ネッドが窓の外を見る。まだ朝食を取っている最中なのに、これで今日三度目だ。一度目は席に着いたとき、二度目は卵を皿へ取ったとき。
今度は口へ運びかけたトーストを止めている。
高い窓の向こうには、薄い雲が広がっていた。雨は降っていない。大広間の天井も同じ色をしている。
「何か来るのか」
ルークが尋ねると、ネッドはようやく窓から目を戻した。
「来ないよ。風を見てた」
「ここから分かるのか?」
「木が見えるだろ」
窓の端に、葉の茂った枝が少しだけ覗いている。
ルークには、さっきからほとんど動いていないように見えたが、ネッドには違うものが見えているようだった。
「午後もこのくらいならいいんだけど」
ネッドはそう言って、冷めかけたトーストを齧った。
隣でベンが大きく頷く。
「僕は多少風があっても構わないね」
「お前、乗れるのか」
「まだ」
「じゃあ何で分かるんだよ」
「雨よりはいいだろ」
その言い分には、ルークも異論がなかった。
今日の午後には、初めての飛行訓練がある。確かに天候は重要な要素だった。
昨夜からベンは、その話を何度もしていた。寝台に腰掛けて飛ぶ姿勢を試し、足を上げたところで後ろへ転がり、向かいのネッドから枕を投げられている。今朝も食堂へ下りる途中、箒に乗れば階段を使わなくて済むと言っていた。
ルークは皿に残った卵をパンに載せた。
「ネッドは乗ったことがあるんだろ」
「ある」
返事が早い。
「どのくらい」
「家で。父さんの古い箒を借りてた。初めは低いところだけだったけど」
「初めは?」
ベンが身を乗り出した。
「今はもっと高く飛べるの?」
「そりゃ、練習したから」
ネッドは何でもないことのように答えたが、口元は少し上がっていた。昨夜、変身術の課題を見直していたときよりも、ずっと言葉が滑らかに出てくる。
「曲がるのも?」
「曲がれなかったら庭から出るだろ」
「止まるのも?」
「ベン」
「確認だよ。僕、今日は経験者の隣に立ちたいから」
ベンはそう言うと、今度はルークを見た。
「君は?」
「乗ったことはない」
「でも、すぐできそうだよな」
ネッドが言った。
ルークは卵の乗ったパンを口に入れながら顔を上げた。
砂色の短い髪の下で、ネッドの青い目がこちらを見ている。何気なく言ったようでいて、返事は聞いておきたいらしい。
「まだ箒を見てもいない」
「変身術だって、初めてだっただろ」
「あれは飛ばない」
「針なら飛ばせるよ」
ベンが口を挟んだ。
「投げればな」
「授業でやるなよ」
ネッドが言い、ベンはひどく心外そうに眉を上げた。
「そんなことしない。したら減点されるだろ」
ルークは口の端を上げながら最後のパンを口へ押し込んだ。
入学してから、覚えるものはいくらでもあった。呪文の発音。杖を動かす角度。鍋の火を弱める時機。廊下の突き当たりにある階段が、いつも同じ場所へ続くわけではないこと。
できたと思っても、次にはできない。でもできなかったものが、少し指の位置を変えただけでうまくいく。
箒も、その一つなのだろう。そう思っていた。
午後の校庭は朝よりも風が強かった。
城の壁に沿って歩くと、日陰に入った途端、首元がひやりとする。少し先では芝生が日に照らされていた。遠くの森はまだ深い緑を残しているが、校庭の端に立つ木には、黄色い葉が混じり始めている。
芝生の上に、箒が二列に並べられている。想像していたよりも普通の箒だった。
柄には使い込まれた艶があり、穂先の枝は何本か横へ飛び出している。一本だけ、先端がわずかに曲がっていた。
ルークはその前を通り過ぎ、隣の箒の横に立った。
「それ、選んだ?」
ベンが訊いた。
「まっすぐだから」
「なるほど」
ベンは足元の箒を見下ろした。それから、こっそり隣へ移ろうとした。
「フェンウィック。その位置で結構です」
しかし鋭い声が響き、ベンの足が止まる。
列の前に立っているのは、短い灰色の髪を逆立てた魔女だった。黄色みの強い目が、箒と生徒たちの間を素早く動いている。首から下げた銀色の笛が、胸元で光った。
自らをロランダ・フーチと名乗った魔女は全員の顔を見渡してから、腰に手を当てた。
「まず覚えてもらうことがあります。私が指示するまで、地面を離れないこと。ほかの生徒に箒を向けないこと。何かおかしいと思ったら、勝手に直そうとせず、私を呼ぶこと」
