MCU世界で『ただいま』を言えない怪物 作:お砂糖さらさら
ヘルズ・キッチンに降りしきる雨は、ストリートにぶちまけられた罪を洗い流すふりをして、その実、泥水となって路地に溜めるだけだ。
路地の奥から漂う油と錆と古いゴミの匂いが、空気に重く沈んでいる。
マット…今はデアデビルは屋上の縁に座り、両脚をぶら下げたまま、街全体を「聞いて」いた。
彼の類まれなる超感覚、レーダーセンスはいつものように街を三次元の網目として捉えていた。人々の心拍、息づかい、足音、壁の向こうで眠る子どもの寝息。
それらが重なり合い、この地獄のような場所を、それでも人の生活圏だと証明している。
その中に、特異点とでもいうべき異物があった。西の方、古いレンガ造りのアパート群の少し手前。
心拍は、ある。だが明らかに「人間ではない」ものだった。
規則正しすぎるのだ。
くわえて血管の中を流れるものが、血というより何か別の、熱を持った流体のように感じられる。骨の構造があるべき姿から微妙にずれていて、内臓の位置も筋肉のつき方も常人のそれとは微妙に違う。
外見は人間の姿をしているが彼女の皮膚の下で蠢く生体組織の、粘り気のある不快な摩擦音の不快な蠢きがあった。
――あれは化け物だ。
彼は唇を引き結んだ。
何度もそう自分に言い聞かせてきた。
実際に接触して確信を得ている。
人間を喰らい、記憶も細胞も、声の抑揚も、呼吸の間合いさえも盗んで、この街に紛れ込んでいる存在。
機械さえも体内に取り込んで再編成する、そんな生物が擬態元の母親のいる家の近くをうろつくなど、許されるはずがない。
なのに…今夜は、少し違った。
異物の心拍が、ふと、揺らいだ。メトロノームのように規則正しい機械的なリズムが、一瞬だけ乱れる。
次の瞬間、それは限りなく「人間の」心拍に近づいていた。
弱々しく、少し不安定で、疲れを帯びた、二十歳前後の女性の心音。
息を吸うたびに微かに震える肋骨の感触。
肩の力の抜き方。
歩くときのごくわずかな重心の偏り。
その特徴を彼は知っていた。
エリン・マクカシー。
その名前を知っていた。
母親が深夜までダイナーで働き、帰ってきてもほとんど言葉を交わさない、冷え切った日常を送っていた娘。
自分の非力さゆえに雨の夜に廃ビルで命を落としたはずの、普通の人間。
なのに今、その「彼女の普通」が、化け物の内側で再生されている。
心拍がまた、少しだけ人間から遠ざかる。
擬態の精度を、意図的に下げたのだ。
マットにはわかった。
あいつは、自分の「人間らしさ」を、必要に応じて調整している。
高くしたり、低くしたり。母親の近くでは精密に合わせ、一人きりのときは、少し力を抜いて、怪物としての本体を優先する。
頭が痛んだ。
「――頼むから」
声にならない言葉が、喉の奥で潰れて消える。
「どちらかにしてくれ」
完全な化け物なら話は簡単だった。
何としてでも排除する。この街に存在させない。
それだけでよかった。
完全な人間なら、守る対象になる。傷ついた少女として、あるいは少なくとも「まだ救える可能性のある存在」として、扱える。
だが、この中途半端さは、残酷だった。時折、限りなくエリンに近い心音になるたび、マットの感覚は混乱する。
「今のお前は、ほとんど彼女だ」
なのに、奥底には、人間を喰った獣の気配が、薄く、しかし確かに残っている。
擬態の精度を上げたり下げたりするたびに、心拍が揺れる。人間に近づいては離れ、離れてはまた近づく。
まるで、自分自身が何であるかを、まだ決めかねているかのように。
紅い悪魔は両手で顔を覆った。カトリックとして育てられた彼にとって、これは救いようのない問題だった。
彼女の魂はどこにあるのか。
喰われたエリンの魂は、もう消滅したのか?
それともこの化け物の中に、かけらとして残っているのか?
バケモノが、魂の真似事をしているのではない。
エリンの魂が……あの殻の中で、まだ生きて泣いているのだとしたら。
カトリックにおいて、魂は不可侵だ。
もしあの怪物を殺せば、その内側に囚われたエリン・マクカシーの魂ごと暗黒の虚無へ葬り去ることになる。
それは「救済」ではない。
ただの、取り返しのつかない殺人だ。
しかし、彼女が怪物には違いなかった。
もし残っているなら、それを殺すことは、二重の罪になるのではないか。
もし残っていないなら、このエリンに近い心音は、ただの模倣に過ぎないのか。
答えは出ない。
街の守護者として、彼は監視を続けなければならない。
エリンの母親を見守り、これ以上の犠牲を出さないために。
だが、完全に敵対することも、味方することもできない。
遠くで、異物の心拍が、また少しだけ人間に近づいた。マットはゆっくりと息を吐き、屋上から立ち上がった。
「――まだ、判断できない」
独り言のように呟いて、彼は闇の中へ消えた。
レーダーセンスの網は、依然としてその存在を捉え続けている。
擬態精度を上げたり下げたりしながら、人間と怪物を行き来するあの「ほとんど人間」の化け物を。
今夜も、ヘルズ・キッチンの悪魔は、頭を抱えたまま、監視をやめられなかった。