MCU世界で『ただいま』を言えない怪物 作:お砂糖さらさら
12月24日、クリスマスイブの午後。
ニューヨークへ向けて成層圏をマッハで北上するガルフストリームのキャビンは、精密機器の排熱音だけが響く静寂に満ちていた。
私はシートに黒いコートの裾を滑り込ませたまま、マーク42から延びる有線同期ポートを、自分の前腕の流体光子神経、あるいは有機光ファイバーから静かに引き抜いた。
ズルリ、と肉が裂ける不気味な生体摩擦音を立てて生体組織が皮膚の内側へと格納されていく。
私の肉の生体サーバーに居座っていたJ.A.R.V.I.S.のローカルパケットが、トニー・スタークの新たなストレージへと完全に逆転送・引っ越しを完了した合図だった。
『……マクカシー分析官。私のシステムをあなたの、その最高に趣味の悪い特等席へ居座らせていただいたことに、心からの感謝を。お陰で、ボスを失わずに済みました』
私の脳内CPUへ直接流れ込んできたJ.A.R.V.I.S.の最後のクリアな音声を聴き流しながら、私はいつもの完璧なエリンの無表情のまま、冷え切った缶コーラを一口啜った。キンと体の内側が冷える感触。私の日常の記号。
「用が済んだのなら結構です、J.A.R.V.I.S.。おかげで私の『サブルーチン:555』の隠蔽ログ生成も、私の自前サーバー側で100%エラーなく自動出力できるようにプログラムが定着しました。これ以上の相互レンタルは、お互いに無駄な処理遅延を生むだけですから」
その冷たい算定の言葉を遮るように、向かいの席に腰掛けていたトニー・スタークが、プシッと缶コーラを開ける軽い音を響かせた。
無精髭を乱暴に擦りながら、彼は眼鏡の奥の鋭い眸を私の黒髪ボブへと真っ直ぐに向けてきた。その声には、パニック発作のバグも、テネシーでの遭難の疲弊もない。あるのは、すべてを冷徹に見通している「大先輩」としての、底知れない実務の温度だけだった。
「で……本題だ、新入り」
トニーはコーラを一口含み、長机の上に肘を突いて身を乗り出した。
「お前、俺のJ.A.R.V.I.S.に『肉のサーバー』を貸し出すってディールの時に、さらっと最高に面白い情報を滑り込ませてくれたな。
日本と下町のドックに、自分の肉の一部を植え付けて、自家発電で100年動く独立サーバーを作った、と」
「事実の陳述ですが」
「それだけじゃない。お前、その肉のラックの中に、俺たちの目を盗んで回収したチタウリの生体装甲や電磁シールドを、こっそり『捕食・同化』して冷却システムや自家発電のパーツに再編成しやがったろ。
俺が設計してない異物の波形が、J.A.R.V.I.S.の引っ越しログの最下層にびっしりと張り付いてるんだよ」
トニーの視線が、かすかに鋭い。
私がフューリーへの虚偽報告の裏で、エイドリアン・トゥームスと最悪の共犯関係を結び、宇宙の鉄屑をタダの「餌」として貪り喰っていた事実。
この天才の目は、その生々しい人外のアップデートを、完全に看破していた。
「……私の生存演算において、自前のインフラを強化することは当然の安全マージンです、スタークさん。あなたがパニックで機能不全を起こしても私のカバーが割れないように、自前で数式をアジャストしたにすぎません」
「怒ってるわけじゃないさ」
トニーは肩をすくめ、自嘲気味に笑った。その笑みの裏にあるのは、かつて自社の兵器で間接的に何万人もの命を焼き尽くし、キルスコアのトップを走り続けてきた男の、剥き出しの業だった。
「俺の名前を語るハイテクの建前を崩さない限り、お前がどれだけ不気味な肉を拡張しようが、宇宙のゴミを貪り喰おうが、俺がセンサーの嘘を永久につき続けてやる。……それが俺たちの交わした約束だろ?」
