MCU世界で『ただいま』を言えない怪物 作:お砂糖さらさら
ちなみに書いてからソーが一言も話してないことに気が付いて、嘘やろ!?ってなりました。
ワームホールが完全に閉塞し、光子の残渣がマンハッタンの空へサラサラと溶けていく中、アイアンマンの金色の剛腕に抱えられたリン・マクカシーは、スターク・タワーの屋上へと静かに降下していた。
彼はその間もマスク内部のHUDを操作し、彼女のアーマーファイズ強制解除に伴うバイタルのバーストエラーの並びをすべて「アーク・リアクターの熱暴走ログ」へと手動で叩き込み、検閲を完了させていた。
冷蔵庫を漁って数本のコーラを取り出すとスタークがアーマーのロックを解除し、プシューとエアーの抜ける音と共にヘルメットを外す。
プシっとふたを開けコーラを飲みながら後輩の姿を探して、ため息をついた。
「……おい、新入り。気持ちは分かるが、その手癖を少しは隠せ」
トニーが呆れたように声を落としたのは、彼女の足元に向けられていた。
ファイズの通常形態へと戻った彼女の漆黒の指先から、目に見えない微細な生体組織の触手が数ミリだけ這い出、転がっていたチタウリの装甲板や、エネルギー武器の残骸をこっそりと「捕食・同化」しようと蠢いていたのだ。
宇宙の最大マクロな天災を目の当たりにした彼女の生存本能が、さらなる自己強化のパーツを求めて、無意識のうちに作動していた。
「計算上、未知の宇宙テクノロジーを分子レベルで同化することは、私のフォトンブラッド循環系のマージンを黒字化させるために極めて有効なアセットです。スタークさん」
「シールドの回収班が数分でここへ雪崩れ込んでくる。
あいつらの前でチタウリの鉄屑が肉の触手に食われて消えたなんてデータが残ってみろ。俺のサブルーチン:555でも書き換えが追いつかなくなる。
ほら、コーらやるからこれで我慢して行くぞ。キャップたちが待ってる」
トニーは彼女の細い肩を軽く小突き、奥のエレベーターへと促した。
彼女は「……チ」と、エリンの生前の癖の通りに小さく舌打ちを漏らすと、生体組織を皮膚の内側へと完全に格納し、中身の空っぽなファイズフォンを腰のドライバーへと静かに収めた。
半壊したタワーの最上階。割れたガラスの向こうから、ニューヨークの冷たい風が吹き込んでいた。
そこには、盾を傍らに置いたスティーブ・ロジャースが、ナターシャ・ロマノフやクリント・バートンと共に待っていた。彼らの戦闘服もまた、煤で汚れていたが、その瞳には、最悪の決戦を生き残った確かな熱が灯っていた。
黒いコートの裾を揺らしながら歩み出る彼女の姿を認めると、スティーブは真っ直ぐに彼女の目の前へと歩み寄った。
「おかえり、エリン」
「……ただいま、キャップ」
抑抑とした、感情の乗らない平坦な4文字。
しかし、スティーブの口元には、安堵に満ちた確かな笑みが浮かんだ。
完璧な偽物の日常の記号が、アベンジャーズの拠点で確かに承認された瞬間だった。
◆ ◆ ◆
「──で、これが噂の『シャワルマ』ってわけか」
マンハッタンの片隅にある、半壊したアラビア風のダイナー。
ガラスが割れ、埃の被ったテーブルを囲み、アベンジャーズの面々は無言で肉のラップ巻き(シャワルマ)を口に運んでいた。
戦いの終わりを噛み締めるような、あまりにも静かで、泥臭い打ち上げの席。
その中で、アナザーファイズだけが、異常な密度で食事を遂行していた。
彼女の生体組織は極限まで枯渇していた。
細胞の自律修復を「黒字」にするためには、高カロリーの栄養が秒単位で必要だった。
細い身体のどこに消えていくのかわからない速度で、彼女は3個目、4個目のシャワルマを、指先を一切汚さない精密な手つきでモリモリと平らげていく。
「……おいおい、新入り。いくら美味いからって、そんなに詰め込んだらそのモデル体型が台無しだぞ」
トニーが炭酸水のグラスを回しながら苦笑するが、彼女は咀嚼の動きを一切止めず、平坦な声で返した。
「成長期ですので。細胞の代謝効率が通常値の数百パーセントに跳ね上がっているため、この摂取速度は生存維持のための最低コストです」
その様子を静かに見つめていたスティーブが、ふと、胸の奥に燻っていた純粋な疑問を彼女に投げかけた。
「エリン。先のヘリキャリアでの戦闘、タワーでの判断、そしてあの穴へ向かって放った、母艦を沈めるほどの圧倒的な戦闘力……あれは、普通の訓練で身につくものではない。
