施設での生活は、完全に孤立していた。
18歳までの、身寄りのない子供たちが共同生活を送る場所。
優也はその中でも、完全な異物だった。
「あいつ、上級生にも容赦なしかよ」
「聞いたところによると、武道経験者らしいよ。前も大人が数人がかりで抑えてたって」
「ていうか、あの性格でよく施設から追い出されないな」
「一応、妹の優奈だけは大事にしてるからじゃね?」
「大事にねぇ……兄妹であんなに依存して、正直気持ち悪いよな」
ヒソヒソと囁かれる声に、優也は聞こえないフリをした。
今さらだ。耳に入らないふりをする技術だけは、かなり上達していた。
当時10歳だった妹は、今では11歳になった。
裁判は、まだ続いている。
「優也くん」
食事の時間。一人で隅っこに座る優也の前に、職員がやってきた。
トレーの縁に指をかけたまま、優也は顔だけ上げる。
「今日は、優奈ちゃんと話した?」
「……まだ」
「なるべく、話しかけてあげてね。最近、様子がおかしいから」
心配そうな態度の職員にも、優也は疑問を感じていた。
──この女は、本当に妹を心配しているのか?
──それとも……ただの仕事か?
どうせ、適当に同情して終わりだ。
施設の連中も、学校の教師も、誰もが『可哀想な兄妹』というレッテルを貼って、そこで思考を止める。
しかし、裁判の話になると『司法を信じろ』だの『犯人の更生の可能性』だの、綺麗事ばかり並べてくる。
「最近の優也くん、すごくいい子になってるよ?だから──」
いつしか優也は、争うことをやめていた。
いや、もう諦めていたのだ。
可哀想だと思いたければ好きにすればいい。
だから、俺たちに構うな。
もう、そんな目で見るな……。
「……先生、優奈は?」
「え? あ、うん。中庭で一人で花を見てるよ」
「……そっか」
食事を終え、立ち上がる。
トレーを返す音が、食堂の空気に小さく弾ける。 背中越しに、またヒソヒソと声が聞こえた気がしたが、今度こそ完全に無視した。
中庭には小さな花壇があった。
誰が植えたのかも分からない、色とりどりの花。
季節外れの手入れが雑で、土の表面は乾き、それでも花だけが不自然に鮮やかだった。
その前に、優奈はしゃがみ込んでいた。
「何見てるんだ?」
「……あ、兄さん」
振り返った顔は無表情だった。
目だけが、花の色を映して微かに動く。 だが、優也が隣に立つと、花を指さして言った。
「これ、きれいだね」
「ああ」
「でも、摘んじゃったら死んじゃうんだよね」
「……そうだな」
花びらを指で撫でながら、優奈は続ける。 指先の動きは丁寧で、 不自然なほどゆっくりだった。
「……人って、いい加減だよね」
「どうして」
「だって、何が正しいかなんて誰にも分からないのに、みんな自分の考えが一番だと思ってる」
「っ……」
「わたしには、もう分からない。何が正しいのかなんて、誰にも分からないんだって思う。だったら──」
突然、優奈が手を伸ばし、花を千切り取った。
あまりに突然の行動に、優也は動けなかった。
茎の折れる音が、風のない中庭に短く残る。
「何してるんだ、優奈!」
「……きれい」
指先で潰されていく花びらを見つめながら、優奈は微笑んだ。 色素が皮膚に移り、赤い筋が線のように残る。
「わたしね、この花になりたい」
「……何言って」
「きれいなままで、死にたい」
背筋が凍った。妹の口から、そんな言葉が出るなんて。 しかし同時に、優也は理解もした。
──優奈の精神は、限界を超えている。
もはや笑顔の仮面も、取り繕う気力も残されていない。
残っているのは、正しさを求める癖と、それを得られないことへの静かな疲れだけだった。
「……帰ろう、優奈」
優也は妹の手を引いて、立ち上がらせた。
掌は冷たく、力が入っていない。 優奈は抵抗せず、ただ無言で兄の背中を追いかける。
いつか、何かが起きる。 それは感じていた。
でも、優也はそこから目を背け続けた。
今は手を引くことだけが、できる全部だった。
施設の共有スペースには、タブレットが一台だけ置かれていた。
誰でも使える建前だが、実際に座るのはいつも同じ顔ぶれだ。
優也は近づかない。近づく必要もなかった。
それでも、情報は耳に入ってくる。壁は薄い。子供の声は、思ったより遠くまで届く。
「またコメント増えてるらしいよ」
「八神の件? まだやってんの?」
「裁判が長引いてるから、ネタとして都合がいいんだろ」
ヒソヒソとした声は、廊下でも食堂でも、消えることがなかった。
優也が無視しても、優奈の前では止まらない。
子供は残酷で、大人はそれを見て見ぬふりをする。
注意する職員も、本気で止める空気ではなかった。
ある夜、優奈が小さな声で言った。
二人きりの廊下。蛍光灯が一つだけ点き、足元に長い影を落としている。
