もう一つの英雄譚   作:FeIron

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第8話

 グリフィンドールの談話室。ルークとネッドが勉強していると、ベンが椅子を引いて二人の隣にやってくる。椅子の脚が絨毯の端に引っ掛かるのを無理やり引きずり、間に入り込んできた。

 

「ちょっと足、どけて」

 

 ネッドが膝を引くと、ベンはようやく腰を下ろした。

 ルークは書きかけの行から顔を上げた。ベンの手には本も羊皮紙もない。夕食のあと、階段で別れたときには抱えていたはずだった。

 

「宿題は」

 

「あとでやる。それより、面白い話を聞いた」

 

「先に宿題した方がいいぞ」

 

「聞いてから決めてよ」

 

 ベンは机に肘を置いた。ルークのインク瓶が少し揺れたので、ルークはそれを手元へ引いた。

 ネッドは膝の上に開いた本から目を離さなかった。箒に乗った選手の絵が、同じところを何度も旋回している。

 

「この城に、誰も見つけられない教室があるんだって」

 

「空き教室ならそこら辺にいっぱいあるだろ」

 

「普通のじゃなくて」

 

 ベンは背もたれから身を起こした。

 

「入った奴はいるんだけど、もう一度行こうとすると見つからないんだって。前にあったはずのところへ行っても入口がないんだ」

 

「階を間違えたんじゃないか」

 

「ネッド」

 

「僕は一度やった」

 

 ネッドが頁をめくった。今度の絵では、選手が箒の柄にしがみついている。

 ベンはそちらを一度見てから、ルークに向き直った。

 

「中には本があるらしい。古い本とか、巻物とか。図書館にも置いてないようなのが」

 

 ルークの羽根ペンが止まった。

 

「何の本だ」

 

「魔法の」

 

「それは分かる。そうじゃなくて、どういう内容を扱っているか」

 

「授業じゃ教えないようなことだよ。…たぶん」

 

 最後だけ、声が少し小さくなった。

 ルークは羽根ペンを置いた。暖炉の薪が崩れ、火の粉が煙突の中へ吸い込まれていく。向こうの机で笑い声が上がったが、ベンは振り返らなかった。

 

「誰に聞いた?」

 

「スリザリンの一年生。そいつも兄貴から聞いたって。さっき寮の上級生にも聞いてみたら、知ってたよ。封じられた教室って呼ぶんだってさ」

 

「入った奴を知ってるのか」

 

「その人は知らないって。でも、その人が一年のときにも同じ話があったらしい」

 

 ルークはベンの顔を見た。

 ベンは少し考え、それから付け足した。

 

「少なくとも、僕が今作った話じゃない」

 

「どこにある」

 

「北側の階段の近く」

 

 今度はネッドも顔を上げた。

 

「何階の?」

 

「そこまでは聞いてない」

 

「広いぞ」

 

「だから見つからないんじゃないか」

 

 ベンは、うまく説明できたという顔で椅子に寄り掛かった。

 ルークは今日通った廊下を思い返した。まだ行ったことのないところは多い。授業へ向かう途中で脇道があっても、その先まで確かめる暇はなかった。毎日歩く階段でさえ、曲がった先に見覚えのない肖像画が掛かっていることがある。

 

「鍵が掛かってるだけじゃないのか」

 

「だったら、扉は見つかるだろ」

 

 それはそうだった。

 ルークは羊皮紙へ目を落とした。途中で止めた文の末尾に、小さなインクの染みができている。

 

「本当に本があるのか」

 

「入った人の話ではね」

 

「その人の名前は」

 

「そこまでは──」

 

「聞いてないんだな」

 

 ネッドが本の陰で笑った。

 ベンは両手を広げた。

 

「聞いてきた方に、もうちょっと優しくしてもいいと思う」

 

「次に会ったら、何階か聞いてくれ」

 

 ルークが言うと、ベンはすぐに頷いた。

 

「探す?」

 

「近くを通ったら」

 

「僕にも教えてよ。見つけたら」

 