失礼でなければ教えてほしい。
君はこれまで、一体どういった過酷な実戦経験を積んできたんだ?」
スティーブの目は真剣だった。
ナターシャも、クリントも、フォークを動かす手を微かに止め、怪物の素顔を覗き込もうと視線を向ける。
第二次世界大戦を生き抜いた軍人や、シールドの暗殺者として血の滲むようなキャリアを積んできた彼らからすれば、彼女のあの淀みない効率性と、感情を完全に排した殺害のルーティンは、異質そのものだった。
エリンは最後のシャワルマを喉へと流し込み、冷え切ったコーラを一気に飲み干して、いつものキンと体の内側が冷える不快な感触を味わってから、ポツリと言葉を落とした。
「害獣駆除を、20回くらい。あとは、パトロールで小規模な一般犯罪者と戦ったり、それだけです」
短い沈黙。
嘘は、何一つ言っていなかった。
マンハッタンのネカフェを拠点にフォトンブラッドの実験体を灰にし、異国・日本の九郎ヶ岳や地下鉄で、古代の殺人生物グロンギを主観時間の処刑場で淡々と解体してきた。
その回数を合わせれば、確かに20回程度の害獣駆除だ。
だが、その回答のあまりの短さに、スティーブたちは奇妙な価値観のズレを覚えずにはいられなかった。
彼らの知る軍人やヒーローは、大義名分や、長年の訓練、あるいは国家への忠誠といった重い歴史を背負って戦場に立つ。
しかし、目の前の少女は、まるで週末のアルバイトか短期集中的な事務作業の報告でもするかのように、自分の死闘を数えてみせたのだ。
そこには大義への熱も、戦士としてのプライドもない。ただ、リスクリターンの計算式をこなしてきた、一種の冷徹なビジネスとしての戦闘行為の冷たさだけがあった。
スティーブは、彼女との間に横たわる、埋めようのない種族としての、あるいは生き方としての絶対的な価値観の違いに、一瞬だけ寂しそうな目を向けた。
彼がどれだけ熱を注いでも、彼女の根底にあるのは、自分を道具として処理する怪物の合理主義だ。
だが、スティーブはゆっくりと首を振り、その大きな掌をテーブルの上に置いた。
「……そうか。害獣駆除、か。君らしい言い方だ」
スティーブの声は、どこまでも優しかった。
「君がどういう経緯でその力を得て、どんな冷たい計算で戦っているのか、私にはすべてを理解することはできないかもしれない。
だが、エリン。
君が先ほど、あの地獄のような空の上で、何万人、何十万人というニューヨークの市民の明日を、その身体をすり潰しながら守り抜いたのは、紛れもない事実だ。
アベンジャーズのキャプテンとして、そして一人の人間として、君のその行動を、心から誇りに思う。
よくやってくれた」
それは、彼女の計算式には決して含まれない、人間の「博愛」という名の無償の賞賛(熱)だった。
怪物である彼女は、スティーブのその笑顔を、赤い瞳で静かに見つめ返した。
理解はできない。
損得の帳尻も合わない。
だが、トニーが裏でログを消し続け、ナターシャが型崩れしたピザを笑い、バナーがその手の温もりに救われ、そしてキャップがこうして「お帰り」と「賞賛」をくれる。
その不確実な大人たちの余白が、不思議と、彼女の胸の奥に存在する痛みを、ほんの少しだけ和らげているのを感じていた。
「結果的に守るのと、守るために守るのでは天と地ほどの違いがあるように思いますが」
彼女はいつもの平坦な声でそう吐き捨てると、5個目のシャワルマへと手を伸ばした。
◆ ◆ ◆
その驚異的な食べっぷりを、アベンジャーズの面々がそれぞれの椅子から静かに見つめる中、弓の名手であるクリント・バートン、あるいはホークアイが、少しぬるくなった炭酸水のグラスを弄びながら、眉の間に深い皺を刻んだ。
彼には、メンバーには明かしていない「家族」がいる。
だからこそ、目の前で機械のようにエネルギーを補給している少女の、あまりにも若すぎる横顔と、その華奢な肢体に似合わない冷徹な暴力のギャップが、父親としての本能をひどく逆撫でしていた。
「あー……」
クリントは少し視線を落とし、言葉を選びながら切り出した。
「君のような、まだハイスクールに通っていてもおかしくない年齢の少女が、こんな命がけの任務に従事していることについてさ。
君の母親は、知っているのかな?