「兄さん、ネットって……見たことある?」
「ない」
「嘘」
「……少しだけだ」
本当は、何度も見てしまっていた。
匿名の書き込みは、事実より先に感情を並べる。
事件とは無関係のはずの、他人の不幸を嘲笑い、見下すことによって優越感を得る人間という悪魔の……。
「今日も、見たの」
「あんなもん見るな」
「見ちゃうもん」
優奈の声には、感情がなかった。
中庭の花を潰したときと同じ、平坦な響き。
呼吸の間隔だけが、少し不自然に揃っている。
「『親が悪い』って、たくさん書いてあった。『子供がいるのに防犯を怠るなんて』って。『見逃されたのは心神喪失の証拠』って」
優也は拳を握った。骨が浮くほど強く。
なのに、どこにも振り下ろす場所がない。
「……気にするな」
「気にしないって、どうやるの?」
優也は答えられない。沈黙が落ちる。
遠くで誰かが笑った声がしたが、すぐ消えた。
「じゃあさ、兄さんの考え、聞かせて?」
「優奈?」
「何が正しいのか、決めて?」
またその話だった。 妹は常に「正解」を求めている。
答えがあれば、世界が少しだけ静かになると思っているのかもしれない。
だが、優也にはその正解が見つからない。
「……ごめん」
「兄さんにも、分からないの?」
「ただ……」
優也は妹の手を握り直し、空を見上げた。
窓の外は、街の明かりで決して真っ黒にはならない夜だった。
突然の理不尽。 犯人を擁護する法。
それを娯楽として哀れみ、楽しむ外野。
何も知らないくせに、勝手な憶測で盛り上がるネットの声。
他人事で片付けられるならまだマシだった。
しかし、世間が求めているのは快楽だ。
加害者がどう裁かれるのか。被害者は今どうしているのか。
それをネタに、他者の人生を嘲笑う為に好き勝手な議論を繰り返す──事実を無視した悪意の塊。
ネットでは事実はどうでもよくて、感情論だけが広がる。
だからこそ、優也は気づいてしまった。
「……この世界にあるのは──『ルール』だと思う」
「ルール?」
「優奈の言う通りだよ。何が正しいかなんて分からないから、人はとりあえずルールを作ったんだ」
声は低く、説明というより、自分に言い聞かせる口調に近かった。
ルールを破れば罰が待っている。だから、許された範囲で「面白い」を求める。
道を誤った他人を嘲笑うのが「楽しい」から、いつだってその対象を探し続けているのだ。
「じゃあ、みんながわたし達を面白がるのはルールで許されてるから?」
「そうだな」
「それ、楽しいのかな?」
「……やる側は、そうかもしれない」
妹の無表情の顔を見つめながら、優也は願う。
正しいことなど分からない。ルールの中で叩かれるのも、分かっている。
「でも……」
それでも、優也は妹の手を強く握り締める。
「……俺は、優奈を守りたい」
「兄さん?」
「優奈だけは、失いたく……」
言いかけて、喉が詰まる。 目の前の妹を、満足に守れていないのに。
施設の陰口も、ネットの書き込みも、止められていないのに。
それでも、口にした。 気を利かせたつもりだった。
優しい兄でいようとしただけだった。
優奈はしばらく黙っていたが、ゆっくりと笑った。
久しぶりに見る、普通の笑顔に見えた。
「兄さんは、やっぱり優しい」
「違う。俺は……」
「大丈夫だよ」
優也の目から、不意に涙が溢れた。
妹の前で泣くなどみっともないと分かりつつも、止まらなかった。
「わたしもね、同じ気持ち。兄さんがいなくなったら、もう生きていけない」
「……優奈」
「兄さん、ずっと一緒にいてね」
「ああ、もちろんだ」
「ふふ……そう言うと思った」
微笑んだまま、優奈は言った。
この笑顔があれば、自分はまだ戦える。
心からそう思えた瞬間──。
「ただ、ね?……もし、裏切ったら──」
「え?」
「わたし、何するか分からないからね?」
その一言で、空気が変わった。
廊下の蛍光灯の音が、急に大きく聞こえる。
優也は笑おうとした。冗談だろ?と言いたかった。
だが、優奈の目は、笑っていなかった。
中庭で花を潰したときと同じ、静かな温度……。
「あはは! 兄さん、顔が真っ青だよ? 大丈夫?」
「ゆ、優奈……」
「はーい、冗談終わり!」
優奈はパンと手を叩いて、くるっと背を向けた。
その仕草は、いつもの優奈だった。
明るくて、少し子供っぽくて、兄をからかう妹の顔。
「お腹すいた。戻ろ?」
「……あ、ああ」
返事はできた。足も動いた。
だが、背中を見ていると、指先の感覚が戻らない。
あの言葉は、冗談だったのか。
それとも、彼女なりのSOSだったのか。 優也には、判断できなかった。
ただ一つ、分かっていることは──妹の手は、さっきまでより少し強く、兄の袖を掴んでいた。