ある晴れた初冬の朝だった。
校庭の芝生には朝露が降り、キラキラと朝日を反射している。
裾が地面に擦れて濡れてしまわないように少し持ち上げながら、ルークはベンと一緒に足早に歩いていた。
「今日はどう探す?」
「どうしようか。ここ数日で思いつくことは全部やったしな」
「色々試したけど、どれも上手くいかなかったね」
「うん」
城に入っても歩調は緩まなかった。二人は階段を駆け上がりながら、変身術の教室へと向かっていた。
踊り場の窓を通り過ぎるとき、ちらりと二人の視線が北の塔の方を向く。
思い出してみれば、廊下には色々なものが置いてあった。鎧、壺、よくわからない動き続ける地球儀のようなもの。おそらく古く、そして貴重であろうものがこの学校の廊下には多く並んでおり、それはルーク達が事細かに探し物をしている廊下も同じだった。
「あーでも、あの辺にはまだ動かしてない物があるし、次はその下でも調べてみる?」
その辺りのものを動かすのは、しばらく避けていた。すでに一度試みて、落として壊したという体験があるからだった。
「そうだな。でも、壺を必要以上に持ち上げるのはもうなしだ」
「壺ね。割ってしまったの、気づかれてないみたいでよかった」
「直しただろ」
「壺の下なんかに扉があるわけないのにね。割った時の君の青ざめた顔、すごい見ものだったよ」
少し苦々しい顔で、ルークは答える。
実際、落としてしまった瞬間には相当に焦っていた。幸い、破片はレパロで元の形に戻ってくれた。ただ、修復した壺を台に戻してからも、何かおかしなところがないか二人でしばらく眺める羽目になった。もし元々何かの魔法がかかっていて、それまで壊してしまっていたら、直せたかどうかもわからない。
「うるさいな。大体、ベンが早く探してたら落ちる前に降ろせてただろ」
「だって、暗くて見えなかったんだよ」
「だから先に明かりをつけろって言ったんだ」
「次はそうする」
ベンはあっさり言うと、教室の扉に手をかけた。
中では、ネッドがすでに席についていた。隣の椅子に置いていた鞄をどけ、二人の顔を見る。
「また探してたの?」
「まだ朝だぞ」
「朝から探してても驚かないよ」
それについては、ルークも否定しなかった。
授業までに少し時間が余れば、廊下を一本余分に通るくらいのことはしていた。ベンが一緒のこともあれば、いないこともある。ネッドは最初の頃こそ付き合っていたが、最近では行ってきた話を聞く方に回っていた。
もっとも、何か見つかったか、と尋ねることだけは忘れない。
「今日は壺を持ち上げるらしい」
ルークが鞄を下ろすと、ネッドはベンを見た。
「また?」
「なんで知ってるの」
「君が話したんだろ。ルークの顔が面白かったって」
ルークは黙ってベンを見た。
ベンは教科書を開いていた。上下が逆だった。
その日の変身術では、ボタンを別の形のボタンに変える練習をした。
穴の位置や厚さも変える必要があり、ただ丸いものを四角くすればよいというわけではなかった。ルークのボタンは早々に四角くなったが、裏返してみると穴の片方が塞がっていた。
「表だけを見て終わりにしてはいけません、ウォルフ」
机の間を歩いてきたマクゴナガルが、ルークの手元を見て言った。
「はい」
ルークはもう一度杖を構える。
隣では、ベンが自分のボタンを指先でつついていた。角を作るつもりだったらしいが、一か所だけ長く尖っている。
「それ、刺さるぞ」
「わかってる。もう刺さった」
ベンは親指を隠した。
授業が終わる頃には、ルークのボタンにも二つの穴が開いていた。ベンのものは最後まで少し尖っていたが、本人は使う時に気をつければいいと言っていた。
*
放課後、北の塔へ向かう廊下は朝よりもずっと冷えていた。
窓際には西日が差していたが、壁の窪みにまで届いてはいない。そこに置かれた壺の下を調べるとなると、確かに明かりが必要だった。
