MCU世界で『ただいま』を言えない怪物 作:お砂糖さらさら
人食い二人、人間二人の約束(2012年)
虚飾の承認、二人の約束(2011~2012年)
サブルーチン555:虚飾の承認(2011年)
スターク・タワーの最上階、ガラス張りの実験室は、深夜のマンハッタンを眼下に沈めていた。窓の外では、街の灯りが冷たい川面に揺れている。
私はその光を、赤い虹彩の端で捉えながら、椅子に深く腰を下ろしていた。
表向きの肩書きは「スターク・インダストリーズ製実験的ナノアーマー Ver.2.0の適合者」。S.H.I.E.L.D.が用意した偽の履歴書と、中身がスカスカなファイズのベルトとファイズフォンを腰に固定している。
擬態は完璧だ。瞬きの回数、呼吸の間隔、肩の力の抜き方――すべてがエリン・マクカシーのそれと寸分違わない。母親のダイナーから、ここまで物理的な距離がある。
それでも胸の奥で、あの換気扇の低い唸りが時折響く。
生存計算を黒字で維持するために、私はまた一つ、新しい大人の嘘を受け入れなければならなかった。
ドアが開いた。
トニー・スタークが入ってくる。
黒いシャツにロールアップした袖、指先に薄い油の匂い。彼は私を一瞥しただけで、既に頭の中のシートで何か計算を始めているようだった。
「黒髪ボブに赤い目か。報告書通りだな」
軽口のようで、声の奥には冷徹な実務の温度しかなかった。彼はS.H.I.E.L.D.の技術・作戦アドバイザーだ。
ヘルズ・キッチンの組織戦から、九郎ヶ岳のクレーター、東京での大規模なグロンギ殲滅、そしてあの白い少年との最終決戦まで――私の戦闘ログのほぼ全てに、彼は既に極秘裏にアクセスしていたはずだ。
表向きの「スターク製」という建前を、誰がどのような政治的ディールで決めたかも、この男は知っている。
「ああ、まずは肩からフォンを生やしたあの姿になってくれ。J.A.R.V.I.S.、スキャンを開始しろ」
「了解しました、ミスター・スターク」
私は平坦な声で答えた。エリンの声色を、正確にトレースして。
ホログラムが立ち上がる。J.A.R.V.I.S.の落ち着いた声が、静まり返った実験室に満ちた。 ヴンッ、と一瞬だけ姿をブレさせ、私は体内の細胞を解放する。
衣服を喰らい、肉を変態させて生み出された漆黒のライダースーツ。
女性らしい華奢なしなやかさは輪郭に微かに残るのみで、その上から全身を覆うのは、骨殻を連想させる鋭利で重厚な灰色の硬質装甲。
装甲の随所、そして太腿から前腕にかけて、鮮血を思わせる鮮やかなフォトンブラッドの真紅の発光ラインが流血のように走る。
翼を広げたような黄金の複眼。そして、両肩を前後からサンドイッチにした一対の巨大なフォン型ユニットが特徴的な形状を形作り、最大出力形態――アーマーファイズが実験室に完成した。
『スキャン完了。対象の骨格は超高密度チタン・カーボンマトリクス骨殻相当へと再構築を確認。
骨の内部は、ハニカム(蜂の巣)状の極小の生体衝撃吸収ダンパーで満たされています。
筋肉組織は血管の代わりに「赤い流体光子の微細ライン」が網の目のように這い回る、一種の「生体超伝導アクチュエータ(人工筋肉)」に変貌しています。
全身の神経線維は、フォトンブラッドの光そのものを伝達物質とする「流体光子神経(有機光ファイバー)」と化しているようです。
エネルギー源――バッテリー、アーク・リアクター相当――が一切検知できません。生体組織の異常増殖パルスを確認。出力波形は既知のナノテクノロジーと完全に逸脱しています』
トニーはホログラムを指で回転させ、数値を短く確認しただけだった。
驚きの色は薄い。既知のデータの再確認に過ぎない、という態度だ。
「……やっぱりバッテリーなしだ。報告書の通り、生体組織そのものがスーツになってる。エネルギー源が検知できないのは、単純に動力が無いからじゃない。
フォトンブラッド自体を肉体側で生産してるからだな。体内の生成系が、直接エネルギーを吐き出してる」
彼は実験台に腰を下ろし、指でテーブルを軽く叩いた。リズムは不規則だ。
