吐いていた。煙は途中で輪になり、小さく縮んで消える。また新しい輪ができた。

 

「今の、どうやって──」

 

 言いかけて、隣を見ると、ダンブルドアは店先ではなく、ルークを見ていた。目尻が緩んでいる。ルークが何か言うのを、急かさず待っていた。

 ルークは口を閉じ、前へ出ていた身体を戻した。背筋を伸ばし、少し顎を上げる。

 

「……どこから行くんだ」

 

「まずは必要な物を確かめようかの」

 

 老人は何も指摘しなかった。それがかえって面白くなく、ルークは煙から目を外した。

 そこでようやく、店先を見ているのが自分ばかりだと気づいた。人はいる。それなのに、通りに立ち止まっている者が少ない。

 すれ違う魔女は買った物を胸へ抱え、ローブの裾を忙しなく揺らして歩いていく。子どもが窓へ近づこうとすると、母親らしい女がその手を引いた。

 

「今日はそれだけ。早く帰るわよ」

 

 子どもは不満そうにしたが、逆らわなかった。

 店の扉が開くたび、中にいた客がそちらを見た。通りの先には、昼間なのに鎧戸を閉めた店がある。その隣では店主が品物を外へ出さず、入口の内側から客を呼んでいた。

 ルークはダンブルドアの歩く速さに合わせた。足早に歩く人々の中で、老人だけが特に急ぐ様子もなく歩いている。

 

 向こうから来た男が、不意に足を止めた。

 

「ダンブルドア先生」

 

 脇に抱えた包みが傾き、男は慌てて押さえ直した。さっきまでは前の人間を追い越そうとしていたのに、今は道の端へ寄り、老人へ手を差し出している。

 

「お会いできるとは。今日は学校から?」

「この子の買い物に付き合っておってな」

 

 男はルークを見た。意外そうに眉が上がる。

 

「そうでしたか。お忙しいところ、失礼しました」

 

 握手を終えても、男はすぐには立ち去らなかった。

 

「先生がいらっしゃるなら……」

 

 言葉を切り、もう一度ダンブルドアの手を握る。

 

「どうか、お気をつけて」

 

「君もな」

 

 男は頭を下げて歩き出した。数歩離れると、また元の速さに戻っていく。ダンブルドアとルークはその背中を見送った。

 

「あんた、有名なのか」

 

「長く教師をしておると、知り合いも増えるものでな」

 

「さっきの店でも、みんな知ってたぞ」

 

「宿題を多く出しすぎたかもしれん」

 

 ルークは思わず老人を見た。ダンブルドアは涼しい顔で歩いている。

 

「あいつ、急いでたのに」

 

「うむ?」

 

「あんたのために止まった」

 

 ダンブルドアは少しだけ笑った。肯定も否定もしない。

 ルークは通りへ目を戻した。

 

「なんでみんな、そんなに急いでるんだ」

 

「家で待っている者がおるのじゃろう」

 

「全員か?」

 

 目の前の店から出てきた魔女が、一度左右を見てから歩き出す。

 ルークはその女を顎で示した。

 

「あれも、ただ帰りたいだけか」

 

 ダンブルドアは女の去ったほうを見た。

 

「……近頃は、外で長居をしたがらない者が増えておる」

 

「何かいるのか」

 

「人を脅し、傷つける者たちがな。家族と連絡が取れなくなった者もおる。誰を信じてよいか分からず、不安に思うのも無理はない」

 

「捕まえればいいだろ」

 

「そうできるよう、働いている者もおるよ。ただ、簡単にはいかん」

 

 ルークは老人の横顔を見た。

 誰なのかは言わない。どこにいるのかも、何人いるのかも分からない。それでも、通りの人間が何を気にしているのかは理解できた。

 

「絡まれる前に帰りたいってことか」

 

「それだけでは済まぬこともある」

 

「だから、一人になるなって?」

 

 ダンブルドアがルークへ視線を下ろした。

 

「そうじゃな。それも大切なことじゃ」

 