 ネッドは何も言わず、また頁をめくった。

 ルークも羽根ペンを取った。文をどこから書き直すか考えていると、隣でベンがしばらく机を眺め、それから立ち上がった。

 

「羊皮紙、取ってくる」

 

「宿題はあとじゃなかったのか」

 

「面白い話は終わったからね」

 

 ベンは結局戻ってこず、見行くとベッドの上で熟睡していた。

 

 

 

 

 土曜日は朝から雨だった。

 大広間の天井を低い雲が覆い、窓に打ちつける雨粒が、外の景色を細く引き延ばしている。食事が終わっても、生徒たちはなかなか席を立たなかった。

 ネッドは最後に残ったトーストを口へ押し込み、窓を見た。

 

「まだ降ってる」

 

「さっきも降ってた」

 

「弱くなったかと思ったんだ」

 

 ベンはすでに食堂の端にいた。同じ寮の生徒に呼ばれ、立ったまま何か話している。こちらに気づくと片手を振り、そのまま一緒に出ていった。

 ルークは鞄を肩へ掛けた。今日は午前中に課題を片づけてしまうつもりだった。ネッドも、外へ出るのは諦めたらしい。本を二冊抱えて後についてくる。

 大階段には、上へ向かう生徒が何人もいた。二人は途中で横へ折れ、人の少ない廊下へ入った。

 窓の外に、中庭の向こうの壁が見えた。

 ルークは立ち止まった。

 

「北って、こっちか」

 

 ネッドも足を止めた。

 

「たぶん。何で?」

 

「ベンの話」

 

「何の」

 

「教室」

 

 ネッドは一度天井を見上げてから、思い出したように口を開いた。

 

「ああ。あれ」

 

 廊下の先には、細い階段があった。いつも使うものより幅が狭い。手すりの端が、丸く擦り減っていた。

 ルークはそちらへ歩いた。

 

「行くの?」

 

「ちょっと見るだけだ」

 

「何階かも分からないんだろ」

 

「下から順番にみていけばいい」

 

 ネッドは抱えた本を持ち直した。ルークが最初の段へ足を掛けると、後ろから靴音がついてきた。

 

「昼までには戻るからな」

 

「昼飯までだな、じゃあ」

 

 階段を上がった先には、扉が三つあった。

 一つ目はすぐに開いた。中には机と椅子が並び、黒板の端に消し残された文字があった。窓辺に枯れた鉢植えが置いてある。

 ルークは入口から中を見渡した。教卓の下も、壁際も、普通の教室だった。後ろの戸棚を開けてみると、白墨が何本かと、割れた植木鉢の受け皿があった。

 

「本は?」

 

 入口に立ったまま、ネッドが聞いた。

 

「ない」

 

「次だな」

 

 二つ目の扉は、取っ手を押しても動かなかった。

 ルークは耳を近づけた。中からは何も聞こえない。指の関節で二度叩いてみたが、返事もなかった。

 

「開ける魔法、知ってる?」

 

 ネッドに聞かれ、ルークは首を振った。

 

「まだ使ったことがない」

 

「じゃあ、ここは無理だ」

 

 ルークは取っ手から手を離した。扉なら、見つかっている。ベンが言ったものとは違うはずだった。

 三つ目を開けると、箒が倒れてきた。

 ルークは肩で受け止めた。続いて短い柄が二本転がり、ネッドが慌てて足を引く。

 狭い物入れだった。バケツが重ねてあり、その上に布が詰め込まれている。

 

「本より、こっちの方が役に立つかもな」

 

 ネッドが床の箒を拾った。

 

「乗れるのか」

 

「掃く方」

 

 二人で箒を戻した。最後の一本がなかなか収まらず、ネッドが押さえている間にルークが扉を閉めた。手を離すと、中で柄が滑る音がした。

 二人はしばらく扉を見た。何も倒れてこないことを確認して次の廊下へ向かった。

 

