もう一つの英雄譚   作:FeIron

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第5話

 赤い布が見える。頭の上にも、右にも左にも。隙間から差し込んだ朝の光が、毛布の端を細く照らしていた。

 目を開けてからしばらく、ルークは自分がどこにいるのか分からなかった。寝返りを打ちかけ、そこで止まった。

 肘をついても、身体の下で何かが軋んだり、尖ったものが背中に当たったりしない。昨夜脱いだ靴は寝台の下に揃っていて、枕元には杖がある。

 

 そうだった。

 カーテンを開けると、向かいの寝台でベンが眠っていた。毛布を腹の辺りまで蹴り下げ、片腕を頭の上へ投げ出している。

 窓際ではネッドがシャツの袖に腕を通していた。

 

「もう起きてたのか」

 

 ルークが言うと、ネッドは顔を上げた。

 

「目が覚めた」

 

「鐘でも鳴るのかと思ってた」

 

「鳴るまで待って、朝飯を食べる時間がなかったら嫌だろ」

 

 朝食の話を聞き、思い出したかのようにルークの腹が鳴る。そして着いてくる空腹感。朝食を食べろ、と体が言っていた。

 ルークは寝台を下りてトランクを開けた。畳んだシャツを持ち上げると、その下に教科書が並んでいる。昨日までは重い荷物だったが、今日から本領発揮される物々だ。けれど今必要ではない。トランクからはシャツだけ出して、またベッドの下に押し入れた。

 

 着替えを終えても、ベンは起きていなかった。

 ネッドが寝台の柱を叩く。

 

「ベン」

 

「…起きてる」

 

「だったら起きろ」

 

 まどろみの中からの一言のあと、返事はなかった。

 その間にルークは床に落ちていた靴を拾った。もう片方は寝台の脚に引っかかっている。両方を揃え、ベッドの傍に置いた。

 

「朝飯、行くぞ」

 

 ネッドの急かす声と朝飯という単語でベンの目が開く。

 

「待って」

 

 起き上がろうとして毛布に膝を取られ、一度前へつんのめる。それから靴を掴み、まだ半分閉じた目で二人を見た。

 

「何で二人とも、そんなに早く着替えられるの」

 

「お前が寝てたからだ」

 

 ネッドが言った。

 

「なるほど」

 

 ベンは納得したように頷き、靴を床へ下ろした。

 

 寮を出るまでに、もう少しかかった。

 ベンが本を選んでいる間にネッドが顔を洗い、ネッドが鞄を閉じたあとで、ベンが片方の靴下を探し始めた。ルークは入口に立っていたが、途中から待つのをやめ、自分の教科書を開いた。

 結局、教科書は最初の数ページまでしか読めなかった。

 

 

 

 

 朝の城は、昨夜とは違う場所のように見えた。

 高い窓から陽が差し込み、石の床を白く照らしている。壁に掛かった肖像画の中では、老人が椅子に座ったまま居眠りをしていた。その隣の絵には誰もいない。

 廊下の突き当たりまで来たところで、ベンが足を止めた。

 

「こっちだっけ?」

 

「右」

 

 ルークとネッドの声が重なった。

 

「よかった。僕もそう思ってた」

 

「左を見てたぞ」

 

「念のため」

 

 階段を下りると、大広間から食器の触れ合う音が聞こえた。

 ルークは入口で少しだけ歩調を緩めた。長い机の上に、パンと卵とソーセージが並んでいる。湯気の立つポットがあり、手前の生徒が大きな皿から好きなだけ料理を取っていた。どうやら食べ放題なのは昨夜だけではなかったらしい。

 ベンが腰を下ろし、その隣の席を叩いた。ルークがそこに座って皿を引き寄せた。パンを一切れ取り、卵を載せる。まだ温かい。

 隣でベンがジャムの瓶を開けようとしていた。

 蓋をひねり、顔をしかめ、今度はローブの裾で包んでひねる。

 

「貸せ」

 

 ネッドが手を出した。

 受け取った瓶を一度机に置き、蓋を回す。軽い音がして開いた。

 

「緩めといたんだ」

 

 少し得意げなネッドを見ながら、悔し紛れにベンが言った。

 

「そうか」

 

 ネッドは瓶を返し、自分のパンを取った。

 朝食の途中で、マクゴナガルが羊皮紙を配りに来た。

 

「一年生。時間割です。教室と時刻を確かめておきなさい」

 

 ルークは皿を避けて紙を広げた。

 何本もの線で区切られた中に、科目の名前が詰まっている。

 変身術。呪文学。魔法薬学。薬草学。魔法史。天文学。

 文字を追っていると、ベンが横から覗き込んだ。

 

「最初は変身術だ」

 

「ああ」

 