 ルークはうなずいた。

 大人が子どもの手を離さない理由も、入口を気にする客の目も、知っているものだった。ここには勝手に動く本や、手紙を運ぶ鳥がいる。それなら何か違うのかと思ったが、道を歩くときに気をつけることは、ロンドンの裏路地と大して変わらないらしい。

 

「魔法が使えても、そんなもんか」

 

 老人の視線が、少し長くルークの顔に留まった。

 

「慣れてよいことではないのじゃがな」

 

「慣れないと、毎日困るだろ」

 

 ルークはそう答え、老人から路地に視線を移した。

 

「で、服はどこで買うんだ」

 

 少し物寂しそうな顔をしたダンブルドアは一拍置いてから、先の店を示した。

 

 

 

 

「金はないぞ」

 

 必要な物の一覧を広げられて、ルークは最初にそう言った。

 ローブ。教科書。大鍋。天秤。知らない名前の物まである。紙は欲しいと言ったが、これ全部を買えるとは言っていない。

 

「学校に、学用品を買うのが難しい生徒のための基金がある」

「そこから借りるのか」

「返す必要はない。ただし、いくつかは中古になるじゃろうな」

 

「使えればいい」

 

 ダンブルドアはうなずき、どこかからか小さな革袋取り出し、手渡してきた。受け取ると、見た目より重い。口を開くと、中で金銀銅の硬貨が重なっている。

 

「君の支度に使う金じゃ」

 

 ルークは袋の口を閉めた。

 

「全部、俺が持ってていいのか」

 

「店で払うたびに、わしを探すのも面倒じゃろう」

 

 ルークは革袋をポケットの奥へ入れた。歩き出してからも、上から一度押さえる。

 

 ローブの店では、台の上に立たされた。

 店の魔女が肩へ手を伸ばし、ルークは反射的に身体を引いた。

 

「動くと測れないわよ」

 

 責めるような声ではなかった。魔女は巻尺を見せ、それからもう一度手を伸ばした。今度は動かなかったが、首の後ろを測られる間、ルークは店の奥の鏡を見ていた。

 

 黒いローブを合わせられる。肩も袖も、まだ途中なのに、いつもの服とは違って見えた。

 

「少し余裕を持たせましょうね。これから伸びるでしょうから」

 

「もっと長くてもいい」

 

「歩くたびに踏んでしまうわ」

 

「折ればいいだろ」

 

 魔女はルークの足元を見て、それから顔へ視線を戻した。

 

「折らなくていい長さにするのが、私の仕事なの」

 

 諭すような言葉にルークは黙った。入口近くで、ダンブルドアが棚の帽子を眺めている。聞こえていたはずだが、何も言わない。

 採寸を終えて台を下りると、魔女は仕上がりを待つ間にほかの買い物へ行ってよいと言った。

 

「今日は早めに閉めますから、それまでにお願いしますね」

 

 ルークは受け取った控えの紙を二つに折り、金とは別のポケットへしまった。

 

 次の店では、本を選んだ。中古の棚は、表紙の色も大きさも揃っていない。角の潰れた本を一冊取り、途中を開く。余白に誰かの字があった。

 そのまま何枚かめくって、抜けたページがないか確かめた。

 

「何か気になるかね」

 

「ここ、書いてある」

 

 ルークが余白を示すと、ダンブルドアがのぞき込んだ。

 

「前の持ち主の覚え書きじゃな。必ず正しいとは限らんが」

 

 ルークは本文と書き込みを見比べた。

 

「間違ってるのか」

「君はどう思う?」

 

「まだ分からない」

 

「では、授業で確かめられるの」

 

 ルークはそのページの端を指で押さえた。知らない言葉がいくつも並んでいる。読めても、何を指しているのか分からない物もあった。

 