 曲がり角には、古い肖像画が掛かっていた。

 白い顎ひげを二つに分けた老人が、背の高い椅子で新聞を読んでいる。膝の上には灰色の猫が丸くなっていた。

 ルークが前へ立つと、老人は新聞を少し下げた。

 

「何じゃ」

 

「この辺に、使われてない教室はあるか」

 

「あるとも」

 

「どこだ」

 

「そこを戻った最初の部屋じゃ」

 

 老人は、二人が出てきたばかりの教室を指した。

 

「そこは見た。ほかには」

 

「階段を下りて左じゃ」

 

「入口が見つからないやつは?」

 

 老人が眉を寄せた。

 

「見つからんのなら、わしにも教えられん」

 

 ネッドが顔を背けた。

 老人は新聞を持ち上げ、今度は目まで隠してしまった。猫だけが片目を開けてルークを見ていた。

 少し離れたところで、ネッドがとうとう笑った。

 

「聞き方が悪かったな」

 

「じゃあ、お前が聞け」

 

「もう答えてくれないと思う」

 

 窓の方へ歩きながら、ネッドはまだ肩を揺らしていた。

 その足が、急に止まった。

 

「あ」

 

 ルークも窓へ寄った。

 雨はいつの間にか細くなっていた。校庭のずっと向こうで、箒に乗った何人かが飛んでいる。灰色の空を背にした人影は小さく、誰なのかまでは分からない。

 一人が大きく旋回した。追うように、もう一人が高度を下げる。

 

「今の見た?」

 

「曲がったところか」

 

「曲がる前。先に肩を入れた方が少しだけ外へ膨らんだだろ。後ろの方は、ほとんど同じ高さのまま回ってた」

 

 ネッドは窓枠へ本を置いた。今にも外へ乗り出しそうになっていたので、ルークは滑りかけた上の一冊を押し戻した。

 二人の飛び手は遠ざかり、しばらくして戻ってきた。

 ルークは今度こそ肩を見ようとしたが、距離がありすぎた。どちらも黒い点が傾いたようにしか見えない。

 

「分かるのか、あれで」

 

「分かるよ」

 

 ネッドの返事は早かった。

 次の周回でも、ルークにはよく分からなかった。だが、後ろの飛び手が少しずつ差を詰めていることだけは分かった。

 廊下の奥には、まだ見ていない扉が二つあった。

 ルークはそちらへ目をやり、それから窓へ向き直った。

 

「また来るぞ」

 

「今度は先に曲がる方を見てて」

 

 ネッドが硝子に指をつけた。

 雨粒の跡に、指先の丸い曇りが残った。ルークとネッドの目は箒に乗った人影を見つめていた。

 

 

 

 

 昼食の席で、ベンは二人が座るより先に聞いてきた。

 

「どこに行ってたの?」

 

「北側」

 

 ルークが答えると、ベンの目が開いた。

 

「探したの?教室」

 

「ちょっとな」

 

「あった?」

 

「箒があった」

 

 ネッドがパンを取りながら言った。

 

「あと、バケツとチョーク」

 

「何だよ、それ」

 

「聞かれたから」

 

 ルークは空いた皿を手前へ引いた。思ったより腹が減っていた。

 ベンはまだ二人の顔を見比べている。

 

「でも、全部見たわけじゃないだろ」

 

「お前、何階か聞いたか」

 

「聞いたよ。上の方だって」

 

 ネッドの手が止まった。

 

「上って?」

 

「階段を上がったところ」

 

「この城、だいたいそうだぞ」

 

 下から探し始めたのは間違いだったかもしれない。

 ベンはパンの端をちぎった。

 

「僕に言われても困る。そう聞いたんだから」

 

「次はそいつに案内させよう」

 

「そいつも知らないんだよ」

 

 ネッドは口を開きかけ、それから閉じた。パンをかじり、ルークへ横目を向ける。

 ルークは皿のじゃがいもを切った。

 

「まだ見てないところはある」

 

「ほら」

 

 ベンが嬉しそうに言った。

 

「見つけたら、僕が教えたって忘れないでよ」

 

「箒のことか?」

 

「本の方だってば」

 

