MCU世界で『ただいま』を言えない怪物 作:お砂糖さらさら
静まり返った北関東の廃工場跡。冷たい雨が、ファイズとなったエリンの身体を叩いていた。
眼前に立つのは、クワガタ種の怪人――ゴ・ガドル・バ。
彼が放つ、戦慄を覚えるほどの静かな殺気が、エリンの生存マージンをガリガリと削り落としていく。
彼女は確信していた、勝てない。
システムとしての上限と、蓄積した生体疲労。
今の彼女では、この怪物の命には届かない。
それでも
……それでも、解を弾き出さなければ、私はあの家に帰れない!
私は血を吐くような思いで右腕を掲げ、ファイズアクセルのスタータースイッチを強引に押し込んだ。肉体の疲弊と暴発を起こすリスクを無視した、生存本のために道筋を切り開こうとした。
『START UP――』
機械音声が響き、世界が静止しかけた、その刹那だった。
バ、ギ、チチチチッ!!!
主観時間が引き延ばされるより速く、私の腕のファイズアクセルから、鮮血のようなフォトンブラッドが異常放電となって爆発的に噴き出した。
システムのエラー。
連日の過負荷に、私のフォトンブラッド生成系が限界を迎えて暴発したのだ。
「ガ、はっ……あぁああああっ!?」
凄まじいバックファイアが体内の神経ネットワークを焼き焦がし、私は変身した姿のまま、たまらずその場に膝をついて激しく吐血した。
視界に明滅し目から鼻からドロリとした黒い血が泥水へと溢れ落ちる。
世界は静止しなかった。
通常の時間の流れのなかで、私は死にかけていた。
「その程度か、リントの模造品。クウガに比べれば骨があると思ってはいたが自滅とは戦士としては論外、そのザマで我らのゲゲルを汚していたとは片腹痛い」
カブトムシの特徴を持つ怪人は一歩も動いていなかった。ただ冷酷な複眼で、自滅した私を見下ろしながら何かを言っている。
座り込んだまま私は震える手で、腰にマウントしていたファイズショットを速度よりも確実性を持って右手に装填する。
そのまま時間をかけてチャージしていく。
だがこれは囮、ファイズショットのナックルの死角に隠すように本命のファイズエッジの柄を生成する。
「ゾググス、ボンララギブバ。ダダバグバ」
見上げると何を象徴しているのかわからないが目が緑色に変わる、そして胸元のアクセサリーを手にして質量を無視したように巨大がボウガンを作りだす。
猶予はない!
ボウガンの発射とともに転がるように距離を詰めた。
背後で凄まじい爆発が起きたのを肌で感じるがそれを無視する。
フォトンブラッドを限界まで収束させたファイズショットを握りしめ襲いかかる。
だが瞬時に瞳の色がオレンジに変わり上段蹴りによって蹴り飛ばされる。
砕けたファイズショットとその暴発によって右手がぐちゃぐちゃになるが別にいい。
左手で零れ落ちたファイズエッジを起動、これをベルトに叩き込んで決着をつけるしかない!!
超高熱の光子刃。
下級怪人なら触れるだけで炭化させる、私に残された最後の兵器。
まだ距離がある。
先ほどの右手を砕いた上段蹴りの「返し」の蹴りを頭を下げて回避する。
次のきた蹴り上げも半身になって回避
「その状態でよく動く!」
最後の最後、ガドルは避ける仕草すら見せなかった。
ガシィィィンッ!!!
あってはならないことが起きた。
彼は、素手のまま、必殺のファイズエッジの刃を正面からガシッと掴み取ったのだ。ファイズエッジから放たれる熱量が彼の掌を焼くが、盛り上がる肉組織の再生速度がそれを完全に無効化している。
「デバイスという玩具の手続きに頼るから、動きが鈍いのだ。……その現代の光、確かに我がゲゲルの糧として引き受けたぞ」
ガドルは圧倒的な怪力で、私の左腕をへし折りファイズエッジ奪い取った。
そして、眩く輝くそのフォトンブラッドの光、流体光子の刃を――あろうことか、自らの腹部にあるベルトへと、一切の躊躇なく直接突き立てた。
「――っ!?」
バチバチバチバチッ!!!