「先生についていけばいいんじゃない?」

 

 マクゴナガルは、少し先で上級生に何かを尋ねられていた。

 

「まだ食ってる」

 

「そうなんだよね」

 

 ベンは皿を見下ろした。

 結局、空腹には抗えない。朝食を優先していたら、マクゴナガルは大広間から姿を消していた。

 

 大広間を出ようとしたところで、ハッフルパフの机から手が上がった。

 エミリーだった。隣に座った少女へ何かを話しながら、こちらを見ている。

 ルークも片手を上げた。

 

「列車で一緒だった子?」

 

 ベンが訊いた。

 

「ああ」

 

「もう友達ができてる」

 

 エミリーは隣の少女と顔を寄せ合い、時間割を比べていた。

 ルークは、昨日の列車で自分に話しかけてきたときのことを思い出した。たぶん、あの少女にも同じように話しかけたのだろう。

 歩き出すと、ベンとネッドがついてきた。

 

「お前、道分かる?」

 

 ルークはネッドを見た。

 

「変身術の教室までは知らない」

 

「じゃあ、何でついてくるんだ」

 

「お前が知ってるのかと思った」

 

 三人は玄関ホールで立ち止まった。

 

 

 

 結局、上級生に道を訊いた。

 教わったとおりに階段を上り、廊下を曲がったはずだったが、ルークが開けた扉の向こうには箒とバケツが詰まっていた。

 

「まだ準備中なのかな」

 

「そんなわけないだろ」

 

 ベンが後ろから扉の中を覗きながら言った言葉に、ルークが返しながら扉を閉めた。

 

 結局教室は、その一つ先の角を曲がったところにあった。

 まだ席の半分ほどしか埋まっていなかったので、遅刻はしていないようだった。ルークが鞄を置くと、ベンが隣へ座り、ネッドは一つ前の机を選んだ。

 教室の正面に黒板がある。その前には大きな机があり、小さな木の杯が一つ置かれていた。

 

 ルークが教科書を出していると、マクゴナガルが入ってきた。

 教室の話し声が自然に小さくなる。

 

「杖はしまっておきなさい。まず、説明を聞くこと」

 

 みんなの机の下へ手が引っ込む。

 ベンも慌てて杖を置いた。

 

 マクゴナガルは教壇の前に立ち、生徒たちを見渡した。

 

「変身術では、対象の形や性質を変えます。何を変え、何を保つのか。出来上がったものが、どういう状態であるべきか。そこを曖昧にしたまま杖を振らないように」

 

 教授は木の杯を持ち上げた。

 

 ルークは身を乗り出した。

 杖が動く。杯の縁がすぼまり、胴が伸びた。木目が消え、表面を銀色の光が走る。下の方が三つに分かれたと思うと、教授の手には細い燭台が載っていた。

 誰かが息を呑んだ。

 ルークは燭台をじっと見つめた。

 杯を隠したのではない。別のものと取り替えたのでもない。さっきまで指を掛けられそうだった丸い縁が、今は細い皿になっている。狐に化かされた気分だった。

 マクゴナガルが燭台を机に置いた。三本の脚が、金属の硬い音を立てた。

 

「皆さんが最初に扱うのは、もっと小さなものです」

 

 教授の杖が再び動く。

 燭台は縮み、木の杯へ戻った。

 ルークは手を上げた。

 

「ウォルフ?」

 

「変えたあとで割れたら、戻せば直るんですか」

 

 マクゴナガルは杯を置いた。

 

「元の姿へ戻すことと損傷を修復することは、同じではありません。変身術を解けば何もかも元どおりになるとは考えないこと」

 

「分かりました」

 

 ルークが手を下ろすと、ベンが小声で訊いた。

 

「何か割るつもり?」

 

「違う」

 

 マクゴナガルの目がこちらへ向いた。

 二人は口を閉じた。

 

 最初の課題は、マッチ棒を針に変えることだった。

 回ってきた箱から一本取り出し、机の上へ置く。

 何の変哲もないマッチだ。赤い頭があり、軸の側面には細かな木目が見える。

 ルークでも針なら知っている。先が鈍いと布に通らず、無理に押せば曲がる。糸を通す穴の縁が荒れていると、何度か縫ううちに糸が切れる。

 ルークは黒板の図を見た。

 形だけでは足りない。教授はそう言っていた。

 

 説明が終わり、ようやく杖を持つことを許された。

 教室のあちこちで、教わったばかりの呪文が唱えられる。

 ルークもマッチに杖を向ける。

 最初の一度では、何も起こらなかった。

 言い終えたあともマッチ棒を見ていたが、やはり何も変わらない。

 ルークは黒板を見直し、教授が示した杖の動きを思い返した。

 

