男女比1対100の世界。前世ではアラサー女子が男子高校生に!? 作:好きなジャンル欲張りセット
「いい? 学校では、女の子を気軽に褒めないこと」
玄関を出るなり、幼なじみが妙なことを言った。
「髪切ったね、とかも?」
「気づかないで」
「気づいちゃったら?」
「忘れて」
なかなか高度な要求だった。
橘紗月は、真新しい制服を隙なく着込んで、我が家の門の前に立っていた。長い黒髪を後ろで結び、百七十センチを超える背筋をまっすぐ伸ばしている。
昔から頼れる幼なじみである。顔立ちは凛々しいが、犬に話しかけるときだけ声が一段高くなる。
「連絡先を聞かれても、すぐには教えない。二人きりにならない。相手の家に行かない」
「お母さんにも言われた」
「湊は三回言っても忘れるから」
「忘れてないよ。女の子には気をつけます」
私が答えると、紗月はようやく頷いた。
そこで、彼女の髪を結ぶリボンが目に入った。
紺色の、細いサテン地。
いつもは黒いゴム一本なのに。
「そのリボン、新しい?」
紗月の肩がぴくりと動いた。
「……忘れてって言った」
「いや、でも似合ってる。制服と合ってて可愛い」
幼なじみは口を閉じた。
そのまま目を逸らし、右手で結び目を確かめる。
「……私以外には、言わないで」
自分はいいらしい。
まあ、紗月なら大丈夫だろう。
小さい頃から、一緒におやつを食べていた仲なのだから。
*
私、朝倉湊には前世の記憶がある。
前世では二十八歳まで女性として暮らしていた。アパレル店員で、休日は友達とご飯を食べたり、買い物に行ったり。恋愛も少しはしたけれど、結婚には縁がなかった。
今は十六歳の男子高校生である。
鏡に映る顔は母に似ていて、声変わりもした。朝は寝癖と格闘するし、去年から背もずいぶん伸びた。
自分の身体が男だということは、さすがにもう理解している。
問題は、頭の中に染みついた距離感だった。
可愛い服を着ていれば、可愛いと言う。
髪形が変われば、似合うねと言う。
一緒にご飯を食べたい相手には、今度行こうと誘う。
前世では、そうやって友達を作ってきた。
けれど、この世界でそれをやると、どうも話がややこしくなる。
女性百人に、男性一人。
それが、この世界のおおよその人口比率だ。
恋愛では女性が誘い、男性が応じる。女性向けの雑誌には『彼に選ばれる女になる』という見出しが並び、男性向けの防犯講習では『優しいお姉さんについていかない』と繰り返される。
成人向けの広告で肌を見せるのも、主に男性だった。
前世と同じ感覚でテレビをつけ、母に慌ててチャンネルを変えられたこともある。
あのときは私より、母のほうが赤くなっていた。
結婚だって一夫多妻が普通で、隣家のおじさんには奥さんが三人いる。初めて家族写真を見たときは、親戚の集まりだと思った。
当然、男の子は大事に育てられる。
私も中学校までは男子校に通い、登下校は送迎バス。女子と話す機会は、親戚や紗月を除けばほとんどなかった。
だが、高校からは共学だ。
自分で希望し、両親と何度も話し合って決めた。
別に男友達が嫌いだったわけではない。
ただ、服を買いに行くときや、駅前に新しいカフェができたとき、どうしても思い出すのだ。
お互いの皿を見比べて、そっちもおいしそう、と笑っていた時間を。
もう一度、ああいう友達が欲しかった。
「鞄、貸して」
隣を歩く紗月が手を差し出した。
「自分で持てるよ」
「重いでしょ」
「教科書、まだもらってないから」
「でも、お弁当が入ってる」
弁当をなんだと思っているのか。
断ると、紗月は少しだけ口を尖らせた。
どうも今朝は、やたらと世話を焼きたがる。
「紗月こそ、鞄いっぱいじゃない?」
「……普通」
横から見える鞄の中には、大小二つの弁当包みが入っていた。
運動部に入ると言っていたし、たくさん食べるのだろう。
*
教室の扉を開けた途端、話し声が止まった。
窓際で集まっていた女子も、机に突っ伏していた女子も、こちらを見る。
私は思わず、上履きで外を歩いてきていないか確認した。
合っている。大丈夫。
別の何かが大丈夫でないらしい。
「……おはようございます」
