その日、優也は中々寝付けなかった。
頭の中で、澪の言葉が何度も何度も繰り返される。
嬉しくて、恥ずかしくて、どうしようもなく幸せだった。
(夢……じゃないんだよな?)
布団の中で、自分の手を見つめる。
澪が触れた場所が、まだ熱を持っている気がした。
名前で呼び合うようになってから、もう一年半。
だが、今日初めて──本当の意味で、二人は繋がった。
「澪……」
もう一度、彼女の名前を呟くだけで、胸が熱くなる。
理不尽に押し潰されそうになっていた自分に、手を差し伸べてくれた少女。
彼女の存在だけで、優也はまた立ち上がれる気がした。
明日、顔を合わせたらなんて言おう。
今まで通り、普通に話せるだろうか。
いや、無理だな。絶対に照れてまともに目も合わせられない。
そう思いながらも、優也の口元は自然と緩んでいた。
やがて、睡魔が訪れる。
まだまだ不安はある。
それでも、彼女が隣に居てくれる限りはきっと……。
「家の取り壊し?」
「はい。肉親であるお二人にお話を伺いたく参りました」
翌日、優也は思いがけない連絡を受けた。
突如として施設の職員から呼び出され、両親の遺産管理を任されている役所の代理人が訪ねてきたのだ。
「元々かなり古い物件でしたから。それに……」
「例の事件で価値が暴落したと」
「……はい。このまま維持するよりも取り壊した方が金銭的に負担が少ないかと思われます」
無機質な部屋の中、代理人は淡々と説明を続ける。
内容は理解できた。事件はとっくに解決し、犯人は捕まった。
施設から出て一人で暮らすには広すぎる上に、メンテナンス費用も馬鹿にならない。取り壊しは妥当な選択だった。
「待って下さい。彼らはまだ中学生です。そんな話……」
「もちろん、結論を出してほしいとは言いません。ただ──」
施設の職員と代理人が議論を繰り返す中、優也は考えていた。
──あの家がなくなる。両親と過ごした最後の場所が。
あの日から、もう三年が経つ。その間、優也は一度も足を運んでいない。
いや、運べなかった。
「んー?いいんじゃないかな?別に壊しても」
突如として声を上げたのは、同席していた優奈だ。
施設の職員も、代理人も、優也も、一瞬言葉を失った。
「だって、どうせ誰も住んでないんだから壊した方がいいっしょ?役所の人もそうしたいからわたし達に相談してきてるんだよね?」
「それは……」
「あぁ、いいのいいの気にしないで。別に怒ってないし。むしろ、今まで無駄な税金使わせちゃってすみませんねー?」
あまりにも軽薄な優奈の態度に、代理人は困惑した表情を隠せない。
施設の職員も何も言えず、気まずそうに俯く。
「俺も、それでいいです」
「優也くん……いいの?」
「でも、取り壊す前に一度だけ、立ち入ることはできますか?」
「も、もちろんです。手続きをしておきますので」
代理人は慌てた様子で了承し、書類を取り出す。
優也はそれだけ言うと、妹の方を向いた。
「優奈は、どうする?」
「んー……兄さんと一緒には居たいんだけど、あそこに行くのはちょっとなー。あの時のこと、はっきり思い出しそうだし」
「……そうだな」
果たしてそれは本心だろうか。優也には判断できなかった。
だが、優奈の意思を尊重するのが最善だと思った。
「じゃあ、俺だけ行くことにする。いいか?」
「うん、いってらっしゃーい」
優奈は相変わらず軽い調子で答える。
やがて、施設の職員も代理人も退室し、部屋には兄妹だけが残された。
「兄さん」
「どうした?」
「兄さんは、わたしを見捨てないよね?」
「っ……」
突然の問いに、優也の心臓が跳ねる。
いつもと変わらぬ笑顔のまま、優奈は首を傾げながら続けた。
「ふふ……いいよ、答えなくても。生きてれば気持ちがわかることだってあるよね。でも──」
優奈は立ち上がる。
優也の耳元に顔を近づけ、囁くように言った。
「もう、遅いよ?」
「優……奈?」
「わたし、もう我慢なんてしないんだから」
背中に冷たいものが走る。
優奈は何事もなかったかのように、笑顔を浮かべて立ち去った。
その後ろ姿を見送りながら、優也は立ち尽くすことしかできなかった。
◇
今日の授業は午前中で終わりだった。合鍵はすでに受け取っている。
「優也ー、放課後どうするの?」
何事もなかったかのように、澪が話しかけてくる。
彼女の存在が、心の拠り所になっている。
だからこそ、嘘はつきたくない。
「なあ、澪。これから時間あるか?」
「ん?あるけど……」
「……付き合って欲しいところがあるんだ」
澪に事情を話す。
実家の取り壊し。最後に一度だけ、立ち入ること。彼女は静かに聞いてくれている。
「……一人だと、きっと耐えられないと思うから」
「うん。いいよ。一緒に行こ?」
二つ返事で澪は頷いてくれた。
優也の心に、少しだけ安堵が広がった。
電車とバスを乗り継ぎ、優也は澪と共に住宅街へ向かう。
懐かしい街並みが広がる中、一軒の古い家に着いた。
「ここが……優也の?」
「ああ……」
見慣れた門。小さな庭。掛け時計の音が聞こえてきそうな、どこにでもある家。
しかし、もう誰も住んでいない。
「入ってくれ」
澪と共に、重い扉を開ける。廊下には埃が積もり、どこか湿っぽい匂いがした。
全てが、あの日から止まったままの家。
「優也?」
「……少しだけ、中を見て回ってもいいか?」
澪の返事を聞きながら、優也は階段を上がる。妹と過ごした子供部屋。父が遅くまで仕事をしていた書斎。