自分の子どもがあんな風に空を飛んで、宇宙人を分子レベルで消し飛ばしてるなんて知ったら、親なら生きた心地がしないと思うんだが」
それは、大人の、そして親としての、極めてまっとうな懸念だった。咀嚼の動きを止め、ナ
問われた彼女はプキンで唇を無機質に拭うと、赤い瞳をゆっくりとクリントへと向けた。
「私、もう二十歳なので。子どもではありません」
しかし、その年齢の主張には、人間が大人になりたがるような背伸びの熱は一切なく、ただ事実のインデックスを提示するような平坦さしかなかった。
「うちは母子家庭なのですが、正直……母が私のこの活動を知っているのか、あるいは知らないのかは、私にもわかりません。
私から話したことはありませんから。ただ……」
彼女はそこで言葉を区切り、テーブルの上の、少しぬるくなったコーラのグラスを見つめた。
「眼帯おじさん──ニック・フューリー長官とは、契約を結んでいます。
私がアベンジャーズとして、地球規模のマクロな事件に対処し、戦力を提供する代わりに、国家レベルのインフラを使って、私の母親を地元のミクロな犯罪や危険から完全にガードし、その日常を永久に保証してもらう。リスクとリターンの計算は、それで完全に合意しています」
取引。
ビジネスとしての防衛。
大義名分や正義の衝動ではなく、ただ一つの「日常」を天秤の片側に置き、その釣り合いを維持するためだけに、彼女はアベンジャーズという盤面に並ぶ駒になることを選んだ。
その極めて合理的で、しかしどこか歪な歪さを孕んだロジックを受け、スティーブ・ロジャースが静かに言葉を繋いだ。
「なるほど。では、君の言うその二十回にわたる害獣駆除というのは、君のその強力なシステムを以てしても、よほどの手数を要する強敵ばかりだったわけだな」
これまでの戦闘回数は僅か二十回前後。彼らの血みどろのキャリアに比べれば空虚なほどに軽い数字。それなのに、この洗練された強さはどこから来るのか──キャップの問いは、その矛盾の核心を突いていた。
ほんの少しだけ視線を逸らした。
脳裏に、かつて自分が通り抜けてきた凄惨な戦場が、走馬灯のノイズのように明滅する。
ヘルズ・キッチンの路地裏で灰にした、組織の放ったフォトンブラッドの実験体たち。
1位のヒーローになりたかったあの男。
そして──日本・九郎ヶ岳の冷たい雨の中で対峙した、カブトムシ男や、世界をプラズマで焼き尽くそうとしたあの白い衣服の少年。
彼女は思い出すような仕草をほんの一瞬だけ見せ、いつも通りの平坦な声音で答えた。
「いいえ。ほんの数体、病院送りにされた質の悪い害獣も数えるほどは混ざっていましたが
だいたいは、雑魚でしたよ」
その「病院送り」という言葉の軽さに、バナー博士が裏で小さく身震いし、ナターシャが緑の瞳を僅かに細める。
彼女がどれほどの綱渡りを「計算」という名の下にくぐり抜けてきたのか、その底知れない死線の重みが、ぬるいコーラを飲む少女の姿の向こう側に、一瞬だけ垣間見えた。
スティーブはしばらく沈黙し、彼女のその冷え切った、しかし完璧に完結した計算式を静かに見つめていた。
軍人でもヒーローでもない、ただのビジネスとして戦場に立つ怪物。その価値観の違いに、彼は一瞬、深い寂しさを覚えたが……すぐに首をゆっくりと横に振り、目の前の少女の頭を、そっと大きな手で撫でた。
「……そうか。だが、君がどんな目的でその死線を越えてきたにせよ、これだけは言わせてほしい。君が一番にニューヨークに駆けつけ、その力で戦ってくれたおかげで、今日、数え切れないほど多くの市民の命が救われた。