「ルーモス」
ベンの杖先に明かりが灯る。
ルークは壺を見た。前に割ったものよりも背が高く、両側に小さな取っ手がついている。細い首に対して腹の部分は丸く膨らみ、持ち上げるには少し重そうだった。
「今日はこっちにしよう」
ルークは隣の壁にかかっている布を指した。
長いタペストリーだった。描かれた森の中を鹿が歩いている。裾は床に届く少し手前まで垂れていて、その裏はまだ調べていなかった。
「壺は?」
「あとだ」
「怖くなった?」
「じゃあお前が持ち上げろ」
「先にこっちにしようか」
ベンは明かりをタペストリーに向けた。
「ウィンガーディアム・レヴィオーサ」
裾がゆっくりと持ち上がった。鹿が足を止め、急に曲がった地面を見下ろしている。
思ったよりも布が重かった。ルークは杖先を少し上げ、ベンが屈んで入れるだけの隙間を作る。
「どうだ?」
「壁」
「それは見ればわかる」
「壁しかないってこと。もう少し持ち上げられる?」
さらに上げると、ベンは頭を潜らせた。
明かりが布越しにぼんやりと透けている。杖を左右へ動かすたび、森の奥が明るくなったり暗くなったりした。
「何かある?」
「待って。あ、あった」
ルークは杖を握り直した。
「何が?」
「蜘蛛」
「それはいいから早くしてくれ」
結局、その裏には扉も取っ手もなかった。ベンが見つけたのは、壁の継ぎ目と、床に落ちていた古いボタンだけだった。
タペストリーを下ろすと、鹿は足元を何度か踏んでから森の奥へ戻っていった。
「これ、変身術で使えるかな」
ベンは拾ったボタンを掌に載せた。
「洗ってからにしろよ」
二人はその先の扉も調べた。
取っ手を回しても動かなかったが、アロホモラを試すと、内側から小さな音がした。ベンがすぐに顔を上げる。
「開いた?」
ルークは扉を押した。
細長い部屋だった。窓はなく、奥に棚がある。ベンの明かりが中を照らすと、積み重なった腰掛けと、柄の長い箒が何本か見えた。
二人はしばらく黙っていた。
「教室には見えないね」
「そうだな」
「箒についての知識が集まってるのかも」
「掃除用のやつならな」
それでも一応、奥まで調べた。
腰掛けの後ろにも扉はなく、棚には布と空の桶が置かれていた。入口からは本に見えた四角いものも、持ち上げてみるとただの板だった。
ルークは板を戻し、出る前にもう一度部屋を見回した。
奥の壁は入口から見た時よりも近くにあった。歩いてみれば五歩ほどしかない。外の廊下を曲がった先に何かあるのではないかと思っていたが、この部屋だけではそこまで届かないらしい。
「そっち、壁を叩いてみて」
ベンに明かりを向けてもらい、ルークは奥の壁を拳で軽く叩いた。
鈍い音がした。少しずつ場所を変えてみても、違いはよくわからなかった。
「どう?」
「わからない」
「僕にもやらせて」
場所を代わったベンも、しばらく壁を叩いていた。
ルークはその間、入口の外を見張った。誰も来ない。遠くで扉の閉まる音がして、二人とも一度だけ手を止めた。
「どうだ?」
「僕にもわからない」
結局、二人は腰掛けを元の位置へ戻した。
こうして実際に扉が開いても、探している場所とは限らない。ここ数日、似たようなことばかりだった。朝に通った時には閉まっていた扉が、夕方には開いていることもあったが、覗くと中で上級生が宿題をしていた。
一度は、誰もいない教室で黒板に文字が浮かび上がった。二人で慌てて読み取ったものの、前の授業で消し残された課題らしかった。封印された教室とは何の関係もなく、ベンはせっかく書き写した羊皮紙を丸めていた。
「次はどうする?」
廊下へ戻ると、ベンが聞いた。
「向こうの扉。まだ開いてないだろ」
「あれ、昨日も開かなかったよ」
「昨日と同じ人間がやる必要はないだろ」
「じゃあ今日は君の番だね」
ルークは昨日ベンが立っていた場所に立ち、杖を向けた。
