窓の外を流れていた灯りが、少しずつ遅くなった。
車輪が甲高く鳴り、床から伝わる揺れが変わる。ルークは座席の端に置いた手に力を込めた。向かいでは、エミリーが窓硝子に顔を寄せている。
「着いた」
それが聞こえたのと、列車が最後に小さく揺れたのはほとんど同時だった。
通路にはもう生徒が溢れていた。黒いローブの裾が擦れ合い、頭上では籠の中のフクロウが不満そうに鳴いている。ルークはトランクの取っ手を握ったが、前を通った上級生に、荷物は列車に残しておくのだと言われた。
「あとで部屋まで運んでもらえるから」
上級生はそれだけ言って、人の流れに戻った。
ルークは取っ手から手を離さず、もう一度トランクを見た。教科書も、着替えも、ようやく自分のものになった品が全部入っている。
「みんな置いていくみたいよ」
エミリーが通路を覗きながら言った。
確かに、誰も大きな荷物を持っていない。ルークは留め金を指で押して確かめ、最後に取っ手を倒した。
列車を降りると、冷えた空気が頬に触れた。
ロンドンの夜より寒い。湿った土と、石炭の煙の匂いがする。細いホームには小さな灯りが点々と並び、その向こうはほとんど真っ暗だった。
「一年生!一年生はこっちだ!」
人の頭の上から、声が響いた。声につられ、顔を上げた。
ランプが高いところに浮かんでいる。いや、持っている男が大きいのだ。肩幅だけでも大人二人分はありそうだった。豊かな髭と髪の間から、黒い目がこちらを見ている。
「慌てんでいいぞ。足元、気ィつけろよ!」
「大きいね」
エミリーが小声で言った。
「ああ」
ルークは素直に頷いた。あの手に掴まれたら、振りほどくのは無理だ。
上級生たちは大男の前を通り過ぎ、駅の外へ向かっていた。そちらには何台もの馬車が並んでいる。
その一番手前で、黒い馬が首を動かした。
ルークは足を止め、その馬をみていた。ひどく痩せ、皮膚の下に肋骨が一本ずつ浮き、脚の関節が尖っている。長い顔には肉がほとんどなく、白っぽい目がランプの光を受けていた。胴の両側には、畳まれた翼がある。
馬にも翼があるのか。箒で空を飛ぶのだから、馬が飛んだところでおかしくはない。ただ、あの細い脚で馬車を牽けるのだろうか。
人の流れを避けて脇へ寄り、馬の方に近づいていくと、馬の耳がルークの方を向いた。
「お前も痩せてるな」
「誰が?」
隣でエミリーが自分のローブを見下ろした。
「お前じゃない。馬」
「馬?」
ルークが顎で示すと、エミリーは馬車の前を見た。少し背伸びをし、今度はルークのいる側へ半歩移った。
「どこ?」
「そこ。馬車の前だ」
「……何もいないけど」
何いてるんだ、と言おうとしてエミリーの顔をみるが、ふざけている顔ではなかった。
もう一度馬を見る。黒い翼がわずかに開き、薄い膜の下で骨が動いた。馬は鼻先を下げ、地面の匂いを嗅いでいた。
「黒くて、翼があるやつ」
「翼?」
「二つ」
「それは、二つなんだろうけど」
エミリーは眉を寄せた。馬車の御者台の下まで覗こうとして、それからルークに視線を戻した。
「私の立ってるところからだと見えないのかな」
「今、同じところを見てるだろ」
「うん。そうなんだけど」
ルークには見える。エミリーには見えない。
そういうこともあるのかもしれない。何しろ、昨日まで知っていたことでは役に立たない場面が、今日はずいぶん多かった。
「見えないならいい」
ちょうど大男が、もう一度一年生を呼んだ。
ルークは馬から離れた。少し遅れて、エミリーもついてきた。
「触ろうとはしないでね」
「触ってない」
「うん。見えないから、先に言っておこうと思って」
ルークは一度だけ振り返った。
黒い馬の後ろで、上級生が馬車の扉を閉めていた。馬はじっと扉が閉まるのを待っているようだった。
「全員いるな? おれはハグリッド。この森の番人をしちょる。さあ、ついてこい。城に案内するぞ。迷子にはならんようにな。見つけられんくなる」
ランプを掲げた大男が、駅脇の細い道へ入っていった。
道は急な下り坂だった。両側から木の枝が張り出し、先頭の灯りが隠れるたびに、足元まで暗くなる。湿った土に靴が沈み、どこか近くで水の音がした。
「これ、帰りも登るのかな」
後ろから声がした。
ルークが振り向くと、同じ一年生の少年が、木の枝を避けながら歩いていた。
「毎回ここを登るなら、忘れ物はできないな。羽根ペン一本のために途中で死ぬのは嫌だ」
「荷物は運んでもらえる」
「そうじゃなくて、授業に行く時の話。……授業は城の中か。そうだよな」
少年は自分で納得すると、ルークの横に並んだ。
