MCU世界で『ただいま』を言えない怪物 作:お砂糖さらさら
孤独の檻にいるのは誰なのか
【アベンジャーズ技術検証実験記録】
件名:「アクセルフォーム」実証実験
立会人:トニー・スターク、ブルース・バナー博士、スティーブ・ロジャース
場所:スターク・タワー付属・訓練施設(遠隔操作ターゲット配置)
日時:2012年年○月○日
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■ 2012年〇月〇日:スターク・タワー付属 隔離射撃場
「バナー、もう一度を説明してくれ」
強化ガラスで仕切られた観測室の暗がりの中、スティーブ・ロジャースが星条旗のシールドを長机に立て掛け、深い眉間をさらに険しくさせていた。
大戦時の屈強な兵士の規格からすれば、ホログラムに躍る冷たい青白い光の数値は、彼の碧い眸にとって些かマクロが過ぎるものだった。
「客観時間で、わずか10秒。だが、彼女の主観時間においては、約2時間46分が経過している……それが、人間にとってどう危険なのかをだ」
「文字通りの檻だよ、キャップ」
ブルース・バナー博士が眼鏡の位置を直し、透過ディスプレイに時間軸と脳波パルスを同期させた簡易グラフを呼び出した。
「アクセルモード中、彼女の脳細胞と生体組織のクロック数は、強引に通常の1000倍へとオーバークロックされる。私たちが1秒と認識する刹那、それが彼女にとっては1000秒――約16分40秒の永遠に引き延ばされるんだ。
周りの世界は完全に凍りつく。
弾丸も、爆風も、逃げ惑う一般人の絶叫も、すべてが動かない静止した彫刻のようになる。
……その静寂の闇の中で、彼女はたった一人で、2時間以上も考え、判断し、肉体を駆動させ続けなければならない」
バナーの指先が、グラフの臨界色(赤)をなぞる。
「普通の人間なら、脳のニューロンが焼き切れて精神が内側から崩壊する。
何より恐ろしいのは、その間、彼女は私たちと一切の会話ができないという点だ。
無線も、手信号も、命令の変更も届かない。
私たちが中止しろ!と叫んだところで、その音声データは彼女には何十分もかけてゆっくりと届く。……届いたときには、すべてが終わっている」
「具体的な話をしようぜ、キャップ」
トニー・スタークが炭酸水のグラスを回しながら、ニヤリと不敵な、しかしその眸の奥に冷徹な実務の温度を灯して口を挟んだ。
「たとえば暴走列車。彼女をアクセルで突っ込ませる。
直前でこっちが一般人の取り残しに気づいてストップをかける。
現実世界ではコンマ一秒の遅延かもしれないが、新入りの主観世界ではすでに十分以上が経過してる。
その時点で、彼女の点の破壊によって列車は分子レベルで粉々だ。
乗客もろともな。
……チームワークという余白が、あの白銀の世界では完全に引き算される。
あれは命令の途中変更が一切効かない、確定状況専用の暗殺の刃なんだよ」
その三人の冷たい戦術プロファイリングの視線の先、強化ガラスの向こうの更地へと、黒いコートの裾を揺らして少女が歩み出ていた。
エリン・マクカシー。
彼女は左腕を軽く前に出した。
衣服の下、全細胞の構造をミリ秒単位で操作する。
瞬時に赤と白で塗装された腕時計型のガジェット――ファイズアクセルの模造品が、肌から直接モーフィング生成された。
「アクセルフォーム、起動します」
低く、わずかに掠れた、血の通わない平坦な声音。
指先をそれっぽく弄り、モックアップのスタータースイッチを押し込む演技を完璧にトレースする。
『START UP』
機械的な電子音声が流れた瞬間、私の全身の筋肉密度とフォトンブラッド生成系が臨界点を超えて沸騰した。
衣服を喰らいながら脈打っていた赤い流体光子の回路ラインが沈黙し、一瞬にしてファイズを構成する黒が眩い白銀の奔流――シルバーストリーム――へと変色し、世界のすべてから音が完全に消滅した。
――主観時間、2時間46分の孤独の檻が始まった。
客観時間、わずか十秒。
観測室のモニターが捉えたのは、人間の肉眼や一般の戦闘カメラでは完全に不可視の銀色の流星となった少女の残像だった。
ズドドドド!!!!
