中学三年生の夏が、終わろうとしていた。
受験を控えた教室には、どこか張り詰めた空気が漂っている。
それでも休み時間になれば、生徒たちの喧騒が戻ってくるのが常だった。
「終わったー!」
後ろから肩を叩かれ、振り返るまでもなく相手が誰か分かる。
毎日欠かさず聞く声に、優也は軽く手を挙げた。
「また随分と元気だな」
「優也は一日中眠そうな顔してたね。まさか昨日はずっと勉強してきた?」
「別にそういう訳じゃないぞ」
「えー本当ー?」
「誰かと違って受験を舐めてるわけじゃないからな」
「ちぇー」
一年前、澪の提案でお互いを名前で呼び合うようになってから、二人の関係は驚くほどスムーズになった。
他のクラスメイトにはまだ壁を作っていた優也だが、澪の前では少しずつ素の自分を出せるようになっていた。
「そういう澪の課題の進捗は?」
「もっちろん優也様の丸写し準備バッチリです!」
「だろうな……」
彼女の笑顔を見ると、なんだか肩の力が抜ける。そんな日々が続いていた。
澪と出会ってから、もう一年半。
あの頃に比べれば、自分は確かに変わったと思う。
「ねぇ優也、ちょっと気になってたんだけど」
「ん?」
「優也って、高校はどうするの?」
「……まだ決めてない」
進路。
その言葉だけで、優也は現実に引き戻される。彼には大きな選択が待っていた。
「ただ、俺は高校入学と一緒に施設を出て行こうと思ってるんだ。親の遺産はかなりあるらしいからな」
「そっか。じゃあ、近いうちに一人暮らし?」
「まあ、そうなるかな」
優奈はどうするか……まだ聞いていない。
だが、妹だけを施設に残すのは抵抗があった。
優奈が望めば養護施設のまま高校に行くことも可能だろうが、今の優奈の精神状態でそれは可能なのか。
「まーた難しい顔してる。妹さんのこと?」
「……まあ」
「難しいよね、そういうの。でもさ、優也はよくやってるよ」
「……そうか?」
「うん。あたしが保証します。だから今日は、息抜きにちょっと付き合ってよ」
「どこに?」
「商店街。ネットで評判の新しいラーメン屋さん、気になってたんだよね。紹介してあげる」
強引に手を引かれ、優也は渋々立ち上がる。
結局、澪にはいつも流されてしまう。だがそれが心地よかった。
◇
放課後、二人で商店街を歩きながら、他愛もない話をしていた。
受験の話、高校の話、新発売のゲームの話。
どれも他愛ないことばかりだが、その時間が優也には心地よかった。
「美味しかったね。特に餃子、また食べたい」
「そうだな」
「あーでも、受験終わったらダイエットしないとなー」
そんな会話を続けながら、商店街を抜け、人通りの少ない道に出る。
夕焼けに照らされながら、優也は不意に足を止めた。
「おい、あれ」
「ん?あぁ、例の被害者の子供か」
声が背後から聞こえる。
優也は振り返らなかった。いや、振り返ることができなかった。
「うわ、写真と同じじゃん。随分とでかくなったな」
「最近裁判が進んだとかで話題になってるらしいじゃん」
「なーにが冤罪だよ。さっさと死刑にしろって感じだよな」
澪が、優也の手を掴む。
大丈夫だと言い聞かせるように。
「もう事件から三年経ってるのに何を揉めることがあるんだか」
「まあ、あの兄妹もある意味でラッキーだったよな。可哀想アピールしとけば少なくとも学費だけは保障されるもんな?」
「ああ、税金泥棒ってやつだ」
「っ……」
──違う。
そんなこと、一度も思ったことはない。
「まあ親も親だよな。子供がいるのに何も対策してなかったんだろ?」
「可哀想だけど、親がバカだとこういう事件に巻き込まれるんだな」
「結局、判決は無期懲役なんだっけ?」
「変わんねえのかよ。なら無駄に長引かせんなって」
「俺らの税金返せよなー」
「まぁまぁ。それよりネットに上げようぜ。一緒にいるの彼女っぽいし、バズるかも」
──助けてくれ。
声にならない言葉が、頭の中で渦巻く。
もう、慣れたはずなのに。
どうして、こうも理不尽なのだろう。
どうして、被害者が悪いという話になるのだろう。
何も、悪いことなんてしていないのに。
両親はただ、普通に生きていただけなのに。
「……大丈夫」
澪の囁きが耳に届く。
彼女は優也の手を握ったまま、静かに背を向けた。
「行こ?優也」
それだけ言うと、澪は優也を連れて歩き出す。
優也は、ただ俯いたまま、何も言えなかった。
もう、大丈夫なはずだった。
だが、実際はそう思っていただけだったのだ。
やがて、公園に着いた。
人気のないベンチに座り、しばらく二人は沈黙していた。
「……ごめん」
「なんで優也が謝るの?」
「なんか、その……」
「いいよ、言わなくて。それに多分、あたしの方が耐えられなかったし」