君の判断と戦いは、間違いなく立派だった。……よく街を、日常を守ってくれた。ありがとう、エリン」
人間の手のひらの不器用な温もり。彼女はその熱を軽く頭から払いのけると、グラスに残ったコーラをすべて飲み干した。
「子供扱いしないでください、キャップ。私は私の、計算が合うように動いたまでです」
そう言って視線を外した彼女の横顔を、トニーはニヤリと笑いながら眺め、ナターシャはグラスを合わせて短い乾杯を捧げた。
笑わない怪物と、面倒くさい人間たち。アベンジャーズとしての最初の「ただいま」を終えた店内に、炭酸の泡が消える音だけ静かに響いた。
◆ ◆ ◆
シャワルマを咀嚼する手を止め、エリン・マクカシーは、ぬるくなったコーラのグラスを静かにテーブルへと置いた。その赤い瞳は、自分を「ヒーロー」として、あるいは「誇るべき仲間」として温かい目で見つめる大人たちの熱を、そっくりそのまま突き放すように無機質だった。
「皆さん正義というやつを大事にしていらっしゃるのかもしれませんが、私にはまだピンときません」
彼女の声は、どこまでも平坦で、澱みがなかった。
「もしかしたらいつかは、皆さんの言うその価値観に共感できるのかもしれませんが。
私にとっては、自らの利害が合致し、必要だから戦う。
それ以上でもそれ以下でもありません。そのほうが、余計な感情で目が曇らなくてよいとすら思っています」
それは、大義名分や博愛主義(ラブ&ピース)を掲げて命を捨てるアベンジャーズの理想に対する、怪物としての冷徹な自己定義だった。
トニー・スタークは炭酸水のグラスを持ったままニヤリと唇の端を上げ、ブルース・バナー博士は眼鏡の奥の目を微かに見開く。スティーブ・ロジャースは、彼女のその冷え切った計算式を、痛みを堪えるような複雑な表情で見つめていた。
だが、少女の姿をした怪物は、そこで僅かに視線を落とすと、ポツリ、ポツリと何かを思い出すように言葉を重ねた。
「……ただ、例外があるとすれば」
彼女の脳裏に、かつて自分がその足で、その拳で灰へと変えてきた悪夢の残像がよぎる。
自らのくだらない承認欲求とエゴのために遺族たちの激情を弄び、お披露目公演(ヒーローショー)の舞台を整えて悦に浸っていたあの組織の総裁。
そして──日本・九郎ヶ岳で目覚め、リント(人間)をただの獲物として扱い、笑顔で凄惨な殺人ゲーム(ゲゲル)を謳歌していたあの白い衣服の少年。
「何も知らぬ無知なる者を、自分の利益のために利用する者。
同種の群れ社会や他の生物などとの共生や共存などは不可能だと言い切り、自分さえよければそれでいいと考え、それが殺人と結びつく者。
こういった、吐き気を催す邪悪は、利害を超えて抹殺しなければならないとは思います」
その瞬間、店内の空気が、先ほどまでの価値観のズレとは明らかに違う「異質な重さ」を帯びて凍りついた。
ナターシャ・ロマノフの緑色の瞳が、鋭く細くなる。
クリント・バートンもまた、フォークを置き、彼女の横顔をじっと見つめた。
彼女は正義を理解していないと言った。
だが、彼女が「利害を超えて殺す」と断定したその対象は、奇妙なほどに、彼らアベンジャーズが命を懸けて戦うべき絶対的な悪の定義そのものだったからだ。
最初に小さな笑い声を漏らしたのは、トニーだった。
「ははっ……おいおい、新入り。正義にはピンとこないくせに、嫌いな奴のタイプだけは随分と具体的じゃないか。合格だよ。100点満点だ」
トニーはグラスをテーブルに置くと、彼女を指差して見せた。
「自分のエゴで世界を書き換えようとする傲慢な神様や、自社の武器を裏で横流しして笑顔で他人を踏みにじる魑魅魍魎。俺もそういう吐き気を催す邪悪を何人も見てきた。