他者の目には同時に数十発が放たれたようにしか見えない超神速の連鎖。
ターゲットとして配置されていた通常の強化人間レベルの装甲板から、最後は戦艦の複合装甲相当に至るまでが、白銀のクリムゾンスマッシュの常時チャージ状態の直撃を受け、爆風も誘爆も一切生ませないまま、内側からサラサラとしたただの灰へと熱分解・消滅していく。
時速にして約6万キロ、マッハ50を超える点の暴力。
『TIME OUT』
「そして時は動き出す」
白銀の輝きが急激に色を失い、スーツの黒が戻り、赤いラインへとフォトンブラッドが収束していく。
「終了。ターゲットをすべて熱分解しました。
指示通り、このフォームは変更の余地がゼロの状況における最後の手段として封印に近い形で管理します」
観測室のスピーカーに落ちた私の声を聴きながら、トニーは操作盤に表示されたJ.A.R.V.I.S.のログを指先で消去した。
骨格の異常増殖、バッテリー不在のバグ。それらすべてをマーク7のプラズマ熱伝導に伴うナノマシンの実験的エラーとして上書きするサブルーチン:555のバッファが、この十秒間で限界寸前まで真っ赤に跳ね上がっていた。
「まともな人間が使ったら、10秒後にタイムオーバーで周囲3キロごと汚染して爆死する自殺装置か」
トニーはヘルメットをコンクリートの机に置き、自嘲気味に笑った。
「新入りがこれを使いこなせてるのは、あいつがもう人間を辞めてるからに他ならない。
普通でなくなった化け物が、下町のダイナーに帰るために普通を装い続けている。……泣けてくるねえ、キャップ」
スティーブは何も答えなかった。
ただ、ファイズのシステムを解除した少女の、そのあまりにも静かすぎる背中を、悲痛な情を眸に灯したまま見つめ返していた。
◆ ◆ ◆
数日後、昼のマンハッタン上空
最悪は、人間の甘い予測をいつだって無慈悲に裏切る。
「おいおい、冗談だろ。J.A.R.V.I.S.今すぐ戦闘モードに切り替えろ」
スターク・タワーの最上階。トニー・スタークの声が、警告音のノイズに混じって烈しく掠れた。
チタウリ侵攻の傷跡が残るニューヨークの空に、不穏な巨躯が滑り込んていた。
ステルス推進器をチタウリの宇宙テクノロジーで魔改造した、無人の旧式爆撃機B-29。
その機体下部から、すでに六発の巡航ミサイルが分離し、一直線にマンハッタンの中心部――そして、ヘルズ・キッチンの古いアパートの方角へと指向していた。
「着弾まで、残り48秒。乗員ゼロ、軌道は完全に固定されている」
スティーブが即座にシールドを構え、インカムの回線を開く。
「ソーは不在、クインジェットの迎撃では間に合わない。スターク、アーマーファイズの面破壊を使えば、チタウリ炉の誘爆でマンハッタンの数ブロックが灰になるぞ!」
「通常形態じゃ速度の式が合わない。……アクセルフォームだ。点で潰すしかない!」
トニーが叫ぶ前に、タワーのヘリポートの先端に、黒いコートの裾を激しく翻した私が直立していた。
条件はすべて、脳内CPUの計算式と合致している。
無人機。人質なし。軌道一定。作戦変更の余地は、現時点で完全にゼロ。
あそこのミサイルの信管が一つでも作動すれば、お母さんのフライパンの音も、古い換気扇の低い唸りも、私のインフラのすべてが最大級の赤字に転落して自壊する。
「アクセルフォームによる、完全な点の排除を実行します」
私は左腕にファイズアクセルをモーフィングで直接生やし、スタータースイッチを激しく叩き込んだ。
フォトンブラッドの深紅の輝きが沈黙し、スーツの黒が白に反転する。
『START UP』
現実世界の、わずか10秒。
主観時間にして約2時間46分間に及ぶ、時間的猶予の檻へと私はエントリーした。
