MCU世界で『ただいま』を言えない怪物 作:お砂糖さらさら
神の悪戯(トリック)とは、単一の成功経路に依存しない。
ロキ・オーディンソンが思い描いていた本来の解放の方程式において、クリント・バートンによる第3エンジンの爆破は最も美しく、最も手際のいい「主経路」となるはずだった。
矢が放たれ、鉄の巨躯が傾ぎ、パニックの毒素が内側から充填される。
バナーという名の最も脆い檻が壊れ、緑の怪物が吠え猛る。
そうなれば、ヘリキャリアという国家の威信は数分と保たずに自滅の数式を完成させていたはずだった。
だが、その冷徹な予定調和は、エリン・マクカシーという得体の知れない「バグ」によって引き裂かれ、台無しにされた。
爆弾矢は彼女の指先でただの無害な砂粒へと中和され、自爆用の熱量は彼女の皮膚の端切れに包まれてハドソン川へと投棄された。
第3エンジンは不快な重低音を響かせながらも正常駆動を維持し、バナーの理性もまた、彼女が残していった冷たいセーフティよって凪いだまま、檻の奥で眠り続けている。
メインプランは、確かに水際で圧殺された。
――しかし。
かつてエリンが言ったように世界がすでに「万が一」の領域へとハックされている以上、ありえないエラーはいくらでも連鎖して起きる。
ガトリング弾の濁流に押され、昏睡したバートンを甲板の死角へ放り投げながら、黒いコートの少女が虚空へ滑落していった、まさにその数分間。
ヘリキャリアの全センサー、およびアベンジャーズたちの視線は、不可避的に「下」へと釘付けにされた。
トニー・スタークはJ.A.R.V.I.S.の手動承認に追われ、ソーは同盟者の落下に息を呑み、スティーブ・ロジャースは甲板に遺されたバートンの身柄へと駆け寄る。
張り詰められた防衛網に生じた、瞬きほどの、しかし致命的な空白。
それこそが、ロキというリアリストが弾き出した、もう一つの勝機、プランBだった。
ヘリキャリアの最下層、ガラスの独房の内部は、地上の喧騒から切り離された冷たい静寂に満ちていた。
ロキは、薄暗いポリカーボネートの壁の向こうをじっと見つめている。
ブリッジで繰り広げられていた男たちの醜い口論の残響が、未だ防音壁の隙間から不快なノイズとなって微かに伝わってくる。
スタークの冷ややかな嘲笑も、ロジャースの生真面目な怒号も、彼にとってはただの「扱いやすい人間の愚かさ」でしかなかった。
あの黒髪の少女が大気ごと切り裂くような大音量で彼らを黙らせた時の、張り詰めた静寂。
(……フン。よく動く羽虫だ)
ロキは唇の端を歪め、声にならない鼻笑いを落とした。
バートンの急襲は失敗した。エンジンは健在だ。ハルクも目覚めない。
だがそれがどうした、人間の大人が「誰一人として犠牲を出さない」などという高リスクな理想論に縛られている限り、戦術的な主導権は常にこちらにある。
少女はバートンを生かすために、自ら盾となって落ちていった。
その非効率的な「情」の対価として、今、この要塞の全神経は地上へと向けられている。
ロキは静かに目を閉じ、自らの血に刻まれた氷の巨人の魔力を指先に這わせた。
彼が立っているガラスの檻の中。
そこには、相変わらず不敵な笑みを浮かべ佇んでいる「ロキの残像」が、完璧な質量感を持って固定されている。
監視モニターが捉え、ブリッジのオペレーターたちが凝視し続けているのは、彼が編み出した精巧な立体映像に過ぎない。
本物の彼は、すでに光の屈折を歪め、溶けるようにして檻のセンサーの死角へと移動を始めていた。
シールドのセキュリティ階層は、事前にバートンからすべてインプットしてある。
非常時における隔壁の解放プロトコルは、内側からの極めて微細なバイパス操作によって、容易にシステムエラーを誘発させることができた。
人間という生物は、外側からの嵐には敏感だが、内側から錆びていく鍵の音には驚くほどに無頓着だ。
カチャリ。
