屑が来たりて笛を吹く 作:ちんちら御殿
◆
道成寺元太、四十七歳。この男の人生を一言で表すなら「転落」だろう。いや、転落というのは高いところから落ちることを言うのだから最初から底辺にいた元太には相応しくないかもしれない。
生まれは千葉の外れ、海沿いの寂れた町だった。父親は土方、母親はスナックのホステス。小学三年の時に父親が蒸発し、母親は酒浸りになった。「お前なんか生まなきゃよかった」が母親の口癖で元太はその言葉を子守歌代わりに育った。
中学では不良グループの端くれとして、カツアゲや万引きに明け暮れた。高校は県立の底辺校に進んだが二年で中退。理由は女。同級生の腹を大きくしてしまい、相手の親から「責任を取れ」と迫られた。元太は逃げた。それが十七歳の春だった。
東京に出てきたのは二十歳の時。建設現場の日雇いから始まり、パチンコ屋の店員、違法な金融会社の取り立て、キャバクラの呼び込み──職を転々とした。どれも長続きしない。理由は決まって女と金だった。
三十歳の時、一度だけまともな会社に就職した。小さな運送会社の正社員。月給二十万、ボーナスあり、社会保険完備。元太の人生で最も輝いた時期だった。だがそれも三年で終わった。会社の金を横領したのがバレたのだ。使い道は風俗とパチンコ。刑事告訴は免れたが業界のブラックリストに載った。
それから十四年。元太は完全に社会の底辺に沈んだ。
今の元太の容姿は四十七年間の不摂生の集大成だった。身長百六十八センチ、体重七十八キロ。腹は出っ張り、頭頂部は薄く、残った髪には白髪が混じる。歯は虫歯だらけで前歯が一本欠けている。体臭は汗と加齢臭とタバコが混じり合い、半径一メートル以内に近づくと鼻が曲がる。
性格はというと、これがまた救いようがない。自己中心的で短気、嘘つきで見栄っ張り。他人への思いやりは皆無であるのは自分の欲望だけ。特に性欲に関しては四十七歳にして衰えを知らない。むしろ年々酷くなっている。
そんな元太だがここ最近、妙なものをよく見るようになったという自覚はあった。
最初に気づいたのは数ヶ月前。コンビニのトイレで用を足していると、個室の隙間から青白い手が伸びてきた。元太は驚きもせず、「汚ねえトイレだな」と毒づいただけだった。
その次には深夜のネットカフェで隣のブースから女のすすり泣きが聞こえた。覗いてみると、首を吊った女がぶら下がっていた。元太は舌打ちして席を変えた。うるさくてエロ動画に集中できなかったからだ。
そしここ最近はほぼ毎日何かを見るようになった。アパートの廊下を這う影、電車の窓に映る顔のない人間、コンビニの棚から覗く無数の目玉。普通の人間なら発狂ものだろう。
だが元太にとって、それらはどうでもよかった。
なぜか? 簡単だ。何の役にも立たないからだ。
幽霊が金をくれるか?──くれない。
借金を肩代わりしてくれるか?──してくれない。
家賃を払ってくれるか?──払ってくれない。
愛してくれるか──NO。
もし殴ることができれば、ストレス解消になるだろう。元太は日々の鬱憤を誰かにぶつけたくて仕方なかった。上司の田所、大家の婆さん、区役所の職員──殴りたい奴は山ほどいる。幽霊でもいいから殴らせろ、そう思った。
あるいはもし犯すことができれば。これは元太が真剣に考えたことだった。女の幽霊なら、タダで好き放題できるのではないか。死んでる女なら刑法は適用されまい──。
実際、元太は試したことがある。
三日前の深夜、部屋に現れた若い女の霊に向かって、元太はズボンを下ろして飛びかかった。「おら、タダマンさせろ!」と叫びながら。しかし手は虚空を掴むだけで女の体には触れることすらできなかった。それどころか、女は呆れたような顔をして消えていった。
「使えねえ」
