もう一つの英雄譚   作:FeIron

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第3話

 出発の日だというのに、倉庫の扉はいつもどおり建て付けが悪い。

 開けるコツは取っ手を引き上げ、肩で押すことだ。腕で押さず、体重をかける。湿気を吸って膨らんだ板が床を擦り、朝の光が細く差し込んだ。

 

「これ、ちゃんと持ち上げてから押せよ。無理にやると蝶番が外れる」

「知ってる」

 

 背後から、少しむっとした声が返ってくる。

 振り向くと、トムが腕を組んで立っていた。その後ろには子どもたちが固まっている。いつもなら、とっくに誰かが腹が減ったと騒いでいる時間だった。

 

「昨日も言った」

「そうだったか」

「その前にも」

 

 ルークは笑って、扉から手を離した。

 

「じゃあ、忘れないな」

 

 足元のトランクを持ち上げる。途端に、後ろからローブを引かれた。

 振り返るより先に、腰へ小さな腕が回る。もう一人が反対側からしがみつき、その後ろにいた子まで袖を掴んだ。ルークはトランクを床へ戻す。

 

「おいおい。これじゃ歩けないだろ」

 

 返事の代わりに、腹の辺りで鼻をすする音がした。

 

「……やっぱり行かないで」

 

 ローブに顔を押しつけた子が、くぐもった声で言った。

 

「学校なんか、行かなくていいじゃん」

 

 ルークは、その頭に手を置いた。

 指の下で髪が跳ねている。昨夜、寝癖がつかないよう濡らして撫でつけてやったのに、何の役にも立たなかったらしい。

 

「せっかく道具まで買ったんだぞ」

「ここで使えばいい」

「この中で収まる規模じゃないだろ、俺は」

 

 ルークが冗談をいい誤魔化すと、袖を掴んでいた子が少し笑った。腹にしがみついている方は笑わない。首を振って、さらに強く顔を押しつけてきた。

 黒い布に、光るものがつく。

 

「あっ、おい。鼻水ついてるだろ」

 

 トムが腕をほどき、一歩近づいた。

 

「新しい服なんだから、離れ──」

「いいんだ」

 

 ルークは小さな背中に腕を回したまま、トムを見た。

 

「こっから長い間、会えないんだから。今くらい、いいだろ」

 

 トムは何か言いかけて、口を閉じ、伸ばしかけた手が下げた。

 ルークが膝をついて、目の前の子の鼻をポケットから出した布で拭いてやる。

 

「ほら、かめ」

「……やだ」

「鼻水つけるのはよくても、食うのは駄目だ」

 

 今度は、周りの子も笑った。

 泣いていた子まで口元を緩め、その拍子にまた鼻をすすった。

 

 一人ずつ頭を撫でて、背中を叩いてやる。手を離しても、すぐには誰も離れなかった。ルークも急かさず、膝をついたままでいた。

 

 

 幼い子達の気持ちを落ち着かせ、ついに家を出るギリギリの時間が迫ってきていた。

 

「手紙は?」

 

 立ち上がったルークに、トムが言った。

 

「週に一回」

「忘れるなよ」

「そっちこそ。書くのが面倒だからって、一行で済ますな」

「お前じゃあるまいし」

 

 ルークは口の端を上げた。

 

「ふくろうは、あの爺さんが手配してくれる。来たら追い払うなよ」

「わかってる」

「こいつらが触りたがっても、いっぺんに囲むな。びっくりして逃げるかもしれない」

「わかってるって」

 

 返事が早い。

 トムはさっきからルークの顔を見ない。足元のトランクやローブのシミばかり見ている。

 

「食い物を分けるときは──」

「小さい奴から。夜は一人で外に出さない。火を使ったら、寝る前に消えたか確かめる」

 

 指を折ることもなく、トムは続けた。

 

「字の練習もやらせる。炭で床に書いた奴には、自分で消させる。……まだあるか?」

 

 そこまで覚えているなら、もう十分だった。

 それでもルークは、倉庫の中を見回した。壁際の毛布。欠けた器。水を受けるため、屋根の穴の下に置いた桶。

 ほかに何か、言っておくことはなかったか、思考を巡らせる。

 

 外の三人組には、もう話をつけてある。

 少なくとも、ルークがいなくなった途端にここへ押しかけてくるような真似はしない。ほかの連中にも目を光らせろと言い聞かせたときの、あの頷き方は嘘ではなかった。

 それについて、トムに教えるつもりはない。

 

