今度は、俺自身が理不尽になってやる
ミナト・クロフォード──それが、この世界での俺の名前だ。
生まれは、王国の第二王子。まさにかつての俺とは真逆と言ってもいい立場。
だが、俺はただの赤ん坊ではない。 前世の記憶を、全て持ったまま生まれ直した人間だ。
薄暗い部屋で鎖に繋がれ、目の前で大切な人を殺され、自ら首筋を切って死んだあの日の記憶が、鮮明に残っている。
──転生した。
本当に、異世界に生まれ直したのだ。
「あーうぅ」
意味のない声を上げながら、天井を見る。
視界の端で、薄い光が揺れていた。
魔力のオーラ——前世にはなかったものだ。
(これが、魔力……?)
表向きは普通の赤ん坊のまま、心の中だけが騒ぐ。
まだ夢だと疑いたくなる。
異世界の物語に、本当に足を踏み入れてしまったような感覚だった。
「ミナト様のご夕食をお持ちしました」
「ありがとう。さあ、ミナト」
使用人と思わしき女性が部屋に入る。
母は俺を抱き直すと、優しく微笑んで口元へスプーンを寄せた。
温かい味が広がる。
初めての味なのに、妙に落ち着く。
それと同時に、体の奥へ何かが染み込むような感触があった。
(……これ、魔力が、増えている?)
確信はない。それでも期待だけは、簡単に膨らんだ。
この世界では、成長そのものが力につながるのかもしれない。
「ふふ。この子は、すごい子になりますね」
「ええ。私たちの子ですから」
前世では得られなかったものだ。
温かい家族。豊かな魔力。
その幸福に、胸が熱くなる。
(家族……か)
母の腕の中で、その単語だけが遅れて届く。
抱き直されるたびに体温が移る。髪に触れる指が、理由もなく丁寧だ。
前世では、食卓は壊れた。両親の名前は墓に刻まれた。
残ったのは、守ると言って守れなかった自分と、隣にいるべきではなかった夜だけだ。
なのに今は、奪われたものが形を変えて戻ってきたみたいだった。
血の匂いのない部屋。怒声のない天井。
スプーンを口元へ運ぶ手が、途中で止まらない。
(帰ってきた……のか)
違うと分かっている。
この腕は前の母さんではない。父さんではない。
それでも、失ったものの代わりが、今ここに温かく──。
──兄さーん。朝ですよー?
「っ……!」
頭の中を、あの声が過る。背筋を冷たいものが伝った。
──もう、何処にも行かないでね?
短い。だが、それで十分だった。
身体が震える。急な吐き気と目眩。
それは、もういないはずのあいつの声。
「ミナト様?」
「ミナト、大丈夫?」
母と使用人の女性が覗き込む。
その優しさが、今は痛かった。
「ぅ……」
──ここは、もうあの地獄じゃない。
わかっている。わかっているのに、身体が拒否する。
幸せを感じるほど、また失う想像が膨らむ。
「泣かないで、ミナト」
「きっと怖い夢でも見たのでしょう」
使用人と母の手が、背中を撫でる。頭を撫でる、
温かい。
それでも、残像は晴れない。
(……まだ、足りないのかよ)
あいつは、もういない。
なのに、ふとした拍子に、あの部屋の空気が戻ってくる。
何度、心の中で繰り返しても、不安だけが胸を締めつけた。
俺は、ただ泣き続けた。
*
その後も、日常は穏やかに過ぎた。
父は厳しく、しかし嫌な人間ではなかった。
兄を叱る声は大きくても、俺には丁寧だった。
「おぉ、小せえ」
ベッドの縁から覗き込んでくるのは、まだ幼い兄だった。
名前はアルフェン。俺より4つ上であり、王子というより子供の顔をしている。
短い指で俺の頬をつつく。力はない。
悪さというより、珍しいものを確認しているだけだ。
「目は開いてるのに、歩けもしないのかよ。オレの弟なのにな!」
「アルフェン。弟をいじめるな」
「いじめてねーよ!見てるだけ!」
そう言いながら、今度は俺の握った拳に自分の指を添えてくる。
赤ん坊の手では、兄の指を包み込めない。それだけで兄は面白そうに笑った。
「やっぱ弱いな!おれが守ってやるしかないか!」
軽口だった。