 もう一度。

 赤い頭が消えた。

 ルークは息を止めた。

 軸の端が細くなり、木の色が薄くなっていく。途中で変化が止まり、先だけが銀色になった棒が残った。

 

「動いた?」

 

 ベンが顔を寄せた。

 

「少し」

 

「僕の、焦げたかもしれない」

 

 隣の机には、頭の辺りが黒くなったマッチがあった。

 ルークは自分のものへ目を戻す。

 先が変わったところで、そちらばかり見てしまった。まだ半分以上、木のままだ。

 次は全体を見よう。

 呪文を唱えると、棒がわずかに縮んだ。表面の木目が消え、窓からの光を細く返す。

 ルークは杖を下ろしたとき、机には針があった。

 

「先生」

 

 ベンの声が、思ったより大きく響いた。

 

「ルークの、できました」

 

 マクゴナガルが机の間を歩いてきた。

 ルークは針へ伸ばしかけた手を引く。

 教授はそれを持ち上げ、眼鏡の向こうで回した。

 

「早いですね、ウォルフ」

 

 前の席でネッドが振り返った。その向こうからも、何人かがこちらを見る。

 

「形はよく捉えています。ただし、ここを」

 

 マクゴナガルが針の端を示した。

 糸を通す穴の内側に、薄く木の色が残っている。

 

「目につきにくい部分まで確かめること」

 

「はい」

 

「続けなさい」

 

 針が机へ戻された。

 ルークは顔を針に近づけた。

 あんなに小さいところへ木が残っているのが、不思議だった。全体を変えたつもりだったのに、そこだけ置き去りになっている。

 もう一度、杖を向けた。

 授業が終わる少し前、マクゴナガルは再びルークの机に立ち寄った。今度は針を持ち上げると、短く頷いて言う。

 

「結構。グリフィンドールに五点」

 

 ベンが笑った。

 

 ルークは返された針を指の腹に載せた。

 冷たかった。軽く押すと、先が皮膚に食い込む。

 さっきまで木だった。

 指を動かし、針を転がすと、銀色の表面が光った。

 糸を通してみたかった。

 

 

 

 教室を出てからも、ベンは自分のマッチ棒の話をしていた。

 

「最後には尖ったんだよ」

 

「見た」

 

「穴さえ開けば、だいたい針じゃない?」

 

「木だろ」

 

「折れやすい針」

 

 ネッドが後ろから追いついてきた。

 

「お前、家で練習してたのか」

 

 ルークは振り返った。

 

「変身術?」

 

「ああ」

 

「今日、初めて」

 

「教科書は?」

 

「少し読んだ」

 

 ネッドは頷いた。

 それからルークの鞄を見た。

 

「どこまで?」

 

「今日やったところの、少し先」

 

「僕もそこまでは読んだ」

 

 何と答えればいいのか分からず、ルークは黙った。

 ネッドはそのまま横へ並び、前を向いた。

 廊下の角でベンが左へ曲がりかける。

 

「そっちは物置」

 

 ネッドが言った。

 

「まだ覚えてないのか」

 

「僕は開けてないから」

 

 ベンがルークを見る。

 ルークは前を向いて歩いた。

 

 昼食のあと、エミリーが大広間の外で待っていた。

 隣には、朝も一緒にいた少女がいる。暗い焦げ茶色の髪を左右の三つ編みにして、胸の前に教科書を抱えていた。

 

「授業、どうだった?」

 

 エミリーはルークの顔を見るなり訊いた。

 

「針を作った」

 

「針?」

 

「マッチから」

 

「できたんだ。私たちは明日なの」

 

「五点もらったんだよ」

 

 ベンが横から言った言葉に、エミリーは目を丸くした。

 ルークはベンを見た。朝から自分で話す前に、だいたい彼が話してしまう。

 

「すごいね。どうやるの?」

 

「説明は、先生に聞いた方がいい」

 

「厳しい先生?」

 

「喋ると見る」

 

 ベンがすぐに頷いた。

 

「遠くにいても見る」

 

 エミリーが笑った。

 隣の少女も、少し口元を緩めた。

 

「あ、紹介してなかった。メイ。同じ部屋なの」

 

「メアリー・ハートリー。メイでいいよ」

 

「ルーク・ウォルフ」

 

「僕はベン。こっちはネッド。三人とも同じ部屋」

 

 ベンがまとめて言うと、ネッドが軽く頭を動かした。

 メイはルークを見た。

 

「針の穴も開いた?」

 

「ああ。最初はそこだけ木が残ったけど」

 

「最後には?」

 

「変わった」

 

「そうなんだ」

 

 メイは抱えていた教科書を見下ろした。

 

「絵が小さくて、そこまで作るのか分からなかったの」

 