 ネッドは笑って、かじりかけのパンを皿へ置いた。

 

 

 

 

 次に探したのは、水曜日の午後だった。

 授業が終わって寮へ戻る途中、ルークが一本隣の階段へ向かうと、ネッドは何も聞かずについてきた。ただ、今度は最初に「夕食までだからな」と言った。

 その日は、窓のない廊下に出た。

 突き当たりの扉を開けると、向こうから年上の生徒が二人出てきた。二人とも腕いっぱいに羊皮紙を抱えていたので、ルークたちは壁へ寄った。

 中では数人が机に向かっていた。扉の近くに座る、そばかすのある少女が顔を上げた。羽根ペンを握った指の脇が、青いインクで汚れている。

 

「ここ、使ってるけど」

 

「ごめん、部屋間違えた」

 

 ルークが扉を閉めると、ネッドが肩をすくめた。

 

「本はあったな」

 

「あれは課題だ」

 

「僕らにもある」

 

 その日は、そこで戻った。

 

 翌日の呪文学で、ルークの机から羽根が浮いた。

 高さは指二本分ほど。ふわふわと力なく浮かぶ羽根に向かって握る杖に力を足すと、羽根は急に裏返り、机の向こうへ飛んでいった。ベンが片手で顔をかばった。

 

「僕の方に飛ばす課題じゃないよ」

 

「分かってる」

 

 拾ってやり直す。今度は持ち上がる前に先端が震えたので、それ以上力を込めずに待った。

 ゆっくりと、羽根の軸が机を離れた。

 隣ではベンが杖を振るたびに袖を机へ引っ掛けていた。ルークは羽根を下ろしてから、それを指さした。

 

「袖を上げろ」

 

「さっきから邪魔だと思ってたんだよね」

 

「さっきから見えてた」

 

「もっと早く言ってよ」

 

 ベンは袖を折り返した。もう一度唱えると、羽根が片側だけ持ち上がった。

 教室を出る頃には二人とも教室の噂を忘れていた。

 ベンが自分の杖の動かし方を、何も持っていない手で確かめる。曲がり角で大きく振った指がルークの鼻先をかすめ、ルークはその手首を少し下げて練習を続けた。

 

 ハロウィーンの晩には、大広間にかぼちゃの灯りが並んだ。

 天井近くを飛ぶコウモリが、吊るされた灯りの間を縫っている。ベンは頭上を気にして、何度も皿を引き寄せた。

 

「食べ物には来ないよ」

 

 ネッドに言われても、一匹が低く飛ぶとベンは自分のパイへ手をかざした。

 ルークは大きなかぼちゃの内側を覗こうとして、ネッドに袖を引かれた。向こうから熱い皿が回ってきていた。

 食べ終わって寮へ戻るとき、ベンが言った。

 

「こういう日に開くんじゃない?」

 

「何が」

 

「例の教室」

 

「何でだ」

 

「ハロウィーンだから」

 

 ルークが見ると、ベンは自分でも笑っていた。

 その晩は誰も探しに行かなかった。

 

 次の休日、ネッドは外へ出た。

 朝から晴れていた。ルークが北側へ行くと言うと、ネッドは窓の外とルークを順に見て、首を振った。

 

「今日はやめとく。雨が降る前に出たい」

 

「分かった」

 

「お前も来れば?」

 

「あとで行く」

 

「見つからなくても来いよ」

 

 ルークが頷くと、ネッドはマフラーを首へ巻きながら階段を下りていった。

 その日は一人で歩いた。

 前に見た教室には、同じ枯れた鉢植えがあった。白墨の入った戸棚も変わらない。鍵の掛かっていた部屋の扉は開いていたが、中にあったのは、片脚の短い机を含む古い家具ばかりだった。

 扉の数を、使い終わった羊皮紙の裏へ書いた。

 窓が二つ、扉が三つ。階段を上がって右。

 次の廊下へ入ってから、左右が逆だったことに気づいた。書き直そうにも、羽根ペンもインクも持っていなかった。爪で薄く線をつけ、帰ってから直すことにした。

 昼前には校庭へ出た。

 ネッドはルークを見ると、遠くから片手を上げた。何か見つかったかとは聞かなかった。

 