なのに、守ると言われる感触だけが胸に残る。
前世でも、今世でも、先に口にするのはいつも誰かだ。
母は笑って兄の頭を撫で、兄は少しだけ照れた顔をした。
嫌味はない。上からでもない。
ただ、自分が兄であることを、もう気に入っている。
俺は声にならないまま、その指を握り返した。
兄は目を丸くして、得意げに父を見た。
「ほら!おれのこと気に入ったぞこいつ!」
父は短く鼻を鳴らしただけだった。
それでも、その場の空気は壊れなかった。
母は毎日のように傍にいて、夜は低い声で絵本を読んでくれる。
王子として、過剰なほどの環境。
前世の俺から見れば、信じられないほどに恵まれた日々だった。
そうして、日が過ぎ、週が過ぎ、ひと月が過ぎる。
身体も少しずつ大きくなり、俺もこの世界のリズムに慣れ始めていた。
いや、慣れたつもりでいただけなのかもしれない。
*
深夜。一時的に一人になった寝室で、目が開いた。
薄い月明かり。冷えた空気。
誰もいないはずの部屋なのに、胸の奥が先に騒ぐ。
「っ……」
原因はわかっている。あいつだ。
理由は、いまだにうまく言葉にできない。
ただ、身体が先にすくむ。
──兄さん♪
本当はそこにいないと分かっている。
分かっていても、反応してしまう。
鎖の音。足音。あの笑顔。
──兄さ〜ん?どうして逃げるのー?
見たくない、と思った時には遅かった。
ベッドの上でうずくまる俺へ、近づいてくる気配だけが膨らんでいく。
逃げようとしても、身体が動かない。
金縛りではない。ただ、恐怖が先に身体を押さえ込んでいる。
──こっちでも、また会えたね♪
「あああぁッ!!」
叫んで、跳ね起きた。
呼吸が荒い。心臓がうるさい。冷や汗が背を伝う。
赤子の体でも、恐怖だけは同じだった。
部屋には、誰もいない。
「はぁ……はぁ……」
呼吸を整えようとしても、すぐに戻らない。
転生してから、何度も振り払おうとしたが無理だった。
むしろ、前よりはっきりする気がする。
──明日も、楽しみにしてるからね。
耳元で言われた気がして、肩がすくむ。
幻でも本物でも、不快なことに変わりはない。
(くそっ……)
布団を叩く。大きな音にはならない。それでも、今の俺にはそれが精一杯だった。
王国の第二王子として生まれ直した。家族もいる。環境もいい。
なのに、まだ過去の部屋から出ていない。
「は……はは」
自嘲が漏れる。
外見が変わっても、中身は同じなのか。また同じ場所で立ち止まるのか。
その時、違和感があった。
「なんだ……?」
暗い空気の中に、薄い熱がある。 目を凝らすと、光の粒が見えた。
宝石のように、小さく揺れている。
指で触れることはできない。
なのに、胸の奥がそれに反応する。
さっきまで部屋を占領していた鎖の音が、わずかに遠のく。
「魔力……」
夜の天井を見ながら、別の声が重なった。
幻聴ではない。あいつの声でもない。
『ゲームによくあるじゃん?魔力とか波動とか。もし世界にそんな力があって、一人だけ別格に強かったら、優也は何をする?』
「………」
この力を完璧にできれば、安心できるだろうか?
過去の悪夢を。前世の無力を。
「……っ」
鎖は、もう付いていない。だが恐怖は、まだ残っている。
この世界なら、不可能を可能にできる力がある。
だから、自分で手に入れるしかない。
──現実逃避?ああ、そうだろう。分かっている。それでもいい。
俺は弱い。誰よりも脆い。
だからこそ──。
澪を、思い出す。夕日の中で笑った顔。
「好きだ」と初めて言えた人。
鎖に繋がれたまま、目の前で何度も刺され、最後まで俺を見ていた瞳。
助けたかった。抱きしめたかった。 なのに、何もできなかった。
(……だったら)
天井を見ながら、決めた。
過去は変わらない。
忘れることも、できない。
ならば、それを利用してやる。
かつては、理不尽を味わされた。
ならば今度は──俺自身が理不尽になってやる。
そう思った瞬間、俺の中の何かが、わずかに変わった気がした。