「僕はベン。ベンジャミン・フェンウィック。長いからベンでいい」
「ルーク・ウォルフ」
「私はエミリー・バーチ」
「二人は列車も一緒?」
「ああ」
「いいな。僕のところ、途中から全員寝ちゃってさ。起きてたの、僕とフクロウだけだった」
「フクロウに話しかけたの?」
エミリーが尋ねた。
「三回くらい。三回とも噛もうとした」
ルークは鼻で笑った。
「寝たふりじゃないのか」
「フクロウが?」
「同じ部屋のやつら」
ベンは口を開け、それから笑った。
「それなら、相当うまかったな。一人はいびきまでかいてた」
前の少年が、不意に立ち止まった。ベンがその背中にぶつかりかける。
「そこ、根っこが出てる」
少年は足元を指していた。ルークの靴のすぐ先を、太い木の根が横切っている。
ルークは足を引いて、慎重に足を進める。
「ああ。ありがと」
「喋ってばかりだからだろ」
言い方は少し硬かったが、少年は後ろのエミリーが跨ぐまで待っていた。
「君は?」
ベンが尋ねる。
「エドマンド・クロフト。ネッドでいい」
「ネッドも、一緒の部屋のやつが寝たふりしてた?」
「してない」
「よかった。僕だけか」
「してたって決まったわけじゃないでしょ」
エミリーが笑ったところで、先頭のランプが止まった。ハグリッドが少しこちらを振り返りながら、遠くにいる生徒にも伝わるよう少し声を張る。
「もうじき城が見えるぞ!」
「この曲がり角を過ぎたらだ」
木々の隙間が広がり、その向こうに夜空とは違う黒さが横たわっていた。湖だった。岸辺の小石へ、波が静かに寄せている。
そしてその対岸に、城があった。
最初、ルークには、どこからどこまでが一つの建物なのか分からなかった。岩の斜面に大きな壁が立ち、その上から塔が何本も伸びていた。細い塔もあれば、屋根の太い塔もある。高いところで橋のようなものが建物同士を繋ぎ、さらにその奥にも、明るい窓が続いていた。窓の一つ一つが、遠くからでも分かるほど暖かな色をしている。
湖面には、それが縦に揺れていた。風が吹くと細かく砕け、すぐにまた繋がる。水の上の城まで、本物と同じくらい大きかった。
ルークは首を反らした。ロンドンでも、大きな建物は見た。外から眺め、裏へ回り、通れそうな隙間を探したこともある。これは、裏へ回るだけで日が暮れそうだ。
「でかいな」
隣で、エミリーが何度も頷いた。
ベンも黙っていた。さっきまでの話の続きは、もう出てこなかった。
「舟には四人ずつだ! 押すんじゃないぞ!」
岸には小舟が並んでいた。
ネッドが先に乗り込み、エミリーが続いた。ベンが片足をかけると舟が傾き、彼は両腕を広げた。
「待って。これ、思ったより──」
「真ん中に足を置けよ」
ネッドが腕を掴んだ。
ルークも乗ろうとして、舟縁に乗せた靴を滑らせる。慌てて膝をつき、濡れた板を掴んでなんとか舟に乗り込んだ。
「大丈夫?」
「ああ」
手のひらを拭きながら座ると、ベンが少し安心した顔をした。
「君も滑るんだな」
「靴に目はついてない」
「ついてたら、それはそれで嫌だよね」
舟が岸から離れた。
櫂はなかった。誰も漕いでいないのに、舟は滑らかに水を切って進んだ。ルークは思わず舟縁の外へ目をやり、水面だけが広がっていることを確認してすぐに体を戻した。
岸の灯りが遠ざかる。城から来る光だけでは、舟のすぐ下まで見えなかった。深さも底の様子も分からない。ルークは両足を板の上に揃えた。
「泳げる?」
ベンが小声で聞いた。
「今、試す気はない」
「僕もない」
「揺らさなければいいだろ」
ネッドはまっすぐ座っていた。ただ、その手は舟縁をしっかり握っている。
エミリーは城を見上げていた。
「お母さんが、最初は舟で行くって言ってた。でも、こんなふうだとは思わなかった」
ルークも顔を上げた。
進むにつれて、壁の高さが増していく。明るい窓のいくつかに、人影が動いているのが見えた。あそこに誰かがいる。机や椅子があって、今夜はそこへ入るのだ。
城を見に来たのではない。それを思い出すと、急に膝の上の手をどこへ置けばいいのか、分からなくなった。
やがて舟の列は崖の下へ入り、垂れ下がる蔦に近づいた。
「頭を下げろ!」
ルークたちは一斉に身を屈めた。濡れた葉が髪を掠め、その先に暗い口が開いていた。岩の通路へ入ると、水音が大きくなった。
「城って、こんなところから入るんだな」
ベンの声が反響する。
「正面からじゃないのか」
ルークが言うと、ネッドがこちらを見た。
「正面がよかった?」
「どこに出るのか分からない」
