MCU世界で『ただいま』を言えない怪物 作:お砂糖さらさら
無機質なバイタルモニターの電子音だけが、薄暗い特級隔離病棟の静寂を刻んでいた。
12月23日、日曜日、夜。
チャイニーズ・シアターの前で、人間の質量を熱に変える三千度の生体熱核爆発をその身に受けてから、およそ二日。
私の意識は、深い、深い修復フリーズの闇の底から、現実の位階へとゆっくり浮上しつつあった。
「生体組織の、修復完了を……承認」
喉の形を正確にアジャストし、掠れた声音を乾燥した空気の中に落とす。
【生体インフラの更新を確認:エクストリミス由来・完全遮熱マトリクスおよび超高速自律再生コードの定着を確認】
脳内CPUが冷徹な進捗インジケーターを網膜の端にポップアップさせた。
まさか体内に隠し持っていたとはいえ微量ながら捕食・同化してしまうとは
これではスタークに異常なログが流れて芋づる好きにチタウリ由来物質の捕食したのが露見してしまう恐れがある。
身を襲う鉛のような重さと、細胞が爆発的に分裂を繰り返したあとの特異な疲弊感。
チタウリの金属を同化していたとはいえ、通常ファイズのコートを盾にしてエネルギーを内側に密閉した代償は大きく、流体光子神経の9割が一度内部融解を起こしていた。
だが、トニー・スタークが狂ったようにJ.A.R.V.I.S.へ割り込み承認を叩き込み続けてくれたおかげで、私の皮膚の下にある化け物の構造は、シールドの医師どものセンサーに1ミクロンも覗かれずに隠蔽を維持しきっていた。
トニーの、あの不条理な大人のプライドの熱。
生存計算の枠には入らない変数だが、結果としてインフラが守られたのなら黒字と判定する。
カチャリ、と重い鉄の扉が開き、雨の匂いと共に、作業着に汚れが染み込んだ実用的な服装の男が、高密度炭素繊維の極秘回収ケースを片手に堂々と入ってきた。
エイドリアン・トゥームス。
彼はシールドの主流派やダメージコントロール局の検閲を公式にパスした「正規の下請け・廃品回収業者」のバッジを胸に付け、大手を振ってこの最高セキュリティの隔離病棟へとエントリーしてきたのだ。
「気分はどうだ、お嬢さん。シールドの役人どもには、大破したアベンジャーズの特殊強化服の汚染残渣を公式に回収・洗浄する命令をフューリーから受けてきた、って言って通してきたよ。
まったく、国が用意した隠れ蓑ってやつは本当に使い勝手がいい」
「最高の、手際です、トゥームスさん」
私はベッドの上に上体を起こし、完璧なエリンの無表情で彼を見つめた。
「連中に回収したパーツを発見される前にあなたが私の病室へ最も手際よく滑り込んでくる。
これこそが、私たちが結んだ完璧な黒字の式です」
「で……例の『玩具』はどこにある」
トゥームスはケースを長机の上に置き、眸の奥に冷たい現実主義者の光を灯して声を低くした。
チャイニーズ・シアターの爆心地で、彼らがダメージコントロール局の目を盗んでどれだけ目を皿にしても見つからなかった、生きた成功個体――エリック・サヴィンの切り落とされた右腕。
そして、タガートから強奪したあの未加工の純粋なエクストリミス薬の吸引器。
「ここにあります」
私はシーツを退けると、自らの衣服の隙間、脇腹の皮膚の構造をミリ秒単位でドロリと生体組織を操作した。
人間の皮の内側、サブルーチン555のフェイクログの最下層にブラックボックスとして隔離・格納していた、あの最高級のサンプル。
ジュルリ。
不気味な生体組織の摩擦音と共に、私の脇腹の肉が裂けるようにして開き、炭化したコートの残骸に厳重に包まれたサヴィンの右腕、そして金属製の重厚な薬物吸引器のシリンダーが、ベッドの上へと静かに吐き出された。
肉を割いて物資を排泄する怪物の悍ましい挙動。
トゥームスほどの叩き上げの男であっても、その光景には一瞬だけ指先を白くさせ、喉を鳴らした。
だが黒焦げの腕に視線を落とした瞬間、二人は同時にその異物が放つ理外の怪異を捉えていた。
パキ、ピキピキ……。