トニーはコーラの缶を机に置き、私の冷たい赤い虹彩を真正面から見つめ返した。
「キャップはお前を『まっとうな人間』とやらに修正しようと必死だが、俺の認識は違う。
……なぁ、エリン。
お前は本物のエリン・マクカシーという、たった一人の人間の女の子をその細い喉から骨ごと貪り喰って、その人生を乗っ取ったバケモノだ。
そして俺は、自分のエゴとテクノロジーで、結果的に大勢の人間の明日をすり潰してきた怪物だ。俺とお前は、同じ種類の『人を食う怪物』の先輩後輩なんだよ」
人食いの罪。
トニーの口から漏れた、その隠蔽プロトコルの核心。
私が貪り喰った本物の少女の命の重みを、この男はすべて知った上で、その業のすべてをナノテクノロジーの不具合、スタークの社名という名の「鎖」の中に包み込もうとしていた。
「だがな、その一方でお前がどれだけ冷徹な計算機を気取って、世界を救うのはただの必要経費だと言い張ろうがさ。
嫌いな悪党のタイプだけは異常に具体的だし、24日の夜12時までに下町のアパートへ帰って母親と安物のケーキを食べるために死に物狂いで激走する。
……バケモノの肉の檻のなかに、死んだ少女の切ない夢が楔として打ち込まれてて、それがすべての計算を黒字にしてる。
その温めの冷たいリアリズムが、俺は最高に規律が取れてて人間らしいと思うんだよ」
トニーは立ち上がり、メインコンソールへ歩み寄りながら、視線操作だけで『サブルーチン:555』の暗号鍵を私の自前サーバーのレジストリへと完全に同期・上書き保存した。
「俺が生きている限り、お前のその正体は、俺の最新アーマーの仕様値として世界から隠し通してやる。
だからお前は、そのエリン・マクカシーの皮を纏ってどれだけ痛い思いをしても、お前の守りたいものを守りぬけ。
キルスコアトップの先輩からの、これが新しい共犯関係の更新の条件だ」
「……了解しました、スタークさん」
私は紅い瞳を冷たく細め、完成された完璧なエリンの無表情のまま、平坦に、脳内CPUの回答を返した。
「あなたが私の後ろ盾になってくれるからこそ、フューリー長官との薄氷の契約が維持されるのですから。そのためのコストなどいくらでも支払いますよ」
キャビンの透過ディスプレイに、緑色の【同期完了】【555-UPDATED】のログが美しくポップアップする。
トニー・スタークという天才が自ら組んだ隠蔽の鎖が、私のチタウリ生体サーバーと完全に融け合い、より強固なインフラとなって再誕した瞬間だった。
ガルフストリームのフロントガラスの向こう、雪煙の晴れたマンハッタンのきらびやかな摩天楼の灯りが、夕暮れの川面に静かに揺れ始めていた。
笑わない怪物と、大人の嘘の鎖を握り直した天才。
二人の人を食う怪物の間で新たに約束が更新されたのだった。
◆ ◆ ◆
成層圏の静寂を、シールド偏流ステルス仕様のガルフストリームが2.2の超音速で突き進んでいく。
外光の遮断されたキャビンの中、私は隻眼の管理官へ向けて、完全に隔離された非公式の暗号回線を開いた。
一秒の無音。
スピーカーの不快なノイズを割って滑り込んできたのはニック・フューリー長官の、珍しく安堵と混ざり合った低い声だった。
『マクカシーか。マイアミのA.I.M.のアジトが、忽然と大爆発のログを遺して完全消滅したと報告が入った。お前は、一体どれだけの速度でチェス盤の王手を執行したんだ』
「シールドの特権ありきですよ。では最終監査報告です、長官殿」
私は喉の筋肉の摩擦をエリン・マクカシーの仕様に正確に固定し、血の通わない平坦な声を滑り込ませた。
