正義の味方はいない
闇に閉ざされた部屋の中、布団を頭から被りながら、二人の少年と少女は息を潜めていた。
「お兄ちゃん……こわい……」
震える妹の小さな手を、兄はぎゅっと握り返す。
小学六年生の細い腕で、まだ10歳の妹を抱き寄せながら、兄は必死に耳を澄ませていた。
布団の中は暑く、息が熱くこもる。妹の肩が、小刻みに上下していた。
一階から聞こえてくる怒鳴り声。母の悲鳴。何かが倒れる鈍い音。
床を伝う振動が、二階の部屋まで届いていた。
やがて——父が叫ぶ声。
それっきり、母の声も、父の怒鳴り声も、すべてが途絶えた。
後に残ったのは、自分たちの呼吸と、遠くで何かが転がるような音だけ……。
「……と、父さん……母さん……」
声に出してはいけない。 そう思いながらも、兄の口から自然とこぼれ落ちた言葉。
次の瞬間、階段を軋ませながら近づいてくる足音。 一段、また一段。間を置かず、確実に上がってくる。
兄は咄嗟に布団から抜け出し、妹をクローゼットの奥に押し込んだ。
「ぜ、絶対に出るなよ! 何があっても、声を出すな……!」
「お兄ちゃん……!」
「……優奈、大丈夫だから」
嘘だった。大丈夫なわけがない。 でも、そう言うしかなかった。
妹の指が兄の袖を掴んだまま、なかなか離れない。兄はそれを、少し力づくでほどいた。
クローゼットの扉を閉めた瞬間、部屋のドアが勢いよく開かれる。
──目が合った。
「まだガキがいたのか」
その言葉を最後に、兄の記憶は完全に途切れた。
◇
「八神、またか」
施設の職員が呆れたようにため息をつく。
一人の少年、
「お前なぁ……いつも喧嘩ばかりして。相手は三人も病院送りだぞ。これ以上問題起こしたら、今度こそ追い出される」
優也は何も答えなかった。
ただ、目の前の壁を睨み続けている。そこには何もない。
何もないところに、逃げるしかなかった。
施設の職員は、優也の無反応に苛立ちを隠せず、消毒液を染み込ませたガーゼでこめかみの傷を強めに押さえた。
刺すような痛みが走る。それでも、優也の表情は変わらない。
「聞いてるのか、八神。返事くらいしろ」
優也はゆっくりと視線を職員の方へ向けた。
血の滲んだガーゼ越しに、その目はまるで感情を切り取られたように平坦だった。
「優奈は?」
「……いつものところだ。お前が来るの、待ってるぞ」
その言葉だけで立ち上がる。
まだ13歳。身体は小さく、痩せ細り、喧嘩の痕だらけの顔は誰にも好かれないだろう。でも、どうでもよかった。
この世界は、理不尽だから。
職員が何か言いかけたが、優也はもう聞いていない。
処置室のドアを開け、廊下へ出た。 足音が、空の廊下に短く返る。
「……兄さん」
施設から少し離れた場所にある墓の前。 両親の名前が刻まれたその前で、妹……
風が弱く、線香の煙だけがまっすぐ上へ伸びている。
彼女は兄の怪我を見ても何も言わない。ただ、泣きそうな顔で微笑むだけだった。
「ごめん、遅くなった」
「ううん。……お花、持ってきたの」
優奈の小さな手に握られた、道端で摘んできた名もない花を墓前に供えた。 根元の土が乾いている。
優也は無言で、指先で土を少し寄せた。
「また喧嘩してきたんだって?」
「……別に。相手が殴ってきたから返しただけだ」
「嘘つき」
「嘘じゃない」
正確には、半分は本当だった。 自分から喧嘩を売ったわけじゃない。
ただ、どうしても耐えきれなかった時——例えば今日みたいに“あの事件”について嘲笑われた時には、身体が勝手に動いてしまうだけだ。
優奈は、黙って兄の顔を見つめた。
こめかみの傷、唇の端の裂傷、そして拳に残るかすり傷。
どれも、彼女の小さな手ではどうにもできないものばかりだった。
「……痛くないの?」
「慣れっこだ」
「慣れちゃ、ダメだよ」
優奈の声は、いつもより少しだけ強かった。
彼女は膝をついて、墓前の土に指で小さな円を描きながら、ぽつりと続けた。
「兄さん、また職員の人に怒られてたでしょ。『出てけ』って言われたんでしょ?」
「……さあな」
「……出ていくなら、一緒に行く」
「バカ。優奈はまだ小学生だ」
「兄さんだって中学生だよ?」
優奈は顔を上げた。
目の端にうっすらと涙が溜まっているのに、彼女は無理やり笑おうとしていた。
「……兄さんは、強いね」
「は? 強くないだろ。こんな傷だらけで」
「だって……わたしは何もできないから」
優奈は俯いた。 ガサツな兄とは違い、幼い頃から明るく誰からも好かれる存在だった妹。
だからこそ、余計に見ていられなかった。
その小さな背中に乗せられた十字架に押し潰されていく姿を。
「裁判、早く終わるといいね」
沈黙が流れる。 遠くで車の音がして、また静かになる。
両親を殺した犯人はすぐに捕まった。しかし、審判はなかなか進まなかった。
一年前のあの日、クローゼットの中で失神していた優奈は保護されたが、優也が気づいた時には病院のベッドの上だった。
何故見逃されたのか? それは今でも分からない。
しかし、それこそが犯人が正常な判断能力を損なっていたとして『心神喪失状態』を主張し始めたきっかけだった。
「あの人、言ってた。『まだガキがいたのか』って」
「……聞こえてたのか」
「正常、だったよね?」
そう、直接目を合わせた優也には分かった。
犯人の男は正常だった。間違いなく、自分の意志で両親を殺した。
あの目に、迷いはなかった。
しかし、様々な要因から裁判は難航。
一部の弁護士や活動家は『環境が人を変えた』などと擁護し、メディアは過剰な報道を続けた。
『被告は幼少期に虐待を受けており……』
『社会復帰の可能性は十分に……』
そんな言葉が飛び交う中、世論は徐々に変化していった。
犯罪者を擁護する声。 そしてついには、被害者である優也たちを責める声。
外野からの身勝手で理不尽な意見がネットに溢れ、やがて現実でも囁かれるようになった。
施設の廊下でも、学校の影でも。声の主は、いつも見えない。
「……兄さん」
優奈が、優也の手を握った。
縋るような、諦めたような、力のない手だった。 それが小さく震えている。
「……正義の味方は、わたし達を助けてくれないのかな?」
正義──そんなものが、存在するのか。
いや、もうとっくに分かっていた。
「お前、まだそんなもの信じてるのか」
馬鹿にしたような口調。
自分でも、言い方が悪いのは分かっていた。それでも、別の言葉が出てこなかった。
「……ううん、もう信じてない」
優奈は顔を上げて笑った。
泣きそうだった目元のまま、口だけが明るく歪む。
そのずれが、兄の胸に小さな棘のように残った。
「だって──」
妹が笑顔のまま首を傾げた瞬間、背筋が凍るような違和感が走る。
風が止まり、墓石の影が二人の足元に落ちる。
「何が正しいか正しくないかなんて、人に分かるわけないんだもんね!」
妹は、笑った。声も、口元も、年相応の明るい少女のように心の底から笑う。
だが、目だけがついてきていなかった。
涙の痕も、さっきまでの弱さも、そこにない。代わりにあるのは、何も映さない深さ……。
優也は、握られた手の力を、少しだけ強くする。
返ってくる力は、ほとんどなかった。