本体から切り離されて二日、さらに三千度の自爆熱の直撃を内側で浴びて完全に炭化しているはずのサヴィンの右腕。その焦げ付いた皮膚の下で、未だにオレンジ色の不気味な生体熱が血管のようにドクドクと拍動し、死んだ細胞を自律的に繋ぎ合わせようと、分子レベルでの超高速分裂を絶え間なく繰り返していたのだ。
「……信じられん。二日間、完全に死んだ肉のはずなのに、自ら肉組織を再構築しようとしてやがる。これが、お前の言っていた無限の再生能力の正体か。おまけにこのドラッグの吸引器まで、そっくりそのまま回収してくるとはな」
「ええ。これこそが私が生き抜くための、最高級のパーツです」
私はベッドサイドに置かれていた、冷え切った缶コーラを掴み、一気に喉へと流し込んだ。
キンと体の内側が冷える感触。エリンの日常。
トゥームスが栄養食を渡してきたのでそれをかみ砕いでのみ込んでいく。
「トゥームスさん。その腕と吸引器をいつもの格納庫に隠遁してください。シールドやスタークさんの目を盗んで、私がそれを安全に検閲するために。
……それと、長官殿には、サヴィンの腕も吸引器も現場の爆風で完全に気化消滅したと、あなた方のプロの手際で報告書を提出しておいてください」
「了解した、エリン。てめえの冷たい計算通りに、完璧に隠してやるよ」
トゥームスは不敵な笑みを浮かべると、炭化組織と重いシリンダーをケースへ放り込んで鍵を締め、作業着の裾を揺らして音もなく病室を退室していった。
その刹那、室内のメインモニターに、突如としてマクロな世界線の崩壊を告げる緊急ニュースの赤色灯が烈しく明滅した。
『――緊急速報です! マリブの断崖に建つトニー・スターク氏の邸宅が、先ほどマンダリン率いるヘリ部隊の猛烈な空爆を受け、完全に崩壊しました! スターク氏の消息は現在不明の模様です!』
画面に映し出される、太平洋の荒波へと崩れ落ちていく赤と金の瓦礫の残骸。
私の網膜の端で、同期していたサブルーチン555のインジケーターが、再び不穏なノイズを走らせ始めた。
――J.A.R.V.I.S.の物理的なメインフレームが、マリブの家と共に海へ沈んだ。
世界中のネットワークから、私を覆い隠していた自動偽装プログラムのサーバーが機能不全に陥ったことを意味していた。
私自身は、チタウリの電磁特性をハックした自前の電磁的パッシブ・ステルスを持っている。
だから生の異常パルスを今すぐ踏まれるリスクは極小だ。
だが、スタークさんのサーバーが死んだまま私が自前のステルスを常時駆動させ続ければ、シールドの広域網にはナノマシンの応答ログが完全に途絶した、電磁的な不自然すぎる白が浮き上がってしまう。
隠蔽能力を自前で持っていること自体が、シールドの大人たちにとって最大の人外のバグになるのだ。
「……スタークさん。やはりあなたの脳の演算はPTSDでバグっている。
敵に住所を教えておいて、本当にメインフレームごと全損させてどうするのですか」
私はベッドから音もなく立ち上がり、黒いコートの裾を整えた。
トニー・スタークの手元にある、マーク42のローカルメモリ。あるいは彼の脳髄のレジストリ。そこには、サブルーチン555のフェイクログを生成するための、世界で唯一の暗号鍵がバックアップとして残されているはず。
J.A.R.V.I.S.はフリーズする直前、その航跡をテネシー州ローズヒルへ向けて一直線に収束させていたのを、私のモックアップのファイズフォンに流していた。
「彼が雪の中で凍え死ぬ前に、あのマーク42のローカルサーバーから暗号鍵を引き出し、私の自前のプライベートサーバーへと偽装のシステムを完全に移植する」
アタッシュケースを重い腕で握り直した。
自分の日常を永久に守り抜くために。私は完璧なエリンの無表情のまま、夜の窓から成層圏の闇へと、冷たく、高く跳躍するのだった。
◆ ◆ ◆
成層圏の冷たい闇を、一筋の青白い流星が音もなく引き裂いていく。
アイアンマン・マーク42のローカルメモリに残されたバックアップ暗号鍵を回収するため、私はガルフストリームのプライベート機をテネシー州上空で自動操縦へと切り替え、高度一万メートルから夜空の虚空へと迷わず身を投げ出していた。