「僕は、早く地面に足をつけるならどこでもいい」
ベンの返事に、エミリーが小さく笑った。
石の階段を登り、濡れた芝生を抜ける頃には、ルークのローブの裾は重くなっていた。
芝生を抜けすぐ、目の前に大きな扉があった。ハグリッドが叩くと大きな音を立てて内側へ開く。
立っていたのは、背筋の伸びた女性だった。
ルークはまずその顔を見た。唇はきちんと結ばれ、視線は列の前から後ろまでを短く確かめている。騒いでいた何人かが、何も言われないうちに静かになった。
「一年生です、マクゴナガル先生」
「ありがとう、ハグリッド。ここからは私が」
静かになったことに一つ頷き、魔女は一歩下がった。
「ホグワーツへようこそ。中へ入りなさい」
玄関ホールは、外から想像していたよりも明るかった。石壁に松明が燃え、広い階段が上へ続いている。右手の扉の向こうからは、大勢の話し声と、食器が触れ合う音が聞こえた。
ルークがそちらを見るより先に、腹が鳴った。ベンが自分の腹を押さえたので、どちらの音だったのかは分からなくなった。
マクゴナガルは一年生を脇の小部屋へ入れた。全員が収まると、扉の前で振り返った。
「宴の前に、皆さんの寮を決める組分けを行います。寮はグリフィンドール、ハッフルパフ、レイブンクロー、スリザリンの四つです」
ルークは、列車でエミリーから聞いた名前を頭の中でなぞった。どうやらエミリーの話していたことは本当らしい。
「寮の仲間と寝食を共にし、学校生活を送ることになります。よい行いは寮の得点となり、規則違反は減点となります。個人の行動が寮全体に関わることを、覚えておくように」
魔女の目が、隣同士で何かを囁いていた少年たちに止まった。二人の口が閉じたことを確認して、再度口を開く。
「準備ができたら呼びに来ます。身なりを整えて待ちなさい」
扉が閉まった。その途端、部屋のあちこちで息が漏れた。
ベンが自分の襟を引っ張った。
「何をするんだろう。試験かな」
「帽子を使うらしいよ」
答えたのは、すぐ後ろに立っていた少年だった。両手でローブの皺を伸ばしながら、閉じた扉を見ている。
「列車で上級生に聞いた。被るだけだって」
「本当に?」
「そう言ってた。二人に聞いて、二人とも同じだった」
「二人で相談してたら?」
ベンが言うと、少年は手を止めた。
「……それは、聞いてない」
「帽子からトロールが出てくるのかもしれない」
「じゃあ、被る前に振った方がいい」
ルークがそう言うと三人の目がこちらを向く。
「中にいるなら落ちるだろ」
エミリーが口を押さえた。ベンは声を立てて笑いかけ、慌てて扉を見た。
「それ、先生の前でやってみて」
「お前が先ならな」
「僕、帽子を振る係には向いてないんだ」
「係なんてあるか」
ネッドまで口元を緩めた。
後ろの少年はまだ少し考え、それから首を振った。
「でも、帽子を被るだけなら、魔法が使えなくても大丈夫だよね。僕の家は、誰も使えないから」
「マグルの家?」
エミリーが尋ねると、少年は頷いた。
「僕はヒュー・ペンローズ」
名乗り合っているうちに、ルークは肩に入っていた力が少し抜けたことに気づいた。
その時、壁から白い顔が出てきた。ヒューが短く叫び、ベンの背中にぶつかった。ルークも反射的に身を引いた。
透けた男が壁を通り抜け、こちらを見て帽子を持ち上げた。その後ろから別の白い姿が続き、何事か話しながら向かいの壁へ消えていく。
「幽霊だ」
ネッドが言った。彼も半歩下がっていた。
「知ってる」
ヒューは胸に手を当てていた。
「いるってことは、知ってた」
ルークは幽霊の消えた壁を見た。どうやら扉だけ見ていても仕方がないらしい。
マクゴナガルが戻ってきた時には、誰も扉のすぐ前に立っていなかった。
大広間に入って最初に分かったのは、人の多さだった。
長いテーブルが四列。どの列にも黒いローブの生徒が並んでいる。その顔が、一年生の方へいくつも向いた。
ルークは歩きながら、列の間の幅を見た。左右の壁、奥の扉、教師たちの座る高い場所。人が立ったら通りにくくなりそうなところ。そこまで確かめたところで、視界の上に炎が入った。
蝋燭だった。何本も、何十本も、頭上に浮いている。吊るす紐は見えない。炎は風もないのに小さく揺れ、金の皿や杯に光を落としていた。
さらに上を見て、ルークは足を止めかけた。
空があった。黒い夜空に星が散り、薄い雲がゆっくり動いている。ついさっき湖の上で見た空が、そのまま建物の中に続いていた。
「屋根は?」
思わず声に出た。
「ある。魔法がかかってるんだって」
ヒューも上を向いていた。