ベンが足元の箒から目を上げた。
「質問は?」
手を上げる者はいなかった。
「では、箒の右側へ。利き手を上にかざして」
ルークは右手を伸ばした。
地面の箒は、何の反応も見せない。濡れた芝の匂いがする。どこかで鳥が鳴いていた。
「はっきりと、『上がれ』」
「上がれ!」
何人もの声が重なった。
ネッドの箒が、真っ先に手へ飛び込み、乾いた音がした。
ネッドは柄を握ったまま、少し驚いたように自分の手を見た。それから周りを見て、少し自慢げな顔をしていた。
それに対してルークの箒は、草の上で半回転しただけだった。
「上がれ」
今度は柄の先が持ち上がった。指に触れ、滑り落ちる。
ルークは手を追わせかけて止めた。
右隣のベンの箒はぴくりともしない。
「聞こえてる?」
「フェンウィック。質問ではありません」
「はい。上がれ!」
箒が跳ねた。
ベンの指を掠め、膝に当たって落ちる。
「聞こえてたみたい」
ベンは片脚を曲げ、箒の当たった場所を押さえ、悶えながら言葉を漏らす。
ルークはもう一度、地面の柄を見た。手を少し下げる。握ろうとするのではなく、そこまで来させるつもりで言った。
「上がれ」
今度は掌に収まった。
木の柄は、思ったよりも軽かった。握った内側に、細かな傷が触れる。
顔を上げると、ネッドがこちらを見ていた。
「できたな」
「ああ」
「ベンはまだだ」
「見れば分かるよ」
足元からベンの声がした。
箒を呼び寄せるだけでも、全員が揃うまでには時間がかかった。柄が手を通り越す者もいれば、穂先だけが浮く者もいる。フーチ先生は列の間を歩き、声の出し方と手の位置を直していった。
やがてベンの箒もようやく持ち主の手に収まった。
「次は跨がります。まだ蹴らない」
ルークは箒を脚の間へ入れた。
どこへ体重を掛ければいいのか、よく分からない。跨がるというより、細い木の上に身体を引っ掛けている気がした。
フーチ先生が前を通り、ルークの手元で止まった。
「両手を少し離して。そう。指は掛けていても、握り潰す必要はありません」
ルークは指を緩めた。
次に先生はベンの肘を直し、ネッドの箒を一度見て、そのまま先へ進んだ。
ネッドの方を見ると、もう前を向いていた。早く飛びたいという表情を見せながら、その背中にも腕にも、余計な力が入っていない。
「笛が鳴ったら、軽く地面を蹴ります。高く上がろうとしなくていい。浮いたところで止まり、次の指示を待つこと」
ルークは芝生を見た。
刈り高は低い。芝がクッションの役割を果たすことは期待できなさそうだった。
そして笛が鳴る。合わせて地面を蹴り、足の下から、芝生が離れた。
腹が一瞬、身体の中へ置いていかれたようになった。
反射的にルークは柄を強く握った。つられて箒の先が上がる。
「ウォルフ、手元を上げすぎない!」
鋭い声が飛ぶ。
声に従って先端を下げると、今度は穂先の方が持ち上がった。身体が前へずれる。ルークは慌てて腕を引いた。
左右に揺れた。
足を出しかけたが、地面には届かなかない。それが分かった途端、膝にも力が入った。
「動かさない。そのまま!」
フーチ先生がすぐそばに来ていた。
ルークは腕を止めた。
箒はまだ揺れている。しかし、手を動かさずにいると、その揺れは少しずつ小さくなった。
息を吐く。
少し離れたところで、ネッドが浮いていた。地上からは同じくらいの高さなのに、座っている場所が違うように見えた。ネッドは箒の上で首を回し、背後のベンに何か言っている。
話しながらでも、箒はほとんど動かなかった。
ベンは口を固く閉じていた。
「大丈夫か」
ルークが訊くと、ベンは頷いた。
頷いた拍子に箒も揺れ、すぐに顎を止める。
「喋ると落ちそう」
「喋らなくても揺れてる」
「言わなくていい」
少し先でネッドが笑った。
フーチ先生の指示で、全員が順番に地面へ戻った。
ルークは少し早く足を下ろしすぎ、靴底を芝に引っ掛けた。箒だけが前へ進み、二歩ほど追い掛けて止まる。
ベンは着地した途端、深く息を吸った。
「どうだった」
ネッドが訊いた。
ルークは箒を見た。
「動く」
「そりゃそうだろ」
「思ったより」
ネッドは声を上げて笑った。
ただ浮くだけなら、三度目には何とかなった。