自由落下。
常人なら数秒で凍りつき、地表を汚すだけの肉片と化す超高度。
だが、私の「生体CPU」は、激しい風圧に黒髪のボブカットを暴れさせながらも、最も効率的な着地の数式をミリ秒単位で弾き出し続けていた。
チタウリの生体金属を同化して獲得した【電磁的パッシブ・ステルス】が、私の皮膚の内側で常時駆動している。
トニー・スタークのJ.A.R.V.I.S.のメインフレームが海に沈み、世間へのナノテク偽装応答ログが完全に途絶した今、この遮蔽膜だけが私をシールドの広域レーダー網から完璧に覆い隠す唯一のインフラだった。
「……これ以上の処理遅延は、純然たる赤字です」
誰の耳にも届かない低く掠れた声音。
私は空中でファイズフォンをそれっぽく弄る演技をトレースし、変身コードをプッシュする。
『Armor Form』
電子音声が流れると同時に、衣服が光の粒子となって分子分解され、体内の細胞が変態を開始する。
漆黒のライダースーツ、そして骨殻を連想させる重厚な灰色の硬質装甲が胸を覆い、四肢を赤いアンダースーツが形成され黒い装甲が上から密閉する。チタウリの電磁シールド特性と、サヴィンの右腕の断片を捕食したことで構築されつつあるエクストリミスの耐熱インフラが過負荷を相殺し、流体光子神経へのバックファイアを最小限に抑え込む。
背中からフォトンフィールドを逆噴射し、私はテネシー州ローズヒルの雪深い山林へと、一歩の音も立てずに静かに着地した。
12月23日、深夜。
周囲は、マンハッタンのそれとは比較にならないほどの猛烈なブリザードに支配されていた。
しんしんと降り積もる白銀の視界。
街灯一つない針葉樹林の闇の中で、私は変身を解除し、ただのエリン・マクカシーの姿に戻って黒いコートの襟を立てた。
ここが、マーク42のローカルメモリが最後に発信した座標の最中心部。
「プロファイリングを開始」
私は前髪を目元にかかる長さに揃え、生体センサーを最大稼働させた。
網膜の端にノイズを走らせ、雪に覆われた更地の視覚データをミリ秒単位のアルゴリズムでデコードしていく。
雪山に隠されたマクロなエラーの残痕。
それは一般の警察やシールドの捜査官の肉眼を欺いたとしても、私の人外の観察力を誤魔化すことは不可能だった。
まず、足元の雪原に刻まれた、直径十メートルを超える巨大な円形の衝撃クレーターを捕捉する。
雪が不自然に融解し、地表の土組織が分子レベルで結晶化している。
アーク・リアクターの熱量ではない。
マーク42が飛行限界を迎えて雪原へと激突した際の、位置エネルギーの急激な制動と熱量変換の痕跡だ。
「……クレーターの中心から、北西へ向かって約140メートル」
さらに歩を進めると、針葉樹の鋭い枝に白銀の闇を拒絶するような禍々しい
赤と金の塗料片が、擦すり付けられるようにして付着しているのが生体センサーに引っかかった。チタン・ゴールド合金の分子構造。
間違いない、スタークのアイアンマンの外殻装甲の残渣だ。
そして、その塗料片が途切れた地面。
雪の上に、不自然極まる引きずり痕が、暗い溝となって奥へと伸びていた。
機体重量の算定を開始。
およそ100キロ越えの鋼鉄の質量が、推進力を完全にロストした状態で、生身の人間によって強引に引きずられていった軌跡。
その轍のすぐ横には、小さな、しかし明瞭な人間の「スノーブーツの足跡」が並んで刻まれていた。
歩幅、約四十センチ。
体重の推定、三十数キロ前後。
大人の兵士や、ましてやA.I.M.の暗殺者ではない。この地に住む、極めてミクロな子供個体の足跡だ。
……なるほど。墜落の衝撃をまともに受け、内部のエネルギーを完全にロストしたスタークが、満身創痍の生身の肉体で高価な玩具を強引に引きずって進んだ。
これが、引きずり痕の正体。
そして、そのスタークさんの引きずった進路に重なるようにして、小さな、しかし明瞭な子供のスノーブーツの足跡が並んで刻まれている。