「アロホモラ」
何も起こらなかった。
取っ手を回し、押し、それから引いてみる。扉は動かない。
「ほら」
「まだ何も言ってないだろ」
ルークはもう一度唱えた。
今度も同じだった。
「ボンバーダって知ってる?」
ベンが言った。
ルークは杖を下ろさずに振り向く。
「何の呪文だ?」
「物を爆破するやつ。扉も開くらしいよ」
「使えるのか?」
「使ったことはない」
「じゃあ駄目だろ」
「覚えればいいんじゃない?」
ルークは扉を見た。木の板は分厚く、金属の帯で補強されている。これを壊すとなると、かなり大きな音がしそうだった。
「中に本があったらどうするんだ」
「ああ、そっか」
「何が、そっか、なの?」
背後から声がして、ベンが杖を引っ込めた。明かりまで消え、廊下が一段暗くなる。
振り返ると、エミリーが本を抱えて立っていた。
「なんで消すの?」
「眩しいかと思って」
「今までこっちに向いてなかったけど」
エミリーはベンの顔と、ルークの杖を順に見た。
「まだ教室を探してるんだね」
「知ってたのか」
「前にベンが話してたもの。何か見つかった?」
ベンがルークを見た。
ルークは少し考えてから首を横に振る。
「教室は、まだ」
「教室は?」
エミリーは聞き返した。
何も見つからなかったと言うのも違う。しかし、何を見つけたのかと言われると、それも説明しづらかった。
「音は聞いた」
「音?」
「楽器みたいな。歌ったら返ってきたんだ」
「二人で歌ったの?」
「そこは別にいいだろ」
ベンが笑いかけたので、ルークは先に言った。
エミリーは今度は扉を見た。
「この中から?」
「いや。もう少し向こう」
「じゃあ、なんでこの扉を開けてるの?」
ベンとルークは顔を見合わせた。
「近いから」
ベンが答えた。
間違ってはいない。音のした辺りには入口が見つからなかった。それなら少し離れた扉から入るのかもしれない、という話になっていた。
ただ、近いと言える範囲は、この数日でずいぶん広くなっている。
「ヒューに聞いてみたら?」
「何を?」
「そういう音がする魔法。図書館にいたよ。私、今そこから来たの」
ルークは開かない扉をもう一度見た。
押しても引いても、呪文を唱えても駄目だった。あとで戻ってきたところで、急になくなっていることもないだろう。
「行ってみるか」
「うん。ここ、寒いしね」
ベンはそう言って、いち早く歩き出した。
*
図書館に入ると、ヒューは窓から少し離れた席で本を読んでいた。
横には別の本が二冊積まれ、羊皮紙の端がその下敷きになっている。ルーク達が近づいても顔を上げず、人差し指で文章を辿っていた。
「ヒュー」
「ちょっと待って」
ルークは隣の椅子に手をかけた。
ベンが向かいへ座り、エミリーも本を置く。その音でようやくヒューが顔を上げた。
「あれ。みんな何?」
「ちょっと待てって言ったの、お前だろ」
「いや、一人だと思ってたから」
ヒューは本に栞を挟んだ。
ルークとベンが話している間、ヒューは何度か口を開きかけたが、そのたびに閉じていた。音のした場所、歌ったこと、その後に壁や周りの扉を調べたことまで話すと、ようやく質問した。
「音は、どんな音だった?」
「楽器の音」
「それはさっき聞いた」
「何の楽器かまではわからない」
ルークが答えると、ヒューは少し困った顔をした。
「じゃあ、同じ歌をもう一度歌ったら?」
「鳴る時もあったよ」
ベンが答えた。
「鳴らない時も?」
「途中で人が来たりするから。ずっと歌ってるわけにもいかないだろ」
「それで、他の歌も試した?」
ルークは首を振った。
ヒューは本の下から羊皮紙を引っ張り出そうとした。上の二冊が傾いたので、エミリーが押さえる。
「ありがとう。音を真似する魔法なのかと思ったんだけど、それなら別の歌でも返ってくるかもしれない」
「試せばわかるな」