「本で読んだ」
「雨は入らないのか」
「入らないはず」
「はず?」
「実際に見るのは初めてなんだ」
それはそうだ。ここにいるみんなそうだろう。ルークはもう一度天井を見た。雲の端から、小さな星が現れた。
柱も梁もない。こんなに高く、こんなに広いものが、落ちてもこない。口が少し開いていることに気づいて、ようやく閉じた。
誰もついてきていないことに気付き、前でネッドが振り返った。ルークは遅れた二歩を急いで詰めた。
教師席の中央にはダンブルドアがいた。
長い銀の髭と、半月形の眼鏡。路地で見た時と同じ顔だった。だが、ここではその両側に教師が並び、正面には何百人もの生徒が座っている。
隣の教師が何かを話しかけると、老人は少し首を傾けて聞いた。別の教師も、その返事を待っていた。
校長だとは聞いていた。
聞いていたが、ルークの中ではまだ、妙なことを言いながら自分を探しに来た老人だった。店を回り、杖を買い、時々こちらの考えを知っているような顔をする。その老人が、この広間の真ん中に座っている。
ダンブルドアが顔を上げた。
一瞬、眼鏡の向こうの目がルークを捉えた。目尻がわずかに細くなる。
それだけだった。
老人は隣の教師へ視線を戻し、ルークも前を向いた。そこにはマクゴナガルが置いた椅子があり、さらにの上に古い帽子が載っていた。
「あれだ」
ヒューが囁いた。
ベンがルークの肘を軽くつついた。振るのか、と言いたいらしい。ルークは気づかなかったふりをした。
ふと、帽子の裂け目が開いて、喋り始めた。この一日で様々な驚きの体験をしたが、まさか帽子まで喋るとは、ルークの予想を常に超えていた。
ざわついていた広間が、ゆっくり静かになる。帽子は節をつけ、四つの寮の性質を歌い始めた。勇気を好む寮。辛抱強さを大切にする寮。知恵を求める寮。そして、望むものへ手を伸ばす寮。
帽子が身じろぎするたび、先端が頼りなく揺れた。
ルークは歌よりも、その裂け目の動きを見ていた。歯はない。舌も見えない。それなのに、ちゃんと言葉になる。
歌が終わると拍手が起こった。ヒューもほっとした様子で手を叩いている。
「名前を呼ばれたら前へ出て、帽子を被って座りなさい。寮が決まったら、その寮のテーブルへ」
マクゴナガルが羊皮紙を広げ、最初の生徒が呼ばれた。
帽子が目元まで被さり、数秒して寮の名を叫ぶ。テーブルの一つが沸き、その生徒が駆けていく。それが何人か続いた。
「バーチ・エミリー」
隣の肩が、ぴくりと動いた。
「行ってくる」
「ああ」
エミリーは一歩踏み出し、ローブの裾を踏みそうになって持ち上げた。椅子に座る直前、こちらを見たので、ルークは小さく顎を上げた。
帽子が下ろされ、先端が傾いた。一瞬の後に裂け目から寮の名前が叫ばれる。
「ハッフルパフ!」
右手のテーブルから、大きな拍手が起こった。
エミリーが帽子を脱いだ。頬を緩め、席を立つ。迎える生徒たちの間に場所ができ、彼女はそこへ座った。
ルークも拍手した。
隣が空いた。ついさっきまで袖が触れそうだったところを、他の一年生が少し詰めた。
自分はまだ、どの寮に行くか決まっていない。ハッフルパフになることもある。それなのに、エミリーが別の列へ行っただけで、列車からここまでの続きが一つ切れたような気がした。
向こうでエミリーが立ちかけた。ルークを見つけると、普通に手を振った。隣に座った女子に何か言われ、笑ってから、もう一度振る。
ルークは胸の高さまで手を上げた。エミリーはそれで満足したらしく、隣の女子との話に戻った。ただ遠くなっただけだった。
「クロフト・エドマンド」
ネッドが背筋を伸ばして前へ出た。
椅子に座っても、膝に置いた手がまっすぐだった。帽子は少し考え、グリフィンドールを告げた。ネッドは帽子を返してから、足早に席へ向かった。
ベンの番が来ると、彼は一度、袖で手のひらを拭いた。
「中に何かいたら、教えてくれ」
ルークが言うと、ベンは振り向いて困った顔をした。
「今それ言う?」
ベンもグリフィンドールだった。
席に着くなり、ネッドに何か話しかけている。返事は聞こえなかったが、ネッドの肩が小さく動いた。
何人も呼ばれ、一年生の列が短くなっていった。
メアリー・ハートリーという女子がハッフルパフへ向かい、エミリーの近くに座った。ヒューは帽子を被る直前まで椅子の脚を見ていたが、レイブンクローと告げられると、急に顔を上げた。
やがて、ルークの前にはほとんど誰もいなくなった。
「ウォルフ・ルーク」
自分の名前が、広間に通った。ルークは椅子へ歩いた。