 少し迷ってから本を閉じ、買うほうの山へ置いた。

 外で、何かが倒れる音がした。

 近くの客が顔を上げる。ダンブルドアも入口へ目を向けた。通りの向こうで、荷車から落ちた鍋を男が拾っている。

 店員が小さく息を吐き、帳面へ視線を戻した。

 ルークも本へ目を戻した。大きな音がすれば、何が起きたか確かめる。それも、いつもどおりだった。

 

 

 杖の店の窓には、一本だけ杖が飾られていた。

 ルークは看板の文字を読み、それから窓の奥をのぞいた。暗くてよく見えない。ダンブルドアが扉を開けると、小さな鐘が鳴る。

 

 細長い箱が棚の上まで積まれていた。奥にも、そのまた奥にも箱がある。通れる隙間は狭く、ルークは荷物を身体へ寄せ、縮こまりながら奥へ進んだ。

 

「これはこれは、ダンブルドア先生」

 

 棚の間から声がした。

 思わずルークが顔を向けると、淡い色の目をした男が立っていた。いつからそこにいたのか分からない。少しの警戒がルークの中に走る。

 

「久しぶりじゃの、ギャリック。今日は、新しい生徒の杖を頼みに来たのじゃ」

「ええ。そのようですね」

 

 男の目がルークへ移った。

 

「お名前は?」

「ルーク・ウォルフ」

 

 ダンブルドアが親しげに会話を交わすのを見て、すこし警戒心を解き、名前を答える。

 

「杖を持つのは、どちらの手ですか」

 

 ルークは右手を少し上げた。

 

 男──オリバンダーは、その手へ目を留めた。指先にはまだ薄く赤みが残っている。

 何か聞かれるかと思ったが、男は巻尺を取り出しただけだった。

 

「腕を伸ばしてください」

 

 肩から指先まで測られる。ローブの店で済ませたばかりなのに、ここでも測るらしい。途中から巻尺が勝手に動き始め、ルークは腕を引きかけた。

 

「そのままで結構」

 

 もうこちらを見てすらいない。オリバンダーは棚へ向かっていた。

 

「……どこまで測るんだ」

 

「必要なところを」

 

 気づけば姿すら見えず、返事だけが箱の間から戻ってきた。

 ダンブルドアを見ると、壁際の椅子に座っていた。こちらを助ける気はなさそうだった。

 

 やがてオリバンダーは箱を三つ持って戻った。巻尺が床へ落ち、ルークはようやく腕を下ろした。

 

「まずは、こちらから」

 

 一つ目の蓋が開く。

 

「ブラックソーン。ドラゴンの心臓の琴線。十三と四分の一インチ。やや硬めです」

 

 ルークは差し出された杖を受け取った。

 思ったより長い。握り直し、先を少し上げる。

 

「軽く振ってみてください。そう、そちらへ」

 

 人のいないほうへ向け、手首を動かすと、杖先から乾いた音がした。赤い火花が二つ飛び、カウンターの手前で消える。

 杖を見て、もう一度振ろうとしたところで、オリバンダーが手を差し出した。

 

「なるほど。では、次を」

 

「今、出たぞ」

 

「ええ。見ていましたよ」

 

「これじゃないのか」

 

「ほかも試しましょう」

 

 ルークは少し迷ってから返した。

 使えるなら、それでいいような気もした。けれどオリバンダーは火花の飛んだ場所を気にすることもなく、次の箱を開けている。

 

「黒檀。同じくドラゴンの心臓の琴線。十三と四分の一インチ。こちらもやや硬い」

 

 二本目は黒い杖だった。

 指をかけると、今度は握ったところがわずかに温かくなった。

 ルークはさっきと同じほうへ向け、振った。杖先に赤い光が走る。火花は散らず、細い筋を残して消えた。

 先ほどより動かした手についてくる感じがあった。ただ、止めるときに少し力が入る。ルークは親指の位置を変えた。

 その指をオリバンダーがじっと見つめる。

 

「どうです?」

 

「さっきよりは」

 

「ええ。私もそう思います」

 

 男は三つ目の箱へ手を置いた。

 

「もう一本」

 

 ルークは黒い杖を返した。

 

