MCU世界で『ただいま』を言えない怪物   作:お砂糖さらさら

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マイティソー・ダークワールド編です。
全5話で完結。1話は外伝的な話の6話構成。


マイティ・ソー/ダーク・ワールド(2013年11月)
第1話 雷神が来りて虹を呼ぶ


フェーズ1:異常検知とロンドン潜入(11月某日・朝)

 

ニューヨーク、ヘルズ・キッチン。

古い赤煉瓦のアパートのリビングには、換気扇の低い唸りと、安物の薄いコーヒーの苦味だけが停滞していた。

 

 

 

 

お母さんがダイナーのシフトへ出かけ、完全に無人となった室内の薄暗い蛍光灯の下、冷え切った缶コーラを静かに啜りながら、ブラウン管の古いテレビから流れるニュースを冷徹にスキャンしていた。

 

『――続いてのニュースです。イギリスの古代遺跡ストーンヘンジにおいて、全裸で走り回り、観光客を恐怖に陥れた男が現地警察に身柄を拘束されました。男の身元は、高名な天文学者、エリック・セルヴィグ博士と判明し――』

 

画面に映し出される、イギリスのパトカーの後部座席へ無様に押し込まれていく全裸の老人。

凡百の視聴者であれば、ロキによる脳内ハックの後遺症、あるいは高名な天才科学者の哀れな精神崩壊した姿として一蹴して笑い飛ばすだけの映像。

だが、私の脳内CPUは、その全裸の奇行の奥に刻まれた大きな式を反射的に解析・処理・理解を試みた。

 

「……プロファイリングを開始」

 

 低く、わずかに掠れた声音が静寂に落ちる。

 

イギリスのストーンヘンジ。

 

想像力を飛躍させ、あれが単なる古代の石の遺跡などではない。

あの巨大な石の配置は、例えばソーの地元であるアスガルドへと繋がる転移機能、あるいは空間の歪みが最も集中する特異点に干渉するものと仮定する。

 

――みんなを守るためだ

 

そして、セルヴィグ博士のあの真摯すぎる発言

 

 

彼が服を脱ぎ捨てた理由。

それは、衣服の繊維が擦れ合うことで発生する微微な静電気や誘電率のノイズすら、高次元の重力波測定において致命的なエラーになると計算したからではないか。

すべてのノイズを環境から引き算した結果の、全裸による強行という狂気的な実地調査。

まともな神経では不可能。

 

博士が狂気に陥っているか、予測される事態の巨大さに押しつぶされて常識を置き去りにしているのか。

 

 

「……合理の結末としては、十分に筋が通っている。

ただし、これを放置すれば、私の日常の安全マージンが想定外の事態に焼き切られかねない」

 

私はコーラの缶を置き、黒いコートの襟を立ててアパートを出た。

 

移動の手続きは一瞬だ。J.F.K.国際空港のシールド極秘ハンガーからガルフストリーム製ジェット・ステルス機を最大巡航速度マッハ2.2で激走させ、私は大西洋をわずか数時間で渡り切り、イギリス・ロンドン近郊の博士が待つ警察へと到着した。

 

 

フェーズ2:強権釈放と資本の防衛(11月某日・昼)】

 

 

 

 

――イギリス、ロンドン近郊。

シールドが公式に隔離した拘留室。

 

カチャリ、と重い鉄の扉を開けると、室内には無機質なプラスチックの机と、ようやく拘束衣の形で衣服を与えられたエリック・セルヴィグ博士が、虚ろな眸で宙を見つめて座っていた。

 

ドアの前に立つ現地警察の善良なる地元の守護者を、私はコートの内ポケットから引き抜いたシールドの手帳の一瞥だけで完全に退室させた。

鷲のロゴと『Clearance Level: 7』のニッケルバッジ。最高機密権限の提示による、組織的主導権の掌握。

 

 

「エリン・マクカシー危険物対応特別分析官です。こんにちはエリック・セルヴィグ博士、久しぶりですね。」

 