「……何かあったら、手紙に書けよ」

「だから、週に一回だろ」

「その日まで待たなくていい。困ったら書け」

 

 トムの目が、ようやくルークの顔で止まった。

 

「わかった」

 

 今度の返事は、少し遅かった。

 ルークは頷いて、トランクの取っ手を握る。

 

「じゃあ、頼んだぞ」

「おう。お前がいなくても大丈夫だ」

 

 トムの顎が上がる。胸まで張ってみせたが、脇に下ろした手は固く握られ、口は何かを堪えるように強く結ばれていた。少し笑いながらその拳を見なかったことにして、持ち上げるためにトランクに目を向ける。

 

「そうだな」

 

 取手を掴んだところで、トムが動いた。

 胸にぶつかってきた肩を、ルークはとっさに受け止める。背中へ回った腕にぎゅっと力が入った。

 

「……ちゃんと帰ってこいよ」

 

 耳のすぐそばで、声が震えた。

 ルークは取っ手から手を離し、トムの背中を抱いた。

 

「帰ってくるよ」

「絶対だぞ」

「ああ」

 

 肩越しに、倉庫の壁が見える。

 字を教えるときに使った板が、まだ立てかけてあった。下の方には、何度直しても裏返しになる文字が一つ残っている。

 

 急に、そこがぼやける。涙を我慢しながら、目を閉じ、腕の力を少しだけ強めた。

 肩口が温かく濡れたが、何も言わない。

 先に体を離したのはトムだった。顔を伏せ、手の甲で目元を乱暴に擦る。

 

「……服、汚れた」

「今さらだろ」

 

 ルークも笑って、頬を拭った。

 笑ったせいで、目の端に残っていた一滴が落ちた。

 

 

 

 倉庫を出ると、通りの向こうにダンブルドアが立っていた。

 

 長い髭も、半月形の眼鏡も、初めて会った日と変わらない。老人はルークに気づくと、ゆっくりこちらへ歩いてきた。

 

「おはよう、ルーク」

 

「……おはよう」

 

 声が少し掠れる。ルークは咳払いをして、トランクを持ち直す。

 ダンブルドアの目がルークの目元で一度止まった。それだけで気づかれたとわかった。

 ルークは少し睨むような表情で顎を上げる。

 

「なんだよ」

「いや」

 

 老人は穏やかに答え、懐から畳んだハンカチを取り出した。

 

「よければ、これを」

 

「持ってる」

 

 言いながらポケットに手を入れ、さっき子どもの鼻を拭いたことを思い出す。

 指を止めたルークの前で、ダンブルドアは黙ってハンカチを差し出していた。

 

「……借りるだけだからな」

「うむ」

 

 受け取った布は、手の中で妙に柔らかかった。

 

 ルークが顔を拭いている間、ダンブルドアは倉庫の方を見ていた。扉の隙間からこちらを覗く子どもに、小さく手を振っている。

 

「彼らが手紙を出せるよう、ふくろうの手配はしておる」

 

 ルークは布を目元から下ろした。

 

「……頼む」

「任せておきなさい」

 

 老人の手が、トランクの取っ手に添えられる。

 

「さて。少し、持たせてもらってもよいかね」

「自分で持てる」

「そうじゃろうな」

 

 ダンブルドアは手を引っ込めた。そのまま急かすことなく、ルークの隣に立っている。

 ルークはハンカチを畳もうとして、うまく角が合わず、諦めてポケットへ入れた。

 

「洗って返す」

「では、学校で」

 

 少しして、ルークから歩き出した。ダンブルドアはその歩幅に合わせてついてきていた。

 

 角を曲がる前に一度だけ振り返ると、子どもたちはいつのまにか倉庫の外に出ていた。トムもいる。

 ルークが手を上げると、小さな腕がいくつも上がった。トムが最後に片手を上げ、もう一方の手で、前へ出ようとする子を引き戻していた。

 

 

 

 キングズ・クロス駅は人で溢れていた。

 

 靴音。呼び声。車輪が床を転がる音。

 どこかで子どもが泣いている。ルークはそちらへ顔を向けたが、その子はすぐに母親らしい女に抱き上げられた。

 トランクを載せたカートを押し、ダンブルドアの後を追う。

 九番線。

 その隣に、十番線。

 