ガドルのゲブロンが、吸い込んだフォトンブラッドの超大出力を受けて狂ったように明滅を開始する。過負荷による自爆ではない。
彼の強靭な生体システムが、ファイズエッジを瞬時にハッキングし、フォトンブラッドを生み出す系を体内で直接構築・循環させ始めたのだ。
ガドルの衣服の隙間、そして皮膚の随所から、ファイズと同じ禍々しい深紅のフォトンブラッドの発光ラインが、生き物の血管のように脈打って急激に走り出す
「お前の光を得た破壊のカリスマの力を見よ!!」
咆哮一閃。
出力を爆発的に引き上げたガドルが、動けない私の胸部へと、容赦のない前蹴りを叩き込んだ。
ドゴォォォォンッ!!!
衝撃波が廃工場を吹き飛ばす。
ファイズが常時生み出しているバリアもその下のライダースーツの防御性能も容赦なく破れの硬質装甲がガラスのように粉々に砕け散る、システムとしての機能を急速に失っていった。
私は何十メートルも後方へと無様に吹き飛び、コンクリートの壁を何枚も突き破って、自由落下していく。
そのさなかに衝撃と体が挟まれるのを感じる、死に体の私の身体を冷たい北関東の雨が濡らす。
意識がブラックアウトする寸前、凄まじいタイヤの制動音と、私を追ってきた一条刑事のパトカーが泥水を跳ね上げて滑り込んでくるのが見えた。
「マクカシー――ッ!!!」
一条の悲鳴のような叫び声を遠くに聴きながら、私の意識は完全に深い闇へと沈んでいった。
◆ ◆ ◆
東京・文京区、関東医大病院の地下1階。
一般の立ち入りが厳重に制限された隔離病棟の一室には、ただ無機質なバイタルモニターの電子音と、急速に冷え切っていく雨の匂いだけが立ち込めていた。
ベッドの上に横たえられているのは、ボロ雑巾のように破壊されたエリン・マクカシーの身体だ。
ゴ・ガドル・バフォトンブラッドを纏った襲撃の直撃により、肋骨はことごとく粉砕され、内臓は破裂寸前まで圧迫されている。
ガドルに強引にへし折られた左腕の骨は、皮膚の内側で無惨な角度に折れ曲がっていた。
何より、ファイズアクセルの暴発による激しいバックファイアが、彼女の網膜と鼻腔の毛細血管を内側から焼き焦がし、白いシーツには未だドロリとした黒い血が点々と滲み続けている。
「……マクカシー」
パイプ椅子に腰掛けた一条薫は、両手を固く握り締めたまま、微動だにしない少女の顔を見つめていた。
彼のトレードマークであるトレンチコートには、クワガタムシ型の飛行物体からエリンを引き受けた際の煤と血痕が、黒々と染み付いている。
生身の人間なら、即死していてもおかしくない質量の暴力。
一条の脳裏には遠目からでも見えた現代の光を体から漂わせるカブトムシ男の、あの底知れない悪魔的な佇まいが焼き付いて離れなかった。
(俺たちが……警察の無力さが彼女をここまで追い詰めたのではないか)
激しい自責の念が、実直な刑事の胸を抉る。
最新のテクノロジーを扱う超法規的組織のエージェントとはいえ、まだ18歳の少女を最前線に立たせ、自分たちはその後ろで助力することしかできない。
そのふがいなさが、一条の奥歯をギリリと鳴らした。
カチャ、と静かにドアが開き、白衣を纏った椿秀一が入ってきた。
その手に握られているのは、数本の無機質な高カロリー栄養点滴のパックだけだ。
メスも、除細動器も、外科手術の道具一式すら、そこにはない。
「一条……彼女の言う通りだったよ。アメリカの組織から回ってきた機密指示書にも、全く同じ記述があった」
椿は沈痛な面持ちのまま、エリンの細い腕に点滴の針を静かに刺し通した。
普通の人間なら、即座に緊急開胸手術を行い、人工心肺を回さなければならない容態だ。
医師としての本能が、今すぐオペを始めろと脳内で叫んでいる。しかし、事前に共有されていた「エリン・マクカシー特別分析官の機密プロトコル」は、それを厳格に禁止していた。
「『いかなる重症であっても、外科的な介入を一切禁ずる。高濃度の糖分とアミノ酸を点滴ラインから絶え間なく投与し、細胞の自律修復を待て』
……これが、彼女の生態規則(ルール)だ」
椿が点滴のバルブを開いた、その瞬間だった。
ゴボ、ドク、ドクドクッ……!
