澪と共にたどり着いた先、アパートの一室。
まだ家具すらろくに揃っていないが、来年の春から優也が一人で暮らす予定の場所だ。
「……うーん。第一印象は、いかにも一人暮らし始めたての人が暮らす場所って感じ?」
「悪かったな、普通で」
軽口を言いながら、優也は部屋の鍵を開けようとした。
「ん?」
「優也、どうしたの?」
開錠したはずなのに、鍵が回らない。
いや、すでに開いている?
(前に来た時、間違えて鍵をかけ忘れたか……?)
疑問に思いながらも、優也はドアノブに手をかける。
扉は、重々しく開いた。
当然だが、中は暗い。
念の為に澪を待たせ、優也は一歩だけ足を踏み入れた。
「……誰もいない、よな?」
しばらく周囲を確認するが、人の気配はない。
改めて澪を部屋に上げ、予め買っておいた缶コーヒーを渡す。
「悪いな、電気がつかなくて」
「ううん、全然。むしろ新鮮で楽しい」
澪が笑顔で言ってくれる。
しかし、どこか違和感が拭えない。
外から差し込む夕日だけが部屋を照らし、時折車が走る音が遠くに響く。
もうすぐ、夜になる。
「優也、高校はここから通うんだよね?」
「そうなるかな。名義は施設のままだけど、一人暮らしするには問題ないと思う」
「本当に大丈夫?ご飯、作りに来てあげよっか?」
「……澪、料理の腕はイマイチじゃなかったか?」
「ひっでっ!空気読めよ!」
優也は小さく笑う。
こんな時間が、ずっと続けばいいのに。
ただ、それだけを願っていた。
「優也って、少しは笑うようになったよね」
「そうか?」
「うん。前はまさに陰キャのテンプレって感じだったのに、今はちょっとだけ」
「……褒めると見せかけて貶してるだろ、それ」
「あはは、そうやってわかりやすく拗ねるところは変わってないか」
澪は笑いながら、壁に寄りかかる。
優也もそれに倣って、床に腰を下ろした。
「ねえ、前に言ったよね?『もし一人だけ凄い力が手に入ったら何をする?』って」
「ああ、そんな話もしたな」
「優也は、自分の安心に使うって言ってたよ?」
「……よく覚えてるな」
「結構衝撃的だったからね。もっと復讐願望とか持ってるかと思ったもん」
「俺を何だと思ってる……」
澪は笑いを噛み殺しながら、そっと優也に近づいた。
「じゃあさ、もし本当に『凄い力』が手に入って一つだけ願いが叶うなら──」
窓の外で、一際大きな車の音が聞こえた。
もう、ほとんど夜の帳が降りている。
部屋の中には、茜色の残光だけが差し込んでいた。
「優也は、何をお願いする?」
澪の赤い瞳が、優也を見つめる。
彼女はいつだってそうだ。優也の本心を、真っ直ぐに見抜こうとする。
「………」
「だんまり?それは反則だぞー」
「……分かってる」
優也は観念したように、顔を上げた。
「俺は、優奈に幸せになってほしい」
「優奈……あ、妹さん?」
「……あいつはまだ、事件から抜け出せていないんだと思う。俺なんかよりはよっぽど周りと仲良くやれてるけど、時々怖いんだ」
微かに、しかし確実に進行して来ている妹の最近の変化。
優奈のあの笑顔。あの目。
彼女の中で何かが、確実に壊れ始めている。
「ふーん。そっかぁ……」
「澪?」
「それ、『凄い力』で解決するべきことかな?」
澪は静かに、優也の顔を見つめながら言った。
彼女にしては珍しく、どこか遠くを見ているようだった。
「妹さんの問題は、妹さん自身が向き合うしかないと思うよ?もちろん優也が支えるのは大事だけど、もし、優也に凄い力が宿ったら……」
澪は一歩だけ、優也に近づいた。
「……なんて、偉そうなこと言っちゃった」
「澪?」
「でもね、思うんだ。優也はさ、もっと自分のために生きていいって」
「っ……」
「隣に居るのがあたしじゃなくてもいい。あたしは、あなたが幸せになってくれれば、それでいいから」
澪の手が、優也の頬に触れる。
夕日が消えた頃、部屋の中はすっかり闇に包まれようとしていた。
「……澪」
「なぁに?」
「『凄い力』なんて……多分、ない」
「え?──あ、うん。ごめんね。しつこかった?」
「いや……」
優也は目を閉じながら、頬に触れた彼女の手を優しく包み込む。
その温もりが、まるで夢のように感じられた。
「ただ……もし、そんな力が手に入ったら、俺は──」
目を開けた。
改めて、大切な人の顔を直視しようとした瞬間──首筋に強烈な衝撃が走る。
「がっ……!」