あいつらは計算の枠にすら入れておく価値がない。
お前がそいつらを利害抜きでブチのめすって言うなら、俺たちの行き先は最初から同じだ」
兵器産業の闇を見てきたトニーだからこそ、彼女の語った「邪悪への嫌悪」がどれほど純粋なものであるかが痛いほど分かった。
バナー博士もまた、静かに頷き、穏やかな声を病室に落とすように語りかけた。
「そうだね、君の言う通りだ。共生や共存を拒み、自分さえ良ければいいと周囲を破壊する存在は、社会にとって致命的なバグだ。僕の中のハルクも、時々そういう制御不能な破壊衝動に駆られるからこそ、君がそれを終わらせるべき邪悪だと割り切ってくれるのは、科学者としても……一人の人間としても、すごく心強く感じるよ」
そして、スティーブ・ロジャースは、彼女のボブカットの頭に置いていた手を、ゆっくりと、しかしより確かな温かさを込めて、もう一度優しく撫でた。
「君はそれを正義とは呼ばないのかもしれない」
スティーブの真っ直ぐな瞳が、彼女のオッドアイを見つめ返す。
「だが、他人の明日を奪う邪悪を許さないというその冷たく澄んだ決意は、私たちが信じる正義と、何も変わらない。君がどんな計算式でそこに辿り着いたとしても、君の根底にあるそのルールは、決して偽物なんかじゃない。
……君を道具としてすり潰させはしないと言ったのは、そのためだ。
私たちは、君のその冷たい不器用さを支えるために、ここにいるんだからね」
博愛主義の例外個体たち。その面倒くさい大人たちの熱が、彼女の冷え切った防壁の隙間に、じわりと不確実な余白を広げていく。
スティーブの手を今度は払いのけることもせず、ただ少しだけ居心地悪そうに視線を外すと、ぬるくなったコーラを最後の一滴まで飲み干した。
「子供扱いしないでください、と何度も言っています。母が心配しているかもしれないのでここで失礼させてください」
彼女は黒いコートの裾を揺らしながら、機械的な足取りで半壊した店を出ていった。 ナターシャは、その去りゆく少女の背中を、グチャグチャに潰れたピザの時と同じように、哀しくも愛おしそうな目で見送っていた。
「……ねえ。あの子が最後に言った、あの邪悪の定義。
損得勘定の裏から、あんなに生々しい言葉が出てくるなんて思わなかったわ」
ナターシャはブラインドの隙間から、エリンの消えた夜のマンハッタンを睨むように見つめた。
「『何も知らぬ無知なる者を自分の利益のために利用する者』。そして『共生や共存を拒み、自分さえよければいいと考え、それが殺人と結びつく者』。
正義にはピンとこないって言いながら、あの子が『利害を超えて抹殺する』と断定した対象は、皮肉なほどに、私たちが命を懸けて戦うべき絶対的な悪の核心を突いている」
「ああ、まったくだ」
トニー・スタークがヘルメットを傍らに置いたまま、自嘲気味に笑った。彼の脳裏には、かつて自分が兵器産業の頂点にいた頃、笑顔で裏取引をし、罪のない人々を自社のミサイルで焼き尽くしてきた本物の怪物=人間たちの顔が並んでいた。
「キャップ、お前の言う『理想』と、あいつの『損得勘定』は、実は同じ景色を見てるんじゃないか?」
スティーブ・ロジャースは、彼女のボブカットを撫でていた自分の右手をじっと見つめていた。その掌には、まだ彼女の髪の硬さと、人外特有の微かな熱の残滓が残っているようだった。
「……彼女は、自分が人を殺した怪物だから、正義を語る資格はないと、自分で自分を限定しているのかもしれない」
スティーブの声は、どこまでも深く、誠実だった。1940年代から一人取り残された孤独を知る彼だからこそ、彼女の「完結した孤立」の痛みが分かった。