 私は完璧なエリンの無表情のまま、長机の向かい側へと腰を下ろした。

 

「数年がたつが変わらないな……君の目は、あの時と同じ、冷たい数字の並びをしている」

 

 博士は弱々しく、しかし酷く鋭い理性的な眸を私の赤い瞳へと向けた。

 

「身元の保護、および博士の知見を共有していただきたく来ました。

あなたがストーンヘンジで服を脱ぎ捨て、衣服の静電気というノイズを引き算してまで測定しようとしていた何か。

……そのデータを私に開示してほしいのです。その対価としてここからの解放、必要なら機材の調達のための資金提供もしましょう。

もしそれが何らかの危機を招く事態であれば私が対処することを約束します」

 

 

セルヴィグ博士は一瞬、呆然と私を見つめたが、やがてフッと乾いた自嘲の笑みを漏らすと、机の上に震える指先で「九つの円」を同心円状に描き始めた。

 

「……5000年に一度の奇跡だよ、マクカシー分析官。九つの世界、ユグドラシルのすべてのセクターが、一直線に並ぶ現象、惑星直列、コンバージェンスが、今まさに始まろうとしている」

 

博士の指先が、空間の数式をなぞるように激しく動く。

 

「次元の防壁が物理的に融解し、境界線が完全にバグを起こし始めているんだ。

ロンドン、ストーンヘンジ、世界中のあらゆる場所に、空間がぐにゃりと歪んで異界と繋がる重力異常の裂け目によるポータルが多発している。

私が全裸で走って測定していたのは、その歪みのピーク値と座標だ。……この直列が最大臨界を迎えた瞬間、世界の物理法則そのものが上書きされる」

 

「……ユグドラシルの世界の直列、地球やアスガルドを含む9つの世界、いえ惑星の配置が問題なのですね。

それに物理法則の上書き。それが本当に起こるなら、私の生存演算において許容できない事態ですね」

 

 

「それだけじゃない」

 

と、博士は声を低くし、激しい戦慄の匂いを肌から漂わせた。

 

「ニューヨークでロキの杖に脳の回路をハックされたあの時、私の脳には、地球の科学を遥かに置き去りにした高次元の空間物理データが強制的に流し込まれた。

……その狂気的なデータの濁流が、今、私の脳内でこの惑星直列のパルスと同調して、絶え間なく警告を鳴らし続けているんだ。

 

……かつてアスガルドの先祖たちが光の力で退けたはずの古代の邪悪――『ダーク・エルフ』の亡霊たちが、この惑星直列のバグを狙って、すべてを暗黒や虚無へ還元するための物質変換兵器の起動を画策している。……世界が、終わるぞ、お嬢さん」

 

「そんなおとぎ話をされて参考にする人間など私以外にはいませんよ博士。

世界が終わる、というのが具体的にどういった現象か気になるところですが私の日常を脅かすのなら断固として阻止します」

 

私は立ち上がり、黒いコートの裾を冷たく翻した。

 

「終わらせませんよ、博士。終われば、私がお母さん待つ日常へ帰るための生存演算が崩壊する」

 

博士が知り得た空間のバグ、迫り来る世界を超えた決戦の予感。

拘留室の鉄扉へと手をかけた。

 

「あなたが調査に使っていた機材の仕様値、およびマッピングデータはシールドの最高権限で私がすべて保護・管理します。

一緒に世界に終わりとやらを叩き壊しに行きましょう」

 

笑わない怪物と、世界の終わりを全裸で発見した学者の間に共同戦線が成立した。

 

 

◆   ◆   ◆

 

 

シールドのレベル7特権手帳を叩きつけ、現地警察の管轄からエリック・セルヴィグ博士の身柄を釈放させた私は、その足で手近なロンドンの空き物件をポケットマネーで即買いし、臨時のアジトを構築した。

 

