あれから、どれだけの時間が過ぎたのだろう?
一週間か。一ヶ月か。それとも、もっと長いのか。
もう、正確な感覚など残っていない。
薄暗い部屋。窓から差し込む月明かりだけが、この狭い世界をぼんやりと照らしている。
俺はベッドに横たえられたまま、手足を縄で縛られ、口には固い布を押し込まれていた。
息を吸うたびに布が喉の奥に食い込み、時折、咳き込みそうになるのを必死に堪える。
身体のあちこちが痛む。縄が肌に食い込んだ跡は、もう赤黒く変色していた。
それでも、もう痛みなどどうでもよかった。
「兄さ〜ん?起きてるー?」
「っ!?」
──恐怖。
扉の向こうにいる『あいつ』への、どうしようもない恐怖。
かすかな物音がする。 足音だ。
ゆっくりと、近づいてくる。
心臓が、痛いほどに高鳴る。 息を殺す。身体を硬くする。
逃げられないと分かっていても、本能が拒否反応を示す。
扉が、静かに開いた。
「ただいま、兄さん♪」
長い黒髪が月明かりに青白く浮かび上がる。
優しい笑みを浮かべたまま、彼女は部屋に入ってきた。
その手には、鈍く光る何かが握られていた。
「ふふっ……今日もちゃんと栄養をつけなきゃね」
優奈はそう言いながら、俺の猿轡を外した。
布が外れた瞬間、肺に冷たい空気が流れ込む。咳き込みそうになるのを、必死に堪えた。
「……優奈」
掠れた声しか出ない。
名前を呼んだだけなのに、彼女の顔がぱっと明るくなる。
「うん、兄さん。わたしだよ。ちゃんと分かってくれるんだ」
俺の隣に腰を下ろす。手に握られていたのは、果物ナイフだった。
小さな林檎を、丁寧に皮ごと剥いていく。刃物の音だけが、狭い部屋に落ちる。
「今日学校でね、先生がまた聞きに来たの。『お兄ちゃんはどこ?』って」
笑顔のまま、首を傾げる。
「不思議だよね。わたしがずっと守ってるのに。兄さんは、もう、どこにも行かないのに」
林檎の一切れを、俺の口元へ運ぶ。拒めば、また布を押し込まれる。分かっていた。
だから噛む。甘い汁が、乾いた舌に染みる。
甘いはずなのに、喉を通らない。澪の血の味が、まだ口の中に残っている気がした。
「ふふっ……えらいえらい。もうすっかり素直になったね」
頭を撫でられる。 その掌は温かい。妹の掌だ。
なのに、肌が先に拒否する。
触れてほしかった手は、もっと細くて、夕日の残る部屋で頬に触れた方だった。
「……澪は」
名前を出した瞬間、指先が止まった。
「……ん」
本当に短い間──でもすぐ、また笑った。
「あいつなら、もういないよ?兄さんを誑かした人は、もういないんだよ?」
次の一切れを、優しく押し込む。
咀嚼する音が、自分の耳にだけ大きく聞こえる。
──澪が、いない。
その一言で、胸の奥が落ちる。
いつも隣にいてほしかった人が、もう二度と笑わない。
「ありがたみって、なくなってから分かるって本当なんだ。苦しかった時が、一番よかった。誰も理解してくれなくて、兄さんがわたしだけを見てくれて。二人だけの世界。それが正解だったのに」
優奈の額が、触れそうな距離まで近づく。
「ね、兄さん。わたしのこと、好きだよね?」
答えられない。
好きも嫌いも、もう言葉にならない。
残っているのは、目の前で刃が澪を貫く音と、届かなかった彼女の「助けて」だけ……。
「──好き、だよね」
確認ではない。決定だった。
「答えなくていい。兄さん、不器用だもんね。でも、身体は正直だよ?わたしが傍にいないと、すぐ変な女に優しくしちゃう」
囁きが、耳の奥へ入る。
「大丈夫。今度はわたしが、全部決めるから。ご飯も、寝る時間も、誰と話すかも。兄さんは──何も考えなくていいんだよ?」
猿轡を、再び噛まされた。 布が歯茎に食い込む。
最後に見えたのは、満足そうに目を細める優奈だった。
「今日はもう寝るね。明日も学校だから。ちゃんと帰ってくるから、待ってて」
部屋の隅の薄いマットへ行く。
長い髪が頬にかかり、眠る姿は、昔の妹のままだった。
その後も同じ夜が、何度も繰り返された。
学校の話、施設の話、先生の話、「兄さんがいないと寂しい」と、穏やかに笑う話。
林檎を剥く音。口に運ぶ指。外した猿轡。すぐ戻される布。
優奈が笑うたびに、胸の奥が削れる。 可愛い声で「兄さん」と呼ばれるたびに、澪が死んだ部屋の空気が戻ってくる。
同じ月明かり。同じ狭い空間。同じ、逃げられない時間。
目を閉じると、彼女が見える。
教室の隅で気兼ねなく話しかけてくれる彼女の顔。