優也は何も言わない。
やがて、澪が再び口を開く。
「楽しいんだろうね、あの人達は」
「え?」
「事件の内容とか被害者のことなんて、どうでもいいんだよ。ただ、誰かを攻撃したいだけ。正義の味方になりたいだけ。なのに、自分は何もしない。匿名で悪口を言い合って、問題を起こす奴は叩いて。自分は間違ってない、自分達は正しいって思い込んで」
それは、いつか自分が妹に言った言葉と似ていた。
『この世に正義なんてない、あるのはルールだけだ』と。
「優也、前にあたしの家のことは話したよね?」
「あ、ああ……確かディレクターだって」
「うん。まあ、今更だよね。知ってたよ。優也のご両親のこと」
澪は、夕日を見つめながら言った。
今更驚きはない。学校でも何度か陰口を言われたこともある。彼女が知らない方が不自然だ。
「……澪も、色々言われたんだよな」
「まあ、ね。あんまり自慢できる仕事じゃないし……」
「だから、俺に話しかけてくれた?」
「うん。だって優也……本当に寂しそうだったから。あたしと同じかなって」
小さく笑った澪は、それから立ち上がった。
ベンチから離れ、優也の前に立つ。
「ねえ、優也はもし一人だけ凄い力が手に入ったら何をする?」
「……は?なんだよ、急に」
「いいから。ゲームによくあるじゃん?魔力とか波動とか。もし世界にそんな力があって、一人だけ別格に強かったら、優也は何をする?」
唐突な問い。優也は考えた。
──世界で、誰よりも強くなった自分。悪を叩き潰す正義の味方?
いや、違う。もう自分は知っている。
この世に絶対的な正義などない。
「さっきみたいな人達に、やり返したいとか思わない?自分が絶対正しいんだって、勝手な理屈を押し付けるだけの人達に」
澪の目は、真剣だった。
怒りが、滲んでいた。
「あたしは、思うよ。……おかしいよ。こんなの絶対、おかしいから」
でも──。
「俺はきっと、自分の安心に使うと思う」
「──え?」
「何を言われても、『俺はこいつらより強いし……』って思えたら。少しは救われる気がしないか?」
優也の口から出た予想外な本音に、澪は一瞬固まっていたが、すぐに吹き出すように笑った。
「あははっ、何それ!超かっこ悪い!誰よりも強くなったのに、結局ヘタレなの!?」
「ヘタレ言うな」
「ごめんごめん。でもそっか。そういうのも、ありかもね」
澪は笑い終えると、優也の隣に腰を下ろした。
先ほどよりも距離は近い。
「ただねー……優也の場合は、そうはならないと思うな。なんだかんだで誰かを助けちゃいそう」
「……そんなお人好しじゃない」
「そうかなぁ?あたしは、優也に助けられたよ?」
そう言って、澪は再び優也の手を握る。
心臓が、少しだけ高鳴った。
「……他人の不幸は蜜の味って言うよね。きっと、この気持ちはみんなが持ってるんだと思う。あたしも──優也も」
「……そうかもな」
「うん。でも、それだけじゃない。それだけだったら、友達が欲しいなんて思わない。誰かと一緒に居たいなんて思わない」
澪の言葉に、優也は何も言えなかった。否定できなかった。
この世にあるのはルール──そう決めたのは自分だ。
だが、そうやって捻くれてしまった自分と、それでも繋がろうとしてくれた人が居たから。
「あたしはね」
澪が、優也の顔を見つめた。
澄んだ瞳が、優也を映している。
「優也と一緒に居たい」
「……っ」
「ちゃんと生きてて、ちゃんと笑ってる優也と一緒に居たい」
夕日が、澪の頬を朱く染めている。
その横顔は、あまりに美しくて、眩しくて、優也は見つめ返すことしかできなかった。
「だから、優也の傍にいるよ。例えみんなが優也を悪く言っても、あたしだけは味方でいる」
「……何で」
「そんなの、決まってるよ」
澪は笑った。
今度は、少しだけ泣きそうな顔で。
「好きだから。あなたのことが──大好きだから」
全身から、力が抜けるような感覚。
優也は、何も言えなかった。ただ、胸の奥が熱くなって、涙が出そうになった。
それでも、言わなければ。自分がこの少女に抱いている本当の気持ちを──。
「……俺も」
「え?」
「俺も──澪のことが好きだ」
ようやく絞り出した言葉。
だが、嘘ではなかった。初めて、本心から言えた。
「良かった……」
いつもの軽口ではなく、心からの安堵を込めて、澪は微笑んだ。
重ね合っていた二人の手は、自然と指を絡め合う。
互いが互いを求め合うように。
「……もう少しだけ、このままでいよっか」
「……うん」
繋ぎあった手の温もりが、優也の胸に染み渡る。
それを、これからの人生の希望に変えて。
──ふーん。そうだったんだ。
──全部、あの女のセイダッタンダ。
──最近、兄サンガオカシクナッチャッタノハ。