世界からすべての音が消え、空間の分子さえもがガラスの弾丸のようにピタリと完全停止する。空中に浮かぶ六発の巡航ミサイルは、黒い彫刻のように静止し、B-29の推進炎も凍りついたままだ。
私は孤独な時間の檻の中で、マッハ50を超えるスピードでハックされた空間へと躍り出た。
ひと跳び52・5メートルの脚力を解放し、静止したビル壁を滑走路にして直進する。
一発目のミサイルへと肉薄。
狙うのは、チタウリ技術で魔改造された動力の核心のみ。
右足にシルバーストリームを収束させ、精密極まるキックを叩き込む。
起爆装置の分子構造には1ミクロンも触れず、内部の宇宙回路だけを熱分解して中和する。
ミサイルはただの巨大な鉄屑と化し、私の主観世界の中で極めてゆっくりとハドソン川の方角へ傾き停止する。
次、二発目、三発目。
無駄がない。
感情がない。
ただ、日常を脅かす赤字の変数を、一つずつ冷徹に消去していくだけの単純作業。
主観時間、1時間30分。
最後のミサイルを処理し終えた私は、マッハ50の慣性をそのまま垂直方向へと反転させ、無人B-29の巨大な機体上部へと着地した。
装甲を透かして、チタウリ炉のコアの位置を正確にスキャンする。右足に白銀の奔流を集め、誰にも聞こえない平坦な声音を凍りついた風のなかに落とした。
「……おやすみなさい」
クリムゾンスマッシュが、点でコアを完璧に貫通した。
推進システムが完全に沈黙し、巨大な怪鳥が音もなくその命数を失っていく。
主観時間で2時間40分。
現実世界の、たった10秒後。
トニーとスティーブの目には、空に白銀の閃光が一筋の線を美しく描いた、ただそれだけの刹那に映った。
次の瞬間、六発のミサイルと巨大な爆撃機は、大爆発も二次被害も一切発生させないまま、同時にスイッチを切られたようにただの物言わぬ金属塊となって、ハドソン川の冷たい水面へと真っ逆さまに自由落下していった。
完璧すぎる、最小限の被害。
通常形態へと戻り、赤いフォトンブラッドのラインを肢体に伝わらせた私が、タワーのヘリポートへ静かに着地する。息は乱れていない。心拍数も、正常値の範囲内だ。
「ターゲットの完全な無力化を確認。被害はありません」
トニーはマーク7のヘルメットをガシャリと外し、長く、安堵の息を吐き出した。その大人のプライドの裏側に、言いようのない人外への戦慄を微かに滲ませながら。
「……クソみたいに完璧だな、新入り。お前のその活躍、スターク・インダストリーズの技術仕様書の正常値として、完璧に世界を騙してやったよ」
スティーブは何も言わなかった。
ただ、銀色の嵐が通り過ぎた、あまりにも静かすぎるマンハッタンの空を、静かに見上げていた。
チームの理想も、大義の熱も、誰の犠牲も必要としない怪物の刃が、たった十秒で終わりを拒絶してみせたという、冷徹な現実の重みだけが、ニューヨークの喧騒の底へと、ゆっくりと沈殿していくのだった。
◆ ◆ ◆
とあるシールド所有のビルの一室。
スティーブ・ロジャースは、デスクを挟んで直立不動のまま佇む少女――エリン・マクカシーを見上げていた。
部屋の窓からは、夕暮れに染まるニューヨークの街並みが一望できる。
1940年代から現在へと、一瞬にして時代を飛び越えてしまったスティーブにとってこの街はかつて愛した場所でありながら、同時に激しい孤独を突きつけてくる異郷でもあった。
当時の戦友や、心を通わせた人々はおおよそ鬼籍に入っている。
だからこそ、彼は新入りである彼女に、同じような痛みを背負わせたくなかった。
仲間を孤独にさせない、誰も犠牲にしないという誓いは、彼の人生そのものだった。
「――エリン。夜間の単独パトロール、それから先日の爆撃機迎撃ミッションについて聞きたい」
