屑が来たりて笛を吹く 作:ちんちら御殿
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夕暮れ時。日雇い派遣「マイミー人材サービス」の事務所は、昨夜の酒が抜けきらない男たちの吐瀉物じみた口臭と安煙草のヤニで白く濁っていた。給与を受け取りに来ている屑どもがたむろしている様は、控えめに言っても我利我利亡者の群れといっても過言ではなかった。
無論、道成寺 元太もまたその亡者どもの一人だ。
入口脇のパイプ椅子に腰を下ろし、擦り切れた作業ズボンの上から股間をぽりぽりと掻いている元太の無様さたるや!
そんな元太だが、ふと見上げた事務所の壁に見慣れない紙が一枚、セロハンテープで無造作に貼り出されている事に気付いた。
マイミーの手配師がマジックペンで殴り書きした臨時の求人票である。そこに躍る文字を見た瞬間、元太の血濁った眼球が丸く見開かれた。
『特別清掃・修繕補助 日給三万円 現金即日手渡し 一名急募 株式会社 最悪不動産』
三万円。
日給、三万円である。
元太の脳内で、そろばんの玉が猛烈な勢いで弾け飛んだ。日当八千円のド底辺労働者にとって、三万円という数字は四日分の瓦礫運びに相当する。一撃で手に入る現金三万はこれもう、まさに天から垂らされた極太の蜘蛛の糸であった。
三万あれば何ができるか。
滞納しているアパートの家賃二万二千円を一発で清算できる。いや、そんな殊勝な使い道を元太がするはずもない。
──三万ありゃあ、基本本番禁止のデリヘルなんかじゃなくてよ、大久保公園のギ、ギャルなんかとヤレるんじゃねえか!?生は、生は無理かもしれんがよッ!いや、交渉次第でイケるか……?
あるいはマッチングアプリで足元を見てきやがったあのアマどもに、札束を見せびらかして平伏させることだってできるかもしれない。元太の呼吸が荒くなり、虫歯だらけの口の端から黄色い泡が湧いた。
「おい、道成寺。何ニヤついてやがる。さっさと金をとりにきやがれこのド畜生が!死ね!」
声をかけてきたのは事務員の呪怨崎 正宗であった。左手の小指が欠けた節くれ立つ手で缶コーヒーを握り、胡散臭い目で元太を見下ろしている。元太がいつまでもぼけーっとしていて日当を取りに来ないので痺れを切らしてやってきたのだ。ちなみにヤクザに見えるが、現役ではなく元ヤクザなので法的にも問題はない。
「旦那、この張り紙の仕事を俺にやらせてくれよ」
「あン? これか? てめえ、これが見えるってのか……」
正宗は壁の紙をちらりと流し見ると、黄色く濁った前歯を剥き出しにして鼻で笑った。
「だがやめとけ。てめえみてえな半端者には無理だ」
「なんでだよ! 体なら動くぜ! 瓦礫運びだって文句言わずにやってるだろうが!」
「仕事内容が違うんだよ、馬鹿野郎」
正宗は吸いかけの煙草の煙を元太の顔面に吹きかけ、声を落とした。
「最悪不動産ってのはな、訳あり物件ばかりを二束三文で買い叩いてるタチの悪い会社だ。それも首吊りだの孤独死だのの生易しいやつじゃねえ。警察も坊主も匙を投げて更地にすらできねえような、いわくつきのド底辺物件を格安で仕入れてきやがる」
「仕入れてどうすんだよ」
「『修繕』して、転売するんだとよ」
「修繕って──壁の塗り替えとか大工仕事か?左官仕事とかなら少しは出来るぜ」
「さあな。普通の修繕じゃねえことだけは確かだ。中に入った連中が何人も頭おかしくなって逃げ出してんだよ。だからこの日当なんだ。五体満足で金持って帰れる保証はねえぞ」
正宗の警告は、常識的な知能を持つ人間であれば十分に足を止めるに足る脅迫であった。だが元太は、常識的な知能などこれっぽっちも持ち合わせていない。元太の頭の回路は三万円という大金の輝きによって完全にショートしていた。
──頭がおかしくなるだの、ヤバいだの、知ったことか。
「旦那、いいから紹介してくれよ! 俺がやらなきゃ誰がやるってんだ!」
「──知らねえぞ。どうなってもマイミーは責任取らねえからな」
正宗は舌打ち混じりにメモ用紙をちぎり、電話番号と場所を乱暴に書き殴って元太に放り投げた。
「明日の夕方五時、新宿だ。区役所通りの裏にある『カフェマヤ』って喫茶店に行け。そこで最悪不動産の担当と落ち合え。飛んだら殺すからな。ああ、それと日当だ。八千円、きっちり渡したからな」
「へへっ、ありがとよ旦那!」
元太はメモと日当を受け取り、意気揚々と事務所を出た。
◆
翌日。
夕方の新宿歌舞伎町。雑居ビルの谷間に沈む空は、妙に夕焼けていて、なんだか血の色のようにも見える。
区役所通りの裏手、ネオン看板の隙間に挟まれた雑居ビルの地下一階に、目的の店はあった。『純喫茶 カフェマヤ』と金文字の剥げた看板が掲げられ、階段の踊り場には吐瀉物を水で流したような生臭い湿気が淀んでいた。
ここの客層はクソほど悪い。スカウトやヤクザ、夜の女たちが夜ごと怪しげな取引を交わしている二十四時間喫茶だ。令和の現代に於いても、昭和の汚濁をそのまま煮詰めたような営業スタイルはいつ摘発されてもおかしくはないほどだが、不思議と官憲の手からは逃れている。
階段を降りて重い硝子扉を押すと、カランと間の抜けたベルが鳴った。店内に満ちているのは、何十年分ものヤニが染み付いた茶褐色の空気と、酸化して酸味の強くなった安珈琲の焦げた匂いである。
薄暗い店内を見渡せば、破れたビニールレザーのソファーには、昼間から競馬新聞を睨みつける無職の老人や、化粧の崩れた立ちんぼらしき女が死んだ魚のような目で突っ伏していた。まともな市民生活を送る人間なら一秒で踵を返すような掃き溜めだが、元太にとっては我が家のような居心地の良さであった。
元太は入口近くの席を避け、奥のボックス席へと進んだ。指定された一番奥の角席に一人の男が座っている。
黒いスーツを着ているが、仕立ては決して安物ではない。だがその男の顔には、どこか人間離れした無機質な冷たさが張り付いていた。テーブルの上には黒い革張りのアタッシュケースが一つ置かれているのがまた怪しい。
元太は三日洗っていない作業着の襟を正すこともせず、ずかずかとその席の前へ歩み寄った。
「あんたが、最悪不動産の人か?」
男はゆっくりと顔を上げた。
──けっ、眉なんぞ整えやがって。いけすかねえツラしてやがるぜ
そんな事を思う元太だが、もちろん口には出さない。
「道成寺 元太さんですね。お待ちしていました。おお、なるほど……うんうん、あなたならきっと当社のお仕事を十分にこなしていただけそうですね」
男はそう言って、薄い唇を吊り上げて微笑んだ。