屑が来たりて笛を吹く 作:ちんちら御殿
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朝の六時二十三分。道成寺 元太(どうじょうじ げんた)は腐れかけた畳の上で目を覚ました。
覚醒の理由は悪夢である。
またぞろ幼少期の──実母から散々に打ち据えられ、家から叩きされる例の悪夢を見たのである。
──畜生が。スベタが。売女がよ。
そんな事を思いながら布団から這い出ると、畳がぎしりと軋んだ。築四十年を超えるアパートの二階、八畳一間。家賃は月二万二千円。それすら二ヶ月滞納している。
都内でこの間取りでこの家賃は異常に安いが当然安いのには理由がある。
便所へ向かう廊下で元太は立ち止まった。壁に女の顔が浮かんでいる。青白く、目は虚ろで口元から黒い何かが垂れていた。元太は舌打ちをした──壁のシミが酷くなっている、また大家に文句を言われる、そんなことを考えながら、女の顔を素通りして便所へ入った。
そう、出るのだ。
不気味でグロテスクで──哀れなモノ共が。
だが元太は気にしない。
日々金に困っているから。
生活に余裕がなく、心にも余裕がない──そういった者は怪奇現象だのオカルトだのに向ける余裕すらもなくなる。
放尿しながら元太は今日の段取りを考えていた。
朝八時にマイミーの事務所で点呼、それから現場へ。今日は解体作業の予定だ。日当八千円。源泉徴収なし、つまり税金は自分で払わねばならない。だが元太はもう三年以上確定申告などしていなかった。
「くそったれが……」
独り言を呟きながら便所を出ると、廊下の女はまだそこにいた。今度は口を開けて、何か言いたげに元太を見つめている。元太は鼻を鳴らした。
「うるせえ、朝から気色悪いんだよ」
六畳間に戻り、昨日脱ぎ散らかした作業着を拾い上げる。異臭がした。三日は洗っていない。だが洗濯機を回す金がない。それどころか水道が止められる寸前なのだ。今月中に料金を払わなければ、本当に止まる。
作業着に袖を通しながら元太は昨夜のことを思い出していた。駅前のデリヘルで九十分、オプション込みで一万八千円。このオプションは「
デリヘルは通常、本番行為は禁止されているのだがこうして暗号じみた真似をして本番行為ができますよと客に宣伝している店もある。
金髪に染めた女は「ユナ」と名乗ったがどう見ても四十は超えていた。サービスは雑で膣ときたらゆるゆるで最後は手でやっと果てた。それでも元太は来週また電話するだろう。他に女を抱く術がないのだから。
台所で水を飲もうとして蛇口を捻る。
チョロチョロと申し訳程度の水が出た。コップに顔を映すと、脂でテカった中年男の顔があった。髪は薄く、目の下には隈、無精髭が頬を覆っている。この顔で二十代だと言い張る四十路の風俗嬢に欲情しているのだから我ながら哀れなものだ。
アパートを出ると、一階の郵便受けを確認した。督促状が三通、チラシが数枚。督促状の一つは区役所からで住民税の最終通告だった。レインボー柄の封筒を見て元太は鼻で笑う。
もう一つは消費者金融。最後の一つは──元太は封筒を見て、顔が青ざめた。
裁判所からの特別送達。
中を確認すると、給与差押命令の通知だった。マイミーからの日当が今後は直接区役所に振り込まれることになる。手取りの四分の一が天引きされるという。
「ふざけんじゃねえ……!」
元太は通知書を握り潰した。ただでさえ少ない日当から、さらに引かれる。これでは風俗どころか、飯を食うのも厳しくなる。
駅へ向かう道すがら、元太の頭は計算で一杯だった。日当八千円、月二十日働いて十六万。そこから四万が差し押さえ。残り十二万で家賃、光熱費、食費、そして……女。どう考えても足りない。
信号待ちをしていると、隣に子供が立った。小学生くらいの女の子でランドセルを背負っている。だが顔色が異様に悪く、制服がずぶ濡れだった。元太は苛立った。