スティーブは穏やかな、しかしどこか痛みを湛えた声で問いかけた。
「現実の10秒間、君はアクセルフォームの引き延ばされた主観世界で、3時間近くもたった一人で戦っていたと聞いた。
誰もいない静止した世界で、一人きりでミサイルを落とし続けるのは……肉体的にも精神的にも、激しい苦痛を伴うものだったんじゃないか?」
スティーブの瞳には、仲間を気遣う誠実な熱が宿っていた。
だが、対面する彼女の赤い瞳は、その熱をそっくりそのまま透過させるように冷たく、平坦だった。
「いいえ。完全な的外れです」
あまりにも素朴で、迷いのない拒絶だった。大根演技すら挟まない、純粋な事実の陳述。
「まず、夜間のパトロールは私にとって必要な体操であり、生体機能の定期的なチューニングにすぎません。また、街で出会うヴィジランテとの遭遇も、嫌いではありません」
「嫌いではない?」
「はい。損得を度外視し、見返りもないまま、アベンジャーズには遠く及ばない程度のスーパーパワーを用いて、自らの信念だけで悪と戦う彼らの存在は、人間における例外個体として極めて興味深いです」
彼女は淡々と続けた。
「もっとも、私が彼らを興味深いと評する背景には、融合捕食による自己強化の素材としての価値も、一応は含まれています。ただしその欲求のレベルは極めて低い。
異星人の武器や装甲、エネルギー炉に比べればあってないようなものです。
すでに高度にバランスが取れている現在の私の生体システムを崩してまで、彼らを捕食・融合するリスクを冒す理由は皆無です」
スティーブは言葉を失い、少しだけ目を細めた。彼女が捕食という単語をあまりにもビジネスライクに、かつゲームのカードのレアリティのように吐き捨てたからだ。
「……では、あのミサイル迎撃はどうなんだ? 誰の声も届かない世界で、ただ孤独に消耗していく時間は、本当に何も感じなかったのか?」
「ありません」
即答した。
「体力的な消耗がゼロとは言いませんが、それも高度に模倣し、純度を上げた私のフォトンブラッド体系により、即座に相殺・カバーできる程度でしかありません。
事実として、私は必要とあらば、6時間ベッドの中で微動だにせず、ひたすら同じ姿勢で横になり続けることも苦ではありません。
退屈や孤独感によって精神が摩耗するというシステムは、私の脳内には実装されていません」
常に生存を最優先し、日常の破綻を避けるための行動と計算を二十四時間秒単位で回し続けている彼女にとって、人間が抱く寂しさや隔離された恐怖といった概念は、そもそも処理ロジックの存在しない無縁の領域だったのだ。
1940年代を生き、変わり果てた未来という「遠い別世界」に取り残されたような、あの耐え難い孤独感と無縁でいられないスティーブにとって、彼女のその冷え切った、しかし強固に完成された価値観は、にわかには理解しがたいものだった。
彼がどれだけ熱を注いでも、彼女の計算式は揺らがない。
仲間として手を差し伸べたつもりが、彼女という鏡に跳ね返されてしまう。
それでも、スティーブは諦めなかった。
彼はふっと小さく苦笑すると、デスクの上に置いていた大きな手を、そっと開いて見せた。盾を持たない、ただの、一人の人間の手だった。
「……なるほど。君の計算式には、私の質問はノイズでしかなかったわけだ」
スティーブは椅子から立ち上がり、彼女と同じ目線に立った。
「君が退屈もしないし、孤独にも強い価値観だということは分かった。
だが、それは君が一人で平気だということの証明にはなっても、君が一人でいるべきだという理由にはならない」
エリンは首をわずかに傾げた。計算外の返答だった。