足が地面から離れる瞬間に身体を固めなければ、箒はそれほど暴れない。少なくともそう思っている間は。
問題は動いてからだった。
フーチ先生が芝生に置いた二つの目印は、走ればすぐ着く距離しか離れていない。片方から片方へ、低くゆっくり進む。それだけの課題だった。
ネッドは最初の一回で、向こうの目印の前に止まった。
ぴたり、とまではいかない。
けれど通り越すこともなく、足で地面を蹴って止めることもなかった。
「結構。クロフト、その位置を覚えておいて」
フーチ先生が言った。
戻ってきたネッドは、何か言うつもりらしかった。
だがルークと目が合うと、口を閉じた。
「何だよ」
「別に」
「言えばいいだろ」
「見てたかなと思って」
「見てた」
ネッドの口元が緩んだ。
次はルークだった。
箒を前へ向ける。さっき先生が示した通りに、柄をほんの少し動かした。
箒が少しずつ進む。草の上を、自分の影が滑っていく。
歩くのとは違う。足を動かしていないのに、目の前の目印が近づいてくる。
悪くない。そう思った直後、目印が足元にあった。
止まらなければ、という思考が頭を埋め尽くす。ルークは柄を引いた。
箒の先が跳ね上がる。進む勢いが残ったまま上へ持ち上げられ、身体が後ろへ傾いた。
「引きすぎ!」
ネッドの声がした。
ルークは柄を戻した。今度は箒が下がる。
慌てて足を突くと、片方の靴だけが地面に触れた。身体が横へ流れ、膝が草を擦る。
箒を放さずに踏ん張ったせいで、最後は半分跨がり、半分立ち上がった妙な姿勢になった。
笑い声が幾つか上がる。
ルークは立ち直り、膝についた草を払った。
「怪我は?」
フーチ先生が近づいてきた。
「ありません」
「止まる準備が遅い。目印に着いてからではありません」
ルークは振り返った。
目印は、三歩ほど後ろにあった。
「それから、腕だけで無理に戻さないこと。分かりましたね」
「はい」
戻る途中で、ベンが箒を抱え直した。
「転ばなかったね」
「膝はついた」
「全部つくよりはいい」
ルークはベンを見た。
慰めている顔なのか、本当にそう思っている顔なのか、少し判断に迷った。
その隣でネッドが、箒の柄を指で叩いた。
「見すぎなんだよ」
「何を」
「下。目印が来るまで、ずっと真下を見てただろ」
「通り過ぎたら困る」
「見てても通り過ぎただろ」
言い返そうとしてやめた。言い返せる言葉がない。ネッドの言う通りだった。
ネッドは目印の向こうを指した。
「もう少し先を見てる方がいい。あと、動かしたらちょっと待つんだ。すぐ反対へ動かすと、ずっと揺れる」
「待ってる間に傾くだろ」
「少しなら戻る」
「戻らなかったら?」
「そのとき直す」
ルークは眉を寄せた。それにつられてネッドも眉を寄せた。
「何だよ」
「落ちてから考えろって聞こえる」
「違うよ。全部止めようとしなくていいってこと」
フーチの笛が鳴り、会話が途切れた。
次の組が進み始める。
ベンは目印に着くずっと前から速度を落とし、最後の数歩をほとんど歩く速さで進んでいた。
「慎重だな」
ルークが言うと、戻ってきたベンは真面目な顔で頷いた。
「僕は今、すごく慎重な人間になってる」
その顔がなんだか面白くて、ルークは思わず笑った。
それからすぐにまた自分の番が来た。
浮いて、前を見る。目印の、その先。
箒が少し左へ流れた。反射的に右へ引こうとして、指だけを動かす程度に留めた。
すぐには戻らない。戻らないまま、少し進む。そこでようやく向きが変わった。
さっきは、これが起きる前にもう一度動かしていたのか。少し箒のことがわかった気がする。そのままルークは顎を引いた。
目印が近づく。少し早いかと思うところで、止まる準備をした。
速度が落ちた。今度は穂先が跳ね上がらない。目印の手前で、箒が止まった。
泊まってから気づいたが、どうやらかなり手前なようだった。
「もう少し進めましたね」
フーチ先生が言った。
「ですが、今の方がいい。着地して」
ルークは両足を下ろした。
地面が、ちゃんと足の裏にあった。
地面を踏みしめながら戻ってくると、ネッドがこちらを見ていた。
「今のは?」
ルークが訊いた。
「止まれた」
「見れば分かる」
「じゃあ訊くなよ」
そう返すネッドは、明らかに嬉しそうだった。
ルークは箒を持ち替えた。