朝から汚い格好の餓鬼を見るのは不愉快だからだ。
まるで幼い頃の自分を見せつけられているようでずくんずくんと胸が痛むのだ。
信号が青になると元太は早足で歩き出した。しかし女の子もついてくる。横断歩道を渡り切ってもまだついてくる。元太は立ち止まり振り返ってほきだした。
「おい、ガキ。なんだてめえ」
女の子は無言で元太を見上げた。
目が真っ黒だ。瞳孔が開き切っているのではない、眼球そのものが黒い。
異様である。
しかし元太はその異様に気づかない。
この男の神経細胞に少しでも怒りが干渉してしまうと、元太はとたんに自分の感情以外の事にはとんと鈍くなってしまう。
元太は舌打ちした。
「親はどうしたンでぃ。さっさと学校行けやクソガキが」
返事はない。元太は無視して歩き続けた。マイミーの事務所まであと十分。遅刻したら日当から引かれる。元太の頭の中にあるのはただそれだけで結局女の子の異様にはこれっぽっちも気付く事はなかった。
◆
事務所は雑居ビルの三階にあった。「マイミー人材サービス」という看板は半分剥がれかけている。中に入ると、既に十数人の男たちが集まっていた。皆、元太と似たり寄ったりの風体だ。
「おう、道成寺。また遅刻か」
現場監督の巌流島 源五郎がにやにやと笑いながら声をかけてきた。五十過ぎの小太りな男で人を見下すような目つきが特徴だ。
「ギリギリ間に合ってるだろうが」
「へいへい。今日は伏見町の解体だ。お前は瓦礫運びな」
瓦礫運びは最も重労働で最も賃金の安い仕事である。元太は内心で毒づいたが文句は言えない。世に人材派遣サービスは多々あれど、この男は生来の癇癪気質が邪魔をしてことごとく出禁になってしまっているからだ。残ったのはこのマイミーという、露見していなければ殺人犯でも受け入れると噂されている劣悪派遣会社のみである。
現場へ向かうワゴン車の中で元太は目を閉じた。
昨夜の女の感触を思い出そうとしたが思い出せるのは料金の高さばかりだった。一万八千円。三日分の日当に近い。それで得たものは数分の射精だけ。
「なあ、道成寺」
隣に座った男が話しかけてきた。山田という名で元太より少し若い。顔にはアルコール依存症特有の赤みがあった。あと前歯がない。
「昨日、変な夢見たんだよ。死んだ女房が出てきてさ」
元太は無視した。
他人の夢の話ほどどうでもいいものはない。
──ちっ!こんな山畜生の話を聞くくらいなら、今朝ひりだしてやった糞でも眺めてたほうがナンボかマシってもんだぜ!
内心で罵倒し、無視し続ける元太であったが──。
「寂しいって言うんだよ、寂しい寂しいって。あんたもきてくれってさ。なんだか不気味だよな」
などと語り始める山田に対し、元太はとうとう堪忍袋の緒が切れてしまった。まあもともとそんな緒はボロボロで子供がくいと引っ張れば千切れてしまう代物ではあるのだが。
「そうかよ……だったら行ってやれや。どうせそのまま生きてたって糞の役にも立たねぇ人生だろうよ!お国や人様に迷惑かけ通しなンだからさっさとくたばって、なんだ、そのお前の女房に会いに行ってやったらどうだいこのフンコロガシ野郎が!」
「な、酷い事を言うじゃねえか……」
元太の非人道的な罵倒に山田は意気消沈してしまう。まあ山田は
──糞が!しょぼくれた
ぐっと拳を握り固める元太。すわ暴行沙汰かと思いきや──
現場監督が振り返って、「うるせえぞ」と一喝した。この現場監督は元ヤクザとも噂されており、事実左手の小指がない。見た目も押し出しが強く、圧がある。低能暴虐たる元太といえどおさおさ逆らえる相手ではなかった。
元太は黙り込んだが腹の虫は収まらない。
怒・怒・怒
──俺ぁ雌共に金払って股開いてもらってるってのによ。
元太が苛立つのは山田が婦女暴行の前科があるからではない。
──ロハかよ、糞、糞、糞が!