「君が一人で3時間戦って戻ってきたとき迎えるものが誰もいなければ、君の言う普通の日常は成立しない。違うか? だから、利害の計算でも、契約の一部としてでもいい。一つだけ、私と約束をしてくれないか」
「約束、ですか」
「そうだ」
スティーブは、かつて戦場へ赴く前に仲間たちと交わしたような、確かな温かさを声に込めた。
「君がパトロールや、あの静止した世界での任務から戻ってきたとき、私たちの誰かが君にお帰りと言う。その時君はただ形だけでいいから、ただいまと言葉を交わしてほしい。君が怪物だろうが、人間としての新入りだろうが関係ない。
戻ってくる場所があるという事実を、まずは言葉から始めよう」
エリンは、スティーブの顔をじっと見つめた。
ナターシャに「面倒くさい」と言われた人間の不確実性が、目の前のキャプテンの形をして、また新しい「非合理的なルール」を提示してきている。
ただいま、とお帰り。
母親との家でしか使わないはずのそのミクロな記号を、マクロなアベンジャーズの拠点で使うことの損得勘定を、彼女の頭脳は高速で弾き出そうとした。
だが、トニーの言う「先輩としての義務」や、ナターシャの「合格点」というピースが綺麗に噛み合い、最終的にひとつの妥協点へと落ち着く。
(……この男の機嫌を損ねず、戦力としての信頼を維持するためには、4文字の発声コストは極めて安価であると判断する)
「……わかりました」
短く、平坦な声で応じた。
「帰還時の挨拶プロトコルとして、以後、実行します」
「ああ、頼むよ」
スティーブは満足そうに微笑んだ。その笑顔は、彼女の冷たい計算をほんの少しだけ融かすような、確かな熱を帯びていた。
1940年代の兵士と、現代に擬態する怪物の少女。
決して交わることのない二つの世界線が、「ただいま」という不器用な約束を介して、静かに、しかし確かに動き出した。それこそが、アベンジャーズとしての、二人の本当のスタートだった。
◆ ◆ ◆
「……相変わらず、大真面目に空振る男だな、キャップは」
深夜のワークショップ。透過ホログラムに映し出されたスティーブとエリンの面談ログを閉じながら、トニー・スタークは皮肉混じりの溜息をついた。
トニーはJ.A.R.V.I.S.を介して、あの生真面目な兵士と新入りの怪物の対話をすべて盗み聞きしていた。
キャップの熱情が、最終的に彼女から「ただいま」と「お帰り」という歩み寄り、つまり発声コストの妥協を引き出したことについては、トニーをして認めざるを得なかった。それは大きな進歩であり、評価に値する。
だが同時に、そのプロセスはひどく滑稽でもあった。キャップは自分の1940年代からの孤独というフィルターを通してしか彼女を見ておらず、相手の本質的な価値観に寄り添うことのない、完全な的外れの心配をしていたからだ。
「現実の10秒、主観の3時間が苦痛か、だってさ。おめでたいねえ。あの子の頭脳は秒間何億回って計算を回してサバイバルしてるんだ。寂しいだの退屈だので脳味噌が焼き切れるようなヤワな設計じゃないっての」
トニーは冷えた炭酸水を口に含んだ。
しかし、とトニーは思う。
完璧に「人間」として彼女を扱い、真正面からぶつかってあの妥協点を引き出したことは――かつて深夜のキッチンで「人食い二人と、人間二人の約束」という、ある種の冷たい境界線を引いたまま利害を交わしたトニーには、逆立ちしても真似できない芸当だった。
怪物であることを承知の上で「仲間」の枠に強引に引き摺り込む、あの氷をも溶かすようなキャップの純粋な善性だけが成せる技だ。
トニーからしてみれば、世の中には偏屈な人間、共感能力の欠如した人間などいくらでもいる。
孤独感と無縁でいられる人間など、このマンハッタンのビジネス街を探せば珍しくも何ともない。