宿題を奪いながら、「助け合いだよ」と笑う彼女の顔。
ゲームセンターの蛍光灯、初心者狩りをして調子に乗る彼女の声。
夕日の中で、俺の手を握った彼女の指の感触。
みんなが敵な訳じゃない、と教えてくれた彼女の言葉。
あの時、俺は初めて、この世界にも温もりがあると信じられた。
だから、どんなに理不尽でも、叩かれても、彼女が隣にいるなら立ち上がれた。
その彼女が、今はいない。
いないことに、早くも慣れてきている。
優奈が林檎を運ぶたび、彼女の笑顔が自分の中から消えていく……。
(い……や……だ)
薄れることが、一番怖かった。
忘れることは、澪を二度殺すことになる。
涙は、怒りより先に出た。
助けて、と言われた。
名前を呼ばれて、最後まで俺を見ていた。
なのに俺は、鎖の内側で、今も生きている。
それだけが、耐え難かった。
何日目だったのかは、分からない。
優奈はいつも通り、林檎を食べさせ、頭を撫で、布を戻し、マットで眠った。
規則正しい寝息。長い髪が頬にかかり、何も知らない少女のように見える。
その手元に、果物ナイフが無造作に置かれていた。
縄は、最初ほど深くは食い込んでいない。
優奈が食事のたびに結びを解き、食べ終わるとまた縛る。その繰り返しで、結び目が少しずつ雑になっていた。
鎖は短い。肩が裂ける。縄が手首の古い傷をこじ開ける。
それでも身体をねじり、指を伸ばす。金属が骨に当たる感触。視界が白む。
柄に、届いた。
冷たい。握った瞬間、頭の中が真っ赤になった。
隣で眠る優奈の首筋が、月明かりの中ではっきり見える。
「………」
今なら、やれる。 この地獄を作った張本人を、同じ刃で終わらせられる。
澪の仇を、ここで取れる。
腕が上がる。
怒りのままに、振り下ろそうとした。
「っ……」
——降りなかった。
刃先は、優奈の喉のすぐ上で止まる。
手が震える。呼吸が、自分のものでないみたいに浅い。
眠っている顔は、あの頃の優奈に重なる。墓前で花を供えて、俺の傷を見て、無理に笑っていた妹に。
あの夜、クローゼットへ押し込んだ手の感触。
「………」
情けなかった。
彼女を失った男が、失わせた相手にさえ、最後の一線を残している。
かつては誰よりも守りたかったはずのこいつへの怒りは本物だ。殺意も、本物だ。
ただ、それを実行する勇気だけが──俺にはなかった。
(はは……)
刃を、こちらへ向ける。
迷いは、もうなかった。 優奈を殺す勇気がないなら、少なくとも、この所有の中で呼吸し続けることだけは拒否できる。
──「生きていい」をくれた彼女は、もういない。
熱いものが溢れる。 痛みより先に、空気が軽くなる。
視界の端で、優奈の寝顔が揺れる。
これでもう、こいつの声を聞かなくて済む。
(ああ……)
最期に浮かんだのは、優奈ではなかった。
夕日の残る、家具もない部屋。頬に触れた手。
届かなかった「助けて」。
そして、あの馬鹿な問い。
『もし本当に『凄い力』が手に入って、一つの目的だけ叶うなら──優也は、何をお願いする?』
俺の意識は、あの日に見つけた答えを求めたまま、完全に闇へ沈んだ。
*
暖かい。
柔らかい布の感触と、甘いミルクのような匂い。
まぶたの裏が、明るい光で赤く染まる。
「おっ、目を開けたぞ」
若い男の声。知らない声だ。
ゆっくりと目を開けると、見知らぬ天井が広がっていた。
身体が、異様に軽い。
腕を上げようとすると、短い、赤ん坊の手が目の前に現れる。
「見てください、アルドルフ様。指を握っていますよ」
隣から、女性の優しい声がした。 頬に、柔らかな指が触れる。
温かい。
だが、触れてほしかった手ではなかった。
「ミハイル様とアルドルフ様のご子息です。将来はきっと立派な……」
二人は、幸せそうに笑い合っている。 その笑顔に、敵意も狂気も、何一つ混じっていなかった。
(……は? いや、待て……え)
短い手が、視界の中でひらひらと動く。
自分の意思で、確かに動いている。
身体が小さい。声も出せない。
なのに、肺の奥まで深く息が吸える。
縄の跡も、鎖の感触も、血の匂いもない。
(……い、生きてる?)
いや、違う。 死んだはずだ。
刃を自分へ向け、意識が落ちるところまで、はっきり覚えている。
なのに、今、俺はここにいる。
「ミハイル様、アルドルフ様。魔力の測定をそろそろ?」
別の声がした。
白い服を着た男が、小さな結晶のような道具を手に近づいてくる。
──魔力。
その単語が、脳の奥を強く叩いた。