「だが、他人の明日夢を奪う邪悪を許さないという、あの冷たく澄んだ決意は、私たちが信じる理想と何一つ変わらない。
彼女がどれほど冷徹な計算式を並べようとも、あの内側から溢れ出た嫌悪だけは、絶対に偽物なんかじゃないんだ。
利害や契約だと言い張ることでしか自分を納得させられないだけで、彼女の根底にあるルールは、私たちの誰よりも『人間』らしい。
だからこそ、私たちはあの不器用な計算が破綻しないように、ここで彼女の帰る場所になり続けなきゃならないんだ」
クリント・バートン、ホークアイが、半分残ったシャワルマの包み紙を弄びながら、小さく息を漏らした。彼には守るべき隠された家族がいる。
だからこそ、彼女の「共生を拒む者への容赦のなさ」に、別の意味での信頼を置いていた。
「自分さえよければそれでいいと考え、それが殺人と結びつく者……か。
俺から言わせてもらえば、あの子がそういう邪悪を利害抜きで抹殺すると言い切ってくれるのは、最高に信頼できるよ。
大義や忠誠心なんてものは、状況次第でいくらでも揺らぐし裏返る。
だが、あの子のあの吐き気は生理的な拒絶だ。
絶対に裏切らない。
あの子がその一線を守り続ける限り、俺は喜んで背中を預けるさ」
ブルース・バナー博士もまた、眼鏡をかけ直し、少しだけ穏やかになった目で夜の街の先を見つめていた。地下ラボで、彼女の不自然なほどの静寂の手の温もりに、内なる緑の衝動を凪がせてもらった記憶が、彼の胸を静かに温めている。
「ハルクという共生を脅かす怪物を内側に抱える僕にはね、彼女のあの割り切りがどれほど強固な防波堤になっているかが分かるよ。
僕たちは怪物として扱われる人間で、彼女は人間として扱われる怪物。
でも、彼女がその冷たい合理性の底に、あの邪悪を退けるだけの清廉な拒絶を抱いている限り……僕も、ブルース・バナーとして、彼女の隣に立ち続けたいと思う。
計算しなくても人間であるはずの僕たちが、彼女に人間らしさを教えられているなんて、本当に面白いね」
冷え切ったダイナーの店内に、炭酸の泡が消える音だけが静かに響く。
大人の嘘(隠蔽プロトコル)を共有し、彼女の「ただいま」を受け入れると誓ったアベンジャーズの面々は、それぞれの胸の内に、あの笑わない少女が提示した強固なルールを、深く刻み込んでいた。
バナーは眼鏡を外し、デスクに置いたナプキンでレンズを拭いながら、いつになく真剣な、そして科学者としての冷徹な色を帯びた声で言葉を繋いだ。
「だが、忘れてはいけないよ。彼女がああいった邪悪を退ける判断をできるのは、あのアパートに母親が存在している、その一点が安全装置として機能しているからに過ぎないんだ」
バナーの視線が、残されたエリンの空の皿へと向けられる。
その瞳には、かつて地下ラボで彼女の不自然なほどの静寂の手の温もりに救われながらも、その内側にある「怪物としての質量」を誰よりも正確に計算している者の眼差しがあった。
「これは仲間を疑うとかそういう話ではなく、純然たる事実として、彼女が母親を失ったときに人間に近い価値観という変数を失うのは確定的だろう。
彼女は母親のガードの対価にアベンジャーズへ戦力を提供していると言った。
それは事実なのだろうね。
だが、見方を変えれば、彼女は母親をカード(人質)として、フューリーや国家規模のインフラに協力を強要されている立場であるともいえる」
怪物と人間。
人質と契約。
その歪な非対称性を、ハルクという制御不能な爆弾を抱えるバナーだからこそ、痛いほど冷酷に看破していた。
「それは同意するよ、バナー」