 最初にベンが話を持ってきてから、二週間ほどがたった。

 夕食の席で、ベンは別の話をするようになった。上級生が階段で盛大に転んだことや、誰かの飼っている猫が、持ち主より先に授業へ行っていたこと。

 ルークが戻ってきても、教室について尋ねることはなくなった。

 一度だけ、ルークの羊皮紙を覗き込み、ベンが言った。

 

「それ、まだ探してるの?」

 

「通ったところを覚えてるだけだ」

 

「地図?」

 

「そんなにちゃんとしたものじゃない」

 

 ベンは上下を逆にして眺めた。

 

「こっちは?」

 

「窓」

 

「池かと思った」

 

 丸が潰れていた。ルークは羊皮紙を引き取った。

 ベンは隣の椅子に座り、鞄から課題を出した。

 

「何もないんじゃないかなあ」

 

「お前があるって言ったんだろ」

 

「あるらしい、って言ったんだよ」

 

 ルークが顔を上げると、ベンはもう羊皮紙へ目を落としていた。羽根ペンをインクへ浸し、何事もなかったように日付を書いている。

 ルークは手元の見取り図を二つに折った。

 ベンが顔だけこちらへ向けた。

 

「怒った?」

 

「怒ってない」

 

「本当に?」

 

「その日付、昨日だぞ」

 

 ベンは自分の羊皮紙を見た。

 小さく舌打ちして、書いたばかりの数字を消した。

 

 それからも、ルークはときどき遠回りをした。

 授業と夕食の間に少し時間が余ったときや、図書館から戻るとき。知らない廊下を見つければ、端まで行ってみた。人が使っている部屋には入らず、扉が開いているところだけを覗いた。

 ほとんどは机と椅子だった。何もない部屋も多かった。暖炉に冷たい灰が残っているところも、窓が高すぎて外を見られないところもあった。

 本の詰まった部屋には行き当たらなかった。

 何の本かさえ分からないのに探していることを、歩きながら自分をおかしく思う日もあった。

 図書館には、まだ読んでいない本が山ほどある。そこから知識を得た方がいいのではという思考も常に頭の中にあったし、そっちの方が理にかなっていることはよくわかっていた。

 それでも、廊下の先に見覚えのない扉があれば、そちらへ足を向けてしまっていた。

 

 

 

 

 その日の放課後、ネッドは先に寮へ戻った。

 ルークは教室で鞄の紐を結び直していた。端の縫い目から細い糸が出ていて、引くたびに長くなる。途中で諦め、飛び出した分を結び目に巻き込んだ。

 ベンは廊下で待っていた。

 

「直った?」

 

「たぶん」

 

「取れそうだよ」

 

「取れたら持つ」

 

「鞄を?」

 

「ほかに何を持つんだ」

 

 ベンは笑い、歩き出した。

 ルークが追いつくと、ベンは鞄から巻物の端を押し込んだ。収まりきらないまま留め金を掛けたので、羊皮紙が少し曲がった。

 廊下にはまだ生徒がいた。階段の手前で何人かが立ち止まって話し、その脇を年下の生徒がすり抜けていく。

 二人は横の通路へ折れた。

 こちらからでも寮へ戻れる。少し遠いが、階段の前で人が動くのを待たずに済んだ。学校の構造に少し詳しくなったのは教室探索の唯一と言っていい収穫だった。

 窓には夕方の薄い光が残っていた。硝子の下の方だけが白く曇り、石の床へ落ちた光もぼやけている。

 ベンが、鼻歌を歌い始めた。

 短い節を、何度か繰り返す。途中から言葉がついた。

 

「小鍋がことこと、靴下ひとつ。かきまぜ三回、片足さむい」

 

 ルークは横を見た。

 ベンは前を向いたまま、指で鞄の留め金を弾いていた。

 