それが元太の結論だった。見えるだけで触れない、話しかけても返事がない、何の利益ももたらさない。そんなものに構っている暇があったら、マッチングアプリで援交相手を探すか、ヤミ金で金を借りる算段をした方がマシだ。
だから元太は幽霊を完全に無視することにした。
今朝も台所に立っていた老婆の霊を素通りして朝飯のカップラーメンを作った。老婆は何か言いたげに口を動かしていたが元太は鼻歌を歌いながら湯を注いだ。
電車でも隣に座った首なし侍を無視して、スマホで競馬の予想サイトを見ていた。今度の日曜、最後の千円を賭ける予定だ。当たれば十万になる可能性がある──と元太は信じていた。
現場でも二階から落ちてきた生首を蹴飛ばして、瓦礫運びを続けた。現場監督に「なんか蹴ったか?」と聞かれたが「石ころです」と答えた。
そんな調子で元太の日常に幽霊は完全に溶け込んでいた。いや、溶け込んでいるというより、単に風景の一部として処理されているだけだった。電柱やゴミ箱と同じレベルの、どうでもいい存在。
元太にとって重要なのはもっと現実的な問題だった。
まず金。これが全ての根源だ。
ただまあ、節約すればなんとかやっていけなくはないのだ。しかし月に最低二回は風俗に行かないと気が狂う元太である。
「一発稼げないものか……」
ここ最近はこれが元太の口癖になっていた。
宝くじ、競馬、パチンコ──ギャンブルは全て試した。結果は全敗。むしろ借金が増えただけだ。
詐欺まがいの情報商材に頼った事もある。
「月収百万円稼ぐ方法」
「誰でもできる投資術」
「女にモテる催眠術」
言うまでもなく完敗だ。
闇仕事も考えた。運び屋、出し子、オレオレ詐欺の受け子。だが元太には度胸がなかった。捕まったら刑務所行きだ
結局、元太にできるのは日雇い労働だけだった。
学歴なし、資格なし、職歴なし、人脈なし。あるのは性欲と借金だけ。これが道成寺元太という男の全てであった。
今日も元太はマイミーの事務所へ向かう。朝の電車、窓には肉片がへばりついていて肉の中から幾つもの目玉がぎょろぎょろと乗客たちを舐めまわすように見ているが、それがなんだと言うのか。
マッチングアプリを開き、新着メッセージを確認するがゼロ。昨夜送った十通のメッセージは全て既読スルー。この事実のほうが元太にとっては大問題である。
「クソが」
小さく毒づいて、今度は風俗情報サイトを開く。新人情報をチェック。「癒し系巨乳! みく、19歳」。写真は顔にモザイクがかかっているが体つきは悪くない。料金は六十分一万五千円。元太基準ではやや割高だ。
元太は脳内で計算を始めた。今日の日当八千円、明日も八千円、明後日が休みだから……三日後なら行ける。いや、待てよ。ガス代を滞納してるから、それを払わないと止められる。ガス代が八千円。すると風俗は……。
マイミーの事務所へ向かう道すがら、元太はずっと考えていた。
一発稼ぐ方法はないか。合法的にリスクなく、簡単に大金を手に入れる方法は。
金だ、金だ、金だ。
金が欲しい。
元太はただひたすら金が欲しかった。
金があれば生活ができるからではない。
それも目的の一つではあるがただそのために稼ぎたいわけではないのだ。
元太はそう──陳腐な言い方をすれば愛がほしかった。
金があれば女の股座《またぐら》が拝めるではないか。
舐めてもいいし、魔羅を突っ込んでもいい。
愛が欲しいからヤリたいなど、どうにも下衆に聞こえるが仕方ない。元太はそれしか愛の示し方を知らないのだ。そしてそれはそれとして、愛し続けていればいつかは愛されるという根拠のない想いもあった。
しかし知恵もなければ機転もきかない、若くもない中年が合法的に大金を手に入れる方法?
──そんなものがあるわけない。
分かっている。
分かっているが考えずにはいられなかった。