MCU世界で『ただいま』を言えない怪物 作:お砂糖さらさら
雨のマンハッタン。
いつものようにネカフェの個室で、スマートフォンの入金通知を眺めている。
画面に「対象排除確認」と出るたびに、指先がわずかに震える。
私は人を殺しているのだろうか、あるいは同胞を殺しているのだろうか。
そんな益体もない考えを頭を振って追い出す。
昨夜の戦闘で擬態精度を意識しすぎたせいで、体の動きがぎこちなくなった自覚がある。
雨音が窓を叩く。その音が、脳内の特定の記憶を強制的に呼び起こす。
『私』の自我に何本ものコードが刺さるように記憶が拘束してくる。
「……流入を避けられない」
彼女は目を閉じ、廃ビルの記憶に沈む。
結論から言えば、エリンはそれまで組織が用意した『音も電波も外に漏れない箱』の中で、淡々と実験体を処理していた。その環境に慣れ切った後の初めて本格的に外に出た夜が、彼女の最期になった
雨の滴る廃ビル。
夜。
オリジナルのエリン・マクカシーは、すでに致命傷を負って床に横たわっていた。
フォトンブラッドの赤い光が、破損したスーツの隙間から弱々しく漏れている。
呼吸は浅く、血泡が唇から溢れる。
ギアはほとんど機能を失い、ドライバーのランプも点滅を繰り返すだけ。
彼女は組織の適合体との戦闘で、深手を負った。
助けは来ない。
マッチポンプの組織は、データが取れれば用済みだ。
そこに、施設から脱走したばかりの「それ」が現れる。
まだ名前も自我も曖昧な、原初的な生存本能だけの存在。
フォトンブラッド実験体と同じ系統の獣。
雨に濡れた廃材の影から、ゆっくりと近づく。
エリンは意識の端でそれを認識し、赤い瞳を細めた。
恐怖より先に、諦めに近い感情が浮かぶ。
「……また、新しい実験体か」
獣は答えなかった。ただ、喉を鳴らす。
エリンの体内で循環するフォトンブラッドの「質」が、本能を強く刺激していた。
単なる肉ではない。体系そのものが、捕食対象として完璧に近い。
獣はまず、エリンの細い喉に歯を立てた。
その細い喉肉を鋭利な牙が容易く引き裂いた瞬間。
彼女の口腔をせき止められた泥流のように満たしたのは、溢れ出た生温かい血液と
――そして、網膜を内側から焼き焦がすような、臨界寸前のフォトンブラッドの毒々しい「熱」と「味」だった。
それは、ただの鉄の味ではなかった。
煮詰めたケチャップのようにドロリと重く、酸っぱく、そして神経が直接痺れるような高電圧のプラズマの味がした。
彼女の体内で循環していた流体光子が、獣の細胞を伝ってダイレクトに神経ネットワークへと流入してくる。
次第に獣とエリンの自我境界線が混戦し
血の味。
熱。
そして、フォトンブラッドの奔流が直接流れ込んでくる感触。
骨を砕き、肉を引き裂き、細胞レベルで取り込んでいく。
獣にとってそれは食事であり、融合であり、進化の手段。
エリンの喉の奥から
「ひゅう」
「あ……」
と言葉が漏れた。
噛まれた部位から無意識に体を遠ざけようと、地面を弱々しく摩擦するような動きから始まり
出血性ショックが進行したのかでカタカタと体が震える。
次第にビクンと四肢が跳ね上がるような反射を繰り返し、激痛で一瞬だけ体が硬直したあと、糸が切れたように脱力する。
ショック状態で急速に体温を失っていく彼女の肌とは対照的に、引き裂かれた喉の傷口からは、周囲の雨粒を一瞬で蒸発させるほどの白い水蒸気と、真っ赤な光子の火花がパチパチと音を立てて噴き出している。
肉を咀嚼し、その骨を噛み砕くたびに、獣の生体組織は悲鳴を上げていた。
だがそれは拒絶ではなく、歓喜の悲鳴だった。
彼女の持つフォトンブラッド生成の「系」が、人外の細胞とドロドロに溶け合い、失われていたジグソーパズルのピースが埋まるように身体を組み替えていく。
少女は最初は鋭い激痛だったものが、次第に「熱さ」や「ただ引っ張られている感覚」になり
獣の息遣いや咀嚼音が、まるで水中や遠くで響いているかのようにぼやけて聞こえていた。
捕食の痛みと走馬灯が合わさりと温かい思い出や、日常的な痛みに沈んでいた。
だが想定外の捕食がここから始まった。
彼女の脳細胞への電気信号が完全に途絶えるその最後の数ミリ秒の間、獣は彼女の「18年間の全記憶」を、濁流のようなデータとして脳内に直接吸い上げていた。
ザー、というテレビの砂嵐のような凄まじいノイズと共に、視界の裏側に見知らぬ光景が何重にも強制される。
ヘルズ・キッチンの狭いアパート。
夕暮れの窓から見える赤錆びた非常階段。
古い換気扇の回るダイナー。
油の匂いに安物の薄いコーヒーの苦み。
そして――リビングの暗い蛍光灯の下で、疲れ切った顔でフライパンを洗っている、短くまとめた髪の「あの母親」の背中。
会話のない、温かみのない日常。
それでも、エリンの魂の最深部にこびりついていたたった一つの願い。
途切れ途切れのイメージが言葉呼び確かな言葉となって流れる。
『嫌だ、あの冷え切ったアパートの、お母さんのいる家に帰りたい』
獣はそれを「栄養」として飲み込んだ。
本来なら消化され、消えるはずのミクロの憧憬が、フォトンブラッド体系と一緒に、脳の深部に上書きされ楔となる。
獣の意識の中で、二つのものが混ざる。
「生き延びろ」という原初の命令と、「帰りたい」という、人間の女の子の、どうしようもなく小さな願い。
捕食が完了した瞬間、廃ビルの中に新たな存在が立ち上がる。
少女を完全に喰らい尽くし、雨の廃ビルに立ち尽くす『私』の口からこぼれ落ちた
「帰りたい」という呟き。
それは、私の喉の形を借りて発声された、死んだエリン・マクカシーの、消えない呪いそのものだった。
獣、いや『私』は、雨に濡れた床に膝をついたまま、自分の手を見つめる。
指先が、わずかに震えている。エリンの記憶が残した残滓だ。
「……帰りたい」
その言葉が、自分の声で漏れる。言葉とともに湧きあがる衝動に意識と体が従おうとするが
生存本能が即座に警告を発する。
『危険だ。擬態が不完全なうちに近づけば、見破られる。バランスが崩れる。死ぬ』
それでも、願いは消えない。
少女のあまりにも小さな願いは呪いとして、エリン・マクカシーに擬態した獣に定着した。
エリン・マクカシーは雨の中で絶命した。
その夜が『私』が生まれた日となった。
◆ ◆ ◆
記憶の海から意識が浮上する
ネカフェの個室で私は目を開ける。雨音がいまも続いていた。
手元のスマートフォンが再び震える。新しい適合体の通知だ。
彼女は静かに立ち上がり、ダミーのギアをケースから取り出す。
「だから、戦う。帰れるようになるまで」
擬態が完璧になるまで。
エリン・マクカシーとして日常を継続できるようになるまで。
母親が『おかえり』と言っても、違和感を抱かない程度に、完璧になるまで
決意は冷たく、計算的だ。
だが、胸の奥で、泥のような感触が小さく脈打っている。
あれは痛みではない。エリンが残した「帰りたい」が、生存本能の下でまだ生きている証拠だ。
雨の中へ、彼女は再び出ていく。