「何だ、その歌」

 

「知らない?」

 

「知らない」

 

「小鍋の歌だよ。小さいときに歌わなかった?」

 

 ルークは首を振った。

 ベンは少し目を丸くしたが、それ以上は聞かなかった。代わりに、また最初から歌った。

 

「小鍋がことこと、靴下ひとつ。かきまぜ三回、片足さむい。魔女はおたまで──」

 

「何で靴下を入れる」

 

 ルークが聞くと、ベンは歌をやめてこちらを向いた。

 その後ろで、音がした。

 細く、少し震える音だった。高い音が二つ続き、最後だけ低くなった。

 ルークは足を止めた。

 ベンは二歩ほど先へ行ってから振り返った。

 

「どうしたの」

 

「今の」

 

「何で入れるかって? 知らないよ。そういう歌だし」

 

「違う歌詞じゃなくて、音がした」

 

 ベンは口を閉じた。

 二人で耳を澄ました。

 遠くで扉の閉まる音がした。誰かが呼びかける声がして、返事が階段の方へ遠ざかっていく。

 それ以外は何もなかった。

 

「誰か、まだ教室にいるんじゃない?」

 

 ベンが言った。

 ルークは壁を見た。そこには扉がなかった。低い台座に石の壺が載り、その先に細長い窓が一つある。

 

「こっちから聞こえた」

 

「上の階かも」

 

 ルークは天井へ目を上げた。

 ベンも同じ方を見た。それから、首を傾げた。

 

「……でも、今のって」

 

「何だ」

 

 ベンは唇を動かした。声に出さず、さっきの歌を初めから辿っているらしかった。

 

「続きだった」

 

「歌の?」

 

「たぶん。僕がやめたところの、そのあと」

 

 ルークはベンを見た。

 ベンも壁を見た。

 二人ともほんの少し、口元が上がっていた。

 

「誰か知ってるんだ」

 

「人の声じゃなかった」

 

「口笛とか」

 

「違うと思う」

 

 ルークには弦を指で弾いたように聞こえた。通りで見た楽器の音に少し似ている。ただ、あまりに短く、どんなものかまでは分からなかった。

 壁には飾りも絵もなかった。石と石の継ぎ目に、黒い埃が溜まっている。

 ベンが、その前へ一歩寄った。

 

「誰かいる?」

 

 返事はなかった。

 もう一度、今度は少し大きな声で呼んだ。

 何も起きなかった。

 

「歌ってみろ」

 

 ルークが言った。

 

「ここで?」

 

「さっきと同じところまで」

 

 ベンは廊下の両側を見た。誰も来ないことを確かめると、声を落として歌い始めた。

 今度は少し遅かった。言葉を一つずつ置き、魔女がおたまを持ったところで口を閉じた。

 二人とも動かなかった。

 少しの間を置いて、同じ音が返った。

 高い音が二つ。それから、低い音。

 ベンの目が丸くなった。

 ルークは壁へ近づいた。手のひらを当ててみたが、冷たいだけだった。指先にも耳にも、震えは残っていない。

 

「もう一回」

 

 ベンは今度はすぐに歌った。

 最後の言葉を切ると、短い旋律が廊下に響いた。

 ベンが笑った。

 

「歌ってる」

 

「鳴ってるんだ」

 

「同じだろ」

 

 ルークは返事をせず、石の壺へ向かった。口を覗き込むと、中には埃と、小さな枯れ葉が入っていた。葉の先が、ルークの息で動いた。

 

「そこ?」

 

「違う」

 

「よく見た?」

 

「葉っぱしかない」

 

 ベンも覗いた。

 自分で確かめないと気が済まなかったらしい。底を見て、口をすぼめ、埃を吹き飛ばそうとしてやめた。

 

「誰かが僕らを見てるのかな」

 

 そう言って、後ろを振り返った。

 廊下には二人しかいなかった。

 ルークは窓の向こうも見た。対面の壁に並ぶ窓は暗く、そのうち一つだけに空の色が映っていた。

 

「ここ、前にも来た」

 