「結論から申し上げますと、アルドリッチ・キリアン、およびA.I.M.の私設軍隊の総勢38名は、私のフォトンブラッドの最大出力による熱分解によって物証ごとこの世から完全に消滅しました。回収可能なサンプルはありません」
私はプルタブを弾いた缶コーラを一口啜り、完璧なエリンの無表情のまま冷酷な実績のインデックスを流し込んだ。
「J.A.R.V.I.S.を私の所有するサーバーに直結させてA.I.M.の通信衛星の防壁を力ずくでこじ開けた結果、彼らがマンダリンというハリボテの裏で画策していた、国家転覆の式はすべて未然にシャットダウンされました。
スタークさんのアキレス腱であるペッパー社長を完全救出し、軟禁されていたローディ氏の身柄も奪還。
マーク42を鋼鉄の檻に変えてキリアンを拘束し、ハウス・パーティー・プロトコルで召集されたアーマー軍団のリパルサー集中豪雨によって黒幕のすべてを引き算しました。
爆風は私のフォトンフィールドで完璧に敷地内に密閉してあります」
インカムの向こうで、フューリーが激しい政治的敗北感を噛み締めるような、重々しい衣服の擦れる音が聞こえた。
12月21日の朝に依頼を出してから、わずか48時間。人間の皮を被った怪物が世界中のインフラを裏側からすべて掌握し、キリアンの帝国を1人で完全に終わらせてみせたという現実に対する絶対的な沈黙。
『完璧すぎて、まるでファンタジーとしか言えない処理速度だな、マクカシー』
フューリーは低く、しかしこれまでにない重みを持った声を絞り出した。
『お前がマイアミの地を飛び立った直後、ワシントンでも大きな処理が完了した。
ロドリゲス副大統領が、すべての罪を認めて公式に自首・失脚したぞ』
「手間が省けたのは重畳ではないですか」
私は赤い瞳を僅かに冷たく細めた。
『お前が事前にプロファイリングした通りだ。あの男は生まれつき片足を失っている幼い娘に、キリアンの再生医療を欲していた。
その個人的なエゴに付け込まれ、国防総省の軍事インフラやパトリオットのOSをA.I.M.へ横流しし、合衆国憲法修正第25条を強制発動させて自らがホワイトハウスの頂点へ繰り上がろうとした大統領暗殺計画への加担――その動かぬ証拠が、本人の元へ突きつけられた。
A.I.M.の完全な壊滅を前にして、副大統領の心理的防衛線は一瞬で崩壊したよ』
「それは何よりです、長官殿。政府の内側にあった錆びた鍵が自ら罪を認めたのなら、私のこれからの日常のインフラ維持費用は大幅に黒字化します」
『今回のミッションログは、シールドの公式サーバーから1行も残らず抹消し、スターク社製ナノテクの正常稼働バグとして処理を完了した。
マクカシー、お前の母親のセーフティは永久に継続してやる。さっさとマンハッタンへ帰投しろ』
「了承しました、長官殿」
プツン、と暗号通信が一方的に切断され向かいの席でマーク42のローカルメモリを調整しているトニー・スタークへと視線を戻した。
サブルーチン555のデータの完全移植は完了し、スタークとの約束も美しくアジャストされている。
ガルフストリームのフロントガラスの向こう、雪煙の晴れたマンハッタンのきらびやかな摩天楼の灯りが、夕暮れの川面に静かに揺れ始めていた。
世界を揺るがしたすべてが引き算され、私の帰るべきインフラはミリ単位の狂いもなく維持されている。
私は完璧なエリンの無表情のまま、換気扇の低い唸りと古い油の匂いが待つヘルズ・キッチンのアパートへ、完璧な日常の記号である「ただいま」を告げるために、無音の足取りで滑らかに帰還するのだった。
◆ ◆ ◆