チューブを伝って栄養液が彼女の血管へと流れ込んだ直後、ベッドの上の肉体が、にわかには信じ難い怪異を呈し始めた。
折れ曲がっていた左腕の皮膚の下で、何十匹もの蟲が蠢くように肉組織が異常な速度で波打ち、パキパキと音を立てて骨格が自ら元の位置へと組み替わっていく。
焼き焦がされていた胸部の皮膚からは、周囲の空気の水分を一瞬で蒸発させるほどの白い水蒸気が立ち上り、ドロドロとした黒い生体組織がうねるように増殖して、破れかけた傷口を内側から塞いでいく。
「……信じられん」
椿は手すりを掴む指を白くさせながら、バイタルモニターの数値を凝視した。急速に上昇していく心拍数、そして人間ではあり得ないレベルの超高熱を叩き出す体温。
「外見は、あんなに華奢でどこにでもいる少女そのものなのに。
その内側にあるシステムは、あれだけの重傷を栄養さえあれば即座に修復して形を取り戻そうとする、あのグロンギと同等以上の化物だ。
これが最新のテクノロジーの成果物だというなら
……一条、俺は医者として、目の前にいるのが本当に守るべき生命なのか、それとも、いっそすべての罪をかぶってでも殺すべき怪物なのか、分からなくなってくるよ」
「……彼女は、人間だ」
一条は低く、しかし断定するように言葉を返した。
「確かに彼女の正体は、俺たちの理解を超えた化物の類かもしれない。
だが、彼女はもう何日もずっと身を粉にして戦ってくれたじゃないか。
彼女は半端じゃない、上司にだって嘘をついてサンプルを残してくれた……バケモノが、そんな非効率な足掻きをするものか」
一条は立ち上がり、静かにベッドの傍らへ歩み寄った。
修復を続けるエリンの顔は、苦痛のせいか、それとも脳裏に沈殿する消えない呪いのせいか、微かに歪んでいる。
「彼女がどういう境遇なのかはわからない
だがこんな身体でもエリン・マクカシーとして、母親の生活を守るために、家に帰るために足掻いて戦っている。
俺たちは大人として、警察として、医師としてそれを守る。彼女を家に帰してやる
俺たちの譲ってはいけない立ち位置はそこだ、それだけだ」
その時、静まり返った病室のテーブルの上で、S.H.I.E.L.D.仕様の専用端末が無機質なバイブレーションを震わせた。
画面に浮かび上がったのは、発信元不明の暗号コード。
ニック・フューリー。
この地獄のチェスゲームの盤面を、海の向こうから冷酷に見つめている、眼帯の管理官からのアプローチだった。
点滴のチューブから流れ込む高カロリー液が、私の体内で爆発的な細胞分裂の燃料へと変換されていく。骨が軋み、肉が蠢き、内臓の破片が自律的に融解して再縫合されていく泥のような感覚。
意識が現実の位階へと浮上した瞬間、私の網膜の端で専用端末のホログラムが静かに、しかし有無を言わさぬ質量で点灯した。
「一条刑事……カメラの、回線を……」
「分かっている。既に遮断した」
傍らにいた一条刑事が、私の掠れた声を拾って即座に動き、病室のセキュリティ回線をハッキングして隔離空間を作る。
青白い光の中に浮かび上がったのは、仕立ての良い漆黒のロングコートに身を包んだ男――ニック・フューリーの、不機嫌そのものの片目だった。
『大層な怪我だな、マクカシー。お前がそこまでされるとは余程の事態が起きたらしい……何が起きた』
「ねぎらいの一つでもあってほしいのですが、長官殿」
私は椿医師が差し替えてくれた新しい点滴のボトルを見上げながら、エリンの冷徹な声色を正確にトレースして言葉を紡いだ。
「私が2体のグロンギを駆除した後に現れた――カブトムシ種の怪人(ゴ・ガドル・バ)と接触しました。
奴はこれまでのグロンギは格が違う。私のコンディションが最低値だったのを差し引いても理外の怪物です。
信じがたいことに小さなアクセサリーをボウガンに変えました。
かつて彼らグロンギと戦った古代の戦士クウガは物質を別の物質へと原子・分子レベルで組み替えて肉体を戦士として作り変え、武器を生成していました。
クウガがグロンギの模倣であるならば連中も同系統の能力を持っていてもおかしくありません。
思えば私が最初に遺跡で遭遇した白い少年は人間をその原理でプラズマ化させたのかもしれません。
話は戻りますが奴は私が繰り出したファイズエッジの超光子刃を素手で掴み取り、あろうことか自らの腹部にあるベルトの中枢へと突き立てました」
フューリーの唯一の目が、画面越しにわずかに細められる。
「過負荷による自爆ではない。奴の生体システムは、ファイズのエネルギーの『系』をその場でハッキングし、体内で直接構築・循環させ始めた。