右手の掌が少し痛い。握りすぎていたらしい。
「次、曲がるって」
ベンが言った。
目を上げると、フーチ先生が目印をもう一つ運んでいた。
曲がるのは止まるより難しかった。
ネッドは外側へ膨らみすぎた最初の一回だけ舌打ちをして、二度目には目印の周りを滑らかに回った。
ルークは反対に、曲がろうとするのが早すぎた。目印の内側を通り、やり直しになり、初回を意識しすぎたのか、次には大きく回りすぎた。
「お前、さっきどうやった」
「普通に」
「その普通が分からないんだよ」
ネッドは口を開け、閉じた。
少し考えてから、柄を持つ手を動かした。
「こう。少しだけ」
「さっきも少しだった」
「君の少しは大きいんだ」
後ろでベンが吹き出した。
「ごめん。今の、ちょっと分かる」
ルークは二人を見た。
それから自分の箒を見た。枝の先に、芝が一本引っ掛かっていた。
ひどい箒を選んだのではないかとも思ったが、さっきフーチ先生が確かめたときには、何の問題もなく浮いていた。箒のせいにしたいが、それはできない。
少し離れたところから、また笛が聞こえた。
自分たちへ向けたものではなかった。校庭の向こう、クィディッチ競技場の方からだ。
ルークが目をやると、石垣の切れ目から二人の上級生が出てくるところだった。
一人は箒を肩に担ぎ、もう一人は両手をポケットへ入れている。
眼鏡を掛けた方に見覚えがあった。ジェームズ・ポッターだ。
黒い髪が風で乱れている。もっとも、風のない談話室でも似たような髪をしていた。
隣のシリウス・ブラックは、顔に掛かった長めの黒髪を指で払うと、こちらを見て何か言った。
ジェームズも顔を向けた。
ルークは先に目を戻した。自分の番だった。
もう一度、地面を蹴る。目印まではうまくいった。曲がり始めも、さっきほど悪くない。だが、回り終える前に箒を戻そうとしてしまった。グン、と箒の先端が横へずれる。
目印の向こうに立っていたフーチ先生が、手を上げた。
「前を向いて。焦らない!」
ルークは腕を止めた。
箒が大きく一度揺れ、それから、ぎこちなく元の向きへ戻った。
足を着く。今度は膝をつかなかった。その代わり、終点とは違う場所に降りていた。
「そこから戻ってきて。歩いて結構です」
先生の声に、ルークは箒を引いて歩いた。
石垣の方から、笑い声が聞こえた気がした。
授業が終わる頃には、指の付け根も、腿の内側も疲れていた。
フーチ先生は最後に、勝手に箒を持ち出して練習しないことを念押しした。それから、使った箒を倉庫まで運ぶように言った。
ルークは袖で額を拭いた。涼しい風が、汗の残った生え際に当たる。
「君、ウォルフだよね」
振り向くと、ジェームズが石垣から離れてくるところだった。
丸い眼鏡の奥で、目が笑っていた。片手には自分の箒を持っている。学校のものより柄が滑らかで、穂先もきれいに揃っていた。
「そうだけど」
「我らが寮監、マクゴナガル先生が褒めてたぜ。変身術の才能があるって」
ルークは少しだけ動きを止めた。
あのマクゴナガル先生が。授業で名前を呼ばれることはある。できたものを見せるように言われたこともあった。だが、自分のいない場所で話されているとは思っていなかった。
「先生がそう言ったのか」
「ああ。変化させるのが早い、細かいところを見る目もあるってさ。もっとも、僕たちに話す頃には、そのあとに『あなた方も課題を見直しなさい』がついたけど」
「そっちが本題だったんじゃないか」
シリウスが後ろから言った。
「結果として、見込みのある後輩を知れただろ」
ジェームズは気にせず、ルークの箒へ目を落とした。
「ただ、箒にはまだ伝わってないらしい」
ベンが隣で、小さく息を漏らした。笑いかけて止めた音だった。多分隣を見ればみっともない顔をしたベンが見られる。
ルークはジェームズを見上げた。
「見てたのか」
「最後のところを少し。ずいぶん慎重に飛ぶんだな」
「次に落ちる場所を選んでた」
シリウスが笑った。
ジェームズは一度瞬きをしてから、口元を上げた。
「なるほど。さっきの着地も予定通り?」
「違う。だから邪魔のないところで練習してたんだけど」
ジェームズは自分の足元を見た。生徒たちが倉庫へ向かう道の途中に立っている。
脇へ一歩退いた。
「これは失礼」
大げさに手を広げる。