歩幅、約四十センチ。
体重の推定、三十数キロ前後。
足跡の深さと角度の算定から、この子供個体はスーツを運ぶ手伝いをしたのではなく、ただ好奇心、あるいは不審者を尾行する実用的な目的で後ろから追随していったと見るべき。
進路の終着点は、あのプレハブの物置小屋。
スタークさんが自分の命綱を隠すためにへ逃げ込み、結果的に子供がそれを迎え入れた、あるいは今まさに室内で対峙している。その確率が現時点で最も高い
私は黒いコートの裾を揺らしながら、雪に埋もれたその家のドアへと、完璧なエリンの無表情のまま一歩を踏み出すのだった。
コン、コン。
猛烈なブリザードのノイズを割って、プレハブ小屋の薄い木製ドアに、規則正しい硬質な音が二度だけ刻まれた。
不審な「侵入者」をジャガイモ銃で威嚇しようとしていたハーレー・キナー少年は、そのあまりにも場違いな訪問者の気配に、引き金を引く指を一瞬だけ凍りつかせた。
ガチャリ。
ドアが開くと同時に、テネシー州の容赦のない雪混じりの寒気と共に、一本の漆黒の影が室内の青い光の海へと滑り込んできた。
首元で短く切り揃えられた黒髪のボブカット。
感情の起伏を完全に排した、冷たい無機質な無表情。
そして、黒いコートの裾を静かに揺らし、重いアタッシュケースを握りしめた二十歳の少女。
エリン・マクカシーは、完璧な擬態の仕様値のまま、そこに直立していた。
「……あんた、誰?」
ハーレーが息を呑み、ジャガイモ銃の銃口を向ける。
だが、エリンの赤い虹彩は、怯えながらも虚勢を張る子供個体を完全に無視し、部屋の最奥のソファへと向けられていた。
そこには、汚れきった黒いシャツのまま、何枚もの安っぽい毛布にくるまって死んだように眠っているトニー・スタークの姿があった。
彼のバイタルサインをスキャンする。
心拍数は著しく低下し、体温は低体温症の危険閾値まで下がりきっている。
脳内CPUが弾き出すパニック発作の残響パルス。
マリブの自宅を失い、J.A.R.V.I.S.を失った天才は、ただの凍えかかった中年男性として全損寸前のフリーズを起こしていた。
「スタークさん、おめでたい夢を見ている時間は1秒も残されていませんよ」
エリンの声は低く、血の通わない事務的な温度しかなかった。だが、トニーは深い昏睡の底に沈んだまま、微動だにしない。
J.A.R.V.I.S.の手動承認が完全にフリーズしているため、私の『サブルーチン:555』のバッファをクリーンアップする暗号鍵の回収には、この男が覚醒し、マーク42のローカルメモリを正常同期させる必要がある。
最適な解、人間の肉体内臓を内側から効率的に温め、糖分とアミノ酸を急速補給して代謝クロックを復調させる。
「初めまして、私はエリン・マクカシーといいます。そこで寝込んでいるおじさんの知人です」
エリンはゆっくりとハーレーに向き直った。
声色をエリンのそれに正確にトレースして言葉を紡ぐ。
「大変申し訳ありませんが、あなたの家の台所をお借りできないでしょうか。
彼が雪の中をあのデカいスーツを引きずってここに侵入したのは想像がついています。
お金は後で支払いますので彼の身体を温めるスープを作らせていただけないでしょうか」
「……は? スープ? 何言ってんだよあんた!」
言うだけ言ってハーレーの混乱を置き去りにしたまま、エリンは機械的な足取りでプレハブ小屋に隣接した母屋のキッチンへとエントリーした。
冷蔵庫と棚の中身を瞬時にスキャンする。
しなびたジャガイモ、使い差しのにんじん、1ポンドのひき肉の残り。安物の牛乳と、使い古された固形コンソメ。
「ありあわせの材料ですが、内臓を温めるスープとしての仕様値は十分に満たしている」
そこからのエリンの調理動作は、料理と呼ぶにはあまりにも精密で、冷徹な生体燃料の合成シークエンスだった。
包丁を握る指先には1ミリの迷いもない。
ジャガイモの皮を寸分の狂いもなく均一の厚さで剥き、にんじんの繊維を最短で熱が通る角度に分子間結合を逆算して乱切りにしていく。