「いつ?」

 

「この前。教室を探したとき」

 

 ベンが振り向いた。

 

「あの教室?」

 

「そのときは音なんかしなかった」

 

 ベンは壁を見て、それから来た方を見た。

 廊下の先には、北側へ続く階段がある。

 

「……そういうこと?」

 

「まだ分からない」

 

「でも、この辺だろ。話にあったの」

 

「この辺は、かなり広いぞ」

 

 ルークが言うと、ベンは一瞬だけ黙った。

 それから肩をすくめた。

 

「確かめればいいじゃないか」

 

 

 

 

 最初は、廊下の両端に分かれた。

 ベンが壺の近くで歌い、ルークは窓の向こうまで歩いた。音は聞こえたが、近づいた感じはしなかった。

 次は反対へ行った。

 さっきより低く聞こえた気がしたものの、ベンにそう言うと、歌う声を少し小さくしたせいかもしれないと言われた。

 

「同じ大きさで歌え」

 

「そんなこと言われても」

 

「できるだけでいい」

 

 ベンは息を吸い直した。

 何度も聞いているうちに、ルークは最初の節を覚えてしまった。小鍋と靴下。三回かきまぜて、片足が寒い。

 なぜそんなことになったのかは、まだ分からなかった。

 ベンが続きを最後まで歌っても、魔女は片足のまま踊るだけで、靴下を取り出しはしなかった。

 

「取ればいいだろ」

 

「だから、そういう歌なんだって」

 

 ベンは笑った。

 最後まで歌ったときには楽器の音はしなかった。

 

 近くの教室の中も覗いてみた。

 一つ目には椅子が逆さに載せられた机が並び、もう一つは空だった。ベンが廊下で歌っている間、ルークは空の教室の奥へ立った。

 音はやはり廊下の方から聞こえた。

 扉を開けたままにして、部屋の隅へ移った。今度はほとんど聞こえなかった。

 廊下へ出ると、ベンが壁に寄り掛かっていた。

 

「僕も聞く方をやりたい」

 

「分かった」

 

「歌える?」

 

「これだけ聞けば」

 

 二人は場所を替わった。

 ルークは壺の前に立った。誰もいない廊下で声を出そうとすると、さっきまで気にならなかった静けさが耳についた。

 ベンが扉の向こうから顔を出した。

 

「どうぞ」

 

「引っ込んでろ」

 

 ベンの顔が消えた。

 ルークは小さく息を吸い、覚えたばかりの言葉を歌った。

 声が、思ったより先まで響いた。途中で自分の高さがベンと違う気がしたが、直し方が分からず、そのまま最後の言葉で止めた。

 楽器が続きを奏でた。

 教室から、ベンがすぐに出てきた。

 

「聞こえた」

 

「どこから」

 

「こっち」

 

「こっちの、どこだ」

 

 ベンは廊下へ出て、首を傾げた。

 壺と窓と、その間の壁を順番に見た。

 

「……こっち」

 

 ルークは額へ手を当てた。

 

「本当に分からないんだよ。近いのに、遠くから聞こえるっていうか」

 

「俺が聞いたときもそうだった」

 

 ベンは壁を軽く叩いたが、硬い音がするだけだった。ルークも隣を叩いたが、違いは分からなかった。

 扉の形をした継ぎ目も、取っ手の代わりになりそうな出っ張りもない。

 ベンが壺の台座へ手を掛けた。

 

「回したら開いたりして」

 

「倒すなよ」

 

「分かってる」

 

 台座は動かなかった。

 壺だけがかすかに揺れたので、二人とも手を伸ばした。底が石に触れ、小さな音がした。

 ベンが手を離した。

 

「これは違うね」

 

 ルークは壺が落ち着くまで待った。

 

「歌を知ってるだけかもしれないぞ」

 

「何が?」

 

「ここにある何かが」

 

 ベンは壺から一歩離れた。中に何か入っていると思ったらしい。

 ルークは首を振った。

 

「これじゃなくて。壁の向こうとかに」

 