ルークが通り過ぎようとすると、ジェームズも隣を歩き始めた。
「初めて?」
「今日が初めて」
「その割には、よく箒に喧嘩を売ってた」
「売ってない」
「向こうはそう思ってないかもね」
シリウスが、ルークの握っている場所を顎で示した。箒には指の跡がくっきりとついていた。
ルークは少し手を緩めた。
それを見てジェームズが笑う。
「言うことを聞かなければ締め上げる、って感じだったな」
「離したら落ちるだろ」
「誰も離せとは言ってないよ」
ネッドが、反対側から口を挟んだ。
ジェームズは初めてそちらを見た。
「君はうまかったね」
ネッドの足が、ほんの少し遅くなった。
「クロフトです」
「家で乗ってた?」
「はい。父の箒で」
「だと思った。曲がるときも前を見てたし。あとは止まる前に肩を上げなければ、もっと楽になる」
ネッドは無意識に自分の肩を下げた。
ジェームズはそれを見て頷き、またルークへ向き直った。
「君も、彼の飛び方を見てみるといい」
「見てた」
「じゃあ、もう少しよく」
「見てできるなら、もうできてる」
今度はシリウスがはっきり声を上げて笑った。
「その通りだ、ジェームズ」
「君はどっちの味方なんだ」
「今のところ、正しい方」
倉庫の前で、フーチ先生がこちらを見た。
「ポッター。通路を空けて。箒を返せないでしょう」
「邪魔はしてませんよ」
「あなたが動けば確かめられます」
ジェームズがもう一歩横へ退き、ベンが真っ先に倉庫へ入った。ルークも後に続く。
中には乾いた木と埃の匂いがこもっていた。
壁際の棚に箒を立てると、柄が隣の一本に当たり、小さく鳴った。
自分が使った箒を、少し見ておく。
柄の中ほどに、斜めに走る浅い傷が二つ。次も同じものを使うかは分からない。それでも覚えておいた。
外へ出ると、ベンがジェームズの箒を見ていた。
「それ、学校のより速いんですか」
「速いよ」
「どのくらい?」
「君が今乗ったら、僕が先生に叱られるくらい」
ベンは伸ばしかけた手を引っ込めた。
フーチ先生は最後の生徒の箒を確かめていた。
ジェームズはそちらへ一度目をやり、自分の箒を腰の高さに持ち上げた。
「さっき、曲がり終わる前に戻してただろ」
ルークに向けた言葉だった。
「ああ」
「傾いたから?」
「戻さないと、もっと傾くと思った」
「でも、その前に左へ向けてる。まだそっちへ動いてる途中で、右へ行けって言われたら、箒だって忙しい」
ジェームズは柄を小さく動かした。
授業中のルークに比べれば、ほとんど動いていない。
「一度動かしたら、待つ」
「それはネッドも言ってた」
「言ったよ」
「なら、ネッドの言うことを聞くといい」
ジェームズはあっさり言った。
「僕が言ったら急に正しくなるわけじゃないからね」
「惜しいな。今のはかなり先生みたいだった」
シリウスが言う。
ジェームズは眉をしかめ、それからルークを指した。
「ただし、こっちは先生の言うことなら聞きそうだ」
「相手による」
「厳しいね」
ルークはジェームズの手元を見た。
「でも、どうやって待つんだ」
ジェームズの顔から、笑いが少し薄れた。
「どうやって?」
「動いたら直そうとする。分かってても、手が動く」
声に出すと、ひどく簡単な問題に聞こえた。実際、ネッドにはできている。
ジェームズはルークの肩へ目をやった。
「腕が突っ張ってるんだと思う。箒が少し動いただけでも、そのまま肩まで来る。それで全部動かし直そうとする」
自分の肘を軽く曲げてみせた。
「このくらい。別に、ふにゃふにゃにしろってことじゃない。余裕を残すんだ」
ルークは何も持っていない手を、さっき柄があった位置へ置いた。
肘を曲げる。
「そう。それと、下を見るな」
「落ちるとしたら下だろ」
「だから飛んでる間まで見張ってるのか?」
シリウスが口を挟んだ。
「地面は逃げないぜ」
ルークは顔を向けた。
「僕としては逃げてくれた方が助かるんだけど」
シリウスは一瞬黙り、それから肩を揺らした。
ジェームズも笑い、箒を肩へ戻した。
「君、もっと真面目な子かと思ってた」
「真面目にやってた」
「そこじゃなくて」
ジェームズは何か言い足そうとしたが、倉庫の扉が閉まる音に振り返った。
フーチ先生が鍵を掛けている。
「ポッター。次の練習でも、そのくらい熱心に人の話を聞きなさい」
