あれから優也は、少しずつ変わっていった。
まずは施設内での態度を改めた。 といっても、特別なことをしたわけではない。
ただ、無意味に周囲を敵視するのをやめただけだ。
しかし、それだけでも変化は大きかった。
「おはよう」
「お、おう……珍しいな。お前が挨拶するとか」
「……変か?」
「あ、いや。別に……なんつーか、これからもその調子でよろしく頼むわ」
「……ああ」
最初の数日は、相手の方が戸惑っていた。 返事が返ってくるたびに、施設の子供たちは顔を見合わせ、職員は書類の手を止めた。
それでも、挨拶は続けた。
続けているうちに、変化が訪れたのは相手の方だった。
「……あのさ」
ある夜、廊下で呼び止められた。
以前、陰口の輪にいた上級生の一人だった。目は合わせず、壁の方を見ている。
「前に、いろいろ言ったよな。お前のこと」
優也は黙って立っていた。否定も肯定もしない。
「悪かった。妹のことも含めて、余計なこと言っちまった」
言い終えると、相手はすぐ背を向けた。
待たれた答えを求める様子もない。ただ、それだけを置いていく。
別の日には、職員の方からも声がかかった。
「八神くん。前はきつく当たりすぎたね」
消毒液の匂いがする処置室で、いつもの女職員がそう言った。
以前なら、傷の手当てさえ無言で済ませていた相手だ。
「喧嘩のたびに説教ばかりして。ああいう言い方、必要なかった」
「……別に」
「別に、じゃないよ。こっちも、楽なラベルを貼って終わらせてた」
それ以上は言わなかった。
優也も、深く受け取らないことにした。
謝罪を信じるかどうかより、敵意が薄れた事実の方が大きかった。
施設の中で、完全に和解したわけではない。
ただ、足音の方向を変える者は減った。
すれ違うときの目線が、少しだけ落ちなくなった。
それだけで、朝の空気は確かに違った。
「おい八神、このパンよく買うだろ?いるか?」
「……いいのか?」
「どうせ貰いもんだしな。オレの好みじゃねえし、残すよりマシだ」
「……もらう」
日が経つにつれ、小さなやり取りが増える。
廊下ですれ違うだけの関係が、会えば話す程度の距離になる。
職員たちも、次第に警戒を解き、優也に対して柔らかく接するようになってきた。
互いに意地を張る必要がなくなれば、距離が近くなるのもあっという間だった。
「おう八神、お前が言ってた格ゲーってこれだろ? 学校の奴に借りてきてやったぜ」
「おっ、ゲーセンであるやつじゃん。何? 八神、これ強いの?」
「……倒したい奴がいるんだ。付き合ってくれるか?」
「へぇ、いいねぇ。やろうぜ!」
「俺も混ざるか。八神の負けて悔しがる顔が見たいしな!」
「その動機はいらない」
自由時間、時には夜中に施設内で同年代の子供たちと画面を囲んだ。
コントローラの連打音と、抑えきれない笑い声。誰かが勝って誰かが転げ回り、次の試合の順番で揉める。
まだ裁判が終わってないこともあり、陰口を叩く人間はゼロではない。
だがそれ以上に、理解を示そうとする人間が増えていった。
「だーー! また負けた! 八神むかつく!」
「癖が分かりやすすぎるからな。相手はCPUじゃないんだぞ?」
「野郎……俺がやる!」
「バカ、それじゃお前、必殺技が出ないだろ!」
「あ?……って、ワンパンで負けた!?おいふざけんな!そのキャラバグだろ!」
「バグじゃない。お前の実力が悪い」
「てめっ、容赦ないな……!」
どこにでもある、普通の日常。中学生らしい光景。
優也にとっては、それが何よりも新鮮だった。
自分の隣で友人がバカをやっている。
彼女……澪と過ごす放課後と、地続きの温度。
ただそれだけのことが、とても心地よかった。
「はぁ……ちょっと休憩休憩っと」
「そういや八神、最近優奈ちゃんと会ってやってるか?」
「……? ああ、別に普通だけど」
同年代の友人の一人である少年が、遠慮がちに切り出した。
コントローラを置いた手が、一瞬だけ止まる。
「いや、その……すげー言いづらいんだけどさ。最近、優奈ちゃんの態度があまりに不自然なんだよな」