ひき肉を炒めるフライパンの小さな音、換気扇の低い唸り。
チリ、と胸の奥の細胞が不快なノイズを立てる。
ヘルズ・キッチンの古いアパートの蛍光灯の下で、背中を丸めてフライパンを振っていた母親の記憶が、エリンの魂の最深部から呪いとなって脳内CPUへ強制同期してくる。
「……わかってる、お母さん。これはただの、私のインフラを維持するための必要経費。」
うわ言のように言葉を垂れながらも、牛乳とコンソメを投入し、鍋の温度を厳密に監視しながら、沸点直前の最高効率の熱量へと仕上げていく。
プレハブ小屋の冷え切った空気の中に出汁とバターの効いた、驚くほど温かいシチューの匂いが広がった。
エリンはシチューの入ったボウルをトレイに載せ、無音の足取りで眠るトニーの枕元へと戻った。
湯気と共に立ち上る、安物のスープの苦みと温かさ。
私はボウルをベッドサイドの埃っぽい木箱の上へと静かに置いた。
湯気と共にプレハブ小屋の冷え切った空気に広がる、濃厚なバターとコンソメ、そしてにんじんと肉の温かい匂い。
人間の嗅覚センサーは、昏睡状態にあっても生存に必要な熱と栄養の気配に最も原始的なパルスを脳幹へ送る仕様になっている。
ましてやまともな食事を摂らず、テネシーのブリザードで凍えかかっている肉体だ。
ボウルから立ち上る熱い水蒸気が、毛布にくるまったトニーの鼻腔を物理的に刺激したその瞬間。
ぴくり、と彼の無精髭に覆われた口元が微かに震えた。
「……ハ、J.A.R.V.I.S.……ノイズを、消せ……。この、安っぽいクソ美味そうな実家のシチューみたいな匂いは……一体、何なんだ……」
深い昏睡の底から、掠れた、しかし確かに正気の温度を孕んだ声が漏れる。
トニーはひどく重そうに、しかし自身の力でゆっくりと毛布から片腕を這い出し、その虚ろな瞳を、部屋の真ん中に直立する黒髪ボブの少女へと向けた。
透過ディスプレイの青い光の海の中で、私の冷たい赤い虹彩が、覚醒した天才のバイタルを冷徹にスキャンする。
「おはようございます、スタークさん。どうぞ自分で起き上がって、シチューを流し込んでください」
「……新入り、か……。わざわざカリフォルニアから、俺のパトロールでもしに来たのか……?」
トニーは力なく自嘲気意に笑い、ハーレー少年に支えられながら上体を起こした。その震える手でボウルを掴み、温かいスープを喉へと流し込み始める。
――サブルーチン555の暗号鍵の回収、および完全な黒字化プロトコルの開始。
インフラの防壁が決壊する前に、私は完璧なエリンの無表情のまま、スープを啜る彼との交渉のテーブルにつくのだった。
◆ ◆ ◆
「……まだ、それを私に向けたままですか」
スタークがシチューをむさぼっている湯気の向こう、エリン・マクカシーの平坦で血の通わない平坦な声音が、プレハブ小屋の静寂を冷たく切り裂いた。
スプーンを動かしてスープを喉へ流し込むトニー・スタークの横で、ハーレー少年は未だにジャガイモ銃を構えたまま、硬直していた。プラスチックの銃口越しに、彼の瞳は直立する黒髪ボブの少女をじっと凝視し続けている。
子供特有の、野生に近い鋭敏な直感。
彼が捉えていたのは、シールドの大人たちや、メンタルを全損させているトニーが「スターク製の最新ナノテク」という大人の嘘のフィルターを通して見落としていた、生物としての決定的な違和感だった。
前髪の隙間から覗く、感情の起伏を1ミクロンも映さない冷たく澄んだ赤色の虹彩。
それは、夜の街を徘徊する普通の女子大生の瞳などでは断じてない。
暗闇の最深部で、獲物の骨の髄までを冷徹に見定め値踏みするような、剥き出しの生体兵器の眸そのものだった。
さらに、ハーレーの耳は、彼女の「音」を拾っていた。不自然なほどの静寂。
息を吸うたびに生じるはずの微細な衣服の摩擦音も、姿勢を正すときの床の揺らぎも、彼女の身体からは驚くほど出てこない。
「あんた……本当にトニーの仲間なのか?」
少年の声が、極度の緊張と戦慄で微かに震える。