「それから、本当に壁の向こうから聞こえたの?」
「そこに立って聞いたんだぞ」
ルークは答えた。
ヒューは少し身を引いたが、すぐに言い足した。
「疑ってるんじゃないよ。僕、廊下で誰かに呼ばれたと思って戻ったら、上の階だったことがあるから」
「ああ、それはあるね」
エミリーが頷いた。
「階段のところ、声が変なふうに聞こえるもの」
ルークは少し考えた。
あの時はベンも聞いていたし、音がしたと思った方も同じだった。しかし、二人とも同じ場所に立っていた。他の場所から確かめたわけではない。
「じゃあ今度、離れて聞けばいい」
「うん」
ヒューは羊皮紙の空いているところに何か書いた。
ベンが身を乗り出す。
「何を書いてるの?」
「試すこと。忘れるから」
「それもそうか」
ベンは自分の鞄を膝に載せた。しばらく中を探っていたが、取り出したのは羽根ペンだけだった。
「紙、一枚ある?」
ヒューは黙って新しい羊皮紙を渡した。
音のことを書き終えると、話は扉へ戻った。
ヒューはアロホモラが効かなかったと聞いて、今度こそ何か思いついた顔をした。
「レベリオは?」
「何だ、それ」
「隠されているものを明らかにする呪文。呪文の本で見たんだ」
「それ、先に言ってよ」
ベンが顔を上げた。
「今、扉の話になったから」
「できるのか?」
ルークが聞くと、ヒューは首を横に振った。
「読んだだけ。やり方まではまだちゃんと調べてない」
「またか」
「何が?」
「さっき、爆破する呪文も同じ話をした」
エミリーがベンを見る。
ベンは羊皮紙へ視線を落とした。
「だから、使ってないって」
「まだ何も言ってないよ」
「顔に書いてあった」
エミリーは少し笑った。
ヒューは椅子を引き、さっき読んでいた本を鞄にしまった。
「本、探してくる。棚は覚えてるから」
すぐに戻ってくるかと思ったが、しばらくしても戻らなかった。
ベンが先ほどの羊皮紙に扉の絵を描き始めた頃、ようやくヒューが本を二冊抱えて戻ってきた。
「覚えてたんじゃなかったの?」
「一つ隣だった。似た色の本があったから」
ルークは場所を空けた。
ヒューが持ってきた本には、確かにレベリオという呪文が載っていた。ただ、その前後にも読まなければならない説明が続いていて、すぐに廊下へ戻って試せそうなものではなかった。
四人で覗き込むと狭かったので、ベンが本を真ん中へ寄せた。
ルークは文章を追いながら、隣でヒューが書き留める杖の動きを見ていた。
これで何か見つかるなら、覚えておいて損はない。
「次に行く時、僕も行っていい?」
ヒューが言った。
ルークは本から顔を上げる。
「今からか?」
「今日はもう暗いだろ。次でいいよ。音も実際に聞いてみたいし」
「いいけど、何も起こらないかもしれないぞ」
「それなら、その時に考える」
ヒューは書き写した杖の動きに小さな矢印を足した。もう行くつもりでいるようだった。
「私も聞きたい」
エミリーが言った。
「じゃあ、歌は任せるよ」
ベンがすぐに答える。
「どうして?」
「僕達、もう何度も歌ってるから」
「だから慣れてるでしょ」
エミリーは本を自分の方へ少し回した。
ルークが見ていた行を読み終わるまで待ち、ページをめくる。ヒューが写していた図の続きが出てきたので、ベンも絵を描くのをやめてそちらを見た。
しばらく、紙にペンを走らせる音だけが続いた。
「教室の噂って、レイブンクローでも聞いたことある?」
ベンが尋ねると、ヒューは頷いた。
「あるよ。上級生が言ってた。必要な本を全部読み終わるまで出られないって」
「それは初めて聞いた」
「勉強しないと放り込まれるぞ、って言われたんだ」
ベンは少し嫌そうな顔をした。
「先に言ってよ」
「本当かどうか、わからないだろ」
ルークが言うと、エミリーも頷いた。
「私が聞いたのは、そこに行けばわからないことを調べられるって話だったよ。出られないとは言ってなかったと思う」