挨拶すると、ばらばらのおはようが返ってきた。
最前列の子だけ、なぜか「ありがとうございます」と言っていた。
名簿を見て知ってはいたが、クラスの男子は私一人。
学年全体でも三人しかいない。
指定された席は窓際の後ろから二番目で、隣には茶色いボブヘアの女の子が座っていた。
目が合うと、彼女は勢いよく立ち上がった。
「白瀬花音です!」
「朝倉湊です。よろしくね」
「はい! あの、机、近かったら離しますので!」
もう充分離れている。
うちの学校は、机の間を自転車でも通るのだろうか。
「このままで大丈夫だよ」
「は、はい」
白瀬さんは慎重に椅子へ腰を下ろした。
耳の上に、小さな桜のヘアピンが留まっている。薄い花びらを重ねた、繊細な飾りだった。
「それ、可愛いね」
椅子が、がたんと鳴った。
「えっ」
「ヘアピン。桜の形の」
「あ、こ、これですか?」
白瀬さんは耳の横を押さえた。
その向こうで紗月が私を見ていた。席は通路を挟んだ斜め前である。
眉間に皺が寄っている。
しまった。登校中の注意事項。
だが、口から出た言葉は戻せない。
ここで急に「やっぱり可愛くない」と訂正するほうが、よっぽどひどい。
「どこのお店で買ったの?」
「買ったんじゃなくて……作ったんです」
「自分で?」
思わず身を乗り出した。
近くで見ると、花の中心に小さなビーズが縫い込まれている。花びらの色も一枚ずつ少し違う。
好きで作っている人の仕事だ。
「すごい。こういうの、他にも作る?」
「たまに。お店で買うと高いので……」
「違う形も見たいな」
白瀬さんがぱちぱちと瞬きをした。
「写真なら、ありますけど」
「見たい」
彼女がスマホを取り出しかけたところで、担任の先生が入ってきた。
白瀬さんは慌ててそれを引っ込める。
「じゃあ、お昼に見せてもらってもいい?」
「お昼……」
「お弁当なら、一緒に食べながら」
今度は、斜め前から音がした。
紗月が落とした筆箱を、無言で拾っている。
*
入学式と学校の説明が終わった昼休み。
私の机の周りには、なぜか六人いた。
白瀬さんと紗月。
それから、「白瀬さんと一緒に食べる約束をしていた」という女の子が四人。
「……四人も?」
白瀬さんが小声で言った。
「ほら、朝に挨拶したし」
「同じ中学の子を見かけたから、心強くて」
「私、白瀬さんの隣のクラスだった」
「私はその隣」
最後の子だけ、ずいぶん遠い。
白瀬さんは困ったように私を見た。
「朝倉くん、嫌だったら……」
「机、くっつけようか。この人数じゃ届かないし」
そう言って、自分の机を持ち上げた。
ほぼ同時に三人が手を伸ばしたので、私は机を宙に浮かせたまま固まった。
「あの、手を挟むと危ないから」
「ご、ごめんなさい!」
ようやく机を並べ終えた頃には、紗月が私の右隣を確保していた。
白瀬さんは左隣。手にはスマホを持っている。
「さっきの、見せて」
画面には、花や果物をかたどった小物が並んでいた。
いちごのブローチ。青い花のイヤリング。小さな猫のチャーム。
どれも白い布の上に置いて撮影してある。
「写真も上手だね」
「窓のところで撮ると、きれいに写るので」
「わかる。照明だけだと色が変わっちゃうんだよね」
白瀬さんが、初めて笑った。
「そうなんです。実物はもっと薄いピンクなのに、オレンジみたいになったり」
「これも?」
「それは本当にオレンジです」
「そっか」
向かいの子が吹き出した。
それで、張りつめていた空気が少し緩んだ。
どの中学校だったのか。部活は決めたのか。先生の説明が長かったこと。
一人が話し始めると、別の一人も口を開く。
そうそう。こういうのでいい。
私はほっとして弁当箱を開けた。
「それ、朝倉くんのお母さんが?」
「ううん。自分で作った」
伸びていた箸が、何本か止まった。
「自分で?」
「料理、好きだから」
卵焼きと、昨日の残りの唐揚げ。ほうれん草の胡麻和え。
特別なものは入っていない。
それでも、白瀬さんは店頭の宝石でも見るような顔をしていた。
「卵焼き、きれい……」
「一個食べる?」
言った瞬間、右袖を引かれた。
「湊」
紗月だった。
「……私には?」
止めるのではなく、参加するらしい。