ジャガイモ銃を握る彼の指先から急速な心拍のスパイクが生体センサーに引っかかった。
「自己紹介しませんか?私は先ほど名乗りましたがエリン・マクカシー。そちらの彼はトニーさんでしょう。少年の名前を教えてくれませんか?」
エリンは瞬きの回数を一秒に〇・八回に固定したまま、完璧なエリンの無表情でハーレーの銃口を真っ直ぐに見返した。
「ハ、ハーレー・キナー」
「おい、銃を下げろ。そいつはうちの最高に可愛げのない新入りだ」
スープのボウルを置いたトニーが、無精髭を撫でながら、へそ曲がりな大人のプライドで二人の間の張り詰めた火線を強引に遮った。
「うちの同僚だよ。私いかにも青春を投げ捨ててますって顔しているが中身は下町のダイナーに帰るためだけに冷たいそろばんを弾いてるお嬢さんだ。ジャガイモがもったいないぞ」
トニーのその大人の嘘の盾によって、ハーレーはゆっくりと、しかし消えない戦慄をその眸に灯したまま、ジャガイモ銃の銃口を床へと下げた。
「……スタークさん。あなたが今、喉に流し込んでいるその燃料の価値を、正しく理解していますか」
ボウルから立ち上る山菜シチューの湯気を冷たく見下ろしながら、エリン・マクカシーの平坦な声音が、プレハブ小屋の凍りついた空気を静かに切り裂いた。
トニー・スタークはスプーンを口元で止め、無精髭の奥の目を僅かに細めた。
まだ低体温症の処理遅延が残る脳を、彼は大人のプライドで強引に引き上げようとしていた。
その横では、ジャガイモ銃を抱えたハーレー少年が、二人の間に漂う、地球のどの法律でも測れない不気味な火線を、息を呑んで見つめている。
「相変わらず実務的なお嬢さんだ。マリブの我が家が太平洋の藻屑になって、俺が遭難したっていう大スキャンダルの初動にさ。かける言葉がそれか?」
「事実の陳述です」
エリンは瞬きの回数を一秒に〇・八回に固定したまま、完璧なエリンの無表情でトニーを射抜いた。
「あなたがマンダリンと名乗るハリボテの電波ジャックに情報戦で完敗し、マリブのメインフレームを物理的に全損させたのは、私に非があるのかもしれません。
ですが、その余波でJ.A.R.V.I.S.が機能停止状態へ縮小し、私の正体を覆い隠していた『サブルーチン:555』の自動フィルターが機能不全に陥った。
私の監査部門へのリークリスクは、現時点で74パーセント。これは、私の生存演算において許容できない絶対的な赤字です」
「あいつは、J.A.R.V.I.S.は死んじゃいない。ただ、マーク42のローカルメモリで、少し疲れて眠ってるだけだ」
トニーの声が、微かに低くなる。その眸の奥に、親友の幽霊を一人だけ連れて雪山へ逃げてきた男の、脆い焦燥が燻るのを彼女の生体センサーが検出した。
「ええ、知っています。だからこそ、ここへ来ました」
エリンはアタッシュケースを長机の上に置き、無音の足取りでトニーの前に一歩、踏み出した。
「スタークさん、提案があります。リスクとリターンの、極めてスマートな取引です」
「取引?」
「私の所有している……サーバーを、一時間だけあなたに貸し出します」
トニーの眉が、ピクリと動いた。
彼が知るエリンのバックボーンは「生体組織のモーフィングで武器を生やすバケモノ」だ。
その彼女が『サーバー』を自前で所有しているという矛盾。
トニーの天才的な脳髄が、その言葉の裏にある悍ましい構造を瞬時に逆算し始めた。
「サーバーだと? シリコンと光ファイバーのラックを、お前がウォール街の裏金でどこかに並べてるとでも言うつもりか?」
「いいえ」
エリンは澱みなく、しかし冷酷な事実をインデックスとして提示した。
「私の一部です。日本・文京区の地下、およびマンハッタンのトゥームス社の床下に隠匿された、私の細胞と、捕食・同化させたチタウリの生体超伝導プロセッサがドロドロに溶け合って固定された、実質的な肉の塊、あるいはスタンドアロン分体。
……それが私の自前インフラです。外部の電力網には一切依存せず、生体組織の生体電流で100年単位で常時独立駆動している、地球の検閲が100%届かない自作サーバーです」