そして何より、今の彼女はもはや種族としての同類が地球上に存在しているかも怪しい存在だ。言ってみれば、野生絶滅に指定されるべき最後の一個体。
そんな絶望的な孤立の中で、孤独感ごときで精神が潰れるようなら、彼女はとっくの昔に生物として淘汰され、塵に還っていただろう。
生き残っているという事実そのものが、彼女の「個としての完結性」を証明している。
「……そもそも、次世代を残すための生殖能力すら持ち合わせているか怪しい。最初から群れる必要がないんだから、孤独に強いのも当然か」
トニーは彼女の生体データを脳内で反芻しながら、小さく呟いた。
彼女は絶滅種であり、完成された兵器であり、そして普通に憧れる新入りだ。
数日後の夕暮れ。
爆撃機の残骸処理を終え、数日ぶり戻ってきたトニーは、言いつけ通りにスタークタワーの最上階のオフィスでソファに座っているエリンの姿を視界に入れた。
携帯を無言で弄っているのは彼女の高度な分析能力に物を言わせて金融市場で荒稼ぎをしているのだろう。
いつもなら、トニーは「よお、新入り。首尾はどうだ?」とビジネスライクな声をかけるところだった。
だが、あのキャップの真摯さが、天才のへそ曲がりな脳裏に余計な悪戯を閃かせたのだ。
トニーはわざとらしく鍵の束をポケットで鳴らし軽い調子で言葉を投げかけた。
「ただいま、新入り」
その言葉は、あからさまに私的な領域の記号だった。
エリンは画面からゆっくりと視線を上げ、動きを止めた。
彼女の高度な計算装置は、トニーが「キャップとの面談内容を知った上で、意地悪なテスト、あるいは悪ふざけとしてこのプロトコルを実行した」ことを瞬時に見抜いた。
だが、彼女にとってその意図を追及するメリットはない。キャップと交わした「挨拶のコスト」は、アベンジャーズ全体へのリターンを維持するための安価な投資としてすでに処理されている。
彼女はいつも通りの、抑揚のない、しかしどこか少しだけ呆れたような平坦な声で、トニーの背中に向けて言葉を返した。
「おかえりなさい、スタークさん」
トニーは声に応えることも振り返ることもなく、そのままただ片手をひらひらと挙げて応え、再びエレベーターへと消えていった。
エリンもその背中を追いかけて駆けて行く。
二人の間には、キャップのような熱い情熱も、ナターシャのような深い心理分析もなかった。ただ、二人の怪物と、二人の人間としての、少し皮肉で、しかし確かに境界線が緩んだ瞬間だけが、静まり返ったオフィスに広がっていた。
◆ ◆ ◆
精密機器の駆動音と、液体の詰まったシリンダーから漏れる淡い緑の光だけが室内を照らしていた。
ブルース・バナー博士は、顕微鏡のレンズから目を離し、眼鏡を指先で押し上げた。
彼の向かい側には、黒いコートを着た少女――エリン・マクカシーが、いつも通り表情を一切動かさずに直立している。
「……キャップがね」
彼女は、電子機器を調べるような無機質な声で、ポツリと切り出した。
「私のパトロールや、アクセルフォームでの主観時間について、執拗に苦痛ではないかと訊ねてきました。自分が1940年代に置いてきた孤独というフィルターを通して、私をそこから遠ざけようとしていた。完全な的外れです」
「的外れ、かい?」
バナーは苦笑し、手元の書類を整理しながら彼女の次の言葉を待った。
「はい。そもそも私は、孤独という価値観とは無縁な精神構造をしています。野生絶滅の一個体として、群れる必要も次世代を残す設計もない。寂しさで潰れるようなシステムなら、とっくに塵に還っています。ですが……」
彼女の赤い瞳が、微かにバナーの顔を観察するように動く。