……現在、あのクワガタは通常のファイズでは太刀打ちできない基礎能力に武器を生み出す能力、ファイズの超火力を接ぎ木した生体フォトンブラッド循環系を完成させている。
今の私では手に負えない存在になってきている。
しかもあれでティアトップ個体ではない」
『……敵を強化させたというわけか。国際安全保障理事会がこの報告を聞けば、今すぐお前を危険な「感染源」として解剖室(ラットハウス)へ連行しろと叫ぶだろうな』
フューリーの声が一段と低くなる。彼は懐から、ニューヨークのダイナーの隠し撮り映像が流れる別端末を弄り、ホログラムの端に冷酷に表示させてみせた。
『お前の行動規範がその「母親の日常」という極めてミクロな天秤の上に成り立っているのは知っている。だがな、お嬢さん。私の指一つ、命令一つで、その安全圏(インフラ)をいつでも消去できることを忘れるな。首輪を握っているのは私だ』
脅迫。国家規模のエゴによる、冷徹なチェックメイト。
一条刑事が背後で拳を固く握りしめる気配が伝わってくる。
だが、私に動揺はない、心音一つ乱さずに次の反撃の式を弾き出していた。
「人質はね、長官殿。……生きているからこそ機能するんですよ」
私は完璧なエリンの無表情のまま、フューリーの片目を真っ直ぐに見返した。
「私が今、エリン・マクカシーという人間の擬態にこだわって、あなたの言う「アベンジャーズの駒(ヒーロー)」の茶番に付き合っているのは、あの母親の存在という安全装置があるからに過ぎない。
もし彼女が死ねば、その瞬間に私の生存演算から人間としての倫理という変数がすべて消える。
私はただの、原初的な生存本能だけの獣に戻る」
私はベッドの上に上体を起こし、点滴の管を微かに揺らしながら、言葉を冷酷に流し込んだ。
「私には理解しがたいほどの地球防衛に情熱を燃やすあなたにとって、上手く使えば何千、何万、世界すら救えるこの生体兵器をわざわざ獣に戻して、あなたの守りたい世界を焼き尽くす災厄にしても良いのですか?」
ヒューリーの無表情な瞳が睨み返してくるのを受け止めて、私は続ける。
「……教えてほしい。
あなたの組織に、あのフォトンブラッドを纏った怪物の喉元を食い破れる二の槍は存在するんですか?あの白い少年を殺せるんですか?
それとも日本を爆撃しますか?
私が駆除したクモ型怪人は爆発の規模を見ても連中の中では雑魚だった……けれど、あの雑魚ですら、純粋な身体能力のスペックは私のこの通常ファイズと同等だった」
フューリーの眼帯のない片目が、かすかに細くなる。葉巻を灰皿に置く指先が、一瞬だけ止まった。
「……そして、奴らが死に際にベルトを暴走させる爆発の規模は、その個体の格に比例する。
一番の小物ではあの規模。カブトムシ型より弱いカマキリ女は大爆発を起こした、その頂点にいるあの白い少年」が致命傷を負った時、どれだけのエネルギーがこの街に、地球に解放されると思いますか?」
静寂が、病室の空気を凍りつかせる。
フューリーは答えなかった。
二の槍など、地球のどこを探しても存在しなかった。
『……ハッタリにしては、随分とロジックが通っているな、お嬢さん』
フューリーの口の端が、嘲笑とも感嘆ともつかない歪な形に動いた。
彼は手元のトランクをデスクに叩きつけるようにして開き、中から重厚な黒いケースを取り出した。小型粒子加速器そのものである、あの追加兵装だ。
『お前の匹敵する二の槍はいない、当然増援もない。
ならばお前が世界で唯一の「一の槍」だ。
最初にお前がクレーターを作ってでも大量に駆除した判断は正しかった。
その判断力を評価しリミッターを完全に削除したコイツをくれてやる。
「こちらに」サンプルは不要だ、肉片も残さず灰にしろ』
画面越しに提示されたのは、「ファイズブラスター」。
『同時に私の権限で、お前の母親の身柄をS.H.I.E.L.D.の最優先監視区域から、有事の際の極秘地下シェルターへの完全隔離・永久保護対象へと格上げしてやる。
……お前がどこで灰になろうが、あの母親だけは絶対に生き残らせる。
だからお前は、その借り物の衣装(ブラスター)で泥水をすすってでも白い怪物とクワガタを殺して世界を救ってみせろ』
「……ディールは成立ですね長官。でも実際問題、ブラスターを使っても相打ちにもっていけるか確約はできませんからね」
返事をまたずに通信は切断される。ホログラムが消灯し、病室に再び静寂が戻った。
肩をすくめようにもその力すらなかった。
ベッドの横には、一条刑事の要請によって既に極秘搬送されていた、あのバルブがついたトランクのような何か(ファイズブラスター)が鈍い金属光沢を放って佇んでいた。