「穴がなかったら縫えないだろ」

 

「うん。だから気になってた」

 

 エミリーが時間割を取り出した。

 ルークのものと並べ、指で科目を追う。

 

「呪文学、一緒だね。明日の朝」

 

「こっちの教室は分かるのか」

 

「まだ。でも、今なら探せるでしょう」

 

 ルークは窓の外を見た。

 次の授業まで時間はあった。

 

「行くか」

 

 五人で階段を上った。

 エミリーとベンが先に話し始め、ネッドが時間割に書かれた教室の場所を確かめる。メイは一度立ち止まり、来た道を振り返った。

 

「どうした?」

 

 ルークが訊いた。

 

「帰るとき、どっちだったか分からなくなりそうだから」

 

 ルークも振り返った。

 曲がり角には、鼻の欠けた石像が立っている。

 

「あれを覚えとけばいい」

 

「鼻がない方?」

 

「ああ」

 

 前からエミリーの声がした。

 

「二人とも、こっち」

 

 ルークとメイは、少し足を速めた。

 

 

 

 翌朝の呪文学では、しばらく杖を使わなかった。

 フリットウィック教授は積み上げた本の上に立ち、黒板に描かれた二つの曲線を示した。

 よく似ているが、終わり方が違う。

 

「声に出す練習と、杖を動かす練習は、別々にしても構いません。最初から全部を急いで合わせようとしないこと」

 

 ルークは羊皮紙へ書きつけた。

 しかし顔を上げると、次の説明が始まっている。

 急いで前の行を終わらせようとして、羽根ペンが紙に引っかかった。小さなインクの溜まりができた。

 ベンの羊皮紙は、まだ半分ほど白かった。

 

 教授の杖が動く。

 ルークはそれをじっと観察していた。

 手首の向き。止める位置。

 だが観察だけに夢中になっていると、説明の言葉を全部メモできない。聞き慣れない言葉の綴りを考えているうちに、次の話へ進んでしまう。

 前の机ではメイが黙々と書いていた。

 エミリーは一度手を止め、黒板を確かめてから続きを書いている。

 ルークはペンを置いた。

 どっちもはできない。まず聞くことにした。

 

 実習では、小さな木片を短い距離だけ動かした。

 飛ばす必要はない。机に引かれた線を越えず、同じ方向へ進ませる。

 最初は動かなかった。

 二度目は片側が持ち上がり、横へ倒れた。

 三度目で、木片は机の上を滑り、線の手前で止まる。

 

 ルークは杖を下ろし、木片を元へ戻した。

 もう一度。

 今度も動いた。止まった場所は、さっきより指一本分ほど先だった。

 

「いいですね。今の動きを繰り返してみましょう」

 

 通りかかったフリットウィックが言った。

 ルークは頷いた。

 少し先でエミリーが声を上げ、隣のメイと笑っている。彼女の木片も動いたらしい。

 ベンの木片は、向きを変えていた。

 

「どうして横に行くんだろう」

 

「最後、そっちへ振ってる」

 

「真っ直ぐのつもりなんだけど」

 

 ルークはもう一度、ベンの手元を見た。

 

 授業の終わりには、短い課題が出た。

 今日習った動作と、その注意点を自分の言葉で説明してくること。

 ルークはノートを見下ろした。

 説明の途中に、黒い染みがあり、その先はには何も書かれていなかった。

 

 

 

 図書館に入ると、紙と革の匂いがした。

 ルークは入口のすぐ内側で立ち止まった。

 高い本棚が並び、その間にも、その奥にも、本が見える。背表紙の色は揃っていない。分厚いもの、細いもの、金の文字が擦れて読めないもの。

 窓際の机では、上級生が何冊もの本を積み上げていた。

 そんなに一度に読むのかと思ったが、よく見ると、一冊を開いては別の一冊を確かめている。

 ルークは近くの空席へ座った。

 呪文学の教科書を開く。授業でやったところを探し、ノートと並べた。

 一度読む。もう一度、途中から読む。書いてある文字は読めるのに、知っているはずの言葉がいつもと少し違う意味で使われていた。どこまでが比喩で、どこからが本当に必要な説明なのか分からない。

 

「それ、前のページにあるよ」

 

 向かいから声がした。

 ルークが顔を上げると、眼鏡を掛けた少年がこちらを見ていた。

 灰褐色の髪が額の中央へ一房落ちている。胸元はレイブンクローの色だった。

 

「何が」

 

「今、見てた言葉。前で説明してる」

 

 ルークは一枚戻した。

 確かに、同じ言葉があった。

 そこを読んでから、元のページへ戻る。

 

「ああ」

 

「僕もそこで止まったから」

 