 ルークは切符を確かめてから、二つの標識をもう一度見上げた。

 

「四分の三ってのは、どこだよ」

「ここじゃ」

 

 ダンブルドアが指したのは、二つのホームの間にある柱だった。

 ルークは柱を見た。それから老人を見る。

 

「……これ?」

「まっすぐ進めばよい。途中で止まらぬようにな」

 

 表面には、煉瓦の継ぎ目まで見える。

 ルークはカートの持ち手を握ったまま、横から柱の向こうを覗いた。普通の人間が、普通に歩いている。

 

「ぶつからないんだな」

「そのための入り口じゃからの」

 

 ダンブルドアは髭の下で微笑んだ。そして一息。

 

「さて。ワシはここまでじゃ」

 

 ルークは柱から目を戻した。

 

「あんたは乗らないのか」

「別の方法で学校へ戻る。どうも、少々有名になりすぎたようでの。ワシが中へ入ると、挨拶だけで汽車を出しそびれてしまうかもしれん」

「自分で言うか、普通」

「困ったことに、自分で言っても本当のことはある」

 

 ルークは鼻で笑った。

 ダンブルドアも笑い、それから少し身を屈めた。

 

「ルーク」

 

 半月形の眼鏡の向こうから、青い目がこちらを見る。

 

「学校で、よい友を見つけられることを願っておるよ」

 

「……家族がいれば十分だ」

 

 答えてから、ルークは来た方へ一瞬だけ目をやった。

 

「それも一理あるが、友人というものもワシは君におすすめしたい」

 

 ちらりとルークが見た先に気をかけ、ダンブルドアは言葉を続ける。

 

「ここで出会う者にも、いつか彼らの話をしてやれるとよいの」

 

 ルークは何も答えなかった。

 カートの持ち手に視線を落とし、親指で塗装の剥げたところを擦る。

 

「では、また学校で会おう」

 

 顔を上げると、老人はもう身を起こしていた。

 

「……ああ」

 

 ダンブルドアは軽く頷一二歩ルークから距離を取る。大きな鞄を担いだ男が二人の間を横切り、通り過ぎたときには長い髭の老人はどこにもいなかった。

 ルークはしばらく、その辺りを見ていた。

 

「……消えるなら、先に言えよ」

 

 小さく呟いて、柱へ向き直る。

 誰もルークに注目していない。人々は時計を見たり、連れに話しかけたりしながら、左右を通り過ぎていく。

 

 持ち手を握り直す。

 袖口のすぐ上に、乾きかけた白い跡がついていた。

 ルークはそこに触れかけ、手を戻した。

 一度、大きく息を吸う。そしてカートを押し、柱へ向かって歩き出した。

 煉瓦が近づく。思わず足を緩めそうになり、ダンブルドアの言葉を思い出した。

 

 止まるな。

 

 前へ体重をかける。カートの先端が柱に触れる。衝撃はなかった。身構えていた腕が空振りし、足がもう一歩、前へ出る。

 煉瓦の壁が視界から消え、そこには白い蒸気が流れていた。その向こう、真紅の汽車が停まっていた。汽車の横には、子どもと大人が沢山。

 窓から身を乗り出す少年。鳥籠を抱えた女の子。息子の襟元を直そうとして、鬱陶しそうに手を払われている母親。

 頭上の看板には、九と四分の三番線と書かれている。ルークは一度だけ背後を振り返り、自分が出てきた場所を確かめた。そこは確かに煉瓦作りの柱だった。

 それから、ホームの端に立つ男に目を留めた。

 高そうな革のローブ。足は肩幅ほどに開かれ、片手が服の内側に入っている。

 どうみても見送りに来た親ではない。誰か一人を見るのではなく、人の流れを追っている。笑い声が響いても、その口元は動かない。

 その少し離れた場所にも、似た格好の男がいた。

 警察みたいなものか。

 どちらも、関わると碌なことにならなさそうな顔をしている。

 ルークは男たちから視線を外し、カートを押した。人が大勢集まる場所に、ああいう連中が立っているのは珍しくもない。

 

「忘れ物はない?」

「もう三回聞いたよ」

 

 すぐ横で交わされた会話に、口の端が緩む。

 さっきの自分も、あんなふうだったのだろうか。もっとも自分が忘れ物の確認をする側だったが、しかし、その確認が別れの惜しさを含んでいることは身をもって知っている。

 