「それなら、向こうへ行けば分かる」

 

 壁の反対側へ回れそうな道を探した。

 近くの曲がり角は階段へ続いていた。途中で折り返すと別の階へ出てしまい、元の廊下と同じ高さには戻れなかった。

 ルークは鞄から折った羊皮紙を出した。

 前に描いた線を指で辿る。窓の数が一つ足りない気がした。書いた場所がここなのか、その下なのか、自信がなくなった。

 ベンが横から覗いた。

 

「地図、持ってたんだ」

 

「違う。覚え書きだ」

 

「僕が窓を池と間違えたやつ?」

 

「そう」

 

「あのときより増えてる」

 

 ベンは羊皮紙の端を持った。折り目で隠れたところを広げ、しばらく黙って見ていた。

 それから、下の方を指した。

 

「ここから回れない?」

 

「そっちは行き止まりだった」

 

「これは」

 

「まだ行ってない」

 

 ベンが顔を上げた。

 ルークは羊皮紙を畳んだ。

 

「見てみるか」

 

 二人で階段を下りた。

 

 

 

 

 寮へ戻る頃には、窓の外は真っ暗になっていた。

 結局、壁の向こうへは行けなかった。下の階から回った廊下は中庭を向いていて、思っていた方向とは違った。もう一本試すと、さっき二人で通ったところへ戻ってきた。

 楽器の音は、同じ廊下でしか聞こえなかった。

 ベンは途中から、歌う代わりに鼻歌で試していた。それでも、決まったところで止めると続きを返した。

 人が通ったときには、二人とも黙った。

 誰もいなくなるのを待っている間、ベンが笑いそうになり、ルークの腕へ額を押しつけてきた。ルークは肘で押し返したが、自分も少し口元が緩んだ。

 結局教室は見つからなかったし、何が鳴っているのかも分からないままだった。

 

 談話室で、ネッドは暖炉の近くに座っていた。膝の上に本を開き、片足から靴を脱ぎかけている。

 二人を見ると、椅子の上に置いていた鞄を床へ下ろした。

 

「遅かったな」

 

 ベンが口を開いた。

 ルークの方をちらりと見てから、隣の椅子へ腰を下ろす。

 

「ちょっと歩いてた」

 

「また教室?」

 

「まあね」

 

 ネッドはルークを見た。次にベンを見て、少しだけ眉を上げた。

 

「今度はお前も?」

 

「たまにはいいだろ」

 

「あったのか」

 

「教室はなかった」

 

 ルークが答えた。

 ネッドは頷き、また本へ目を落とした。ベンは何か言いたそうにしていたが、結局鞄を開けた。

 ルークも座り、机の空いたところへ羊皮紙を広げた。

 階段を一本消し、今日通った廊下を書き足す。窓の位置を直すと、ベンが椅子を寄せてきた。

 

「壺も描いといて」

 

「今描く」

 

 ベンが覗き込んでくるので、ルークは肘をずらした。

 壺の横に短い印をつけ、そこで羽根ペンを止める。

 少し考えてから、印のそばへ『歌』と書いた。

 ベンはそれを見て、声を出さずに笑った。

 

「明日、別の歌も試してみようよ」

 

「いくつ知ってる」

 

「結構。あの歌にも、まだ続きがある」

 

「靴下は出てくるのか」

 

「最後まで鍋の中」

 

 ルークはベンを見た。

 ベンは、だからそういう歌なんだという顔で肩をすくめた。

 ネッドが本から顔を上げた。

 

「何の話?」

 

「靴下の話」

 

 ベンが答えた。

 ネッドは自分の足元を見て、ますます分からないという顔をした。

 ルークはインクが乾くのを待った。羊皮紙を折り、教科書の間へ挟む。

 隣でベンが、あの節を小さく口ずさんだ。

 魔女がおたまを持ったところで、声が途切れた。

 二人とも、ほんの少し耳を澄ました。

 暖炉の中で薪が爆ぜた。

 ベンが先に笑い、ルークも俯いたまま笑った。

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