 少年はそう言って、自分の本へ目を落とした。

 ルークは先ほどの文章をもう一度読んだ。

 意味は通った。だが、まだ課題としてどう書けばいいのかは決まらない。

 

「お前も一年?」

 

 少年が顔を上げた。

 

「うん。ヒュー・ペンローズ」

 

「ルーク・ウォルフ」

 

「変身術で針を作った人?」

 

 ルークは少し眉を寄せた。

 

「誰に聞いた」

 

「同じ授業に出てた子。もうできた子がいるって言ってた」

 

「針だぞ」

 

「うん」

 

 ヒューは真面目な顔で頷いた。

 その先に何か言うのを待っているようだったので、ルークは諦めて教科書へ目を戻した。

 しばらくして、ヒューが尋ねた。

 

「呪文学は、実習も難しかった?」

 

「実習はできた」

 

「じゃあ、説明の方?」

 

「動かし方は分かるんだけど、文字に起こそうとすると説明が難しい」

 

 ルークはノートを見せた。

 ヒューは身体を前へ傾け、染みの手前まで読んだ。

 

「ここまでは合ってる。そのあとが、これ」

 

 自分の羊皮紙を取り出し、一行を指した。

 細い字が、ほとんど同じ大きさで並んでいる。

 それを読み、隣の教科書と比べる。

 

「これ、全部書いてたのか」

 

「全部じゃないよ。途中で省いた」

 

「これで?」

 

「先生、話すの速かったから」

 

 ルークはヒューの顔を見た。

 皮肉ではなさそうだった。

 ヒューは木片をほとんど動かせなかったという。説明は分かるのに、杖を持つとうまくいかないらしい。

 

「やってみろよ」

 

 ルークが言うと、ヒューは鞄に手を入れた。

 近くで咳払いがした。

 音に釣られて二人が顔を上げると、司書が本を抱えて立っていた。

 ヒューはゆっくり手を引っ込めた。

 

「廊下にしよう」

 

 ルークは頷いた。

 図書館を出てから、ヒューは杖だけを動かした。

 ルークは横に立って、その手首を見た。

 

「最後、止めてからまた動いてる」

 

「今?」

 

「ああ」

 

 もう一度。

 やはり杖先が少し揺れた。

 

「そこ」

 

 ヒューは自分の手を見つめた。

 

「気づかなかった」

 

「先生は、そこで止めてただろ」

 

「止めたつもりだった」

 

 ヒューは速度を落とし、同じ動きを繰り返した。

 何度目かで、杖先がぴたりと止まる。

 

「今の」

 

 ルークが言うと、ヒューは少し笑った。

 実際に魔法がうまくいくかは、次の授業にならなければ分からない。それでもヒューは、もう一度だけ同じ動きを確かめた。

 

「課題、まだ書く?」

 

「書く」

 

「僕も。戻ろう」

 

 二人は図書館へ戻った。

 ヒューは自分の羊皮紙を、ルークから見える向きに置き直した。

 ルークはそれを写す前に、もう一度教科書を読んだ。

 

 

 

 魔法薬学の教室は地下にあった。

 石段を下りるにつれて空気が冷たくなる。扉の向こうからは、湿った草と何かを煮詰めたような匂いがした。壁際の棚には瓶が並んでいた。乾いた葉や粉末の入ったものもあれば、液体の中で何かが丸まっているものもある。

 ベンが一つの瓶を見て、すぐに前を向いた。

 

「今の、目が合った」

 

「どれと」

 

「確かめなくていい」

 

 教壇の前には、腹の大きな教師が立っていた。

 口髭を整え、楽しそうに生徒たちを迎えている。

 

「さあ、入って。鞄は通路へ出さないように。転んで鍋をひっくり返すには、まだ少々早いからね」

 

 スラグホーンは名簿を確かめながら、一人ずつ名前を呼んだ。知っている姓があると、顔を上げて一言添える。

 

「クロフト。お父上は元気かな?」

 

「はい、先生」

 

「それは結構。君のことも楽しみにしているよ」

 

 ネッドは背筋を伸ばした。

 ルークの番では、指が名簿の上で一度止まった。

 

「ウォルフ?」

 

「はい」

 

「ふむ。そこの席へ」

 

 ルークはベンと同じ鍋の前に座った。

 机には天秤と乳鉢、小さな皿が並んでいる。刃物を手に取ると、ネッドの席からこちらが見えた。

 ネッドは既に教科書を開いていた。

 

「今日の調合は、複雑なものではない」

 

 スラグホーンが黒板の手順を示した。

 

「しかし、順番を守らなければ、簡単なものでも簡単には仕上がらん。量を確かめ、材料の状態を確かめること。分からなければ、入れる前に訊きなさい」

 