 微笑ましい一幕を横目に、乗降口の前でカートを止めトランクを下ろす。まず片端を段に載せ、下から押し上げる。まだ十一歳の体に、トランクは重い。持ち手を握り直しながら、どうにか車内へ運び込んだ。

 

 狭い通路には、まだ荷物を抱えた生徒が行き来していた。

 ルークは開いている扉から中を覗き、誰もいない客室を見つけ、中に入る。トランクはひとまず座席の下に押し込み、窓際に腰を下ろしてふうと一息吐いた。

 窓の外では女の子が父親の首にしがみついていた。父親は何か言いながら、その背中を何度も叩いている。

 ルークは袖口に目を落とした。白い跡を指の腹で擦ってみる。跡は少し薄くなっただけだった。

 

「そこ、誰か座る?」

 

 顔を上げると、入り口に女の子が立っていた。

 蜂蜜色を帯びた明るい茶髪を低い位置で一つに結び、耳の前には短い後れ毛が残っている。頬にはまだ子どもらしい丸みがあり、鼻の上に薄いそばかすが見えた。

 片手でトランクを引き、もう片方の手を扉にかけている。

 

「いや」

「座ってもいい?」

「どうぞ」

 

 ルークが足を引くと、女の子はトランクを中へ引き入れた。通路との段差に車輪が引っかかる。もう一度引こうとしたところで、ルークは立ち上がり、反対側の取っ手を掴んだ。

 

「あ、ありがとう」

「そっち、少し上げて」

 

 二人で持ち上げれば、すぐだった。

 向かいの座席の下に荷物を収め、ルークは元の場所へ戻る。

 

 女の子も腰を下ろしかけて、ルークの袖に目を留めた。

 

「袖、汚れてるよ」

「知ってる」

 

 女の子は鞄を開け、ハンカチを取り出した。

 

「これ、少し濡らせば取れるかも」

「俺の鼻水じゃないぞ」

 

 差し出しかけた手が止まる。

 

「……鼻水なの?」

 

 ルークは彼女の顔を見た。榛色の目が少し丸くなり、差し出したハンカチとルークの袖を見比べている。

 

「知らずに貸そうとしたのか」

「汚れてるなって思っただけ」

 

 少し困った顔でハンカチと袖を見比べたあと、それでも彼女は手を引っ込めなかった。

 

「使う?」

「いや。借りたのが、もう一枚ある」

 

 ルークがポケットを指すと、女の子は頷いてハンカチをしまった。

 

「小さい子?」

「ああ。出るとき、しがみつかれて」

「寂しかったんだね」

「鼻くらい拭いてからにしてほしかったけどな」

 

 言ってから、袖をもう一度見る。ルークの少し困っているような表情をみて、女の子が小さく笑った。

 

「何歳?」

「一番小さい奴で、たぶん四つ」

「たぶん?」

「誰も正確には知らないんだ」

 

 女の子の目が一瞬止まった。少し気まずそうな表情に変わったのを見て、ルークは顔を窓の外へ向ける。事情を説明するつもりはなかったし、向こうもそれ以上は聞かなかった。

 

 汽笛が鳴る。

 ホームにいた人々が顔を上げる。窓の向こうで誰かが手を振り、女の子も慌てて身を乗り出した。

 

「あ、お母さん!」

 

 ルークは少し体を引いて、窓の前を空けた。

 女の子が両手を振る。その先で、女の人が大きく手を振り返していた。隣の男は、何か言いながら自分の上着のポケットを叩いている。

 

「わかってる! 手紙、書くから!」

 

 床が揺れた。

 汽車がゆっくりと動き出し、ホームに立つ人々が後ろへ流れていく。

 

 女の子は両親が見えなくなるまで手を振っていた。席へ戻ると、一つ息を吐いてから、ルークを見る。その様子をルークが見ていたことに気づき、少しバツが悪そうにしていた。

 

「ごめん。場所、取っちゃった」

「別に」

「私、エミリー。エミリー・バーチ」

 

「ルーク・ウォルフ」

 

 エミリーは名前を覚えるように、小さく頷いた。

 

 

 

 ロンドンの建物が途切れ、窓の外に緑が増え始めたころ、廊下から車輪の音が近づいてきた。

 

「お菓子はいかが?」

 

 声に続いて、品物を積んだワゴンが扉の前に現れる。

 エミリーが腰を浮かせた。

 