思考の整理をしている。
「問題はそこだけじゃない。あのガチャガチャした骨董品のような装備だ」
立ち上がったトニーが私に近寄り、私が腹部のベルトからミッションメモリーを引き抜いて足のファイズポインターに差し込む動作をマネする。
「ベルトにフォンをセットして、ポインターを足に装着して、メモリーを抜き差しする
……このナンセンスな物理構造の塊を、これからはアップデートによって省略可能になったということにして、世間と一般エージェントにスターク製の実験的ナノアーマーとして押し通す必要がある。
俺の社名を使う以上、お前が今までせっせと板状のスティックを抜き差ししてきた時代遅れのガジェットを、せめてVer.2.0のための試作モジュールか遠隔実体化前の中間形態くらいに説明しないと、技術的な整合性が取れないからな」
私は装甲の奥から、静かに頷いた。
「表向きのアップデートは、アベンジャーズ加入を機に『Ver.2.0』として処理する予定です。ミッションメモリーの物理装着はすべて思考同期とナノマシンによる瞬時実体化へ移行した、という建前です。エネルギー源についても、アーク・リアクター由来の出力として欺瞞します」
「建前としては悪くない。
だが、センサーログが生のまま流れれば、シールドの監査部門に一瞬でバレる。肉体側でフォトンブラッドを生産してる事実も、骨格の異常増滅も、全部『ナノマシンがアーク・リアクターのダミーログを同期して正常出力した』形に上書きしないと保たない。
……俺が設計してない異物のシステムをスターク製として扱うのは腹は立つが、君の戦闘記録を見る限り、いざ戦闘になれば最大効率で終わらせようと計算をするタイプだ。そこだけは悪くない」
彼は立ち上がり、メインコンソールへと歩み寄った。ホログラムのコードが高速で流れる。既に頭の中で、世界を騙すための設計図が完成していたようだ。
「完全自動はダメだ。重要なことは俺が見る。低〜中脅威の戦闘はJ.A.R.V.I.S.に自動でフィルタリングさせろ。
高脅威でログのバッファを超えたら、俺のアーマーのHUDに赤い警告を出せ。
俺が『承認』か『上書き』の二語で介入する。
最悪のケースはブラックボックスに隔離して、夜のワークショップで俺が手動で綺麗にする。
あのガチャガチャした装備の操作ログも、肉体側で生産されたフォトンブラッドの出力波形も、『ナノマシンがコード指令に従ってモジュールを実体化した』形に上書きする」
「了解しました。お手数をお掛けしますが、よろしくお願いします」
トニーはコードの最後に、短い文字列を打ち込んだ。
【サブルーチン:555】
「俺が死んでも、この数字だけは最優先で誤魔化せ、J.A.R.V.I.S.。
あの古いギアをスターク製品に見せかけるための、そして肉体側で生産されるフォトンブラッドをナノテク出力に偽装するための、専用サブルーチンだ」
『了解しました、サー。サブルーチン:555を最下層に常時稼働させます』
トニーは窓の外の夜景を見つめたまま、実務的な声で続けた。
「報告書で見た限り、君は独断専行が多い。戦場に一番乗りして、最小限の被害で終わらせる計算をする。それ自体は悪くない。
ただ、俺の名前とあのガチャガチャした装備を使う以上、ログは俺が管理する。それが条件だ。
……よし、今からサブルーチン555が実際に機能するか確かめるためにそのアーマーのまま外で少し遊んで来い。
適度に運動したら帰って来いよ」
「了解しました、ミスター・スターク」
外のパトロールルートへ繋がるハッチが開き、マンハッタンの冷たい夜風が肌を撫でた。 背中から紅い光の粒子を爆発的に噴射し、私は夜空へと跳躍する。
紅い流星が夜空に線を描いた。
胸の奥で、生存計算の数式が静かに、そして強固に更新されていく。
サブルーチン:555。
トニー・スタークという天才が、自ら組んだ隠蔽の鎖。これで、表向きは「スターク製ハイテク強化人間」として堂々と振る舞える。
少なくとも決定的な亀裂が入らない間は。