 ルークは材料を見た。

 切る。潰す。火を通す。その辺りなら、初めてではない。路地裏ではどうにかして口に入れられるように手を加えることはよくしていた。

 ベンが手順を読み、ルークが乾いた根を刻む。硬いところに刃を立てると、少し割れた。向きを変え、力を掛ける場所をずらすと、同じくらいの厚さに切れた。

 

「これでいいか」

 

 皿を見せると、ベンは教科書の挿絵を確かめた。

 

「うん。たぶん。僕のより揃ってる」

 

 ベンの皿には、太さの違う切れ端が並んでいた。

 二人で大きなものを切り直し、次に粉を量る作業に移った。天秤は思ったより敏感だった。少し足すだけで傾く。戻すと今度は反対へ傾いた。

 

「息、掛けるな」

 

「掛けてないよ」

 

 ベンはそう言いながら、少し顔を離した。

 材料を鍋へ入れると、匂いが変わった。茶色かった液体に別の色が混じり、底から泡が上がる。

 ルークは教科書と鍋を見比べた。

 ここまで教科書に書かれている通りにできていた。しかし火を弱めるところで、少し手間取った。炎を小さくしても、鍋の中では大きな泡が続けて弾けている。

 火は弱めてある、次の手順に進もう、とルークは次の材料の皿を取った。

 

「待ちなさい、ウォルフ」

 

 しかし横から制止の声がかかる。

 スラグホーンが鍋を覗いていた。

 

「次へ進む前に、何を確かめるんだったかな?」

 

 ルークは黒板を見た。

 

「泡が小さくなるまで、待つ」

 

「そう。まだ少し元気がよすぎる」

 

「火は弱めました」

 

「鍋には熱が残るからね。火を弱めれば、その瞬間に中身も冷めるというわけではない」

 

 スラグホーンは鍋の縁を示した。

 

「もう少し待ってごらん」

 

 ルークは持ち上げた皿を机の上に戻す。

 教授が離れると、ベンが教科書を近づけた。泡の大きさを示した絵が描かれていた。

 

「これくらいになるまでだって」

 

「わかった。それくらいになるまで見てる」

 

「うん」

 

 二人で鍋を見た。

 待っていると、何かをし忘れているような気がする。ほかの机では材料を刻む音がしている。向こうでは既に次の工程へ進んでいた。

 ルークは匙へ手を伸ばしかけ、やめた。混ぜろとは書いていない。

 ベンも隣で珍しく黙っていた。

 やがて、大きく膨らんでいた泡が細かくなった。

 

「今か」

 

 ルークが言うと、ベンが頷いた。

 

「ゆっくりと」

 

 今度は最後まで読んでから、皿を傾けた。

 その後鍋をかき混ぜ出来上がった薬は、見本より少し濁っていた。

 スラグホーンは提出された小瓶を光へかざし、首を傾けた。

 

「分量は悪くない。少々、熱を掛けすぎたな。次は火加減を早めに見直してごらん」

 

「はい」

 

 隣の机で、ネッドが自分の瓶に栓をした。そちらはルークとベンのものよりもう少し澄んでいた。

 ルークが見ていることに気づくと、ネッドは瓶を持ち上げた。

 

「途中で火を止めたんだ」

 

「弱めるんじゃなくて?」

 

「泡が大きくなりすぎたから。一度鍋を外した」

 

 ルークは自分たちの鍋を見た。

 底に残った液体が、まだ薄く湯気を出している。確かにそもそも鍋の温度を上げすぎなければ中身の温度も上がらないのは道理だ。

 

「そっちの方がよかったな」

 

 ネッドは少しだけ自慢げな顔をする。

 

「次は見てれば分かるだろ」

 

 ルークは頷いた。

 片づけの途中、ベンが鍋を洗いながら言った。

 

「思ったよりも忙しいね」

 

「ああ」

 

「混ぜながら、読んで、量って。そのうち腕がもう一本欲しくなる」

 

「先に手順を読んどけばいい」

 

「それ、最初に気づきたかったな」

 

 ルークも同じことを思っていたが、言わなかった。

 

 

 

 闇の魔術に対する防衛術の日、ルークは少し早く教室へ入った。

 前の方に席を取り、教科書を机へ置く。

 教壇には木箱があり、その横に傷のついた革手袋が一組あった。

 ベンが隣に座った。

 

「今日は近いね」

 

「見えやすい」

 

「僕はどこでも見えるけど」

 

 言いながらベンも、木箱の中を覗こうとして首を伸ばした。

 教師は出席を取ると、机の上へ杖を置いた。

 

「指示があるまで、他人へ杖を向けないこと。知らない呪文を隣の席で試さないこと。実習を止めろと言われたら、途中でも止めること」

 