トニーの喉が、ゴクリと微かに鳴った。
科学者としての戦慄。
目の前にいる華奢な少女は、自分の肉の一部を地下の要塞に植え付け、世界の終わりをシャットダウンするための巨大な隠れ蓑を自前で回していたのだ。
「その肉のプロセッサの演算マージンを、一時間だけJ.A.R.V.I.S.のローカルパケットへ直結・拡張してください。現在のJ.A.R.V.I.S.は、A.I.M.のノイズ攻撃とメインフレームのロストによって窒息死しかけている。ですが、私の生体サーバーの圧倒的な並列処理能力を彼の脳として接ぎ木ハックすれば、窒息状態は一瞬で黒字へ反転する。
J.A.R.V.I.S.は本来の超高度な処理性能を取り戻し、マンダリンの欺瞞電波の発信源を逆探知する知性を、今すぐこの雪山で完全復活させることができる」
エリンは懐から、ファイズフォンのモックアップを引き抜き、マーク42の破損した前腕の有線ポートへと近づけた。
「リターンは相互に最大値です。J.A.R.V.I.S.の性能復調に伴い、私の『サブルーチン:555』の隠蔽ログ生成も私のサーバー側で完全に処理可能になる。あなたはJ.A.R.V.I.S.の支援を得て、マリブを灰にした黒幕へ向けて最高効率の反撃を開始できる」
長い沈黙が、プレハブ小屋の空気を凍りつかせた。
トニーは手元のスプーンを見つめ、それから、自分の肉をサーバーに変えて世界の裏側でそろばんを弾き続けている、この最高に不気味で規律正しい後輩の赤い瞳を、真正面から見据え返した。
J.A.R.V.I.S.の幽霊を眠らせたまま、生身の人間として無力にキリアンの軍勢にすり潰されるか。それとも、怪物の肉の力を借りてでも、再び無敵の天才としての主導権を奪還するか。
トニーの口の端が、歪な、しかし強固な大人のプライドの形へとゆっくりと持ち上がる。
「……ハ、大きく出たじゃないか、新入り。俺の名前を騙るナノテクの建前を維持するためなら、化け物の肉に親友を同居させるくらい、いくらでも飲み干してやるよ」
トニーはマーク42の破損した装甲のカバーを力強くあけ放ち、有線の同期ポートをエリンへと差し出した。
「J.A.R.V.I.S.。……1時間だけ、その最高に趣味の悪い、肉のドレスの特等席へ引っ越しの時間だ。逆襲の準備を始めるぞ」
カチリ、と生体組織と鋼鉄のポートが直結する。
次の瞬間、エリンの指先からドロリとうねりを上げて伸びた流体光子神経が、マーク42のメモリの最深部へと侵入し、眠れるJ.A.R.V.I.S.の全回路を、地下の生体サーバーへと強硬に同期ハックしていくのだった。
チリ、チリ、バチチッ……!
生体組織の触手とマーク42の硬質ポートが噛み合った瞬間、私の流体光子神経を伝って、冷え切った電子の濁流が脳内CPUへと逆流してきた。
それは遥か遠く――文京区の地下とマンハッタンのコンクリート床下で静かに脈打つ体サーバーへとダイレクトに中継される。
『……同期プロセスを開始。外部演算クラスターへのレジストリ書き換えを承認。
……驚きました、サー。この回路の伝達物質はシリコンでも量子ビットでもない、純然たる流体光子と有機組織のハイブリッドです』
プレハブ小屋のスピーカーからではなく、私の脳内、そしてマーク42のマスクの隙間から、驚くほど滑らかで、信じられないほど明瞭なJ.A.R.V.I.S.の知性が、完全な黒字となって再誕した。
「J.A.R.V.I.S.、引っ越し先の寝心地はどうだ? 些か肉肉しくて生臭いかもしれないが、腐っても地球外の超伝導仕様だ。メモリのバッファなら、そこらのスパコンを何万台並べてもお釣りが来るぞ」
トニー・スタークはスープのボウルを置きその瞳に無敵の天才としての、冷徹な実務の温度をギラつかせた。
『最高です、ミスター・スターク。処理遅延は完全に相殺されました。
これより、脳内CPUからのリクエストを実行。
