転生しても、妹は俺を逃がしてくれない   作:ゴロスケ

8 / 19
そして、転生へ

 あれから、どれだけの時間が過ぎたのだろう?

 一週間か。一ヶ月か。それとも、もっと長いのか。
 

 

 もう、正確な感覚など残っていない。

 

 薄暗い部屋。窓から差し込む月明かりだけが、この狭い世界をぼんやりと照らしている。


 俺はベッドに横たえられたまま、手足を縄で縛られ、口には固い布を押し込まれていた。
 

 息を吸うたびに布が喉の奥に食い込み、時折、咳き込みそうになるのを必死に堪える。

 

 身体のあちこちが痛む。縄が肌に食い込んだ跡は、もう赤黒く変色していた。

 


 それでも、もう痛みなどどうでもよかった。

 

「兄さ〜ん?起きてるー?」

「っ!?」

 

 ──恐怖。

 

 扉の向こうにいる『あいつ』への、どうしようもない恐怖。


 かすかな物音がする。
足音だ。

 ゆっくりと、近づいてくる。

 心臓が、痛いほどに高鳴る。
息を殺す。身体を硬くする。


 逃げられないと分かっていても、本能が拒否反応を示す。

 

 扉が、静かに開いた。

 

「ただいま、兄さん♪」

 

 長い黒髪が月明かりに青白く浮かび上がる。
 

 優しい笑みを浮かべたまま、彼女は部屋に入ってきた。
 

 

 その手には、鈍く光る何かが握られていた。

 

「ふふっ……今日もちゃんと栄養をつけなきゃね」

 

 優奈はそう言いながら、俺の猿轡を外した。
 

 布が外れた瞬間、肺に冷たい空気が流れ込む。咳き込みそうになるのを、必死に堪えた。

 

「……優奈」

 

 掠れた声しか出ない。
 

 名前を呼んだだけなのに、彼女の顔がぱっと明るくなる。

 

「うん、兄さん。わたしだよ。ちゃんと分かってくれるんだ」

 

 俺の隣に腰を下ろす。手に握られていたのは、果物ナイフだった。

 小さな林檎を、丁寧に皮ごと剥いていく。刃物の音だけが、狭い部屋に落ちる。

 

「今日学校でね、先生がまた聞きに来たの。『お兄ちゃんはどこ?』って」

 

 笑顔のまま、首を傾げる。

 

「不思議だよね。わたしがずっと守ってるのに。兄さんは、もう、どこにも行かないのに」

 

 林檎の一切れを、俺の口元へ運ぶ。拒めば、また布を押し込まれる。分かっていた。

 だから噛む。甘い汁が、乾いた舌に染みる。
 

 

 甘いはずなのに、喉を通らない。澪の血の味が、まだ口の中に残っている気がした。

 

「ふふっ……えらいえらい。もうすっかり素直になったね」

 

 頭を撫でられる。
その掌は温かい。妹の掌だ。
 

 なのに、肌が先に拒否する。

 


 触れてほしかった手は、もっと細くて、夕日の残る部屋で頬に触れた方だった。

 

「……澪は」

 

 名前を出した瞬間、指先が止まった。

 

「……ん」

 

 本当に短い間──でもすぐ、また笑った。

 

「あいつなら、もういないよ?兄さんを誑かした人は、もういないんだよ?」

 

 次の一切れを、優しく押し込む。
   

 咀嚼する音が、自分の耳にだけ大きく聞こえる。

 

 ──澪が、いない。


 その一言で、胸の奥が落ちる。
 

 いつも隣にいてほしかった人が、もう二度と笑わない。

 

「ありがたみって、なくなってから分かるって本当なんだ。苦しかった時が、一番よかった。誰も理解してくれなくて、兄さんがわたしだけを見てくれて。二人だけの世界。それが正解だったのに」

 

 優奈の額が、触れそうな距離まで近づく。

 

「ね、兄さん。わたしのこと、好きだよね?」

 

 答えられない。
 

 

 好きも嫌いも、もう言葉にならない。
 

 

 残っているのは、目の前で刃が澪を貫く音と、届かなかった彼女の「助けて」だけ……。

 

「──好き、だよね」

 

 確認ではない。決定だった。

 

「答えなくていい。兄さん、不器用だもんね。でも、身体は正直だよ?わたしが傍にいないと、すぐ変な女に優しくしちゃう」

 

 囁きが、耳の奥へ入る。

 

「大丈夫。今度はわたしが、全部決めるから。ご飯も、寝る時間も、誰と話すかも。兄さんは──何も考えなくていいんだよ?」

 

 猿轡を、再び噛まされた。
布が歯茎に食い込む。

 

 最後に見えたのは、満足そうに目を細める優奈だった。

 

「今日はもう寝るね。明日も学校だから。ちゃんと帰ってくるから、待ってて」

 

 部屋の隅の薄いマットへ行く。
 

 

 長い髪が頬にかかり、眠る姿は、昔の妹のままだった。
 

 

 

 

 

 その後も同じ夜が、何度も繰り返された。

 学校の話、施設の話、先生の話、「兄さんがいないと寂しい」と、穏やかに笑う話。

 

 林檎を剥く音。口に運ぶ指。外した猿轡。すぐ戻される布。

 

 優奈が笑うたびに、胸の奥が削れる。
可愛い声で「兄さん」と呼ばれるたびに、澪が死んだ部屋の空気が戻ってくる。

 


 同じ月明かり。同じ狭い空間。同じ、逃げられない時間。

 


 目を閉じると、彼女が見える。

 