 ルークは聞いていた。

 早く木箱を開けてほしかったが、この授業でも最初は教科書を開いた。

 座学での教えは、知らない魔法の品へ触れない、正体の分からない生き物へ近づかない、様子がおかしければまず離れる。この三点に集約されていた。

 

「判断がつかないときには、距離を取る。それだけで避けられる危険もある」

 

 ルークは手を上げた。

 

「向こうから来たら?」

 

「逃げられるなら、逃げる」

 

「逃げられなかったら?」

 

 教師はルークを見た。

 

「何が来る?」

 

「危ないものが」

 

「生き物か。呪文か。呪いの掛かった品か」

 

 ルークは黙った。

 

「同じ対処で済むとは限らない。だから、相手を見る。周囲を見る。動ける場所を確かめる。そのためにも、距離はあった方がいい」

 

 ルークは手を下ろした。

 経験はある。三人を相手にするとき、壁を背にするのと囲まれるのでは違う。逃げるにしても、走り出してから道を探していては遅い。

 ただ、魔法ならその辺りを飛び越えられるのかと思っていた。しかしどうやら魔法とはそこまで便利なものではないらしい。

 

 実習では、薄い布を張った小さな枠を使った。台の上に立ててあり、衝撃を受けると後ろへ倒れる。

 教師が基礎的な呪文と動作を教えた。

 標的を決め、腕を振り回さずに唱える。

 最初の生徒の枠は、ほとんど動かなかった。次の生徒のものは布だけが震えた。

 ネッドの枠は大きく傾き、元へ戻った。ベンは杖を振るときに肩まで動かし、もう一度、と言われた。

 そして次、ルークの番が来た。

 布の中央を見て、杖先を上げる。

 近づいてくるものを、押し戻す。その意識をもって呪文を唱え、杖を振るう。

 枠が倒れ、そのまま台の上を滑り、端から落ちた。

 乾いた音が教室に響く。教室の何人かが振り返ってこちらを見ていた。

 ルークは杖を下ろし、床に転がる枠を見た。

 

「ウォルフ。もう一度」

 

 教師が杖を振るうと枠が元の位置に戻る。

 

「今度は、台の上に残すように」

 

「はい」

 

 ルークは持ち方を確かめた。

 距離は同じ。狙う場所も同じ。弱くすればいい。

 二度目は、枠が揺れただけだった。

 ルークは眉を寄せた。どうやら弱くしすぎたらしい。

 

「もう一度やっても?」

 

「どうぞ」

 

 三度目で枠は倒れた。

 少し滑ったが、台からは落ちなかった。

 

「そのくらいだ。次も同じように」

 

 同じように、とルークは心の中で繰り返した。

 

 変身術では、変え残した場所が目に見えた。

 今は、自分がどれだけ力を込めたのか、終わってからでなければ分からない。

 枠を起こし、もう一度構える。

 

「最初の、すごかったね」

 

 ベンが小声で言った。

 

「落としただけだ」

 

「僕のは倒れもしないんだけど」

 

 ルークは隣の台を見た。

 ベンの枠は、少し斜めを向いている。

 

「真ん中、見てるか?」

 

「見てる」

 

「枠じゃなくて、布の真ん中を見るのがコツだ」

 

 ベンが目を細めた。

 その横で、ルークも杖を上げ直した。

 今度は台から落とさない。

 そう考えると、先ほどよりも手が重く感じられた。

 

 

 

 金曜日の夜には、時間割の端が少し擦り切れていた。

 図書館への道は覚えた。地下へ下りるときに使う階段もようやく覚えてきた。三階の肖像画の老人には急いでいるときに道を訊かない方がいい。答える前に自分が若かった頃の話を始め、用事に間に合わなくなる。

 

 ルークは談話室の机に教科書を広げていた。

 隣には呪文学の課題がある。説明を読んで、書く。一度書いてから、自分の言葉で言い直す。それがうまくいかないところは、まだ分かっていないところだった。

 向かいのベンは、羽根ペンを指の間で回そうとしていた。二度落としてから、諦めて持ち直す。

 

「終わった?」

 

「もう少し」

 

「僕も」

 

 ルークはベンの羊皮紙を見た。

 まだ余白が多い。

 

「どのくらい?」

 

「気持ちはもう少しなんだけどな」

 

 椅子が引かれ、ネッドが座った。

 変身術の教科書を机へ置く。

 

「今日、できた」

 

 ルークは顔を上げた。

 

「針?」

 

「ああ。穴も、全部」

 

「先生に見せたのか」

 

「見せた」

 

 ネッドは本を開いた。

 何でもないことのようにしていたが、口元は少し緩んでいる。

 

「五点?」

 

 ベンが訊いた。

 

「二点」

 