「どっちだろう」
「今度聞いてみる。メイも知ってるかもしれないし」
エミリーは持ってきた本の間に、目印の紙を挟んだ。
同じ学校にいるのに、自分達の聞いていない話がまだあるらしい。ルークは、ベンの描いた扉の横に、出られない、と書き足されるのを見ていた。
「それはまだ書かなくていいだろ」
「入る前に思い出した方がいいと思って」
ベンは文字を消さず、下に線まで引いた。
*
それから数日の間、ルークの鞄には、レベリオについて書いた羊皮紙が入っていた。
教科書を取り出すたびに一緒に出てきて、時には宿題の間に紛れた。ネッドはそれを見つけると、まだ覚えていなかったのかと聞いた。
呪文の言葉そのものはもう覚えていた。杖の動きも、見なくても真似できる。
ただ、できているかどうかがわからない。
「レベリオ」
壁は壁のままだった。
ルークは杖を下ろし、隣のヒューを見た。
「今ので合ってるか?」
「最後、もう少し小さく動かすんじゃないかな」
「さっきは小さすぎるって言っただろ」
「だから、その間くらい」
ルークは羊皮紙を受け取った。
図に描かれた線を指で辿り、杖を持ち直す。もう一度唱えても、壁に変化はなかった。
「何もないんじゃない?」
ベンは少し離れたところで、窓枠に肘を置いていた。
「呪文ができてないだけかもしれない」
ヒューが言う。
「できてるかどうか、どうやってわかるの?」
「何か出てきたら」
「でも、何もなかったら出てこないだろ」
ヒューは口を閉じた。
ルークはベンを見た。ベンもこちらを見ている。
「どうする?」
「もう一回やる」
結局その日は、三人が交代で試しても何も起こらなかった。
最後には、ベンが自分の鞄に向かって呪文を唱えた。朝から見当たらない手袋が出てこないかと思ったらしい。
手袋は見つからなかった。
談話室へ戻ると、ベンは鞄をひっくり返した。
教科書と羊皮紙が机に落ち、その間から片方だけの手袋が出てきた。ベンはそれを摘まみ上げ、ルークに見せる。
「こっちはあった」
「もう片方は?」
「それを探してるんだよ」
ルークは落ちた羊皮紙を拾った。レベリオの図を書いた紙には、鞄の中にあったパン屑が挟まっていた。
「今度は何を覚えるつもりだ?」
後ろから声がして、振り向くとジェームズが立っていた。片手に本を持ち、もう片方の手で髪をかき上げている。近くの椅子にはシリウスが座っていた。
ルークは羊皮紙を持ち上げた。
「レベリオです」
「へえ。授業で?」
「自分達で。本を読んで」
ジェームズは口の端を上げた。
「何を探してるんだ?」
「手袋」
ベンが答えた。
シリウスがこちらを見て笑う。
「随分と手の込んだ探し方だな」
「鞄の中もわからないんです。呪文ができてないのかもしれなくて」
「それは鞄を開ければいいだろ」
「今、開けたところです」
ベンは机の上を見せた。
ジェームズは山になった教科書から目を離し、ベンの右脇を指した。
「それは?」
ローブのポケットから、手袋の指先が出ていた。
ベンはゆっくりと引き抜いた。探していた方だった。
「……ありがとう」
「どういたしまして。次はもう少し難しいものを隠してもらえよ」
ジェームズは笑って、シリウスの隣へ腰を下ろした。
ルークは羊皮紙についたパン屑を払い落とす。
「何も隠してないんだけどね」
ベンは両方の手袋を揃えて、今度は鞄の一番上に入れた。
ルークは笑いながら自分の本を開いた。紙に描かれた杖の動きは、今日何度も試したものと変わらない。明日も同じ場所で唱えれば何かわかる、という気は、さすがにしなかった。
別の日には、音のした場所を調べ直した。
エミリーも一緒だった。ルークとベンが前に立った場所に印をつけ、ヒューが少し離れた曲がり角へ行く。エミリーは反対側で聞くことになった。
ルークはベンを見た。
