転生しても、妹は俺を逃がしてくれない   作:ゴロスケ

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一章 理不尽な世界
正義の味方はいない


 闇に閉ざされた部屋の中、布団を頭から被りながら、二人の少年と少女は息を潜めていた。

 

「お兄ちゃん……こわい……」

 

 震える妹の小さな手を、兄はぎゅっと握り返す。  

 小学六年生の細い腕で、まだ10歳の妹を抱き寄せながら、兄は必死に耳を澄ませていた。  

 布団の中は暑く、息が熱くこもる。妹の肩が、小刻みに上下していた。

 

 一階から聞こえてくる怒鳴り声。母の悲鳴。何かが倒れる鈍い音。  

 床を伝う振動が、二階の部屋まで届いていた。

 

 やがて——父が叫ぶ声。

 

 それっきり、母の声も、父の怒鳴り声も、すべてが途絶えた。  

 後に残ったのは、自分たちの呼吸と、遠くで何かが転がるような音だけ……。

 

「……と、父さん……母さん……」

 

 声に出してはいけない。 そう思いながらも、兄の口から自然とこぼれ落ちた言葉。  

 次の瞬間、階段を軋ませながら近づいてくる足音。  一段、また一段。間を置かず、確実に上がってくる。  

 兄は咄嗟に布団から抜け出し、妹をクローゼットの奥に押し込んだ。

 

「ぜ、絶対に出るなよ! 何があっても、声を出すな……!」

「お兄ちゃん……!」

「……優奈、大丈夫だから」

 

 嘘だった。大丈夫なわけがない。 でも、そう言うしかなかった。  

 妹の指が兄の袖を掴んだまま、なかなか離れない。兄はそれを、少し力づくでほどいた。

 

 クローゼットの扉を閉めた瞬間、部屋のドアが勢いよく開かれる。

 

 ──目が合った。

 

「まだガキがいたのか」

 

 その言葉を最後に、兄の記憶は完全に途切れた。

 

 

◇

 

 

「八神、またか」

 

 施設の職員が呆れたようにため息をつく。  

 一人の少年、八神優也(やがみゆうや)は無言で手当を受けていた。こめかみから流れる血を拭いながら、職員は言葉を続ける。

 

「お前なぁ……いつも喧嘩ばかりして。相手は三人も病院送りだぞ。これ以上問題起こしたら、今度こそ追い出される」

 

 優也は何も答えなかった。  

 ただ、目の前の壁を睨み続けている。そこには何もない。  

 何もないところに、逃げるしかなかった。

 

 施設の職員は、優也の無反応に苛立ちを隠せず、消毒液を染み込ませたガーゼでこめかみの傷を強めに押さえた。  

 刺すような痛みが走る。それでも、優也の表情は変わらない。

 

「聞いてるのか、八神。返事くらいしろ」

 

 優也はゆっくりと視線を職員の方へ向けた。  

 血の滲んだガーゼ越しに、その目はまるで感情を切り取られたように平坦だった。

 

「優奈は?」

「……いつものところだ。お前が来るの、待ってるぞ」

 

 その言葉だけで立ち上がる。

 まだ13歳。身体は小さく、痩せ細り、喧嘩の痕だらけの顔は誰にも好かれないだろう。でも、どうでもよかった。

 

 この世界は、理不尽だから。

 

 職員が何か言いかけたが、優也はもう聞いていない。

 処置室のドアを開け、廊下へ出た。 足音が、空の廊下に短く返る。

 

「……兄さん」

 

 施設から少し離れた場所にある墓の前。 両親の名前が刻まれたその前で、妹……八神優奈(やがみゆうな)はいつも優也を待っていた。  

 風が弱く、線香の煙だけがまっすぐ上へ伸びている。  

 彼女は兄の怪我を見ても何も言わない。ただ、泣きそうな顔で微笑むだけだった。

 

「ごめん、遅くなった」

「ううん。……お花、持ってきたの」

 

 優奈の小さな手に握られた、道端で摘んできた名もない花を墓前に供えた。 根元の土が乾いている。

 優也は無言で、指先で土を少し寄せた。

 

「また喧嘩してきたんだって?」

「……別に。相手が殴ってきたから返しただけだ」

「嘘つき」

「嘘じゃない」

 