無料でセックスというのは元太にとってこの上のない魅力であり、だからこそこの男は山田に怒っているのだった。
「おう、山田。降りろ。終わったら迎えにいくからよ」
現場監督が指示をする。
マイミーは現在複数の現場を抱えており、山田もそのうちの一つで仕事をする事になっている。元太もまた別の現場で降ろされる予定だ。
世間一般の人材派遣業の形態とは少しばかり違うかもしれないがマイミーはまあ少なくともそういう形態の会社であるというだけの話である。
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現場は古い木造家屋の解体だった。築七十年は経っているという。元太は軍手をはめ、瓦礫を運び始めた。埃が舞い、汗が噴き出す。八千円のためにこの重労働──学歴もなく、資格もなく、技術もない人間の末路がこれだ。
昼休み、コンビニ弁当を食いながら、元太はスマートフォンで風俗サイトを眺めていた。「新人入店! 現役女子大生! 60分12,000円!」の文字が踊る。女子大生が風俗で働くわけがない
──どうせ三十過ぎのババアだ。
分かってはいても元太は電話番号をメモした。
◆
夕方五時、作業終了。元太は事務所で日当を受け取った。封筒の中身を確認すると確かに八千円入っている。これが今日の稼ぎ。情けないほど少ない。
事務所を出ると外はまだ明るかった。元太は駅前の立ち飲み屋へ向かう。ビール一杯三百円、つまみは大根の煮つけ。これが元太の夕食だ。
隣には同じような境遇の男たちがいる。皆疲れた顔をして、黙々と酒を飲んでいる光景はなんともシケている。
「はあ……」
ため息が漏れた。四十七歳、独身、日雇い労働者。貯金はゼロ、借金は二百万を超える。この先の人生に何の希望もない。風俗で一時の快楽を得ることだけが生きがい。まあ自由ではある。元太は人生に対してあらゆる責任を持っていないのだから。なにせ家族すらいない。家を飛び出して以来実家へは連絡を取っておらず、父母の年齢を考えればとっくに死んでいるとみてよいだろう。文字通り天涯孤独の身という事だ。家族も配偶者もなければ、人は人生に対して責任を持たなくてよくなる。それが良い事か悪い事か──まあ元太を見れば分かるだろう。
──でもあいつがおっかあが悪いんだ。俺がこうなっちまったのはあの女の責任だ。
元太は内心で他責した。
まあ無理からぬ事ではある。なにせ元太の実母はとんだ糞ビッチであったからだ。
元太は物心ついたときから家を飛び出すまで文字通り実母のサンドバッグであり、ディルドでもあった。ディルドというのは女が使う性玩具の事である。分からぬ諸兄は手元の端末で調べるといい。元太の母もろくでなしに散々搾取され、最後は捨てられ、哀れな身の上ではあったかもしれないがそれで子供を虐待して良いというわけではない。
そう、元太の母は母親失格の屑畜生であったわけだ。
しかしそれでも──母親は母親であった。
このまま一緒に暮らしていたら間違いなく自分は母親を殺す。虐待されていたからではない。愛してほしいのに愛してくれないから殺すだろう──そう思ったからこそ、元太は家を飛び出した。
──ちっ!シケた気分になってきやがった。
ビールを飲み干し、もう一杯注文する。
この時、店のテレビでニュースが流れていた。
「本日午後、○○町の解体現場で作業員の男性が死亡する事故がありました。男性は山田○○さん、四十三歳……」
元太は気づかない。
風俗情報サイトを開き、嬢の日記を読んでいたから。