為替市場のアルゴリズム取引でミリ秒単位で掠め取ってきた私の個人資産から、数万ポンドが電子の海を通って一瞬で差し引かれる。

 

偽装書類を整えるよりも、資本の暴力で物理的な空間を買い叩く方が、私の生存演算において遥かに処理速度が速かった。

 

「……可能ならズボンは穿いてください、セルヴィグ博士。衣服の静電気ノイズを引き算したいというロジックは承認しましたが、人間の社会倫理において、その状態での実地調査の継続は100%不審者と判定されます」

「この姿のほうが頭が冴えるんだよマクカシー分析官」

 

プレハブ同然のガレージアジトの真ん中でズボンの着用を頑なに拒絶し、ブツブツと九つの世界の数式を呟き続ける老人。

 

知識の代償に脳のセーフティがバーストを起こしている彼を一人にするのは、回収した空間測定デバイスやデータの保全リスクの観点から見て、絶対的な赤字だった。

 

 

私がその場を動けずにいた、まさにその刹那。

ブルル! と、黒いコートのポケットに収められた専用端末が、無機質なバイブレーションを震わせた。画面に浮かび上がったのは、不気味にギラつく隻眼の管理官――ニック・フューリー長官の固有IDだ。

 

「……定時報告の時間にはまだ早いですが、長官殿」

 

 私は完璧なエリンの無表情のまま、血の通わない平坦な声を滑り込ませた。

 

『マクカシー。お前がロンドン支局の権限に対し強権を発動し、全裸で激走していた狂った天文学者を釈放させたログが、私のコンソールにポップアップしたぞ』

 

インカムの向こうから、フューリーの不機嫌そのものの低い声が響く。

 

『かの冷酷な計算機が、命令も下されていないのに自ら動くとはな。……どうした、お嬢さん。地球防衛の使命感でも芽生えたか?』

「的外れな皮肉は、通信時間の無駄です、長官殿」

 

私は瞬きの回数を一秒に〇・八回に固定したまま、淡々と予測の開示を開始した。

 

「事後報告になりますが、現在、その狂った学者であるセルヴィグ博士の監査を完了しました。

彼が言うには5000年に一度のバグ――我々が住む地球、ソー・オディンソンがいるアスガルド含む、九つの世界が一直線に並ぶ現象、惑星直列――コンバージェンスの予兆を検知したそうです。

博士の知見によればロンドンをはじめ、地球圏の随所に重力異常や空間が歪んで異界と繋がる裂け目が多発しているようです。これは、私の生存演算において放置できないマクロなリスクに繋がる可能性が高いと判断しました。

世界の危機の予兆ではないかと」

 

フューリーが低い喉を鳴らし、沈黙する気配が伝わってくる。

 

「今はまだ予測の段階ですが、宇宙由来の超常的な危機、あるいは戦闘生物の乱入が起きる可能性が弾き出されています。

……そこで、長官殿。私が買い取ったアジトの管理コストを最低値に抑え込むため、私のアシスタントとなるエージェントを一名、この場へ回してください」

 

『……いいだろう。お前のその徹底的な合理が弾き出した予測だ、無視はせん。

誰が欲しい? ロマノフか、バートンか?』

 

「いいえ。彼らは戦術スペックが高すぎて目立ちます。

……フィル・コールソン捜査官を、このロンドンの現場へ一時的に配置できますか。

博士と面識もありますし、私の挙動にも対応できなそうな彼こそが、この不安定な博士の面倒を見させるための、最も費用対効果の高いアセットです」

『了解した、コールソンを現時刻を以てお前の指揮下へ回す。しくじるなよ、マクカシー』

 

プツン、と通信が切れる。

 

それからわずか数十分後、ロンドンの肌寒い潮風を纏って、アジトの鉄扉を押し開けて入ってきたのは、いつも通りの実直な、しかしどこか掴めない笑顔を浮かべた男――フィル・コールソン捜査官だった。

 