「スギ。ドラゴンの心臓の琴線。十二と四分の三インチ。適度なしなりがあります」

 

 受け取った瞬間、ルークは手を止めた。

 何も光ってはいない。音もしない。けれど、今度は握り直さなかった。

 指を閉じたところに、そのまま収まっている。手の中の重さを確かめようと少し動かすと、先も思ったところへ向いた。

 

 ルークは杖先を見た。

 昨日は火を出すために、息を止め、指先の熱を逃がさないよう必死になっていた。今は、そこまで力を入れなくていい気がした。

 

 ゆっくり手首を動かす。

 杖の先に、橙色の光がともった。それは短い弧を描いて広がり、細かな火の粉になって、床へ届く前に消えていった。ルークは最後の一つが消えるまで見入っていた。今度は指は熱くなかった。

 

「……これだ」

 

 確信する。それを声に出してから、オリバンダーを見た。

 

「これがいい」

 

 男は口元を緩めた。

 

「そのようですね」

 

 ルークはもう一度、自分の手を見る。

 三本とも同じような棒だった。長さは少し違ったが、それだけでこんなに変わるとは思わなかった。

 

「何が違うんだ」

 

「木も、芯も、一本ごとに違います。そして、それを握る人も」

 

 オリバンダーは空いた二つの箱へ蓋をした。

 

「スギは、よく物を見る人の手に収まることが多い。目がいいというだけではありませんよ」

 

 ルークは顔を上げた。

 

「人の仕草や、言葉にされなかったことにも気づく。そういう人です」

 

 トムの組み合わされた指が、ふと頭に浮かんだ。ルークは答えず、杖を持つ手へ視線を戻す。

 オリバンダーは蓋を閉めた箱を重ねながら、続けた。

 

「それに、大切な人を傷つけられたときには、なかなか恐ろしい相手になる」

 

 ルークは男を見た。

 赤くなった指先を、見られていたことを思い出す。

 

「……持っただけで、そこまで分かるのか」

 

「スギを選んだ方々を、長く見てきましたから」

 

 オリバンダーはルークの顔を見たまま、静かに言った。

 

「もっとも、あなたについては、これからです」

 

 ダンブルドアの椅子が小さく鳴った。振り返ると、老人が立ち上がるところだった。

 

「よい一本が見つかったようじゃの」

 

 ルークはうなずきかけ、杖を見た。

 

「ほかの二本でも、使えたけど」

 

「靴も、履ければ全部同じとは限らんじゃろう」

 

 ルークは今度こそ深くうなずく。

 オリバンダーへ杖を渡す。

 箱へ収められるのを見て、ほんの少し手が追いかけそうになった。金を払わなければならないことを思い出し、その手をポケットへ入れ、支払いをすませた。包まれた箱を受け取ると、ルークは両端を確かめてから持ち直していた。

 

 

 

 店を出てから、ルークは箱の蓋へ指をかけた。

 開けかけて、やめる。

 

「気になるかね」

 

「学校に行けば、ちゃんと使えるようになるんだな」

 

「練習は必要じゃよ」

 

「それは分かってる」

 

 今度は、早く教えろと言いかけて飲み込んだ。

 ダンブルドアは箱を見て、それからルークを見た。

 

「入学まで、大切にしまっておきなさい。試すのは、教わってからじゃ」

 

 ルークは少し不満そうに蓋を押さえたが、うなずいた。

 ローブを受け取り、道具を収める中古のトランクまでそろえると、一覧に残った物はなくなっていた。

 通りは来たときよりも空いている。店先の品物を中へ運ぶ者が、ちらほらと見えた。

 ダンブルドアが紙を畳む。

 

「これで支度は整ったかの」

 

「まだ紙がある」

 

 老人が目を上げた。

 

「手紙の」

 

「ああ、そうじゃったな」

 

「書く物も。あいつらの分」

 

 ダンブルドアは一覧をしまった。

 

「では、そちらも見ていこう」

 