「蛙チョコレートを一つ、お願いします。それと……百味ビーンズも」

 

 向かいの客室からも生徒が出てきた。何人もの声が重なる。あれを二つ。こっちは三つ。箱が渡され、硬貨が鳴る。

 ルークは座席に背を預け、そのやり取りを眺めていた。

 欲しいものを指させば、すぐに買える。残りの金で何日過ごせるか、何人で分けるか。そんなことを考える間もないらしい。

 別に、不思議なことではなかった。

 ロンドンにも、菓子屋の窓に顔を寄せる子と、中へ入っていく子がいる。ここでは菓子が変わっただけだ。

 

「あなたはどう?」

 

 売り子の魔女に尋ねられ、ルークは首を振った。

 

「俺はいい」

 

 ワゴンが動き出す。

 エミリーは席に戻り、膝の上で小さな箱を開けた。

 中から蛙が飛び出した。エミリーの手が空回ると同時に、ルークの手が動く。

 窓へ向かって跳ねたそれを空中で掴むと、指の間で後ろ脚が一度だけ動いた。

 

「……なんだ、これ」

「蛙チョコレート」

「それは聞いた」

 

 茶色い蛙は、もう動かなかった。

 鼻へ近づけると、確かにチョコレートの匂いがする。

 

「本物じゃないよ。魔法で動いてるだけ」

「食い物くらい、じっとしてろよ」

 

 ルークの身も蓋もない言葉に、エミリーが吹き出した。

 ルークは彼女の開いた箱へ蛙を戻す。

 

「ありがとう。まさかこんなに飛ぶとは思わなかった」

「知ってて買ったんじゃないのか」

「知ってても、毎回うまく捕まえられるわけじゃないもの」

 

 エミリーは箱からカードを抜き出し、こちらへ向けた。

 

「これを集めてるの」

 

 紫色の帽子を被った老人が、カードの中で瞬きをした。

 ルークは眉を寄せる。

 

「……この爺さん、菓子にまで入ってるのか」

「ダンブルドア先生、知ってる?」

「ここまで送ってもらった」

 

 エミリーの口が少し開いた。

 

「校長先生に?」

「ああ」

 

 こいつが校長なのか、という言葉を飲み込んで、ルークはカードを見直した。

 挨拶だけで汽車が出しそびれるという話は、思ったほど大袈裟でもなかったらしい。

 

「ルークの家では、魔法を使わないの?」

 

 箱をしまいながら、エミリーが尋ねた。

 

「使わない。こんな菓子も初めて見た」

「じゃあ、知らないこと、いっぱいあるよね」

「柱に突っ込めとは言われた。あれ以上のことがあるなら、先に聞いときたい」

 

 エミリーは笑いかけたが、すぐに少し考える顔になった。

 

「……だったら、一つだけ。家で魔法を使わないって、誰にでも話さない方がいいかもしれない」

「なんで」

「お父さんとお母さんが魔法使いかどうか、気にする人がいるから」

 

 ルークは彼女を見た。

 

「使えなかったら?」

「嫌なことを言ったり。意地悪をしたり」

 

「お前も気になるのか」

 

「そういう意味じゃないよ」

 

 エミリーはまっすぐ答えた。

 

「知らずに話して、嫌な思いをしたら困ると思ったの」

 

 ルークはその顔を少し眺めてから、背もたれに肩を戻した。

 

「そういう奴には近づかなきゃいいんだろ」

「うん。でも、意地悪だけじゃ済まない人もいるから」

 

 エミリーの声が小さくなる。開いていた客室の扉を気にして、廊下へ目をやった。

 

「例のあの人とか」

 

 ルークは返事を待った。エミリーは続きを言わない。

 

「……誰?」

「……例のあの人」

「それは今聞いた」

 

 エミリーの指が、膝の上の箱の角を押した。

 

「怖い魔法使い。仲間もいて、魔法使いの家に生まれた人の方が偉いって……そういうことを言ってるの。人が殺されたり、いなくなったりしてるって、お父さんたちが話してた」

 

 ルークは、ホームに立っていた男たちを思い出した。

 

「あそこにいた革のローブの連中は、そいつを捕まえるためか」

「闇払いの人たち? たぶん、私たちを守るためだと思う」

「闇払い?」

「悪い魔法使いを捕まえる人」

 