トニー・スタークが、冷え切った炭酸水のグラスを回しながら、低く掠れた声で応じた。彼の脳裏には、先ほど手動で上書きし終えたばかりの、アーマーファイズの狂気的な臨界出力の残渣データがまだ淡く明滅している。
「それだけなら、最悪の場合……フューリーあたりが『処理』のボタンを押せばいい。
だがな今の地球の科学力とアベンジャーズのアセットで、それをやるのがどれほど難しい存在か
今回の戦闘で嫌というほど分かったはずだ」
トニーはヘルメットをコンクリートのテーブルに置き、スティーブを真っ直ぐに見据えた。
「それに、俺はシールドの技術コンサルもやってるから裏のログを知ってるが、あいつがさっき言ってた害獣駆除。もちろん野生動物なんかじゃない。
古代から蘇ったオーパーツで強化された超人どもさ。
あいつは日本にいた僅か一週間足らずの間に、現代兵器が一切通用しない200体以上の古代文明産の超人を分子レベルで熱分解して、最終的には手をかざすだけでビルを灰に変えるような怪物を完全に終わらせてきた。
それを可能にするだけのシステムを、あいつはすでに自前で持ってるんだよ」
トニーの指先が、キーボードを叩くようにテーブルをトントンと不規則に刻む。
「しかも、あいつはその死闘の最中、フューリーに『完全消滅した』って虚偽申請を出して隠匿した日本のオーパーツを、自分の生体組織の中に直接取り込んで自己強化しやがった。だからあれだけの出力を通常時で回せるようになってるんだ。
さっきだって、転がってるチタウリの宇宙装甲に目を引かれてたぞ。
あいつの生存演算は、常にアップデートを求めて飢えてるんだよ」
トニーは、かつて戦場で世界を救い、今またこの現代の孤独の中に立っているキャプテンの目を、鋭く射抜いた。
「キャップ、あの歩く爆弾娘をお前はどうやって御するつもりだ?」
スティーブ・ロジャースは、しばらく沈黙していた。
割れた窓から吹き込んでくるニューヨークの夜風が、彼の星条旗の戦闘服を冷たく揺らす。トニーの言う驚異的な戦闘データも、バナーの言う人質としての防衛線も、すべて指揮官として頭では理解していた。
彼女はあまりにも鋭利で、あまりにも危険な、地球で唯一無二の刃だ。
だが、スティーブはゆっくりと立ち上がり、傍らの盾(シールド)を力強くその手に握り締めた。
「御する、という言葉は使わないよ、トニー」
スティーブの声には、微塵の揺らぎもない、確かな熱が宿っていた。
「彼女が母親を失えば、その計算式が狂って怪物に戻るというのなら……そうなる前に、私たちが彼女の二重の防波堤になればいい。フューリーが彼女をカードで縛るというなら、私たちは彼女を兵器ではなく人間として、アベンジャーズのルールで守り抜く。
戻ってきた彼女に『お帰り』と言い、ここに居場所があるという事実を、私たちがその身を以て証明し続ける。
それが、キャプテンとしての、私の弾き出した答えだ」
決して交わることのない、怪物の生存演算と、人間の博愛主義。
だが、その面倒くさい大人たちの熱い覚悟が、夜のマンハッタンの瓦礫の街に、確かに一本の強固な杭となって打ち込まれた。
ナターシャは微笑み、空になった彼女の皿を見つめながら、静かに席を立った。
「本当に、手のかかる新入りね。でも、あの子のあの不確実なルールを守るためなら、大人の嘘くらい、いくらでも付き合ってあげるわよ。
ね、スターク」
「……へっ、言われなくたって付き合うさ」
トニーは炭酸水を飲み干し、皮肉混じりの、しかし確かな信頼を込めて笑った。
宇宙の暗黒を網膜に焼き付けたアベンジャーズの面々は、一人の少女の姿をした怪物のために、世界を欺くための大人の約束を静かなダイナーの空気の中で、どこまでも深く、静かに共有し合っていた。