「……これがあっても、勝てる相手とは限らないのが酷い」
私は新しく生えてきた右手の指先を動かし、ブラスターの取っ手に触れた。
フューリーは最大の譲歩をした。母親の生存は国家レベルで確定し、一条たちへの隠蔽工作の公認化への道も開かれた。
それを眺めていた椿さんが重々しい口調で声を出す
「体はもういいのか?」
「椿先生。
正直な所、全身の怠さが抜けません。でもかわりはいないし、増援もないらしいので私がやるしかないのが現実です。
もちろん、多くの方が心を砕いて協力してくださるから戦えているのは理解しています」
その横にいた一条刑事もまた、張り詰めた顔を僅かに和らげ、しかし刑事の鋭い目で私に語りかけてくる。
「向こうからグロンギのサンプルは不要だと正式に通達があった。
代わりに遺跡の再調査や棺の碑文の解析、オーパーツを使えるようにしろと強烈な横槍が入っている。
……君の敗北が、よほどあの男の危機感を煽ったらしいな」
「私が死んだら、東京に核ミサイルでも撃ってきそうな慌てぶりみたいですね」
皮肉を口にする私を、一条は咎めることもなく真っ直ぐに見つめ返した。そして、ふと、捜査官としての仮面を剥ぎ取ったような、一人の人間としての静かな声を病室に落とした。
「マクカシー、君の正体については訊かない。だが一つだけ教えてほしい。君は幸せのイメージを持っているか?
人間が必ず持っているわけじゃないが、そのヴィジョンを持っているかどうかは、生き方に大きく影響を与える。……戦うための、あるいは君が君でいるための、幸せのイメージだ」
「ありますよ」
私は即答した。
ただ静かに眼を閉じて、捕食したエリン・マクカシーの記憶の最深部を再生する。
夕暮れの窓から見える赤錆びた非常階段。
古い換気扇の回るダイナー。
リビングの暗い蛍光灯の下で、お互いに思い合っているけれど感情を言葉にできない、会話のない、冷え切った日常。
他人から見れば寂しい家庭の風景かもしれない。
だが、あのバケモノを消し去って、あの家のドアを開けて「ただいま」と告げるあの瞬間こそが、私にとっての帰るべき唯一の光であり、完璧な幸せのイメージだった。
「それがあれば君は人間でいられる。見失わないようにな」
一条の手が、そっと私の黒髪のボブに触れ、その頭を優しく撫でた。
生体兵器としての私の肌が、その人間の掌の不器用な温もりに対して、生理的な不快さと、奇妙な心地よさを同時に検出する。
「……子供扱いしないでください」
軽くその手を払いのけ、私はベッドサイドに用意されていた冷え切ったコーラを掴み、一気に喉へと流し込んだ。
キンと内側がいつもの冷える感触。エリンの日常。
私が人間でいられる安全装置。それは、ニューヨークにも、そしてこの泥臭い東京の病室にも、確かに存在していた。
一方、地上の外の闇からは、光学迷彩を纏ったS.H.I.E.L.D.の護衛部隊――そして、それを嘲笑うように近づいてくる、薔薇のタトゥーの女(バルバ)の不穏な風の匂いが、すぐそこまで迫っていた
◆ ◆ ◆
ザァァァァ――――……。
深夜の文京区。降りしきる冷たい雨が、マンハッタンのそれと同じようにアスファルトを白く煙らせ、都会のあらゆる罪を覆い隠すように叩きつけていた。
一条刑事に肩を貸してもらい、リミッターを完全に削除された無骨な黒いトランク――ファイズブラスターを、新しく生えてきたばかりの重い右腕で固く握り締めながら、私は関東医大病院の地下通用口から一階へと足を踏み出した。
その瞬間、私の生体センサーが、周囲の空間に広がる異様な「空気の密度の歪み」を感知した。
雨音のノイズに混じって、路地裏の闇の中に潜む十数人の心音が聞こえる。
それはフューリーが私の周囲に厳重に配置していた、光学迷彩を纏うS.H.I.E.L.D.の隠密戦術部隊だった。
普段なら彼らの気配は完全に消えているはずだったが、今、その十数人の心拍数が、恐怖によって狂ったように跳ね上がっているのが共感覚を通して伝わってくる。
「――ターゲット捕捉! 未確認生命体! 射撃開始!」
闇を裂く叫び声と同時に、ハイテク消音小銃から無数の特殊徹甲弾が放たれた。
光学迷彩によって姿を消した戦闘員たちが、訓練通りの完璧な包囲陣形で薔薇のタトゥーの女をロックし、蜂の巣にせんと火線を集中させる。空間を無数の弾道がチェス盤の目のように埋め尽くした。
だが、バルバはただ、優雅に路地を歩くだけだった。
彼女がその白く細い指先で、軽く空を払った、その刹那。
ド、プゥゥゥゥンッ!!!