 ルークはポケットの革袋を確かめた。

 入っている硬貨は減っていたが、まだ少し重さが残っていた。

 

 

 

 倉庫へ戻ると、最初に気づいた子が声を上げた。

 

「帰ってきた!」

 

 何人もの足音が重なった。

 ルークがトランクを地面へ置くより先に、子どもたちが周りを囲んでいる。

 

「それ、何」

「服?」

「全部お前の?」

 

「待て。引っ張るな」

 

 ルークは取っ手を握り直した。

 ダンブルドアは少し後ろで立ち止まり、子どもたちが落ち着くのを待っていた。

 トムが奥から出てくる。

 

「入口で固まんなよ。入れないだろ」

 

 小さい子の肩を引き、道を空けた。それからトランクを見て、倉庫の中を振り返る。

 

「こっち」

 

 ルークの寝場所の横が、片づけられていた。

 いつも積んであった木切れが別の壁へ寄せられ、床の藁も払ってある。

 

「本とか買うって言ってたから」

 

 トムはそこを指さした。

 

「壁にはつけんなよ。濡れると困るんだろ」

 

「……ああ」

 

 ルークは空けられた場所へトランクを置いた。

 少しだけ壁から離す。トムが何も言わず、反対側を押して手伝った。

 ダンブルドアは出発の日の段取りをルークと確かめると、子どもたちに手紙の預け方を説明した。ふくろうの話になると質問が重なり、トムが一人ずつしゃべれと声を張った。

 

 老人が帰るころには、通りに長い影が落ちていた。ルークは戸口まで見送りに出た。

 

「ルーク。今日の話は、覚えておるよ」

 

 先に言われ、ルークは口を閉じた。

 老人の顔を見てから、短くうなずく。逆光で老人の表情は見えない。いう気がないのか、何を考えているかはわからなかった。それでも、忘れたふりをされるよりはよかった。

 

 ダンブルドアを見送り、倉庫へ戻ると、子どもたちはトランクの前で待っていた。

 

「開けていい?」

 

「今、開ける」

 

 留め金を外すと、いくつもの頭が寄ってきた。

 畳まれたローブを広げ、小さい子が自分に当ててみる。裾は床へ大きく余った。

 

「でかい」

「お前のじゃないからな」

 

 ルークはローブを受け取り、畳み直した。

 杖の箱は本の奥へしまい、代わりに紙と鉛筆を取り出す。

 

「トム」

 

 差し出すと、トムは紙の束を見た。

 

「こんなに?」

「失敗するだろ、お前」

「しねえよ」

 

 言いながら、トムは紙を両手で受け取った。端が折れないように持ち直し、毛布の上へ置く。

 

 女の子が一冊の本を指で叩いた。

 

「学校でこれ読むの?」

「ああ」

「これ、動く?」

 

「それは動かない。店には勝手に開くのがあったけど」

 

 顔がいくつも上がった。

 

「勝手に?」

「誰も触ってないのに。こう、ページがめくれるんだ」

 

 ルークは本を開き、指で端を送って見せた。

 

「あと、壁が開く」

「扉じゃなくて?」

「壁だって。煉瓦が一個ずつ動いて、道になる」

 

「崩れるの?」

「違う。ちゃんと横によけるんだ。で、通ると戻る」

 

 最初から説明しないと分からないらしい。

 ルークは本を閉じ、近くにあった木切れを拾った。床へ並べて壁に見立て、その一つを動かす。

 

「ここがこうなって──」

 

 トムが笑った。その声を聞いて、ルークは顔を上げる。

 

「何だよ」

 

「いや。続けろよ」

 

 まだ笑っている。

 ルークは眉を寄せたが、小さい子が袖を引いて、話の続きをせがんでいた。

 

「それで?」

 

 目の前の木切れへ視線を戻す。

 もう一つを横へずらし、人が通れる隙間を作った。

 

「それで、向こうが全部、魔法の店なんだ」

 

 その日は珍しく、遅い時間まで倉庫には声が響いていた。

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