「歌えよ」
「君も歌ってよ。一人じゃ変だろ」
「二人なら変じゃないのか」
結局、二人で歌った。
ルークは前に歌った時よりも小さな声で歌い始めたが、ベンがだんだん大きな声を出すので、途中から諦めた。
返ってきた音は、確かに前と同じように聞こえた。
エミリーが顔を上げ、離れたところからヒューも戻ってくる。
「聞こえた?」
「うん。こっちからだと思う」
エミリーは、ルーク達の近くの壁を指した。
ヒューはその場所まで歩き、壁に耳を寄せた。
「今は?」
「何も聞こえない」
「歌ってないからね」
ベンが言った。
その後、別の歌も試した。
四人が揃って知っている歌は、思ったよりも少なかった。エミリーが知っているものをベンが途中まで歌い、続きを忘れてルークを見る。ルークも知らないので、そこで止まる。
ヒューはそのたびに、最後まで歌わないと比べられないと言った。
「じゃあ、お前が歌ってくれ」
「僕も知らないんだよ」
別の歌では同じ音は返ってこなかったが、なぜなのかは結局わからなかった。
最初の歌をもう一度試そうとしたところで、廊下の向こうに生徒の一団が現れた。四人は揃って黙り、意味もなく窓の外を眺めた。
通り過ぎた生徒の一人が不思議そうに振り返る。
ルークは、その一団が階段を下りきるまで待った。
「今日はもういいか」
「うん」
ベンがすぐに頷いた。
帰り道、ヒューは持ってきた羊皮紙を見ながら歩いていた。
「音を真似してるだけじゃなさそうだね」
「だから言っただろ。返事をしてるんだって」
ベンは少し得意そうだった。
「返事かどうかはわからないよ」
「じゃあ何なの?」
「まだわからない」
ベンはルークを見た。
「僕達、ずっとそれ言ってるね」
「そうだな」
ただ、音がすることだけは、もう二人しか知らない話ではなくなっていた。
エミリーは何度か後ろを振り返り、ヒューは歩きながら書こうとして、羽根ペンの先を壁にぶつけていた。
*
十二月に入ると、外を通って教室へ向かうのが億劫になった。
中を通れば遠回りになるが、風に当たらずに済む。ルーク達は以前より少し早く談話室を出て、その分、城の中を長く歩くようになった。
図書館へ行く回数も増えていた。
その日の放課後、ルークが席につくと、ベンが羊皮紙を広げて見せた。
「新しい話」
「場所がわかったのか?」
「いや。中にあるもの」
ベンは羊皮紙の真ん中を指した。
図書館にも置けないような本がある、と書かれていた。
「置けない?」
「危ないから。開くと勝手に呪文が出てくる本とか、読んだことを忘れられなくなる本とか」
「後のやつは便利じゃないのか」
「嫌なことまで覚えてたら困るだろ」
それは確かにそうかもしれない。
ルークは隣の椅子を引いた。ヒューはもう座っていて、ベンの書いたものを逆側から読んでいる。
「誰から聞いたの?」
「談話室にいた上級生」
「その人は入ったことがある?」
「ないと思う」
「じゃあ、どうして中身がわかるんだろう」
ベンは少し考えた。
「入ったことのある人から聞いたんじゃない?」
「その人が誰かは?」
「そこまでは聞いてないよ」
ヒューは羽根ペンを置いた。
ルークは羊皮紙の下の方を見た。文字の横に扉の絵があり、その向こうに何冊もの本が描かれている。一冊には歯が生えていた。
「これは?」
「僕が描いた」
「噛むって言ってたのか?」
「いや。危ない本って言うから」
ルークはベンを見た。
ベンは扉の絵の端を指で隠した。
「絵くらい、いいだろ」
そこへ、エミリーがやってきた。
いつもの教科書に加えて、折り畳んだ紙を持っている。椅子に座る前にそれを広げ、四人の真ん中へ置いた。
「こっちも聞いてきたよ。でも、その話とは少し違うみたい」
「何が?」
「封印された教室って呼んでなかった。窓のない教室、だって」
ルークは紙を引き寄せた。