「不自然?」
「なんつーか、明るすぎるっつか、自由奔放っつか……」
「優奈は昔から割と人懐っこい性格だぞ?」
「いや、そうじゃなくて」
別の子供が、顔を見合わせながら言葉を継ぐ。
画面の光だけが、三人の顔を青白く照らしていた。
「あの子、目が怖くなったって言うか。前は笑うと目も一緒に笑ってたけど、今はなんか……怖いんだよな」
「俺も聞いたわ。施設の小さい子、優奈ちゃんに遊んでもらってるのに、途中で泣き出したって」
「……この前なんか、中庭で花摘んでるの見たけどさ。摘んだ花、全部潰してたぞ」
「え、マジで?」
「マジ。で、潰しながら笑ってて。八神、あれ普通か?」
コントローラの連打音が、誰のものでもなくなる。
優也は言葉を失った。自覚がなかったわけではない。墓前で見た、あの口だけの笑顔。
だが、それを他人に、しかも同じ屋根の下の人間から指摘されるのは、予想外だった……。
「……普通、じゃないと思う」
「だよな。兄貴が一番近くにいるだろ。様子、変だと思うなら言った方がいい」
「あ、いや。責めてるわけじゃねーからな? ただ、気にかけてやった方がいいと思うぜ」
「……あ、ああ。悪い、ありがとう」
優也は言葉少なに答えた。 友人たちはそれ以上深くは踏み込まず、すぐに試合の話へ戻る。
「よし、じゃあもう10試合くらいやるか!次は負けねえぞ!」
再び友人達のはしゃぐ声が室内に響く。
画面の中で自分のキャラクターが倒され、友人の笑い声が弾ける。
優也はコントローラを握り直しながら、はっきりとは考えないようにした。
……考えれば、また苦しむことになる気がしたから。
「兄さん、おっはよー!」
翌日の朝。優奈はいつものように笑顔で現れた。
声は弾み、足取りも軽い。廊下の光の中で、まるで何もかもが順調であるかのように見えた。
「優奈」
「んー?」
「……元気か」
「当たり前じゃん! 昨日も施設の子と遊んでて、先生に怒られちゃったよ。『はしゃぎすぎ』だって。ひどくない?」
「……泣かせたりは、してないか」
「え?してないよ?なんで?」
「……いや、なんとなく」
「ふうん。兄さん、変なの」
優奈は首を傾げ、すぐに笑いに戻る。
その切り替えの速さに、胸の奥の不安が警告音を鳴らした。
「そっか。……それなら、いいんだ」
優也はそれ以上、何も聞けなかった。
『目が怖い』とも、『花を潰していた』とも、言えなかった。
聞いたところで、何ができるというわけでもない。
裁判は終わっても、犯人はまだ刑に服してはいない。
現実は、何一つ変わらない。
「どうしたの?兄さん、浮かない顔してるよ?」
「いや、ちょっと考え事だ」
「ふーん。学校? それとも──女の子?」
一瞬、胸が鳴った。
優奈は首を傾げたあと、にこりと笑った。
その目は、笑いに追いついていない。
「名前、教えてよ」
「……いない」
「嘘つき。顔に出てる」
「出てない」
「……ふーん。でも、いいよ。兄さんが楽しいなら」
言葉の内容は優しい。
なのに、どこか品定めするような間があった。
「大丈夫だよ。何があっても、兄さんはわたしが守ってあげるからね」
妹の言葉は、以前と変わらない優しさがあった。
──そうだ、この優しさこそが優奈だ。
──俺達は、これまでもそうして支え合ってきたんだ。
優也は必死に自分に言い聞かせた。
そう思わなければ、立っていられなかった。
「……俺も」
「兄さん?」
「俺も優奈を守るから、何かあれば必ず言ってほしい。楽しいことも、嫌なことも」
「もっちろん!全部、兄さんに言うよ!」
「……ああ」
「兄さんこそ、約束だよ?もうわたしに嘘はつかないって」
「……もちろん。約束する」
明るく笑った妹は、無邪気に跳ねながら去っていく。
後ろ姿は軽い。影だけが、床に長く残る。
その姿を目で追いながら、優也は願う。
あの事件のせいで、普通の人生を送れなくなった妹が、少しでも幸せになれるように──。
そして、自分の変化が、妹を置いていく結果にならないように、と。