足音が妙にはっきり聞こえる。向きを変えると、四つのテーブルが全部こちらを向いていた。知っている顔を探しかけ、やめた。
座面にはまだ前の生徒の温もりが残り妙に生暖かい。
帽子が頭に載った。縁が目の上まで落ち、広間が茶色い布の陰に隠れた。
『さて。よく見ている子だ』
声が頭のすぐ内側でした。ルークの指が、椅子の縁を掴んだ。
『扉に、人の手に、足元。ここへ来ても、逃げる道を探している』
見ていたのか。
『お前が見たものを、私も見ているのさ』
ルークは眉を寄せた。
だったら、何も考えない方がいい。
『それは難しい注文だね。慎重で、機転も利く。必要なら嘘もつくし、相手の望むものを使って道を開く。どの寮でもうまくやっていける。スリザリンもいい選択肢だ』
帽子の中が、少し暑かった。
『だが、お前は逃げ道を見つけても、いつも最初に通るわけではない』
ルークは何も答えなかった。勤めて、何も考えないようにしていた。
『誰かを通したあと、自分はそこに残る。出口を塞いで、追ってくる者を待つ側になる』
椅子を掴む手に力が入った。後ろから来られたら、走るのが遅いやつは捕まる。反射で思考してしまう。
『なるほど』
声が少し和らいだ気がした。
『自分の守りたい者を置いていけないわけだ。ならば──』
「グリフィンドール!」
声が響く。今度は頭の中ではなく、外から聞こえてきた。続いて大きな拍手。その音に押されるように、ルークは帽子を持ち上げた。
明るい。光が少しだけ眩しく感じる。
グリフィンドールの机の方を見ると、ベンが片手を上げている。ネッドもこちらを見て手を叩いていた。
ルークは帽子を返し、テーブルへ向かった。席を探して歩いていると、少し年上の少年が長椅子を指した。
「そこ、空いてるぞ」
丸い眼鏡の奥に、自信ありげな目があった。黒髪はひどく跳ねている。自分の隣へ新入生が来ることを、当然のように受け入れる声だった。
「ありがとう」
ルークが座ると、その向かいの黒髪の少年が口を開いた。
「ポッターが足をどければ、もう一人座れる」
「どけてるだろ、シリウス」
「今どけた」
少し先で、胸にバッジをつけた少年が笑いを堪えていた。
「リーマスまで、そっちにつくのか」
「何も言ってないよ」
「ピーター、君は見ただろ?」
「うん。今どけた」
丸顔の少年が答え、四人の間で笑いが起こった。
ルークはその輪の端で、自分の膝を椅子の下へ入れた。斜め向かいからベンが身を乗り出す。
「トロール、いた?」
「いなかった」
「よかった」
「お前の時に出たんだろ」
ベンは一瞬黙り、それから、テーブルに肘をついて笑った。
最後の生徒が席に着くと、ダンブルドアが立ち上がった。
広間の声が収まり、それを待ってから口を開く。
「新しく来た諸君も、戻ってきた諸君も、ようこそ。今夜は長旅で疲れたじゃろう」
老人はテーブルを見渡した。
「話は食後にしよう。空腹で聞く注意事項は、必要以上に長く感じるものじゃからな」
あちこちで笑いが起きた。
「さあ、おあがり」
皿の上に料理が現れた。空だった大皿に、肉が積まれている。焼けた皮のついた鶏。薄く切られた牛肉。湯気の上がるジャガイモ。豆、ニンジン、ソーセージ。パンの籠までいっぱいになっていた。
匂いが一度に届いた。空腹にはあまりにも激しい刺激だった。
前の生徒が皿を取り、隣の生徒が肉を切り始める。待つ者はいなかった。
ルークの手もパンへ伸びる。一つ掴み、次の一つに指をかけて止まる。籠の向こうにも、同じ籠があった。その先にもある。
これだけあれば、何日食べられるだろう。
トムなら、まず一人何個かを数える。小さいやつには柔らかいところをやって、残りを──。
「それ、回してくれる?」
ネッドが肉の大皿を指していた。
我に返り、ルークは皿を持ち上げた。思ったより重く、反対側をベンが支えた。
「すごいな。全部食べていいのかな」
「食べられるだけにしろよ」
ネッドはそう言いながら、自分の皿にジャガイモをもう一つ載せた。
ルークは手元のパンを見た。ここで食べずに座っていたところで、ロンドンにいる子供たちの腹が膨れるわけではない。
パンを割ると、中はまだ温かかった。肉を取って、豆を少し載せた。最初の一口を飲み込むと、急に次が欲しくなった。しばらく話す気にはなれなかった。
「君、食べるの早いな」
ベンが言った時、ルークの皿は半分空いていた。
ルークは顔を上げた。
ベンは責めるでもなく、肉にかかったソースをパンで拭っている。
「もっと取る?」
「……あとで」
「僕、これとこれ、どっちから食べるか決められない」