エミリーの字で短い文章がいくつか書かれていた。本がたくさんあること。普通の授業では教わらないことまで調べられること。入口を探しても見つからないこと。
窓のない教室、という言葉には線が引かれている。
「別の部屋じゃないの?」
ベンが聞いた。
「私もそう思った。でも、本があって、探しても入口が見つからないっていうところは同じでしょ」
「誰に聞いたんだ?」
「寮の上級生。それと、お母さん」
ルークが顔を上げると、エミリーは紙の端を持ち上げた。
「この前の手紙に書いたら、今朝返事が来たの。お母さんが学校にいた時も、そういう話はあったんだって」
「そんなに前から?」
ベンは自分の羊皮紙を見下ろした。
「じゃあ、その本、相当古いね」
「本があるならね」
ヒューが言った。
「お母さんは入ったことがあるの?」
「ないって。でも、友達と探したことはあるみたい」
エミリーは少し笑った。
「手紙の最後に、授業には遅れないようにって書いてあった」
「遅れたんだろうな」
「私もそう思う」
ルークは二枚の羊皮紙を並べた。
一方には、危険な本が閉じ込められていると書いてある。もう一方には、授業で教わらないことまで調べられると書いてある。
本があるのは同じでも、ずいぶん違う話に見えた。
「お母さんは、封印されたって言ってなかったのか?」
「うん。手紙には書いてなかった」
「後から封印したんじゃない?」
ベンが言うと、ヒューが頷きかけた。
「本が危ないってわかったから、とか」
「それ、入った本人から聞いた話じゃないんだろ」
ルークが言った。
ヒューは口を閉じ、二枚の紙を見比べた。
「うん。まだ、そうかもしれないってだけだね」
エミリーは自分の紙を少し回した。
「寮で聞いた話も、みんな少しずつ違ったの。地下だって言う人もいたし、上の階だって言う人もいた」
「地下?」
ベンは顔をしかめた。
「僕達、ずっと北の塔の方を探してたんだけど」
「うん。だから、誰が見たのって聞いたら、その人も誰かから聞いただけで」
「でも、寮で聞いた話には、出られなくなるっていうのはなかったよ」
エミリーが続けた。
ベンは前に書いた紙を鞄から取り出し、出られない、の文字を指で叩いた。
「これも違うのかな」
「僕に話した人に聞いてみる」
ヒューが言った。
「いつからそう言われてるのか、覚えてるかもしれない」
「本当に行って帰ってこなかった人がいるなら、僕は入らないよ」
「入る前に聞けばいいだろ」
ルークが言うと、ベンは少し考えて頷いた。
「そうだね。まだ入れないし」
ヒューが、新しい羊皮紙を一枚取り出した。
机の上にはもう、四人分の本と鞄と紙があった。ルークは自分の教科書を重ね、真ん中を空けた。
「書いてみよう」
「何を?」
「誰から聞いたか。話だけ書くと、どれがどれかわからなくなるから」
ヒューは紙の上に線を引いた。
ベンから上級生へ、その先には名前のわからない誰か。エミリーからは寮の上級生と母親へ、別々の線が伸びる。
ルークは横から見ていたが、途中で線が交差し、どこへつながるのかわからなくなった。
「これ、こっちじゃないか?」
「あ、本当だ」
ヒューは線を消そうとして、インクを擦った。
ベンが笑う。
「廊下よりわかりにくくなってるよ」
「じゃあ名前だけ順番に書く」
今度は少しわかりやすくなった。
話しているうちに、ベンが別々の人から聞いたという二つの話が、元は同じ上級生の話だったこともわかった。
「僕、その人にも聞いたよ」
「じゃあ同じ話じゃない?」
「そうなるのかな」
ベンは羊皮紙の端に小さな印をつけた。
ルークは椅子の背に寄りかかる。何人も話していたからといって、その人数だけ教室を知っている人がいるわけではないらしい。
もっとも、四人だって同じだった。ルークとベンが話して、ヒューとエミリーが知った。二人がさらに誰かに話せば、噂を知っている人間はまた増える。