「お久しぶりです、エリンさん。フューリー長官から『最高に面倒くさくて、かつ世界の運命が懸かっているベビーシッターの仕事だ』と言われて飛んできました。……なるほど、彼が噂の全裸の天才博士ですか」

 

コールソンはズボンを穿かない老科学者を一瞥し、プロの捜査官としての仮面を保ったまま小さく息を吐いた。

 

「助かります、コールソンさん。彼はかつてロキの杖によって洗脳された際に宇宙的知見とでもいう埒外の知識を得てしまったようなのですが、かわりに脳をバーストさせているのです」

 

私は懐から、あらかじめ用意していた100ドル紙幣が隙間なくパンク寸前まで詰め込まれた重厚な皮財布、そして私の個人口座からシールドの公式網をバイパスして発行した相当額の白紙の小切手を一冊、長机の上へと滑らせた。

 

「これは……何でしょうか、エリンさん?」

 

「博士が必要とするインフラである研究機材の調達、および彼をこれ以上の奇行に走らせず研究に100%没頭させるための、管理コストです。

コールソンさん、その資金を使い、彼がお金で解決できるワガママを言い出した場合は、すべての仕様にそのまま沿うように手配してください。

資本の引き算で解決できるノイズは、すべて事前に消去するのが私のやり方です」

 

「……相変わらず、ウォール街をハックしている君の財布は底が知れないね。いささか私には重いが預かろう」

 

コールソンは苦笑しながら重い財布と小切手を受け取り、手慣れた手つきで博士へズボンを穿かせる実務、いや介護を開始した。

 

「コールソンさん、もし彼がズボンを脱ぐことで頭が回るようでしたらパンツだけでも構いません。大事なのは彼に研究が進む環境を与えることです。」

 

私は長机に置かれていたもう一つの専用端末を起動し、マークしていた天文学のもう一つの重要アセット――ジェーン・フォスター博士の固有周波数へと直接、暗号同期の通信を繋げた。

 コール、わずか一秒。

 

『――もしもし!? 誰? 今、私、ロンドンの廃棄倉庫のエリアで、ものすごい重力異常のパラメーターを観測してて忙しいんだけど!』

 

受話口の向こうから聞こえてくるのは、イギリスの冷たい雨音と、空間の歪みを目の前にして興奮の臨界点を超えている、ジェーンの激しい呼吸音を感知。

 

【フェーズ3:ポータルフィールドワークとエーテル目覚め(11月某日・夕)】

 

「S.H.I.E.L.D.危険物対応特別分析官、エリン・マクカシーです。フォスター博士」

 

 私は喉の形状を正確に固定し、エリンの声色をトレースして言葉を紡いだ。

 

「現在、私はエリック・セルヴィグ博士の身柄を保護し、彼がロンドンのストーンヘンジで測定した、九つの世界が一直線に並ぶとされる『惑星直列(コンバージェンス)』の全データをスキャン同期しています。

……彼の研究の知見、およびシールドの高度なバックアップを提供する代わりに、あなたが今まさにエントリーしようとしているその重力異常の裂け目に関する、現地での共同フィールドワークを要請します」

 

『エリックのデータ!? ……待って、あの人が全裸で走って集めてたっていう、あのストーンヘンジのデータがあるの!?』

 

ジェーンの声が、科学者としての剥き出しの飢餓感で跳ね上がった。

 

『いいわ、取引成立よ! ただし条件がある。今、私がいるこのビルの廃棄倉庫、空間の歪みが酷すぎて、何もない虚空に投げたビンが一瞬で消えたり、ソーがアズガルドから来た時みたいにフェーズメータが反応しているの!