そして、両親の寝室。かつて家族が普通に暮らしていた場所。
優也はしばらくの間、無言で見つめ続けていた。
「意外と、覚えてるものなんだな……」
思い出は色褪せない。むしろ鮮明に蘇る。
「……うち、共働きだったんだ。父さんも母さんも、毎日遅くまで働いてて。でも、休みの日だけは必ず一緒に過ごしてた」
「うん……」
「乗せるのが上手い親でさ、自分が楽をしたいからって5歳の俺に妹の面倒を押し付けてたりして……いや、今思い出したらむかついてきたな」
「あはは、単純な優也らしい」
澪はただ、話を聞いていてくれている。
自分の気持ちを整理する時間を、温かく見守ってくれている。
その思いやりが、ありがたかった。
「……事件の後、ずっと荒れてた。何も知らないくせに、好き勝手言ってくる奴らが憎くて、反論するしかできなかった。自分で何かを解決できる力もないのに」
優也の声が、僅かに震える。
手を差し伸べてくれた大人の手をも振り払い、ただ捻くれることしかできなかった自分。
何もかもが憎かった。ただ、それ以上に嫌だったのが──。
「……俺、多分一回でも『寂しい』って思ったことなかった」
「優也?」
「周りに『可哀想な子供』だと思われないように振る舞うことに必死で、母さんと過ごした日を思い出したりとか、父さんを想って泣いた日とか、そういうの全然なくて……」
澪は何も言わない。優也は拳を握りしめる。
「結局、俺は家族のことなんて、どうでもいい薄情な奴だったんだなって思い知らされた……」
あの日、犯人によって実の両親が間近で奪われる現場を目の当たりにしたはずだった。
しかし、優也の中に強く残ったのはその後の無責任な大衆の声と『可哀想な子供』だと思われないように振る舞う意地。
家族との『思い出』より、事件後の『理不尽』ばかりを引きずってきた自分が惨めに思えた。
「……情けないだろ。こんなの」
「ううん」
優也が顔を上げると、澪はただ静かに笑っていた。
「優也は、ちゃんと人間なんだねって思っただけ」
「……っ」
「それにね、今、ちゃんと苦しんでて、ちゃんと後悔してる。本当に薄情な奴だったら、自分を責めたりしないよ」
澪の言葉に、喉の奥が熱くなった。
堪えていた涙が、一滴だけ零れ落ちる。
「……違うんだ」
優也は静かに、頭を振った。
澪の前だというのに、涙が止まらない。
「俺……」
ようやく、本音が口をつく。
「父さんと母さんが──もう、いないんだって。今更になって、分かったから……」
三年以上の歳月を経て、ようやく自覚した喪失。
もう、二人には二度と会えない。
そんな当たり前の事実を、今になって受け入れた。
「……優也」
澪の手が、静かに背中に回される。
まるで幼い子供にするように、澪は優也の身体を抱きしめた。
「……俺たちのこと、もっと見ていて欲しかった」
「うん……」
「もっと、色んなことを話したかった……行きたい場所もあったのに」
「うん……」
何も言わず、澪は優也を受け止めてくれている。
彼女の胸の中で、優也は静かに泣いた。
もう誰もいなくなった家で。
家族の温もりを覚えている場所で。
「大丈夫だよ。私はここにいるから」
澪の指が、優也の髪を撫でる。その手が、不思議と心地よかった。
どれだけそうしていただろうか。
ようやく落ち着いた優也は、俯いたまま呟いた。
「俺、澪にカッコ悪いところばかり見せてるな」
「ん?そう?」
「……嫌いにならないか?」
「なるわけないでしょ」
澪が笑いながら答える。
嘘偽りないその声に、優也は少しだけ顔を上げることができた。
「でも、俺……」
「……じゃあ」
澪の顔が、少しだけ近づく。優也の鼓動が高鳴る。
「言葉だけじゃ伝わらないもの、優也に教えてあげる」
「っ……」
何の躊躇もなく、澪は優也の唇に自分を重ねた。
そのまま、数秒の時が流れる。
夕日に照らされた部屋の中で、二人はただ一つになっていた。
「……やっと信じてくれた」
唇を離すと、澪は得意げに笑う。
手を伸ばし、優也の頬を撫でながら、彼女は言った。
「本当、いつまでもウジウジしてるから、女の子にこんな大胆な行動をされちゃうんだぞー」
「……まさか、経験者?」
「優也でも殴るよ?」
思わず苦笑いが漏れる。
優也は澪の手を握り返し、ようやく笑った。
それから、優也は両親に最後の別れを告げた。
澪と共に立ち去り、扉を閉める。
二度と開かない扉の向こうに、すべての思い出を置いて。
「……行こうか、優也」
「うん……」
外はもう夕暮れ。辺りは茜色に染まっていた。
優也は澪と二人、並んで歩きながら、ふと足を止めた。
「澪」
「なあに?」
「……今日はもう少しだけ、一緒に居てもいいか?」
「お?なに?もしかしてまだ甘えたい感じ?」
「迷惑か……?」
「……優也のその反応、破壊力あるね。そんなわけないでしょ」
澪は笑いながら、優也の手を握り返す。
その手の温もりが、確かな未来を約束してくれている。
「契約した部屋、ここから少し歩いた場所にあるんだ。まだ電気も通ってないけど、良かったら」
「うん、行こ」
二人は、新しい場所へと歩き出した。
思い出の詰まった場所を後にして、今度は自分達の未来を築くために。
──それだけで、もう十分すぎるほど、幸せだった。
ソノ幸セガ、後一時間モシナイ内ニ全テヲ破壊サレテシマウコトモ知ラズニ