「音のことは、誰かに話した?」
ルークが聞くと、エミリーは首を振った。
「教室の噂だけ聞いたよ。お母さんにも、音のことは書いてない」
「僕も」
ヒューが答えた。
ベンは口を開き、ルークの顔を見てから言った。
「ネッドには話した」
「壺と一緒にか」
「壺は先」
ルークはため息をついた。
エミリーが笑い、ヒューが何の壺かと尋ねる。ベンが説明し始める前に、ルークは机の紙を指した。
「今はこっちだろ」
ヒューはまだ少し気にしていたが、羽根ペンを持ち直した。
紙の一番下に、楽器の音、と書く。
「これは、四人とも聞いた」
「場所もわかる」
ルークが言い足した。
「教室と関係あるかは、まだわからないけど」
ヒューが書き加えると、ベンが手を伸ばした。
「そっちは小さく書いて。何も見つけてないみたいに見える」
「見つけてるよ。音は」
「わかってるけど」
ベンは自分の紙を引き寄せ、扉の絵の横に音符らしいものを描いた。
ルークは、それには何も言わなかった。
*
夕食までの残りの時間は、本を探すことに使った。
封印された教室、という名前は目次にも索引にも見つからなかった。窓のない教室も同じだった。ベンは一冊ずつ開いては閉じ、次の本へ手を伸ばしていたが、三冊目で止まった。
「こんな名前、誰がつけたんだろうね」
ヒューが顔を上げた。
「どっちの?」
「封印された教室。先生がそう呼んでるの、聞いたことある?」
誰も答えなかった。
ルークは開いていた本の目次を見た。授業や行事についての見出しはあったが、探しているようなものは載っていない。
「生徒が勝手につけたのかもしれないな」
「それなら、その名前で探しても出てこないよね」
エミリーが言った。
ヒューは索引に挟んでいた指を抜いた。
「じゃあ、使わなくなった教室とか、昔と違う使い方をしてる部屋とか。そういう記録を探した方がいいのかな」
「いっぱいありそうだね」
ベンは机に顎を載せた。
「この学校、大きすぎるよ」
ルークも、それには同意した。
ただ、今までは廊下を歩きながら、少しでも怪しいものがあれば片っ端から調べていた。扉が閉まっていれば呪文を試し、壁に傷があれば押してみた。
探す名前が違うのだとしたら、本を何冊開いても見つからなかったことには、一応理由がつく。
「今日は戻ろう」
エミリーが窓の外を見て言った。
いつの間にか、硝子には外の景色よりも図書館の中が映っていた。ベンはその言葉を待っていたように、すぐに本を閉じた。
ヒューは書きかけの紙を乾かしている。
「これ、僕が持ってていい?」
「ああ。次に来る時、持ってきてくれ」
「いつ?」
ルークはベンを見た。
「明日?」
「明日は先に宿題。今日の分、まだやってない」
「僕もまだ」
ヒューが言った。
エミリーまで頷いたので、ルークは少し笑った。自分も、変身術の課題が残っている。
「じゃあ、終わってからだな」
四人で本を棚へ戻し、図書館を出た。
廊下では、ベンがエミリーに壺の話をしていた。ルークが止める前に、ヒューまで顔を近づけて聞いている。
「それで、ルークが杖を振ったら、壺がこんなに高く上がって」
「そこまでは上げてない」
ベンは頭の上に伸ばしていた手を少し下げた。
「このくらい」
「もっと下だ」
「じゃあ、これくらい」
今度は腰の高さだった。
ルークが頷くと、エミリーが笑った。
「ずいぶん違うね」
ヒューは鞄から、さっきの羊皮紙を少しだけ引き出した。
「今度から、ベンの話は先にルークにも聞こう」
「壺を割ったのは本当だからね」
「それはもうわかったよ」
前を歩いていたベンが振り返り、そのまま階段を一段踏み外しかけた。手すりを掴んで踏みとどまり、何事もなかったように歩き出す。
ルークは笑いながら、その後を追った。
大広間の扉は開いていた。中から食器の音と、温かい食べ物の匂いが流れてきた。