「両方食べればいいだろ」
ネッドが言った。
「だから、どっちからって話」
ベンの皿には、もう両方載っていた。
その様子を見て少し呆れてしまい、食事のペースが少し落ち着く。
皿が空になっても、誰も下げなかった。隣の生徒はお代わりをし、その向こうでは肉を取る順番で揉めている。だが、揉めている二人の皿にも、十分すぎるほど料理があった。
ルークはもう一切れ、肉を取った。
食事が進むと、頭の上を幽霊が通った。近くの生徒が慣れた様子で挨拶をし、ベンが口に入れたまま見上げたせいで咳き込んだ。
ネッドが杯を押してやる。
ルークはハッフルパフのテーブルを見た。
エミリーは隣の女子と、皿を挟んで何か話していた。こちらに気づくと、自分の皿を指し、嬉しそうに眉を上げた。
何かうまいものを見つけたらしい。ルークも自分の皿を少し持ち上げてみせた。
エミリーが笑った。
やがて大皿が消え、代わりに菓子が現れた。
「まだあるのか」
今度は、ルークも声に出した。
「別だよ」
ベンが即座に言った。
「何が」
「入るところ」
ネッドが呆れた顔をしたが、彼の手も菓子に伸びている。
ルークは小さく切った糖蜜タルトを一つ取った。甘かった。思っていたよりずっと甘く、飲み込んだあとも舌に残る。もう一つ取るか迷っているうちに、ベンが大きな欠片を取った。
意を決して、ルークも同じ皿へ手を伸ばした。
食後の注意は、聞こうとしてもところどころ頭から抜けた。
森へ入ってはいけないこと。廊下で魔法を使わないこと。寮を離れてよい時間と、授業についての連絡。監督生について、バッジと役割、そして一年生はその指示に従うこと。そういえば近くにいたリーマスと呼ばれていた少年の胸にもバッジがついていたな、と眠い頭で考えて意識を保つ。
とにかく腹がいっぱいだった。暖かかった。朝から乗っていた列車の揺れが、まだ体のどこかに残っている。
ルークは眠気に気づくたび、足の指を靴の中で動かした。これなら食前に話した方が良かったのではないか、と一瞬頭をよぎった。
ようやく長椅子が鳴り、皆が立ち上がる。
グリフィンドールの一年生は、監督生の呼ぶ方へ集められた。ルークが列に入ろうとすると、背後から名前を呼ばれた。
エミリーだった。
「グリフィンドールだったね」
「ああ。君は母親と同じだな」
「うん。手紙、書こうと思って。もう着いたって。ルークも──」
彼女の言葉が止まった。
ルークが黙って見返すと、エミリーは指先で袖口をつまんだ。
「ごめん。また、勝手に聞いた」
「手紙なら書く」
少し間を置いて、ルークは言った。
「向こうにいるやつらに」
「そっか」
エミリーは頷いた。誰に、とは聞かなかった。
後ろからハッフルパフの監督生がエミリーを呼んだ。
「行かなきゃ。また明日ね」
「ああ」
彼女は小走りで戻り、待っていた女子と並んだ。
ルークが見送っていると、ベンが廊下から顔を出した。
「こっちだって。置いていかれたら、僕は部屋を見つけられない」
「お前だけか?」
「たぶん君も」
それは否定できなかった。大階段を登り、廊下を曲がった。肖像画の男がこちらを見て欠伸をした。別の絵では、椅子に座った魔女が隣の額縁へ話しかけている。
ルークが振り向むと絵の中の椅子は空になっていた。
「先へ進んで」
監督生に言われ、慌てて歩き出した。
階段の踊り場へ出たところで、前の列が止まった。足元から石が擦れる低い音がする。向こうへ続いていた階段が、ゆっくり動いていた。
ルークは手すりを掴んだ。階段の端が元の廊下を離れ、何もない空間を通って、別の壁へ向きを変える。
ベンが口を開けた。
「今、動いた?」
「見てただろ」
ネッドの声も、少し高かった。
「向こうへ行くつもりだったらどうするんだ」
ルークは、階段が離れた廊下を見た。
「待つか、別の道を使う。慣れるよ」
監督生が答えた。
ルークは下を覗いた。何階も下に、別の階段と踊り場があった。
道を覚えても、その道が勝手に変わる。あまりいい仕組みとは思えなかった。
次の廊下で、ルークは覚えていた曲がり角へ向かいかけた。
「そっちじゃない」
ネッドに袖を引かれた。監督生たちは反対側へ曲がっていた。
「さっき、こっちから来なかったか」
「一つ下の階だろ」
ネッドは少し得意そうだった。
ルークは廊下の壁を見た。さっきも、同じような鎧が立っていたはずだ。
「紛らわしい」
「鎧のせいにするなよ」
ベンが笑った。
何度目かの階段を登ったところに、大きな肖像画があった。桃色の衣装を着た太った婦人が、こちらを見下ろしている。