あのガチャガチャした装備も、肉体側で生産されるフォトンブラッドのエネルギーも、すべてスタークのナノテク出力として処理される。
お母さんのいる家に、まだ帰れる。
その冷たい計算の黒字化だけが、完璧な偽物となった今の私を、確かに支えていた。
◆ ◆ ◆
人食い二人、人間二人の約束(2012年)
スターク・タワー最上階のプライベートキッチンは、深夜になると妙に静かになる。
冷蔵庫の低い唸りと、遠くに聞こえる街のノイズだけが響いていた。
トニー・スタークは片肘をカウンターに預け、もう一方の手で冷え切ったコーラの缶を転がしていた。
向かい側にエリンは、黒いコートの襟を少しだけ立てたまま、直立している。
表情はほとんど動かない。赤い瞳だけが、蛍光灯の白い光を静かに反射していた。
トニーは缶を軽く振ってから、口を開いた。
「……で、聞きたいんだけどさ。君は『人間』って、どういう存在だと思ってる?」
エリンは一瞬だけ視線を落とした。それから、短く答える。
「普通でしょうか」
トニーは肩をすくめ、苦笑した。
「普通、ね。フツー。ティーンが大好きな言葉だよな。そんなふわっとしたのが出てくるようなら、好きとか嫌いとか憎いとか、はっきり言ってくれたほうが分かりやすいんだけど」
「私はもうすぐ20になります、子供ではありません」
彼女は一度わずかに首を傾げ、すぐに言葉を続けた。
珍しく、少しだけ饒舌だった。
「……圧倒的多数の人間は、人類全体に対してマクロな意味で好意を抱いたり、憎悪したりはしません。
ラブアンドピースを掲げて命を捨てられるような博愛主義者や、地獄を味わったからといって人類を滅ぼそうとするような狂人は、人間の例外個体です」
トニーは缶を置く音を立てて、小さく息を吐いた。
「なるほどね。人食いの怪物らしい、温めの冷たい方式ってやつか」
彼はわざとらしく肩をすくめてみせる。彼女が普段より多く喋っていることに、内心では少しだけ興味を抱いていた。
「人間として新入りの君に、人間として先輩である僕から言わせてもらうとね。
……君の言う『異常個体』とやらは、実は少なくない数がいるんだよ。むしろ普通の人間が、特別な何かに出会ったとき、ミクロな人間関係の感情をマクロに転用するなんて、ありふれた話さ。それが金だったり、スーパーパワーだったり、権力だったりする。凡人ほど、何かあったときに簡単に転ぶ」
エリンは揺れない瞳のまま、男を見据えた。
「……私は人間です」
トニーは一瞬、目を細めた。それから、ゆっくりと頷く。
「その通りだ。社会的にも、家庭的にも、シールドとしても、これから結成されるアベンジャーズとしても、君は人間として扱われる。
僕はさっき『人食いの怪物』って言ったけど、君が殺した人間の数は理屈をこねくり回して拡大解釈してもギリギリ20人かそこら。
アベンジャーズには、君より多く人を殺している奴がいる。
間接的に殺した数を含めれば、僕がキルスコアのトップかもしれない」
彼は冷蔵庫の方へ歩み寄り、扉を開けた。冷気がわずかに漏れる。
「俺や君が組むチームは犠牲を許容しない、バンバン仲間が死ぬヒーローチームとかナンセンスだからな。
僕自身も……まあ、そうありたいと思うよ。
とはいえ、絶対に避けられるものじゃない。
もし僕が億が一、自己犠牲的な行動で死のうとしても、君が怪物であることがバレるような方法でしか助けられないなら――見捨てていい」
トニーはコーラのボトルを二本取り出し、カップを二つ並べた。透明な液体が注がれる音が、静かに響く。
「僕は人を食う者として先輩だし、人間としても先輩だ。君は後輩として、守られる義務があるんだよ。約束だぞ」
エリンの顔をした怪物は、静かに頷いた。
トニーはカップを一つ彼女の前に押しやり、自分の分を手に取る。
金属とガラスが触れ合う、小さな音。
「じゃあ、人食い二人と、人間二人の約束の始まりに――乾杯だ」
「……わかりました」
彼女はカップを受け取り、短く息を吐いた。
キン、と乾いた音がキッチンに落ちた。
二人はどちらも笑わなかった。ただ、冷たい液体を喉に通す感触だけが、深夜の空気の中で共有されていた。