「キャップが時折見せるあの不自然な熱、あれが彼の言う孤独に由来するものだとするなら。バナー博士、あなたにも種類は違うけれど、似たようなものを感じます」
バナーの手が、ピタリと止まった。
「あなたはいつも、チームから、人間から、少しだけ線を引いている。私の近すぎず遠すぎない距離感とは違う。あなたは周りを傷つけないために、自分自身を檻に入れているように見える。
バナー博士。あなたも、私のように孤独という概念を完全に消し去った精神構造になりたいですか?」
あまりにも無邪気で、しかしあまりにも残酷な、怪物からの問いかけだった。
バナーは深く息を吐き、眼鏡を外して机に置いた。彼の脳裏に、自身の内側に巣食う「緑の怪物」の叫び声が響く。
「……なりたいか、だって? 正直に言うよ」
バナーは自嘲気味に微笑んだが、その瞳には深い疲弊と、文字通りの孤独が滲んでいた。
「なれるものなら、今すぐにでも君のその冷たい精神構造を分けてほしいくらいさ。僕にとって、彼と表裏一体でいることは……終わりのない苦痛であり、底なしの孤独そのものなんだから」
バナーは自分の震える指先を見つめた。
「どれだけ人と笑い合っていても、僕の内側にはいつでも世界を壊しかねない怪物が眠っている。周りのみんなが僕を人間として扱ってくれても、僕自身が自分を人間ではない何かだと片時も忘れられないんだ。キャップは時代に取り残された孤独だけど、僕は……人類という種族そのものから弾き出されたような孤独の中にいる。君のように、最初から寂しさを感じない設計だったら、どれだけ救われただろうね」
バナーの告白は、静かで、しかし重くラボの空気に沈殿した。
彼はハルクという呪いによって、誰よりも人間でありながら、誰よりも怪物としての孤独を強制されている男だった。
一方彼女はバナーのその言葉、血流の揺らぎ、そして精神の摩耗を冷徹に観察していた。
しかし、どれだけ観察を重ねても、彼女の脳内に孤独の痛みを共感する回路は存在しない。
彼がなぜそこまで苦しんでいるのか、その本質を理解することは、人間に擬態した生体兵器である彼女には不可能だった。
共感して、寄り添うことはできない。それが、怪物である彼女の現状の限界だった。
「……理解は、できません」
彼女は静かに言った。
「ですが、私の生存戦略において、あなたのその知性と安定はアベンジャーズの重要なリターンです。あなたのその孤独が、少しでも和らぐのであれば」
彼女は、直立させていた右手をゆっくりと伸ばした。
その手は機械のように硬質でもなく、AIのようにプログラムされた動きでもない。
捕食したオリジナル少女の残滓が、ほんの少しだけ人間に手を伸ばしたような、不器用な生体兵器の動きだった。
彼女の小さな、しかし驚異的な質量を秘めた手のひらが、バナーの震える手をそっと包み込み、握った。
人間のものとは明らかに違う、どこか熱を帯びすぎた、しかし驚くほど微動だにしない安定した手の温もり。
バナーは一瞬、驚いたように目を見開いた。だが、彼女の手から伝わってくる不自然なほどの静寂が、不思議と彼の内側の「緑の衝動」を穏やかに凪がせていくのを感じた。
「……ありがとう」
バナーは弱々しく、しかし心からの感謝を込めて微笑み、その手を静かに握り返した。
「計算ではありません」
彼女はバナーの手を握ったまま、視線を外して言った。
「ただ、あなたが壊れない方が、私の日常の計算が合う。それだけです」
二人はどちらも笑わなかった。
ただ、精密機器の駆動音だけが響く地下のラボで、怪物の冷たい合理性と、人間の底知れぬ孤独が、不器用につなぎ合わされたまま、深夜の静かな時間が流れていった。
MCU世界ならチタウリ襲撃の後に即座にパーツパクってテロする安心感がある。