「まあ、新入生ね」
「合言葉は『焼き栗』です」
監督生が皆へ聞かせるように言った。
「忘れないこと。グリフィンドール以外の生徒にも教えないで」
「焼き栗」
ベンが小声で繰り返した。
「また何か食べたくなるな」
「まだ入るのか」
「分からない。試してないから」
肖像画が前へ開いた。
その向こうには人一人通れるくらいしかない穴があった。生徒が一人ずつ、身を屈めて通っていく。
ルークは入口の厚みを見た。二人が並ぶことはできない。内側から押さえるなら──。
「何見てるの?」
ベンが後ろから覗いた。
「狭いなと思って」
「君が通れなかったら、僕たち全員無理だよ」
「一人ずつしか入れない」
「普通、そこで困るのは荷物の大きさじゃない?」
ルークは返事をせず、穴を通った。
出た先には、赤い部屋があった。
壁にも、椅子にも、絨毯にも赤が使われている。金色の模様が火の明かりを受け、暖炉の前には柔らかそうな肘掛け椅子が集まっていた。古い木と、薪と、人の暮らす匂いがした。
大広間ほど広くはない。天井を見上げなくても、部屋の端まで見渡せた。
中では上級生たちが慣れた様子で椅子を取り合い、机に荷物を置いていた。誰かが夏休みの話を続け、別の誰かはもう本を開いている。
ルークは暖炉に目を留めた。薪は十分にあった。火掻き棒もある。
「ここが談話室。男子の寝室はこちら。女子は反対側です」
監督生が階段を示した。
ベンは近くの肘掛け椅子に手を置き、少し押してから、名残惜しそうに離れた。
「明日、あそこに座ろう」
誰に言ったのか分からなかったので、ルークは返事をしなかった。ただ、椅子の場所は覚えた。
寝室の扉には、一年生男子と書いてあった。
中は丸い部屋だった。窓と窓の間に、柱のついたベッドが並んでいる。赤い帳が垂れ、結び紐には金色が混じっていた。ベッドの足元には、それぞれトランクが置かれている。
ルークは自分の名前を見つけ、そして入口で止まった。そこには自分のトランクがある。留め金の脇についた擦り傷も、取っ手の向きも、列車に置いてきたものと同じだった。
「あ、僕の」
ベンが隣を抜けていった。
ネッドは窓に近いベッドの前で屈み、トランクの蓋を開けていた。
ルークは自分の荷物まで歩いた。持ち手につけた名前札を裏返す。
ルーク・ウォルフ。自分で書いた文字だった。そのすぐ後ろに、ベッドがある。上掛けは端まで平らに伸ばされ、枕は頭の方に一つ置かれていた。誰かの荷物が載っているわけでも、あとから来る誰かのために空けてあるわけでもない。
「そこ、君のだろ?」
ベンが言った。
ルークは名前札から目を離し、ベッドを見る。
「そうらしい」
「僕、隣だ」
ベンは靴を脱ぐと、ベッドの端へ座った。体が少し沈み、嬉しそうにもう一度腰を弾ませる。
ルークの指先が、毛足の短い布を撫でた。乾いていて、掌で押すと、その下まで柔らかかった。
「何かついてる?」
「いや」
ルークも腰を下ろしてみると、思ったより沈んだので、両足で床を踏ん張った。
その様子を見てベンが笑って言う。
「僕も今、そうなった」
ルークはもう一度、少しだけ体重をかけた。
今度は分かっていた。それでも、腰から背中にかけて変な感じがした。
ベッドの下には何もない。床は掃かれていて、隅に破れた布や食べかすも落ちていない。窓から隙間風が吹き込むこともなかった。
ルークはトランクを開け、上の方に入れていた着替えを取り出した。中身は動いていたが、なくなったものはなさそうだった。
ネッドは教科書を一冊出し、表紙を確かめてから戻していた。
「明日、何からだろうな」
「朝食」
ベンが答えた。
「授業の話だ」
「朝食の前に授業があるとは思いたくない」
ネッドは呆れた顔で蓋を閉じた。
ルークはローブを脱いだ。裾はまだ少し湿っている。椅子の背にかけ、靴を揃えたあと、ベッドの下へ半分だけ押し込んだ。すぐに履ける向きにした。
「ルーク」
ベンは寝間着の袖に片手を通しながら言った。
「明日、一緒に朝食へ行こう」
ルークは顔を上げた。
一緒に行く。食べる場所は同じだ。取り分を奪い合う必要もなさそうだし、見張りを立てる場所でもない。
「何で?」
口に出してから、ベンの手が止まった。
「何でって……一緒に行けばいいかなと思って」
「道が分からないから?」
「それもあるけど」
ベンは頭を袖に突っ込みかけて、違うと気づいたらしい。いったん腕を抜き、首の穴を探した。
「嫌ならいいよ。寝坊するかもしれないし」
ルークはベッドの端を見た。