 正確には、半分は本当だった。 自分から喧嘩を売ったわけじゃない。  

 ただ、どうしても耐えきれなかった時——例えば今日みたいに“あの事件”について嘲笑われた時には、身体が勝手に動いてしまうだけだ。

 

 優奈は、黙って兄の顔を見つめた。

 こめかみの傷、唇の端の裂傷、そして拳に残るかすり傷。  

 どれも、彼女の小さな手ではどうにもできないものばかりだった。

 

「……痛くないの?」

「慣れっこだ」

「慣れちゃ、ダメだよ」

 

 優奈の声は、いつもより少しだけ強かった。  

 彼女は膝をついて、墓前の土に指で小さな円を描きながら、ぽつりと続けた。

 

「兄さん、また職員の人に怒られてたでしょ。『出てけ』って言われたんでしょ?」

「……さあな」

「……出ていくなら、一緒に行く」

「バカ。優奈はまだ小学生だ」

「兄さんだって中学生だよ?」

 

 優奈は顔を上げた。  

 目の端にうっすらと涙が溜まっているのに、彼女は無理やり笑おうとしていた。

 

「……兄さんは、強いね」

「は? 強くないだろ。こんな傷だらけで」

「だって……わたしは何もできないから」

 

 優奈は俯いた。 ガサツな兄とは違い、幼い頃から明るく誰からも好かれる存在だった妹。  

 

 だからこそ、余計に見ていられなかった。  

 その小さな背中に乗せられた十字架に押し潰されていく姿を。

 

「裁判、早く終わるといいね」

 

 沈黙が流れる。 遠くで車の音がして、また静かになる。  

 

 両親を殺した犯人はすぐに捕まった。しかし、審判はなかなか進まなかった。

 一年前のあの日、クローゼットの中で失神していた優奈は保護されたが、優也が気づいた時には病院のベッドの上だった。  

 

 何故見逃されたのか? それは今でも分からない。  

 

 しかし、それこそが犯人が正常な判断能力を損なっていたとして『心神喪失状態』を主張し始めたきっかけだった。

 

「あの人、言ってた。『まだガキがいたのか』って」

「……聞こえてたのか」

「正常、だったよね?」

 

 そう、直接目を合わせた優也には分かった。  

 犯人の男は正常だった。間違いなく、自分の意志で両親を殺した。  

 

 あの目に、迷いはなかった。

 

 しかし、様々な要因から裁判は難航。

 一部の弁護士や活動家は『環境が人を変えた』などと擁護し、メディアは過剰な報道を続けた。

 

『被告は幼少期に虐待を受けており……』

『社会復帰の可能性は十分に……』

 

 そんな言葉が飛び交う中、世論は徐々に変化していった。  

 犯罪者を擁護する声。 そしてついには、被害者である優也たちを責める声。

 

 外野からの身勝手で理不尽な意見がネットに溢れ、やがて現実でも囁かれるようになった。  

 施設の廊下でも、学校の影でも。声の主は、いつも見えない。

 

「……兄さん」

 

 優奈が、優也の手を握った。  

 縋るような、諦めたような、力のない手だった。 それが小さく震えている。

 

「……正義の味方は、わたし達を助けてくれないのかな?」

 

 正義──そんなものが、存在するのか。  

 いや、もうとっくに分かっていた。

 

「お前、まだそんなもの信じてるのか」

 

 馬鹿にしたような口調。

 自分でも、言い方が悪いのは分かっていた。それでも、別の言葉が出てこなかった。

 

「……ううん、もう信じてない」

 

 優奈は顔を上げて笑った。  

 泣きそうだった目元のまま、口だけが明るく歪む。  

 そのずれが、兄の胸に小さな棘のように残った。

 

「だって──」

 

 妹が笑顔のまま首を傾げた瞬間、背筋が凍るような違和感が走る。  

 風が止まり、墓石の影が二人の足元に落ちる。

 

「何が正しいか正しくないかなんて、人に分かるわけないんだもんね!」

 

 妹は、笑った。声も、口元も、年相応の明るい少女のように心の底から笑う。

 

 だが、目だけがついてきていなかった。  

 涙の痕も、さっきまでの弱さも、そこにない。代わりにあるのは、何も映さない深さ……。

 

 

 優也は、握られた手の力を、少しだけ強くする。  

 返ってくる力は、ほとんどなかった。

 

 

 

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