 やっぱり警察か。

 ルークは窓の外へ目を移した。魔法が使えても、誰かが幅を利かせ、気に入らない相手を痛めつけることは変わらないらしい。

 

「で、そいつの名前は?」

 

 エミリーは困ったように唇を結んだ。

 

「言わない方がいいの」

「知らない奴に気をつけろって言うなら、名前くらい教えてくれよ」

「私に言われても……みんな、そう呼んでるから」

 

 廊下で足音が止まった。開いた扉の向こうから、背の高い男子生徒がこちらを覗く。

 

「その話、やめとけよ」

 

 声を落としていたが、顔は険しかった。

 

「じゃあ、名前を教えてくれ。そしたら終わる」

「だから、そういうのをやめろって」

 

 男子生徒は廊下の先を見てから、足早に去っていった。

 ルークはその背中を見送る。

 

「……誰も教えないなら、聞くしかないだろ」

 

 口にしてからエミリーへ視線を戻すと、彼女は箱を握ったまま俯いていた。

 ルークは息を吐いた。

 

「わかった。もう聞かない」

 

 エミリーが顔を上げる。

 

「そいつの仲間と、親のことで絡んでくる奴には気をつける。それでいいんだな」

「……うん」

 

 箱を握る指が緩んだ。

 ルークはそれを見て、窓の外へ目を戻した。

 

 

 

 しばらく、車輪の音だけが続いた。

 エミリーが先に口を開いた。

 

「寮は、どこに入りたい?」

 

 ルークは彼女を見る。

 

「選べるのか?」

「自分で決めるわけじゃないけど。希望とか」

「その前に、いくつあるんだ」

 

 エミリーは少し姿勢を直した。

 

「四つ。グリフィンドールと、ハッフルパフと、レイブンクローと、スリザリン。同じ寮の人たちと寝起きして、談話室も一緒なの」

「どうやって分ける?」

「組分けっていうのをするんだって」

「何をするんだ」

「それは……行けばわかるって」

 

「こっちは、何でもそれだな」

 

 エミリーが笑った。今度はルークも、少し笑う。

 

「寮によって違うのか」

「グリフィンドールは勇気のある人。レイブンクローは頭のいい人で、ハッフルパフは勤勉で、誠実な人」

「最後のは?」

「スリザリンは、野心のある人とか。頭の使い方がうまい人、なのかな。お父さんの説明だと、あまりよくわからなかった」

 

 ルークは四つの名前を頭の中で繰り返した。

 何を基準にするのか、わかったようでわからない。

 

「お前は?」

「ハッフルパフか、グリフィンドールがいいな。お母さんがハッフルパフで、お父さんがグリフィンドールだったから」

「別々でもいいのか」

「もちろん。お母さんはハッフルパフが一番って言うし、お父さんはグリフィンドールが一番だって言うけど」

 

 エミリーは肩をすくめた。

 

「二人に一緒に聞くと、話が終わらなくなるの」

 

 ルークは窓辺に肘をついた。先ほどホームで手を振っていた二人の姿を、ぼんやり思い出す。

 

「ルークは?」

「俺はどこでもいい」

「本当に?」

「寝るところがあって、飯が出るなら」

「それは、どの寮でも同じだと思うけど」

「じゃあ、どこでもいい」

 

 エミリーは少し考えてから、頷いた。

 

「そっか。それなら、一緒になれたらいいね」

 

 ルークは彼女を見た。

 

「……俺と?」

「うん」

 

 あまりに簡単に頷くので、次の言葉が出てこなかった。

 荷物を運ぶのを手伝っただけだ。蛙も捕まえたが、それだけである。さっきは、少し嫌な言い方もした。

 エミリーは返事を待っていた。何かを頼む前の顔にも、お世辞を言っている顔にも見えない。

 ルークは肘を窓辺から下ろし、選びながら言葉を口から出す。

 

「……そうだな。一緒なら、いいな」

 

 言い慣れない言葉が、少しつかえた。

 エミリーは気にした様子もなく笑い、膝の上の箱を片づけ始める。

 ルークは窓へ顔を向けた。頬は少し赤い。

 畑の向こうに、低い丘が続いている。その景色を眺めながら、さっき教えられた名前をもう一度思い返した。

 

 ハッフルパフと、グリフィンドール。

 

 とりあえず、その二つの名前を胸に刻み、これからの学校生活に少しだけ胸が躍り始めていた。

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