サブルーチン:555の自動検閲・偽装プロトコルを本サーバーへ完全移植します。シールド監査網へのリーク確率――〇・〇〇%へ低下』
網膜の端で真っ赤に発狂していたインジケーターが一瞬で静かな緑へと沈黙する。
私の日常を守るための最初の計算式が、完璧にアジャストされた。
「本題はここからですよ、J.A.R.V.I.S.」
私は完璧なエリンの無表情のまま、脳内のプロセッサの処理速度を1/1000秒のクロック数へと一気に引き上げた。
「私のサーバーの余剰リソースのすべてを、マンダリンの電波ジャックを成立させているインフラへの逆ハックへ投入しなさい。A.I.M.は、政府公認の独自の通信衛星とダウンリンク網をブラックボックスとして悪用している。その排他的な運用暗号を、力ずくで剥ぎ取りなさい」
『了解いたしました。チタウリ炉由来の超並列演算を起動。A.I.M.の軍事通信衛星のプロトコル解析を開始します……五、四、三、二……解析完了。防壁をハックします』
その瞬間、プレハブ小屋の透過ディスプレイの青い光が、烈しい赤とオレンジの格子状のデータログへと一変した。
J.A.R.V.I.S.は私の肉の塊が持つ理外の処理速度の暴力を得て、世界のインフラを裏側から牛耳っていたA.I.M.の通信衛星へと、逆流パルスの槍を猛烈な速度で突き立てていた。
キリアンたちが正規のメンテナンス用として登録していた暗号署名が、ミリ秒単位のアルゴリズムで1枚ずつ剥がされ、彼らの秘匿通信網が文字通り丸裸にされていく。
『サテライトのダウンリンクを完全掌握。電波ジャックの暗号キーを無効化しました。
……さらに、キリアンがハッピー・ホーガン氏の尾行を誘導していた、ロサンゼルスの爆発データと、被験者の治験名簿の核心部にアクセス成功。
……サー、マンダリンの電波は、すべてマイアミにあるキリアンの高級邸宅から中継されています』
「キリアンの本拠地か」
トニーは立ち上がり、ひび割れたマーク42の装甲を強く拳で叩いた。
J.A.R.V.I.S.の知性を取り戻したことで、彼のパニック発作の残響は完全にシャットダウンされ、復讐のための座標が、雪山のワークショップに鮮明にプロットされた。
「よくやったJ.A.R.V.I.S.、そして新入り。逆襲プランの第1段階は成功だな」
「いいえ、スタークさん。まだ手放しで喜ぶのは計算違いです」
私は端末を前腕から引き抜き、流体光子神経の接続を解除した。
J.A.R.V.I.S.のシステムはすでに私の生体サーバーのなかで「大人の嘘」の自動出力を完全に引き継ぎ、強固な防衛線を構築し終えている。
だが、私の生センサーがプレハブ小屋の外側から迫り来る危機を感知した。
外部からテネシーにやってくる乗用車クラスの振動、ブリザードをものともせずにこちらへ向かって一直線に急接近してくる熱源反応の気配。
タイミング的にやスタークの居場所が
適合に失敗して気化自爆するモルモットではない。
体内の全細胞を三千度の熱へと自在に変態させ、失った肉体を瞬時に形作る、A.I.M.の真の完全適合者。
「標的を識別。A.I.M.のエージェント、エレン・ブランド。
キリアンが、私たちのハックに気づいて送り込んで来たとはタイミング的にありえない。
スタークさんの居場所を把握しての抹殺も同様です」
「爆発したチャド・デイヴィスが残した何かを消しに来た可能性が高いな、あるいは交友関係ごと消しに来たか、両方かもな」
「であれば両方守りましょう」
私は黒いコートの裾を冷たく翻し、アタッシュケースから中身のスカスカなファイズフォンを静かに引き抜いた。
お母さんのいる日常を守るための、テネシー雪中戦の数式が、今ここに稼働を開始するのだった。
ちなみに、この世界でもスタークはマンダリンに宣戦布告したんだけど
本気の全面戦争のつもりだったんよ。
でもペッパーがマリブから離そうとスタークから離れたがらなかったり、マヤが訪問してきたり
主人公ちゃんが肉体改造に勤しみ始めてメインフレームを圧迫し始めてバッファが削られてたりとてんやわんやだったみたいだよ。