「優也!?──ひっ」
澪が小さく悲鳴を上げるのが聞こえた。
優也はとっさに立ち上がろうとするが、身体に力が入らない。
意識を手放す直前──優也が最後に見たのは人の皮を被った悍ましい笑顔だった。
暗闇の中で、優也は重たい瞼を無理やり持ち上げた。
頭が割れるように痛い。首筋に走った衝撃の余韻がまだ残っている。
「………っ」
声を出そうとしても、出ない。
口の中に固い布が押し込まれ、顎がほとんど動かない。
猿轡だ。全身を這う冷たい感触——鎖。手足は完全に固定され、指一本動かせない。
必死に目を凝らすと、薄暗い部屋の中に、もう一つの影が見えた。
向かい側の壁に──同じように拘束された澪の姿。
「んんっ……!」
澪もまた、猿轡を噛まされ、身動きが取れない状態だった。
彼女の瞳は恐怖に見開かれ、必死に優也を見つめている。
優也は必死に言葉を紡ごうとしたが、くぐもった声しか出てこない。
鎖を引きちぎろうともがくも、当然ながら鉄の枷はびくともしなかった。
その時──。
「ん?ああ、兄さん、気がついたんだね」
背後から聞こえた、あまりにも聞き慣れた声。
優也は心臓を鷲掴みにされたような錯覚に陥った。
「よかったぁ。ずっとここで待ってたんだよ。でも兄さん、全然気がつかなくてさ」
「んーっ……!んんんっ……!!」
「あ、もしかして、声出したい感じ?ごめんごめん。でも今外したらうるさくしちゃいそうだし、もう少し我慢してねー」
優奈の声はひどく落ち着いていた。
向かい側で、澪が必死に首を振る。涙で濡れた目が、優也を見つめていた。
「……お姉さんも起きてたんだ」
「んんっ……!」
優奈の足音が、澪の方へと近づいていく。
優也は必死に叫ぼうとした。
しかし、猿轡に阻まれて、くぐもった呻き声しか出てこない。
「えっと……確か、天野先輩だっけ?違ったらごめんね。学校で何回か話は聞いてたけど、直接会ったことなかったからさ」
「んっ……!」
「あ、こっち見ないでくれる?あんたと目が合うとムカつくからさ」
優奈の声が、急に冷たくなる。
遠目からでも、澪が震えているのが分かった。
「っ……」
優奈の平手が、澪の頬を叩く。小さな悲鳴が部屋に響く。
優也は必死に鎖を揺らした。ガチャガチャという金属音だけが虚しく木霊する。
──一体、これはどういうことだ?
──何故、優奈がこんなことをするんだ?
優也の脳裏を様々な疑問が駆け巡る。
しかし、それを考える時間が与えられることはなかった。
「兄さん」
不意に名前を呼ばれ、優也の心臓が跳ねる。
いつもの満面の笑み……兄を慕い、時には揶揄う妹の顔で……。
「わたしね、兄さんのことが好き」
「っ……!」
「大好き。ずっと前から。ずっと、ずーっと」
優奈の声が、恍惚として部屋に響いた。
その目はどこか虚ろで、焦点が定まっていない。
「最初から、兄さん以外なんていらなかった。施設の人も、友達も……ううん、お父さんもお母さんもかな」
何を言っている?
目の前で話しているのは本当に、優奈なのか?
「だから、苦しかった時でも嬉しかった。兄さんが、わたしだけを気にかけてくれる。わたしだけに心を開いて……あははっ、今思えば、あの頃が一番良かったかもね!誰もわたし達を理解できない!理解できないから、二人だけの世界になれた!」
分からない。
彼女が何を言っているのか、優也には理解できなかった。
理解したく……ない。
「ね?ずっと、そうしてれば良かったんだよ?……わたしだけを心配してくれてれば良かったのに」
優奈の目が、澪を捉えた。
彼女の手には、一本のナイフが握られている。
優也の血の気が、一気に引いた。
「それがさぁ、普通に友達作って、普通に遊んで……こんなヤツと恋愛して……あーあ。つまんないの」
「んんーーー!!むうぅぅぅーーっ!!?」
澪が叫ぶ。恐怖に歪んだ顔で、必死に首を振る。
優也は目一杯に鎖を引きちぎろうとする。
だが、何も変わらない。何も変えられない。
「っ──!」
優也は優奈の言葉を遮ろうとするも、猿轡に阻まれる。
次の瞬間、鮮血が迸った。
「──っっっ!」
澪の悲鳴が耳を劈く。
腹部の辺りに深々と刺さったナイフ。
真紅の液体が溢れ出し、床を汚していく。
「………」
その、あまりに痛ましい光景に優也は茫然自失になる。
──おい、優奈。何をしてるんだよ?
──冗談にしても、限度があるだろ?