大気そのものが質量兵器と化して爆発した。熱波も音もない。ただ圧倒的な高圧の気流と真空の衝撃波が、扇状に路地裏の空間を丸ごと薙ぎ払ったのだ。
バリバリバリッ! と激しい電子ノイズを立てて光学迷彩のホログラムが引き裂かれ
姿を現した戦闘員たちの身体が、最先端の炭素繊維防護服ごと、文字通りただの薄い紙切れのように物理的にミンチになって赤煉瓦の壁へと叩きつけられた。
ハイテク兵器の銃弾は彼女の皮膚に届く前に風圧でねじ切られ、路地裏には肉組織と内臓が激しく破裂する生々しい音だけが雨音に混ざって響いた。
一瞬。
世界の守護者を自負するS.H.I.E.L.D.の武力が、ゲゲルのルールを無視した管理者の「ただの一撫で」の前に、なす術なく凄惨な血の海へと変えられた。
「……リントも変わったな。だがこれ以上、我らの神聖なゲゲルに不快なノイズを混ぜるな」
死体から吹き出す血液がバルバの周囲に見えない壁が存在するかのようにはりつく。
その赤い壁や飛び散った血の泡沫を気に留めることもなく、ヒールの音をカツン、カツンと響かせて、私へとまっすぐに近づいてきた。
ドンッ、と私の前に一条刑事が即座に立ち塞がり、警察用拳銃S&W M360 “サクラ”を構える。彼の指先はグロンギの上澄みの力を前にして震えていたが、その両足は、私の盾として一歩も引いていなかった。
「退いてください、一条刑事。……彼女の目的は、あなたじゃない」
私は一条の背中を優しく押し退け、ボロ雑巾から長年使ったタオルくらいにまで回復した身体を気合で従わせ、ファイズブラスターを静かに構えた。
バルバの冷酷で美しい瞳が、私の手元にあるリミッターの消えた黒いトランクを一瞥し、フッと艶やかに微笑む。
「お前という獣が、ガドルに我らの知らぬ現代の光(フォトンブラッド)を捧げ、破壊のカリスマへと進化させた。」
バルバは薔薇の甘い香りを冷たい雨の中に漂わせながら、静かに、しかし冷酷な事実として告げた。
「リントの模造品よ、明日の夜、臨海エリアの東京第4火力発電所へ来い。
……あそこの城にある力をガドルがすべてを喰らい、究極のゲゲルを完成させる舞台を用意して待っている」
「ガドルさんも死ぬときは大爆発するんですよね、周囲に被害をださない場所で正々堂々命を懸けて戦いましょうよ」
私は完璧に模倣されたエリン・マクカシーの無表情のまま、冷たく言い返した。
「言うだけは言っておいてやる」
バルバは鈴を転がすように妖しく笑うと、そのまま夜の霧と風に融けるように、路地裏の闇の中へと消え去っていった。
後に残されたのは、降りしきる冷たい雨と、凄惨な血の海。
全滅したS.H.I.E.L.D.護衛部隊に生存者はゼロ、赤色警告灯を狂ったように点滅させる私の専用端末の電子音だけだった。
「マクカシー……大丈夫か」
「ええ…なんとかしますよ。なんとか」
私は壊れた身体の奥で脈打つ、あの冷え切った日常(幸せのイメージ)を楔のように深く打ち込み、東京の臨海に聳え立つ鉄の要塞を見据えた。
明日の夜、ガドルとの死闘が始まる。
バルバはこれくらい強くてもよいとする。