路地で誰かと出かける時は、何をするか決まっていた。食べ物を探す。使えるものを拾う。見張りをする。小さい子を一人で歩かせない。
ベンは、そういう話をしていなかった。
「嫌じゃない」
ルークは答えた。
ようやく寝間着から顔を出したベンが、少し笑いながらこちらを見た。
「じゃあ、起きたら声かける」
「ああ」
「ネッドも来る?」
「起きてれば」
「起こすよ」
「自分で起きる」
ベンは肩を竦めた。
「じゃあ、僕が起きなかったら起こして」
「自分で起きろよ」
ルークが言うと、ネッドが声を立てて笑った。
部屋の向こうでも、別の一年生が笑っていた。ルークはそちらを見て、つられて少し口元を緩めた。
窓の外は暗かった。着替えを終えた生徒から、次々にベッドへ入っていった。帳を全部閉める者もいれば、半分だけ開けておく者もいる。
ルークは自分の帳の端を引いた。
厚い布が、柱の間を滑った。全部閉じると、扉が見えなくなる。半分だけ戻した。
枕の横に杖を置き、上掛けを持ち上げる。
白いシーツは冷たかったが、足を入れてしばらくすると、その冷たさが消え、心地よい温もりが広がる。
横になると、自分一人のための場所が、肩の先にも足の先にも余っていた。壁際へ寄せる必要はなかった。あとから誰かが来るからと、膝を曲げる必要もない。
ルークは天蓋の内側を見た。赤い布が四本の柱の上に渡っている。これも全部、このベッドの一部なのか。
「おやすみ」
ベンの声がした。
「ああ」
ルークは少し遅れて答えた。
「おやすみ」
灯りが消えた。
しばらくして、ベンの寝返りの音がした。それから、何か言いかけたような小さい声。
「なあ、明日……」
ルークは顔を向けた。続きはなかった。
待っているうちに、規則正しい寝息が聞こえ始めた。
ルークはまた上を向いた。
眠くないわけではなかった。目の奥は重い。足も疲れている。湖から城まで登った時より、今の方がよほど体がだるかった。
それでも、耳が勝手に音を拾った。
どこかで木が鳴った。廊下を歩く足音がして、遠ざかった。
ルークは枕の横へ手を伸ばし、杖を握った。
扉は閉じている。内側に人影はない。窓の留め金は、寝る前に確かめた。外は高かった。下を覗いても、地面まではよく見えなかった。
もう一度確かめようかと思ったが、上掛けから出るのが少し億劫だった。
路地なら、火を見に行く頃だった。燃え尽きそうなら、細い木を足す。湿っていれば煙が出るから、よく乾いたものを選ぶ。小さい子が咳をしている夜は、水を手の届くところへ置いておく。誰かが近づいてくれば、足音で分かった。知らない声がすれば起きる。知っている声でも、酔っていれば起きた。
他の誰も起きていなければ、ルークが起きていた。
今夜は、誰が。考えかけて、ルークは扉を見た。部屋の中では誰も起きていなかった。
ネッドのベッドから、布が擦れる音がした。寝返りを打っただけらしく、すぐに静かになった。もう一人は少し鼻を鳴らしていた。ベンは、明日の何を言いかけたのかも忘れて眠っている。
誰も、順番を決めなかった。
ルークに何かを頼む者もいなかった。そのままで眠ってしまった。
階下には、まだ人がいるのかもしれない。途中ですれ違った上級生は、眠そうではなかった。教師たちもいた。ハグリッドも、マクゴナガルも、この城のどこかにいるのだろう。
だが、誰が何を確かめているのか、ルークは知らなかった。知らないのに目を閉じるのは、落ち着かなかった。
杖を握り直した。
ベンが眠ったまま、何か不満そうに鼻を鳴らした。それきりだった。
ルークはそちらをしばらく見ていた。
明日、一緒に朝食へ行こう。起きたら、そこにベンがいる。自分のトランクもある。ベッドも、たぶんこのままだ。
朝早く出たら場所を取られる、と考えて荷物を残す必要はない。帰ってきた時に別の誰かが寝ていたら、追い出すために揉める必要もない。足元に自分の名前がある。
ルークは上掛けを顎の下まで引いた。
布の中は、もう冷たくなかった。
遠いところで、鐘が鳴った。いくつ鳴ったのか数えている途中で、分からなくなった。ルークは目を開け直した。扉は同じところにあり、何も変わっていなかった。
少しだけなら。誰かが動けば、音は聞こえる。杖も、ここにある。
ルークは目を閉じた。
火を足しに行かなくても、部屋の暖かさは変わらなかった。隣の寝息も、その向こうの寝息も、途切れず続いていた。
今夜は、自分が起きていなくてもいいのかもしれない。
握っていた指が、一本ずつ緩んだ。
ルークは杖を枕の横に残し、手を離した。その手を上掛けの中へ戻したあと、次の物音を待つ前に、眠りに落ちた。