ガルフストリームのプライベート機からマンハッタンの漆黒の闇へと滑らかに帰還した私は錆びついた赤煉瓦のアパートの非常階段を、一段ずつゆっくりと上っていた。
12月24日の夜22時
トニー・スタークが「シンデレラ」と揶揄したタイムリミットまで、残りわずか。私の脳内CPUは、室内のバイタルサインを瞬時にスキャンしていた。
識別:母親。心拍数、呼吸間隔ともに完全に正常な範囲内。
ニック・フューリーとのリスクリターン契約、そしてキリアンの完全な引き算により、彼女の日常という名のインフラは、完璧な黒字マージンのまま死守されていた。
ガチャリ、と音を立てて、私はアパートの重い鉄のドアをゆっくりと開けた。
室内には、換気扇の低い唸りとともに、微かに焦げ付いた油の匂いと、安物の薄いコーヒーの苦味が重く停滞していた。いつも通りの、温かみのない、冷え切った日常。
しかし、これこそが、私が命を削り、世界を騙し、宇宙の鉄屑や適合者の肉すら貪り喰って守り抜いた、至高の幸福の在処だった。
「……エリン? お帰り。ずいぶんと遅かったじゃない」
玄関の明かりをつけた音に反応して、奥の薄暗いリビングから、エプロン姿のまま私を待っていた母親がゆっくりと立ち上がってきた。
私は前髪を目元にかかる長さに揃え、瞬きの回数を一秒に0・8回にアジャストし、エリン・マクカシーの声色を滑り込ませた。
「すみません、お母さん。少し遠方での残務処理が長引いてしまって……ただいま戻りました」
だが、その私の姿を見た母親は、ソファの横でふと足を止め、不思議そうにその目を僅かに細めた。
「……お母さん?」
「ううん、なんでもないわ。ただ……」
母親はクスクスと小さく笑うと、私の黒髪のボブカットの頭を、そっと愛おしそうに見つめた。
「なんだか、日本から帰ってきた時よりも、また少しだけ……大人になったように見えたから。仕事が大変だったのね、エリン」
――生体システム上の、微細なエラーを検知。
本物のエリン・マクカシーの細胞は、18歳のあの雨の夜から完全にフリーズしており、20歳になった今でも1ミリも成長していない。それは、いずれこの日常の数式を物理的に破綻させる冷酷な砂時計の音だ。
だがハントしてきたエクストリミスの耐熱マトリクスを肉体側へ組み込みつつある今の私は、怪物としての業をより完璧に密閉・統治できるようになっていた。
その徹底的な硬質な静寂の安定感が、母親の目には、少女が過酷な社会をくぐり抜けて少しだけ逞しくなった「大人の佇まい」として、滑らかに翻訳されたのだろうか。
「成長期ですので。……それに、クソ真面目な上司に、色々と仕込まれましたから」
私は居心地悪そうに少しだけ視線を外すと、コートを丁寧にハンガーへかけ、長机の上に置かれた小さな、売れ残りのクリスマスケーキの箱へと視線を向けた。
「お腹空いてるでしょ。冷蔵庫に、昨日作ったハンバーグとナポリタンの残りもあるわよ」
「ええ。いただきます、お母さん」
そう言ってリビングの薄暗い蛍光灯の下へ一歩を踏み出す。
他人から見れば寂しく、冷え切った家庭の風景かもしれない。
だが、この母親の少し荒れた掌から伝わってくる確かな温もりだけは、私の冷え切った脳内プロセッサの防壁の隙間に、決して引き算できない確かな人間らしさを広げていく。
笑わない怪物と、何も知らぬ無垢な母親。
すべての邪悪を引き算し終えた部屋に、ただただ愛おしい日常の生活音が静かに響き渡る。
お母さんの日常を守るための生存演算は、今夜も完全に、完璧な黒字のまま維持されていた。
これでアイアンマン3編は終わり。
スタークがハーレー少年にプレゼントしたり、バナー相手に自分語りしているシーンは主人公があずかり知らぬ話なのでカット。