でも私のアシスタントのダーシーたちじゃ、何か起きたら対応できない。

あんたが今すぐここへ来て、私のフィールドワークの護衛を100%担ってくれるっていうなら、エリックのデータとのクロス・レファレンスを承諾してあげる!』

 

「その条件を承認します、フォスター博士。今から向かうので可能な限り安全を確保した状態で待機してください」

 

プツン、と通信を切り、私は黒いコートの裾を翻した。

 

「コールソンさん。私はこれより、空間の異常を調査しているジェーン・フォスター博士と合流し、彼女と重力異常セクターの調査に向かいます。

博士が金で買える機材や、あるいはあのストーンヘンジの石をもう一度削りたいなどと言い出したら、その小切手でいくらでも沿ってあげてください。

……残りの不確定要素は、私が外側で全て引き算してきますから」

 

「了解しました、エリン 我がアベンジャーズの麗しき白雪姫」

 

「私は必要なら一週間でも徹夜してみせますよ」

 

コールソンは実直な眸に確かな信頼の熱を灯し、ボードにひたすら数式を書き連ねるセルヴィグ博士の背中を見送るように、アジトの鉄扉を静かにあけ放った。

 

外は、マンハッタンのそれと同じように、冷たいロンドンの雨がアスファルトを白く煙らせていた。

 

 

◆   ◆   ◆

 

 

 

ロンドン中心街、どんよりとした曇天の下に佇む廃棄倉庫の最奥。

 

ガガガグォッ……、とコンクリートの床を踏み締めるたびに、衣服の下にある生体センサーが、空間の不自然な誘電率を感知して微微な警告ノイズを刻んでいた。

 

「――ここよ、エリン! この柱の裏側、パラメーターが完全に狂ってる!」

 

ハンディ型のフェーズメータを抱えたジェーン・フォスター博士が、興奮の臨界点を超えた眸で、誰もいない虚空のポイントを指し示した。

私の脳内CPUは、すでにセルヴィグ博士の観測データを100%同期し、この廃棄倉庫の最奥が、世界樹―――ユグドラシルの全セクターが並ぶ直列現象によって世界の境界線が最も薄く引き裂かれた重力異常の裂け目であることを弾き出していた。

 

「フォスター博士、それ以上前方に進むのは戦術的なリスクが高すぎます。シールドの防衛マージンとして、これ以上の接近は私が――」

 

 一歩、私が黒いコートの裾を揺らして彼女の前に立ち塞がろうとした、まさにその一瞬だった。

 

ド、プゥゥゥゥンッ!!!

 

音も電波もない。ただ、空間のレジストリそのものが内側からハックされたかのように、眼前の大気がぐにゃりと歪み、巨大な時空の穴が剥き出しで口を開けた。

 

「何かに掴ってくださいフォスター博士!」

 

即座に壁に拳叩き込み固定するもジェーンは流されるまま裂け目に突入しようとしている。

スラックスのベルトをモーフィングパワーにより先にフックがついたロープに分解再構築し拳を叩き込んだ穴に突っ込み癒着すると気流の濁流が私とジェーンの身体を、廃棄倉庫の奈落の底へと強硬に吸い込んだ。

 

 

次の瞬間、世界のすべてが反転した。

 

 

 ――【致命的なバグ:地球座標との通信網、完全途絶】――

 ――【生体プロセッサ:生存安全マージンのロストに伴う、処理パニックを検出】――

 

たどり着いたのは、光という概念が存在しない、絶対的な暗黒と冷気が支配する隔離セクター。

宇宙誕生以前の、死んだ星の瓦礫だけが静止しているような、不毛の異空間。

 

その更地へ激突した刹那、私の流体光子神経――有機光ファイバーは、未だかつてない凄絶な過負荷を起こして激しく発狂した。

 

 ニューヨーク、ヘルズ・キッチンのアパートにいるお母さんがいる日常。

私の生存演算のすべての原点であり、このバケモノの肉体を「エリン」の形に繋ぎ止めていた唯一のセーフティネットが、次元の壁によって物理的に、完全にロスト(消失)したのだ。

 

「が、はっ……、あ……、ぁ、あぁぁあああっ!!!!」

 

口腔を満たしたのは、喉の奥のフォトンブラッド生成系がエラーを起こして逆流してきた、煮詰めた重油のようなドロリとした黒い生体組織の血。

 