 教室の隅で気兼ねなく話しかけてくれる彼女の顔。

 


 宿題を奪いながら、「助け合いだよ」と笑う彼女の顔。

 


 ゲームセンターの蛍光灯、初心者狩りをして調子に乗る彼女の声。

 


 夕日の中で、俺の手を握った彼女の指の感触。

 


 みんなが敵な訳じゃない、と教えてくれた彼女の言葉。

 

 あの時、俺は初めて、この世界にも温もりがあると信じられた。


 だから、どんなに理不尽でも、叩かれても、彼女が隣にいるなら立ち上がれた。

 


 その彼女が、今はいない。

 

 いないことに、早くも慣れてきている。

 


 優奈が林檎を運ぶたび、彼女の笑顔が自分の中から消えていく……。

 

(い……や……だ)

 


 薄れることが、一番怖かった。

 


 忘れることは、澪を二度殺すことになる。

 

 涙は、怒りより先に出た。

 


 助けて、と言われた。

 

 名前を呼ばれて、最後まで俺を見ていた。

 


 なのに俺は、鎖の内側で、今も生きている。

 

 それだけが、耐え難かった。

 

 

 

 

 何日目だったのかは、分からない。

 優奈はいつも通り、林檎を食べさせ、頭を撫で、布を戻し、マットで眠った。
 

 規則正しい寝息。長い髪が頬にかかり、何も知らない少女のように見える。


 その手元に、果物ナイフが無造作に置かれていた。

 

 縄は、最初ほど深くは食い込んでいない。

 優奈が食事のたびに結びを解き、食べ終わるとまた縛る。その繰り返しで、結び目が少しずつ雑になっていた。

 

 鎖は短い。肩が裂ける。縄が手首の古い傷をこじ開ける。

 それでも身体をねじり、指を伸ばす。金属が骨に当たる感触。視界が白む。

 

 柄に、届いた。

 

 冷たい。握った瞬間、頭の中が真っ赤になった。

 隣で眠る優奈の首筋が、月明かりの中ではっきり見える。

 

「………」 

 


 今なら、やれる。
この地獄を作った張本人を、同じ刃で終わらせられる。

 


 澪の仇を、ここで取れる。

 腕が上がる。


 怒りのままに、振り下ろそうとした。

 

「っ……」

 

 ——降りなかった。

 

 刃先は、優奈の喉のすぐ上で止まる。
 

 

 手が震える。呼吸が、自分のものでないみたいに浅い。
 

 

 眠っている顔は、あの頃の優奈に重なる。墓前で花を供えて、俺の傷を見て、無理に笑っていた妹に。

 


 あの夜、クローゼットへ押し込んだ手の感触。


 

「………」

 

 情けなかった。

 


 彼女を失った男が、失わせた相手にさえ、最後の一線を残している。

 


 かつては誰よりも守りたかったはずのこいつへの怒りは本物だ。殺意も、本物だ。

 


 ただ、それを実行する勇気だけが──俺にはなかった。

 

(はは……)

 

 刃を、こちらへ向ける。

 迷いは、もうなかった。
優奈を殺す勇気がないなら、少なくとも、この所有の中で呼吸し続けることだけは拒否できる。

 


 ──「生きていい」をくれた彼女は、もういない。

 

 熱いものが溢れる。
痛みより先に、空気が軽くなる。
 

 視界の端で、優奈の寝顔が揺れる。

 

 これでもう、こいつの声を聞かなくて済む。

 

(ああ……)

 

 最期に浮かんだのは、優奈ではなかった。


 夕日の残る、家具もない部屋。頬に触れた手。

 

 届かなかった「助けて」。


 そして、あの馬鹿な問い。

 

『もし本当に『凄い力』が手に入って、一つの目的だけ叶うなら──優也は、何をお願いする?』

 

 俺の意識は、あの日に見つけた答えを求めたまま、完全に闇へ沈んだ。

 

 

*

 

 

 暖かい。

 

 柔らかい布の感触と、甘いミルクのような匂い。


 まぶたの裏が、明るい光で赤く染まる。

 

「おっ、目を開けたぞ」

 

 若い男の声。知らない声だ。


 ゆっくりと目を開けると、見知らぬ天井が広がっていた。

 身体が、異様に軽い。


 腕を上げようとすると、短い、赤ん坊の手が目の前に現れる。

 

「見てください、アルドルフ様。指を握っていますよ」

 

 隣から、女性の優しい声がした。
頬に、柔らかな指が触れる。 

 

 温かい。


 だが、触れてほしかった手ではなかった。

 

「ミハイル様とアルドルフ様のご子息です。将来はきっと立派な……」

 

 二人は、幸せそうに笑い合っている。
 その笑顔に、敵意も狂気も、何一つ混じっていなかった。

 

(……は? いや、待て……え)

 

 短い手が、視界の中でひらひらと動く。


 自分の意思で、確かに動いている。


 身体が小さい。声も出せない。


 なのに、肺の奥まで深く息が吸える。


 縄の跡も、鎖の感触も、血の匂いもない。

 

 

(……い、生きてる?)

 

 いや、違う。
死んだはずだ。
 

 刃を自分へ向け、意識が落ちるところまで、はっきり覚えている。

 

 なのに、今、俺はここにいる。

 

「ミハイル様、アルドルフ様。魔力の測定をそろそろ?」

 

 別の声がした。


 白い服を着た男が、小さな結晶のような道具を手に近づいてくる。

 

 ──魔力。

 

 その単語が、脳の奥を強く叩いた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。