「いつも聞いてます」
「それなら、なお結構」
先生は短く言い、校舎へ歩き出した。
シリウスがジェームズの顔を覗き込む。
「聞いてるそうだ」
「君よりはね」
ルークは二人を見比べた。
入学した夜にも、よく喋る上級生だとは思った。今日も、その印象は変わらない。
ただ、箒を説明するときのジェームズは、少し違っていた。目の前のものを見て、何がおかしいかすぐに分かる。ふざけながらでも、言うことは具体的だった。
それを認めるのは別に難しいことではなかった。
「次、やってみる」
ルークが言うと、ジェームズは振り返った。
「肘」
付け足す。
「ああ」
ジェームズは笑った。
「うまくいったら、僕のおかげだって言っていいよ」
「ネッドにも言われたことは、ネッドのおかげにする」
「細かいな」
「マクゴナガル先生が褒めたんだろ」
ベンがとうとう堪えきれずに笑った。青空の下にベンとシリウスの笑い声が響く。
ジェームズはルークを見たまま、ゆっくり頷いた。
「なるほど。そう来るか」
その顔には、さっき箒を見ていたときとは違う笑みが浮かんでいた。
城へ戻る坂道で、ネッドがいつもより少し速く歩いた。
長い脚が、芝生の端を踏んでいく。
ベンは二度ほど小走りになって追いついた。
「ポッターに褒められたな」
ルークが言った。
ネッドは前を向いたまま答えた。
「聞こえてたよ」
「そうか」
「同じところにいたんだから」
「そうだな」
ネッドが横を向いた。
「何だよ」
「別に」
今度はルークがそう返した。
ベンが二人の間を見て、にやりとした。
「僕も聞こえてたよ」
「分かったって」
ネッドは言ったが、歩く速さは少し落ちた。
階段の手前で、ベンが自分の指を開いたり閉じたりした。
「箒って、もっと楽なものだと思ってた」
「慣れたら楽だよ」
ネッドが答える。
「僕、途中から足より手が疲れてた」
「握りすぎるから」
「ルークにも言ってあげて」
「言った」
「聞いた」
ルークは石段へ足を掛けた。
腿が少し重い。身体を動かした疲れとは違って、普段使わないところまで使った感じがした。
ネッドは二段先で待っていた。
「でも、最後の方は最初よりよかった」
「最後、違うところへ降りたぞ」
「最初は膝ついただろ」
ルークはネッドを見た。
さっきベンに言われたときには慰めかと思ったが、ネッドは、ただ比べている顔をしていた。
「ああ」
「じゃあ、よくなってる」
ネッドはそれだけ言って、また階段を上った。
ルークも続いた。
夕食の席で、エミリーはルークの膝を見た。
「そこ、緑になってる」
長椅子に座る前に呼び止められ、ルークはローブの裾を持ち上げた。
昼間払ったつもりだったが、膝のところに薄く草の色が残っている。
「飛行訓練」
「転んだの?」
「少し」
「どこか痛い?」
「今は手」
掌を見せると、エミリーは不思議そうに首を傾げた。低く結んだ明るい茶髪が、肩の後ろへ滑る。
「手で歩いたの?」
「箒を握ってた」
「ああ」
エミリーは頷き、それから笑った。
「ごめん。逆さまになったのかと思った」
「そこまではいってない」
「まだ?」
「これからもいく予定はない」
後ろから来たベンが、そこで話に入った。
「ネッド、すごかったよ。普通に曲がるんだ」
「普通に?」
「僕たちには、まだ普通じゃないんだ」
エミリーはルークを見た。ルークも続いて頷く。
それで伝わったらしく、彼女はそれ以上訊かなかった。
「私たちは次の授業。どうしよう、楽しみにしてたのに」
「楽しいのは楽しい」
ルークは言った。
自分で言ってから、少し考えた。
浮いたときは落ち着かなかった。止まれないのも、笑われるのも、面白くはない。けれど、草の上を影が滑っていった短い間を思い出す。足を動かさずに、自分が前へ進んでいた。
「止まれれば」
一言だけ付け足すと、エミリーは吹き出した。
「大事なところじゃない」
「だから練習するんだろ」
ネッドが後ろから言った。
片手に、談話室へ置き忘れたらしい教科書を抱えている。
「エミリーも、下を見すぎない方がいいよ」
「分かった。覚えておく」
素直に頷かれ、ネッドは少し照れたように本を持ち替えた。
エミリーが自分の寮の席へ戻ってから、三人は長椅子に腰掛けた。ベンは大皿へ手を伸ばしながら、もう次の授業の話をしていた。