脳内CPUは、地球の生体セーバーとの通信を取り戻そうと、1000倍のクロック数で強引にオーバークロックを開始。だが、それは脳のニューロンを内側から焼き焦がすだけの、ただのフリーズの嵐だった。

 

視界が真っ赤な警告ログで完全にホワイトアウトし、筋肉の繊維がパチパチと硬直する。

 

護衛対象の忘却。

客観時間にして、わずか数秒。

主観時間にして数分間の思考停止。

 

その生体兵器の致命的な隙を、人間のジェーン・フォスターの好奇心は、無防備に踏み抜いていった。

 

「……何、これ。石の中に、何かが浮いてる……?」

 

過負荷でのたうち回るエリンを視界から完全に失い、ジェーンは暗闇の中、引き寄せられるようにして巨大な超古代の遺跡の巨石の間へと歩を進めていた。

その割れ目の奥に封印されていたのは、赤い不気味な光の泡沫をじんわりと明滅させている、流体状の不定形物質。宇宙原初の暗黒物質、エリック・セルヴィク博士が予見した物質変換の要。

 

 ジェーンが、その宇宙の禁忌へ向けて、細い指先をそっと伸ばし、触れた。

 

 パキパキパキパキッ!!!!!

 

 直撃。

 封印を引き裂かれたエーテルは、待ち焦がれたと言わんばかりに、自らの新たな苗床としてジェーンの指先をハック。

ドロドロとした禍々しい赤い闇の液体が、彼女の皮膚の毛細血管を伝って、肉体の内側へと強硬に、猛烈な速度で雪崩れ込んでいった。

 

「――あぁァァァッ!!!!!」

 

ジェーンの悲鳴のパルスが、隔離室の空気を震わせる。

その人間の絶叫の熱によって、私の脳内CPUは、辛うじて昏睡の底から現実の位階へと強制復調された。

 

「……フォスター、博士……ッ」

 

前髪の隙間から覗く焦げ茶色の瞳を激しく明滅させながら、私は床を摩擦するようにして立ち上がった。

 

すでにエーテルのすべての質量はジェーンの血管の随所へとびっしりと張り付き、彼女の皮膚の下で不気味に脈打たせ始めていた。

 

最大の計算違い。

私が一瞬のバグで檻の中に閉じ込められている間に、護衛対象は、こんな空間の割れ目で沈黙していた何かに寄生され変貌させられていたのだ。

 

しかも、あのエーテルの気配は四次元キューブやロキの杖と似た波長を感じる。

博士の語ったダークエルフのたくらみが急速に解像度が上がり現実になりつつある

 

次の瞬間、隔離セクターの重力場が急激な反転を起こし、私たちはロンドンの湿った廃棄倉庫の床の上へと、無造作に元の世界へ吐き戻された。

 

赤色灯を狂ったように点滅させるロンドン市警のサイレンの音が、割れた窓から冷たい雨の匂いと共に流れ込んでくる。

 

「……不確定エネルギー体の流出を承認。フォスター博士の防衛は、完全に失敗です」

 

私は目から流れる黒い血を黒いコートの袖で無機質に拭うと、完璧なエリンの無表情を強硬に再構築し、割れた窓の向こうでジェーンの助手に詰め寄っている警官たちの姿を認めるのだった。

 

 

◆   ◆   ◆

 

 

 

私の生体センサーは、倉庫の入り口でパニックを起こしているアシスタントのダーシー・ルイス、およびイアンのバイタルを正確にスキャン・識別。

彼らの生存マージンに特に不具合は見られない。

 

「……フォスター博士、起きなさい。実地調査の第1段階は終了です」

 

私は気を失っていたジェーンの細い腕を抱きかかえるようにして支え、無音の足取りで倉庫の出口へと歩み出た。

 

「おい! 動くな! そこから離れるんだ!」

 