「紗月もどうぞ。あ、でも全員分はないな」
「私はいい! 朝ご飯、遅かったし!」
「私も! 白瀬さん、食べなよ!」
向かいの四人が、恐ろしいほど息を合わせた。
白瀬さんは卵焼きと私を交互に見てから、自分の箸を持ち直した。
「いただきます」
小さくひと口。
直後、眉がふわっと下がった。
「……甘い」
「苦手だった?」
「好きです」
思ったよりはっきりした声だった。
「すごく、好きです」
それはよかった。
少し照れながら右を向くと、紗月はもう食べ終わっていた。
「どう?」
「おいしい」
なのに、どこか元気がない。
彼女の膝の上では、朝に見かけた小さいほうの弁当包みが、まだ結ばれたままになっていた。
「そっちは食べないの?」
「……あとで」
包みから覗く、淡い水色の蓋。
紗月が自分で使っている弁当箱は、もっと大きい、飾り気のないものだ。
そこで、ようやく気づいた。
「それ、もしかして僕の分?」
紗月の指が止まった。
「足りなかったら、と思って」
包みを解くと、中身はサンドイッチだった。
ハムとチーズ。それから、小さな苺のフルーツサンド。
私が好きなものばかりだ。
「朝、鞄を持とうとしたのも?」
「お弁当、忘れてたらいいなって……少しだけ」
最後は、ほとんど聞こえない声だった。
ああ、やってしまった。
隣で待ってくれていた子を放って、新しい友達にばかり浮かれていた。
「ありがとう。食べてもいい?」
「無理しなくていい」
「フルーツサンドは別腹」
ひとつ取って頬張る。
苺は少し酸っぱくて、クリームは控えめに甘かった。
「おいしい。これ、朝から作ったの?」
紗月が頷く。
「……形、あんまりきれいじゃないけど」
「そんなことないよ。嬉しい」
彼女の耳が赤くなった。
私は、つい笑ってしまった。
「紗月が彼女だったら、毎日幸せだろうなあ」
教室のざわめきは続いていた。
私たちの机だけが、静かになった。
紗月は動かない。
白瀬さんは卵焼きを飲み込んだ姿勢のまま、こちらを見ている。
前世なら、よくある冗談だった。
友達が泊まりに来て朝食を作ってくれたとき。面倒な手続きを助けてくれたとき。
ありがたい気持ちが大きくなって、少し大げさに褒める。相手も笑って、それで終わる。
でも、紗月は笑わなかった。
「……本当に?」
彼女の指が、私の袖をつまんだ。
さっきよりずっと弱い力なのに、動けなかった。
「冗談でも、そういうこと言われると」
紗月は一度目を伏せた。
もう一度顔を上げたときには、頬まで赤くなっていた。
「私、期待するよ」
心臓が、一つ大きく鳴った。
見慣れた顔だった。
何度も一緒にご飯を食べて、眠くなるまでゲームをした相手。
それなのに、袖をつまむ指が細いことも、こんなふうに目を逸らさず見てくることも、今、初めて知った気がした。
「あ……」
うまい返事が見つからなかった。
からかわれたわけではない。それだけは、わかった。
前世で好きな人と話したときにも、こんなふうに、急に言葉が出なくなることがあった。
でも、今、目の前にいるのは女の子だ。
そのことを確かめても、紗月の手を離したいとは思わなかった。
左側で、白瀬さんがそっとスマホを伏せた。
「朝倉くん」
「は、はい」
「明日も、一緒にお昼、食べませんか」
彼女は赤い顔で、けれどきちんと私を見ていた。
「ヘアピンの写真、まだあるので」
紗月の指に、少しだけ力がこもった。
「……私もいるから」
「橘さんにも、見てもらえたら嬉しいです」
白瀬さんが微笑んだ。
さっきまで私と目が合うたびに慌てていた子とは、少し違う顔だった。
向かいの四人は、いつの間にか黙々と弁当を食べている。
一人と目が合った。彼女はそっと親指を立てた。
違う。そういう応援を頼んだわけではない。
「湊、返事」
「朝倉くん、明日は駄目ですか?」
右からも左からも、名前を呼ばれる。
紗月に何と答えるかも決まらないうちに、白瀬さんが少し不安そうな顔になった。
「明日も……食べよう。三人で」
どうにか答えると、二人はお互いを見てから頷いた。
私は残りのサンドイッチを口に運んだ。
今度は、味がよくわからなかった。