ルークも皿を取った。
右手でナイフを握ると、指の付け根が少し痛んだ。いつもより緩く持ってみる。
隣でネッドが、それに気づいて笑った。
談話室へ戻ると、暖炉の前は上級生で埋まっていた。
まだ火に当たりたいほど寒くはない。それでも窓から離れた椅子は人気があり、絨毯の上にも何人か座っていた。
ルークたちは奥の小さな机を使うつもりで、部屋を横切った。
「ウォルフ」
暖炉の方から声が掛かった。
ジェームズが長椅子の背に腕を載せていた。シリウスはその隣で、片脚を投げ出している。向かいには、薄茶色の髪をした細身の少年が座っていた。少し疲れたような顔で、本を指で開いたままこちらを見ている。その脇の丸顔の少年は、菓子を口へ入れかけた姿勢で止まっていた。
「ちょっと来なよ」
ジェームズが空いている場所を示した。
ルークはベンとネッドを見た。
ベンはもう足を向けていた。
「飛行訓練で一緒になったんだ」
ジェームズが向かいの二人へ言った。
「一緒にはなってない。見てただけだ」
ルークが訂正すると、シリウスが口元を押さえた。
「それで、こっちがクロフト。箒がうまい。こっちは──」
「ベンです」
「ベン。よし、覚えた」
ジェームズは向かいを指した。
「リーマスとピーター」
薄茶色の髪の少年が、本を閉じずに手を少し上げた。
「よろしく」
ピーターは急いで菓子を飲み込んだ。
「ジェームズに教わったの?」
「少し」
ルークが答える。
「飛ぶの、すごくうまいんだ。去年の試合でも──」
「その話は長い」
シリウスが言った。
「長くないよ」
ジェームズがすぐに反論した。
「君が途中で自分の話を足さなければね」
リーマスが静かに言った。
ベンが笑い、ルークも口元を緩めた。
近くで話してみると、四人は全員が同じ調子というわけではなかった。
ジェームズが話し始め、シリウスが横から方向を変える。ピーターはその先を知っていても続きを聞きたがり、リーマスは本を読みながら、ときどき短く口を挟む。
その間に、こちらの返事が入る隙間もあった。
「で、箒はどうだった?」
ピーターが尋ねた。
「まだ曲がれない」
ルークが答える。
「曲がってはいたよ」
ベンが言った。
「行きたい方へ、行きたいだけ曲がれないんだ」
「それを曲がれないって言うんだ」
ネッドが訂正し、ジェームズが笑った。
ルークは空いていた腰掛けに座り、ネッドもその隣へ腰を下ろす。ベンは椅子がないと分かると、絨毯に座り込んだ。
ジェームズがネッドへ、家でどんな箒を使っていたのか訊いた。
ネッドは少し前へ身を乗り出して答える。父親の古い箒は右へ曲がる方が得意だったこと。最初は庭の端にある木へ近づくのを禁じられていたこと。去年の夏には、枝の下を通れるようになるまで何度も練習したこと。
「枝の下?」
ベンがお菓子を片手に顔を上げた。
「当たらないの?」
「当たらない高さで飛ぶんだよ」
「僕はもっと広いところがいいな」
ネッドは笑ったが、ルークは続きを聞いていた。
「何度もって、どのくらい」
「分からない。毎日やってたし」
「毎日?」
「夏休みは。雨の日以外」
ネッドは肩をすくめた。
「最初からできたわけじゃないよ」
ルークは頷いた。
朝から何度か聞いた言葉だった。練習した。慣れればできる。その中身が少しだけ見えた気がした。
ジェームズは自分の膝に手を置いた。
「次に飛ぶときは、曲がろうとしすぎないことだね」
「また始まった」
シリウスが言った。
「大事なところだ」
「さっきから三回目だぞ」
「君は聞かなくていい」
「聞こえるんだよ」
ルークは肘を少し曲げた。
柄を握っていたときの形を作る。
「こうだったな」
ジェームズが手元を見て頷いた。
「そう。そこで肩を固めない」
言われて初めて、肩が上がっていると気づいた。少し下げてみる。
「今の方がいい」
ネッドが横から言った。
ジェームズは満足そうに背もたれへ寄り掛かった。
「これで次はうまくいく」
「いかなかったら?」
ルークが訊く。
「もう一度やる」
返事は思ったより普通だった。
ルークはジェームズを見た。
眼鏡の奥の目は、やはり笑っていた。
「一度教えたら全部できるようになるなら、僕はもっと早く寮の選手になってるよ」