◆ ◆ ◆
深夜のマンハッタンを這うように、冷たい夜風が吹き抜けていく。
アベンジャーズの面々を、その面倒くさい大人たちの非合理的な「熱」を半壊したダイナーに置き去りにしたまま
私は一人、ヘルズ・キッチンの薄暗い路地裏へと帰還していた。
ハニカム構造の生体衝撃吸収骨格が未だ内側で内出血の悲鳴を上げている身体を引きずりながら私は錆びついた非常階段を上り、見慣れた古いアパートのドアの前に佇む。
脳内CPUが、生体センサーを起動させ瞬時に室内のバイタルサインをスキャンした。
識別:母親。
心拍数、呼吸間隔、ともに完全に正常なインデックスの範囲内。
ニック・フューリーとのリスクリターンの契約は履行され、国家規模の防衛インフラは彼女を完璧な黒字でガードしきっていた。
安全マージンの獲得を承認。世界の破滅という最大の赤字は回避され、私の帰るべきインフラはミリ単位の狂いもなく維持されている
カチャリ、と無機質な音を立てて、私は鍵を開けた。
ドアを押し開けると、室内には換気扇の低い唸りとともに、微かに焦げ付いた油の匂いと、嗅ぎ慣れた安っぽい洗剤の匂いが停滞していた。
玄関の明かりをつけた音に反応して、奥の薄暗いリビングから、エプロン姿のままソファでうたた寝をしていた一人の女性が、眠そうに目を擦りながらゆっくりと立ち上がってきた。
エリン・マクカシーの母親。
私がその人生のすべてを貪り喰い、乗っ取った本物の少女が死の瞬間に「帰りたい」と願った世界で唯一の、かけがえのないセーフティ。
「……エリン? 遅かったじゃない。ダイナーのシフト、もうとっくに終わってる時間よ」
母親は、私を見て不思議そうに首を傾げたが
ほんの少し前までニューヨークを襲ったあのマクロな天災をどう認識しているのか
今だって少し離れればエイリアンが破壊した痕跡であふれている。
だが、そんなことはどうでもいいのだ。
フューリーの嘘とトニーの改ざんログは、彼女を完璧に守り抜いたのだ。
私は完璧なエリンの無表情のまま、少し大きすぎる黒いコートの裾を整え、血の通わない平坦な声音を静かに滑り込ませた。
「すみません、お母さん。少し、事務作業の報告書が長引いてしまって
……ただいま戻りました」
「もう、相変わらずお堅いんだから。……おかえり、エリン」
母親はクスクスと小さく笑うと、私のボブカットの頭を、あのキャプテンの無骨な掌とは違う、少し荒れて、しかし絶対的な信頼の熱を孕んだ優しい手つきで、そっと撫でた。
バチチ、と胸の奥が一瞬だけ穏やかに凪いでいく。
アベンジャーズの大人たちが並べた「正義」や「誇り」といった非合理なノイズには、私の計算機は1ミリもピンとこなかった。
だが、この母親の手のひらから伝わってくる確かな事実(温もり)だけは、私の冷え切った脳内プロセッサの防壁の隙間に、決して引き算できない確かな余白を広げていく。
「お腹空いてるでしょ。冷蔵庫に、昨日作ったナポリタンの残りがまだあるわよ」
「……ええ。いただきます」
私は居心地悪そうに少しだけ視線を外すと、コートを丁寧にハンガーへかけ、換気扇の唸るキッチンへと歩みを進めた。
笑わない怪物と、何も知らぬ無垢な母親。
アベンジャーズとしての最初の戦いを終えた深夜の壊れかけの部屋に、ただただ愛おしい日常の生活音が、どこまでも静かに共有されていく。
お母さんの日常を守るための生存演算は、今夜も完全に、完璧な黒字のまま維持されてい
感想、お気に入り登録ありがとうございます。
今年の投稿はこれが最後かな。