「僕の頃には、一点かな」

 

「できればもらえるだろ」

 

「早くしないと、先生も見飽きるかもしれない」

 

 ネッドが笑った。

 ルークも笑いながら課題の最後の一文を書いた。

 読み返し、一語を消して書き直す。ヒューに見せてもらった説明と、授業で自分がやったことが、少しずつ繋がってきた。杖をどう動かしたか。どこを見たか。うまくいったときと、いかなかったときに何が違ったか。

 分かると、別のことが気になってくる。

 木片なら動かせるが、もっと重いものならどうなるのか。同じ重さでも、丸いものと平たいものでは違うのか。

 余白へ書いていると、ベンが覗き込んだ。

 

「そんな課題あった?」

 

「これは違う」

 

「じゃあ、何で書いてるの」

 

「忘れるから」

 

「何を?」

 

「次に訊くこと」

 

 ベンはルークの顔を見て、それから自分の課題へ戻った。

 

「僕は今やることを忘れそう」

 

「書いてあるだろ」

 

「そうだった」

 

 ルークは教科書を閉じた。

 鞄から、もう一枚の羊皮紙を取り出す。そこにはトムの名前が書いてあった。

 昨日書き始めた手紙だった。

 寝る場所がある。飯は毎日出る。城は広くて、最初は迷った。

 その下には、年下の子供たちを勝手に遠くへ行かせるな、と書いてある。

 トムなら分かっているだろうと思ったが、消さずに残した。

 課題をしながらも、頭の片隅では続きを考えていた。授業のことを書こうとして、ルークは少し笑った。

 マッチを針に変えた。

 これでは嘘だと思われるかもしれない。

 本物の針だ。穴もある。金属で、触ると冷たい。

 そこまで書いて、窓の方を見た。

 ここで出来上がったものを、向こうへ送れたらいい。説明するより、その方が早い。けれど、あの針は授業の終わりに回収されてしまった。

 次の授業で作れたら、持って帰っていいか訊いてみよう。

 ベンが机の中央の菓子皿を押してきた。

 

「食べる?」

 

「ああ」

 

 ルークは一つ取った。

 ベンは手紙を覗かず、自分の羊皮紙へ顔を戻した。

 暖炉の近くで上級生が笑っている。誰かが椅子を動かし、別の誰かがその椅子の下にあった本を拾った。入口から戻ってきた生徒が友人を呼び、机の間を抜けていく。

 ルークは手紙の続きを書いた。

 同じ部屋に、よく喋る奴がいる。朝はなかなか起きない。

 そこまで書いてから、ベンを見た。

 

「何?」

 

「別に」

 

 ベンは眉を上げたが、追及しなかった。

 ネッドのことも書いた。

 自分より背が高いこと。魔法薬を作るのがうまかったこと。列車で会ったエミリーは別の寮に入ったが、一緒の授業があること。

 書くことは思ったよりあった。悩んでいたことが嘘かのように筆が進む。最後に名前を添え、ペンを置く。インクが乾くまで、そのままにしておいた。

 

「明日、どうする?」

 

 ベンが訊いた。

 

「図書館」

 

「また?」

 

「少しだけ」

 

「ヒューって子と?」

 

「来るかもしれない」

 

 木片が動いたかどうか、まだ聞いていなかった。

 ネッドが本から顔を上げた。

 

「変身術の本もあるのか」

 

「たくさん」

 

「じゃあ、僕も行く」

 

 ベンは二人を交互に見た。

 

「朝飯のあとにしよう」

 

「そのつもりだ」

 

「起こしてよ」

 

「自分で起きろ」

 

 ネッドが言うと、ベンはルークを見た。

 ルークは乾き始めた手紙を確かめてから、肩をすくめた。

 

「飯がなくなる前には起こす」

 

「それでいい」

 

 ベンは安心したように頷き、ようやく課題の続きを書き始めた。

 ルークは変身術の教科書を引き寄せた。マッチ棒と針の図があるページを開く。

 最初に読んだときには、書いてあるとおりにやればできるのだと思っていた。実際にやってみると、図にはなかった小さな木の色が残った。そこを直す方法も、杖を持つ前には分からなかった。

 次のページをめくる。

 新しい図が二つ並んでいた。

 ルークは片方を見て、もう片方を見た。

 自分の手が、無意識に杖の方へ伸びていた。

 

「ここでやるなよ」

 

 ネッドが言った。目はルークの指先を見ていた。

 

 ルークは手を止めた。

 

「まだ読んでるだけだ」

 

「ならいいけど」

 

 ベンがインク瓶を少し遠ざけた。

 ルークは笑って、本へ目を戻した。

 分からない言葉を一つ、余白の紙に書き足す。

 明日、探す本が増えた。

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