そこでピーターが口を開きかけた。
シリウスが先に指を立てた。
「去年の試合の話は、なしだ」
今度はリーマスまで笑った。
ルークも笑った。
笑った拍子に肩が落ち、手の形が崩れた。
「ほら、そのくらいだ」
ジェームズが言った。
「それだと何も持ってない」
「だから、何も持ってないときまで力を入れるなって」
ベンが絨毯の上で真似をした。
両手を前へ出し、膝を持ち上げる。昼間よりずっと気楽そうだったが、すぐ後ろへ傾いた。
ネッドがローブの肩を掴む。
「ここでも落ちるのかよ」
「箒がないからだよ」
ベンは平然と答えた。
談話室の喧騒の中に笑い声が響いた。
変身術の課題を広げたのは、それからしばらくしてからだった。
ジェームズたちは別の話を始め、三人は奥の机へ移った。
ベンは椅子へ座ると、羊皮紙を出す前に菓子を一つ口へ入れた。ピーターにもらったものらしい。
ネッドは羽根ペンを探しながら、暖炉の方を振り返った。
「話したな」
「話したね」
ベンが頷く。
ルークはインク壺の蓋を開けた。
背後から、ジェームズの笑い声がする。さっきまで、その中に自分たちもいた事実が、少し違和感だった。
「ポッター、いつもあんななのかな」
ベンが小声で言った。
「うるさいってことか」
「それもあるけど」
「聞こえてるぞ」
暖炉の方から声が飛んできた。
ベンが首をすくめた。
ルークは振り返った。
「先生の話も、そのくらい聞けばいいのに」
シリウスが長椅子の背を叩いて笑った。
ジェームズは片手を上げた。
何か投げる真似だったが、手には何も持っていなかった。
ルークは机へ向き直った。
ベンが声を殺して笑っている。
ネッドまで、羽根ペンを持ったまま口元を曲げていた。
「何だよ」
「別に」
二人がほとんど同時に答えた。
課題は、まだ半分ほど残っていた。
ルークは前の授業で取ったメモを開いた。変化させたものの形だけでなく、材質まで確かめること。
紙の端に、小さく針を描いてある。
先生が褒めていた。
ジェームズの言葉を思い出したが、それを二人に持ち出す気にはならなかった。
ペン先をインクへ浸し、続きを書く。隣ではネッドが、一行書いては教科書を見ていた。
少しして、その手が止まる。
「ここ、先に書くのは形の方?」
ルークは覗き込んだ。
「課題は違いを説明しろって言ってた。どっちでもいいんじゃないか」
「でも、これだと同じこと二回書いてる」
「その行を後ろへ持っていけば?」
ネッドは指で二つの行を追った。小さく頷いて、余白に印をつける。
ルークは自分の羊皮紙へ戻った。
しばらく、ペンの擦れる音が続いた。
窓の外はすっかり暗い。暖炉の火がときどき音を立て、誰かが階段を上がっていく。ベンが椅子の上で脚を組み替えた。
ルークは一段落書き終えてから、右手を開いた。
箒で空を飛んだ余韻が、ずっと手の中にある。どうやら今日はこの感覚から逃れられはしないらしい。
「ネッド」
「何?」
「次の授業でも、見ててくれ」
ネッドのペンが止まった。
「飛び方?」
「ああ。どこで変になるのか、自分だと分からない」
「いいけど」
返事のあとに、少し間があった。
「言っても怒るなよ」
「言い方による」
「ほら」
ルークは笑った。
ネッドも笑い、それから机に片肘をついた。
「でも、僕も練習するからな」
「分かってる」
「ずっと見てるわけじゃないぞ」
「ずっと見られても困る」
ベンが顔を上げた。
「じゃあ、僕も入れて。片方が飛んでる間に、残りが見るんだろ」
「お前、喋ると落ちそうなんじゃなかったか」
「地面にいれば喋れる」
「それは知ってる」
ルークが言うと、ベンは満足そうに頷いた。
ネッドが教科書を閉じかけ、まだ一問残っていることに気づいて開き直した。
ルークは自分の課題の残りを数えた。こちらも、あと一つだった。
「次は、あの目印の周りくらい曲がる」
何気なく言うと、ネッドが横を向いた。
「僕はもっときれいに曲がる」
「知ってる」
「追いつかせないからな」
ルークは羽根ペンを持ち直した。
「じゃあ、今のうちに練習しとけよ」
ネッドは笑って、羊皮紙へ目を落とした。
次の飛行訓練までには、まだ何日かある。
時間割を思い浮かべ、ルークはその間にある授業を数えた。少し多いな、と考える自分がいることに少し驚いた。