潜んでいた洗脳済みのシールド職員が、衣服の擦れる音すら立てずにコンソールへと指を滑らせる。
クリック一つ。
強化ガラスの隔壁が、音もなくスライドした。
ロキはその隙間から、滑るようにして檻の外へと這い出る。
足元の金属甲板は、未だ乱気流による微細な震動を伝えている。
通路の向こう、隔壁の影を縫うようにして、彼は歩を進めた。
途中で行き交う警備兵たちの視界を、陽炎のような幻術でわずかに凪がせる。
彼らの脳は目の前を通過した漆黒の影を「異常なし」の正常値としてオート処理し、そのまま何事もなかったかのようにすれ違っていった。
脱出のチェックポイントは、第2格納庫の非常用ハッチ
薄暗いハッチの向こう、雨の煙る高高度の虚空から、シールドの公式な識別網を『民間アセスメントの自動帰還ログ』として完全に欺瞞しながら、一機の滑らかな漆黒の機体が猛烈な速度でアプローチしてくるのが見えた。
民間企業が開発中の次世代型宇宙往還デモンストレーター。
当然、その自動操縦のレジストリを内側から書き換えたパイロットの脳は、ロキの呪いによって完璧にジャックされている。
「出迎えご苦労、凡愚ども」
ハッチが油圧音を立てて外側へとあけ放たれた瞬間、大気圏外の冷気を帯びたRLVがヘリキャリアのハッチと同調し、ロキはその影の中に溶けるようにして機内へと滑り込んで着艦した。
バチッとハッチが閉まり、気圧が安定していく機内。
ロキが席に腰を下ろしたその瞬間、彼の前に、もう一人のシールド職員が音もなく現れた。
その男の顔には一切の感情の起伏はなく、ただ命令を遂行するためだけのドローンのように、その両腕を恭しく差し出していた。
男の手のひらの上にあったのは、長い刃の間に、不気味で妖しい「青い光の泡沫」をじんわりと明滅させている、あの黄金のセプター、ロキの杖だった。
アベンジャーズの天才たちが、知性を総動員して実験卓の上でスキャンし、厳重に隔離したはずの宇宙の核心。
それは、彼らが甲板の少女の行方に気を取られているわずかな隙に、内側の駒によって何のリスクもなく盗み出され、主の手元へと還っていた。
「よくやった、我が兵隊たちよ」
ロキは細い指先で杖の柄を握り締め、その核から染み出してくる、血管をドクドクと焼くような莫大なエネルギーの脈動を確かめた。焦げ茶色の瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、あの黒髪の少女の「怪物の赤」に似た、貪欲な支配の光が明滅する。
パイロットがスロットルを引き上げ、エンジンが金属的な咆哮を上げた。
機体はヘリキャリアの巨大な影に潜り込むようにして急降下し、激しい雨を降らせる分厚い雲の層へとその身を隠した。
ヘリキャリアのブリッジ。
中央のメインモニターは、未だ「ガラスの檻の中に佇む、囚われた神の残像」を異常なしの正常値として映し出し続けている。
実験卓の上には、スキャン用のダミーログだけが冷たく明滅し、本物の価値はどこにも残されていない。
「ミッドガルドの凡愚たちよ。君たちは相変わらず、ゲームのルールを理解していない」
雲海を突き抜け、ニューヨークの方角へと滑るように加速していくクインジェットの機内で、ロキは低く、愉しげに笑い声を響かせた。
計画はあの少女の乱入によって僅かに修正を余儀なくされた。ハルクは目覚めず、エンジンも無事だ。だが、彼女がバートンを生かそうとして自ら墜ちてくれたおかげで、結果として杖は最も静かに、最も確実に私の手元へと戻ってきた。
このゲームは依然として完璧な黒字のままだ。
杖の先端、青く輝く結晶が次なる劇場の舞台――マンハッタンの空を指し示すように、妖しく、深く、拍動を続けている。
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ロキが自分を影のように変えて隙間を移動できないらしいときいて修正せざるを得なかったのが俺なんだよね