──澪が、痛がってるじゃないか。
──血が出てるじゃないか。
「ねえ、兄さん?」
優奈の目が、まっすぐ優也を捉えた。
無邪気で、無垢で、狂気に満ちた瞳。
「この世界に、正解なんてないんだよね?」
「──っ……!!」
「兄さんが教えてくれたんだよ?みんなが守ってるのは、わたし達と同じ人間が作った、いつでも修正できる都合の良いルール。なら、ちょっとくらい逆らったっていいよね?……ルールは、わたしを叩いていい側に追いやったんだから」
優奈は、微笑んだ。
頬に飛び散った血にも気づかず、幸せそうな笑顔で──。
「あははははははははははははははははははははは!!!」
優奈の笑い声がそれをかき消す。
彼女は全身を返り血で真っ赤に染めながら、なおも澪に刃を突き立てている。
あの優奈が、あんなに守りたかった妹が……。
「どうせ何をしても好き放題言われる世界なら──迷うだけ無駄だよ、兄さん♪」
優奈が、楽しそうに声を上げる。
ナイフを澪の体に突き刺す度に、彼女の顔には恍惚の笑みが浮かんだ。
「おっ、泥棒猫の返り血浴びちゃった♪でも、まだやめてあげなーい!」
「ん"ん"ん"ん"ーーーっっ!?!?!?」
澪のくぐもった悲鳴が木霊する。
それでも優奈は止まらない。
何度も何度も、刺し続ける。
血に染まったナイフが、何度も何度も澪の全身を貫いていく。
優也の視界が歪んでいく。
心臓が痛い。喉の奥が焼けるように熱い。
「ぷっ!?あははははははははっ!!!痛い!?そりゃ痛いよねえ!だってこれ、刃物だもん!」
「んっ……んんっ……!」
「ねぇ、どんな風に兄さんを誑かしたの?あーわかった、『私だけは分かってるよ?』アピールしたんだ。兄さん、そういうのに弱いもんねー」
優奈は、嗤う。
何がおかしいのか分からない。
何も、おかしくないはずなのに。
両親の死から、ずっと耐えてきた。
この世界は理不尽だと、正義はなくルールなのだと言い聞かせて。
それでも、温もりを与え続けてくれた人の存在で救われた。
どんなに辛くても、彼女が隣にいてくれたら頑張れると。
彼女がいるだけで、この世界も優しくは変われるのだと。
そんな希望が、生きる意味そのものが。
目の前で、消えていく。
最愛の人の命が、あまりにも滑稽に奪われていく。
(助……け、なきゃ……)
今すぐにでも駆け寄って、澪を助けなければならない。
だが、体中に食い込む鎖がそれを許さない。
鉄の枷はやはりびくともせず、手足は固定されたまま動かない。
「んっ、ひっ……!ひっ……!」
澪の弱々しい声が聞こえる。
優也は鎖を引いた。
「んんんんんっ!!」
全力で。
肩が外れてもいい。
手首が千切れてもいい。
そんなことはどうでもよかった。
──動け。
鎖が激しく鳴る。
──動け。
手首に鉄枷が食い込み、皮膚が裂ける。
──動けよ。
温かいものが腕を伝った。
自分の血だった。
それでも構わない。
目の前に澪がいる。
ほんの数メートル先にいる。
手を伸ばせば届きそうな場所にいる。
なのに。
「んんんんんんんんっっ!!」
届かない。
ただの鉄の鎖。
それが、中学生の自分には──絶対に壊せない。
「あはははははははっ!」
優奈の笑い声が響く。
優也は必死に考えた。
どうすれば外せる。
手首を抜く?
無理だ。
関節を外す?
やり方なんて知らない。
優奈を止める?
どうやって。
澪を助ける?
だから──どうやって。
「……っ、んん……」
澪の声が、また小さくなった。
やめろ。
待ってくれ。
まだ考えている。
今、助ける方法を考えてるから。
だから──。
待ってくれ。
「んんんんっ!!んんんんんんんっ!!」
叫ぶ。
声にならない。
猿轡一つ外せない。
鎖一つ壊せない。
妹一人止められない。
好きな女の子一人守れない。
何も。
本当に、何一つ。
できない。
「…………っ」
澪と目が合った。
涙で濡れた赤い瞳。
いつも笑っていた少女が、今は泣いていた。
それでも──優也を見ていた。
唇は塞がれている。
声なんて聞こえるはずがない。
それなのに。
分かってしまった。
──助けて。
うん、今、助ける。
当たり前だろ?
絶対に助ける。
俺が助けるから。
だから。
だから、そんな目で──。
──助けて、優也!
分かってる。
分かってるから。
もう少しだけ待ってくれ。
絶対に、俺が──。
「んんんんんんんんんんっ!!!」
もう一度、鎖を引いた。
肩に激痛が走る。
手首から血が流れる。
それでも引いた。
何度も。
何度も。
何度も。
しかし。
鎖は──切れなかった。
「…………」
澪の瞳から、ゆっくりと力が抜けていく。
「んっ……!?」
優也は首を振った。
やめろ。
澪。
目を閉じるな。
「んんっ! んんんんっ!!」
なぁ、澪?
明日も学校に行くんだろ?
またゲームセンターに行くんだろ?
高校だって。
俺の部屋に飯を作りに来るって言ってただろ。
さっきだって──。
ずっと傍にいるって。
「……あれ?」
優奈の声がした。
「もう動かなくなっちゃった」
その言葉を聞いても、優也は鎖を引き続けた。
ガチャリ。
ガチャリ。
ガチャリ。
「兄さん?」
ガチャリ。
「……もう、その女死んでるよ?」
ガチャリ。
「聞いてる?」
ガチャリ。
分かっていた。
本当は、とっくに分かっていた。
それでも、やめられなかった。
止めてしまったら。
認めることになる。
自分は──また、守れなかったのだと。