 激しい雨音を切り裂いて、現地のイギリス人警官達が一斉に、私たちを包囲するようにして詰め寄ってくる。

 

 私は黒いコートの内ポケットに繊細な指先を滑り込ませ、型押しされた鷲のロゴが光る特権手帳を、彼らの視線へと突きつけた。

 

「私はエリン・マクカシー危険物対応特別分析官です。

S.H.I.E.L.D.最高機密権限、レベル7IDです。これより、ジェーン・フォスター博士、ならびに同行者2名の身柄を、連邦政府の超法規的プロトコルに基づき公式に保護します。

一般警察の立ち入りは、これ以上の捜査妨害を招くため、このビルに一歩も立ち入らず撤退してください」

 

重厚な金属バッジの質量を前にして、大半の警官たちの心拍数が恐怖によって正常値を超えて跳ね上がる。

 

 ――だが、その中に一人、悪い意味で真面目、すなわち国家規模の特権を頭で理解できても、心で納得できないベテラン警官がいた。

 

「シールドだか何だか知らんが、ここはイギリスの主権下だ! 不法侵入の容疑がある以上、そのお嬢さんのハンドバッグと身柄は――」

 

男が歪な反抗心を眸に灯し、強硬に彼女の細い腕を掴み取ろうと、無骨な手を乱暴に伸ばした、まさにその刹那。

 

 バチチチパチパチッ!!!!!

 

男の指先がジェーンの衣服の繊維に触れた瞬間、彼女の皮膚の最深部――隔離セクターで寄生された宇宙原初の暗黒物質――エーテルが、外敵への過剰な自己防衛システムを自動起動させた。

 

 大気そのものを激しく発振させる、禍々しい暗黒の斥力波が扇状に大爆発。

 

「ガ、あぁァァァッ!?」

 

直撃。

 

見えない暴力により、その頑強な警官の身体は、まるで軽い紙切れのように物理的に後方へと吹き飛ばされ、パトカーのフロントガラスをクモの巣状に爆砕しながら、何十メートルも無様に転がり落ちていった。

 

「ポリスが、跳ね飛ばされた……!?」

 

ダーシーの悲鳴と、周囲の警官たちが一斉に拳銃のホルダーに手をかける最悪の火線のスパイク。

 

「不確定エネルギーの流出を確認」

 

私は完璧なエリンの無表情のまま、コートのポケットの中で専用端末の暗号回線を親指の操作だけで起動させ、即座に連絡を流し込んだ。

 

「コールソンさん。緊急連絡です。

アジトの管理を維持しつつ、私のログのトレースを。

ジェーン・フォスター博士の血管の最深部に、チタウリやアーク・リアクターの出力を遥かに置き去りにした何かが寄生しました、理外の特殊能力の発生、あるいは未知の物質による適合エラーの疑いを検出。

……これより、現地警察組織を下がらせ、彼女の隔離シークエンスへ移行します」

「了解しましたエリン、こちらからも圧力をかける。フォスター博士及びその助手の保護を優先してください」

 

インカムから流れるコールソンの実務的な声を聴き流しながら、私は手帳をコートへ格納し、銃口を向けようとした警官たちの前に、自前の電磁的パッシブ・ステルスの残響を薄く展開して立ち塞がった。

 

「下がりなさい、ロンドン市警。

彼女が今抱えているものは、あなた方のその鉛の弾丸では1ミリグラムも相殺できません。死にたくなければ、下がってください。それとも彼女を人殺しにさせたいのですか」

 

冷たく、相手が国家の法であろうが1ミリも日和らない怪物の合理主義。

 

だがエリンの合理など知らぬとジェーンの体内の暗黒のエーテル目覚めが、世界樹の遥か彼方、アスガルドの王宮に座する王へと最悪の警告を放ち始めるのだった。

 

 

 




この世界のオーディンお爺ちゃんは映画とはちょっと様子が違います。
そしてソーは完全にエアプソーになっている…。
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