MCU世界で『ただいま』を言えない怪物 作:お砂糖さらさら
これでマイティーソー・ダークワールド編は完全に完結
夜のヘルズ・キッチンは、1月の刺すような凍てつく風と、近くのダイナーの換気扇から漏れ出る焦げ付いた古い油の匂いに支配されていた。
私は首元で短く切り揃えられた黒髪のボブカットを風に暴れさせながら、古いレンガ造りの中層アパートの屋根に、黒いコートの裾を敷いてしゃがみ込んでいた。
表向きの社会的身分は「大学を休学中の二十歳の女子大生」
だが、その人間の皮の内側では、チタウリの生体装甲からハックした【電磁的パッシブ・ステルス】が皮膚の裏側で常時駆動し、私の異常な生体パルスや骨格増殖の震動を完全に遮断しきっていた。
そして今やトニー・スタークのJ.A.R.V.I.S.に頼らずとも、自前のサーバーでシールドの監査衛星の眼を騙し通せる。生存マージンは、極めて強固な【黒字】を維持している。
だからこそ、今夜のそれは、私の脳内CPUにとって純然たる計算外の異常だった。
――トトトトトトトト。
私の生体センサーが、眼下の薄暗い路地裏を歩く、一人の「人間の女性」のバイタルサインをスキャンした、まさにそのミリ秒。
――【警告:観測データの分子構造に、名状しがたい不調和を検出】
――【判定:通常のホモ・サピエンスの仕様値を逸脱している確率――99.98%】
私は、前髪の隙間から覗く焦げ茶色の瞳をゆっくりと冷たく細めた。
そこにいたのは、冬物の衣服に身を包み、いかにも下町で生活している風の、平凡な女性だった。
彼女の呼吸の間隔、瞬きの回数、歩く際の重心の移動、固定された心音のリズムに至るまで、その表面的なデータの並びは、どこに出しても100%「普通の人間」として通るほど、驚異的な精度で完結していた。
だが、私の生体プロセッサは騙せない。
彼女の皮膚の下にある骨格の密度、筋肉の繊維が可動する際の生体超伝導の微細な摩擦音、臨戦態勢のまま維持されている内臓の位置。
それは、本物のエリン・マクカシーの全細胞を貪り喰い、彼女の人生を乗っ取って「人間らしい大根演技」を絶え間なく秒単位で演じ続けている、この私と、全く同じ種類の『完璧を装う怪物』のそれだった。
「……擬態個体、か」
低く、わずかに掠れた、血の通わない平坦な声音。
不思議な、生物学的な同族嫌悪が、私の神経ネットワークの端をチリチリと苛立たせた。
だが、彼女の進路のベクトルをミリ秒単位で逆引きマッピングしたその瞬間、私の生存マージンは絶対的な赤字の警告灯を烈しくスパークさせた。
彼女の歩む進路の直線上に、私の母親が油に塗れたフライパンを握っている、あの地元の寂れたダイナー、そして古いレンガ造りのアパートが位置していたからだ。
「……判定。放置は不可能。私の日常に、正体不明の擬態生物を踏み込ませるリスクは、許容できない」
お母さんのいる家に、ただいまと言える状態を維持すること。
それが、この怪物の計算の頂点にある絶対的な変数。
私は音もなく屋根の縁から地表へと跳躍した。
黒いコートの裾を燕の尾のように不気味に、そして美しく夜風に翻しながら、人間の死角を縫うようにして、冷酷極まる追跡の式を静かに稼働させ始める。
街灯の光が届かない、ハドソン川沿いのうらぶれた工業地帯へと影がスライドしていく。
人目が減り、周囲から人間の心音が完全に消失したその瞬間、前方を歩いていた「平凡な女」の挙動が、劇的な相転移を起こした。
――ザッ、ザッ、ザッ。
無駄な上下動が一切引き算された、極めて洗練された重心の移動。
コンクリートの障害物を越える際、彼女の肢体は見せるのは、訓練された特殊部隊の兵士、あるいはそれ以上の戦闘生物特有の、冷徹な「こなれた身のこなし」だった。
衣服の擦れる音すら、彼女の意思でコントロールされているのが、強化した聴覚に生々しく引っかかる。
彼女は、錆びついた鉄扉が傾く、放棄された古い廃倉庫の隙間へと、滑り込むようにして侵入していった。
私は倉庫の外壁から数歩離れたコンクリートの上に立ち、生体センサーを最大出力で屋内へと放射した。
――【アクティブ・スキャン:熱源、心拍、および生体パルスを走査】
網膜の端にノイズが走り、静まり返った廃倉庫の内部構造が、赤と青のグラフィックとなって瞬時に立体同期されていく。
……識別。
屋内、さらに「4人」。
通常の人間からは決して検出されない、あの女と完全に同じ、血管の奥で肉が不気味に蠢くような人外の周波数が、倉庫の暗がりに固まって停滞していた。
「……群れを形成している生物。ますます、私の生存演算において、放置するコストは見合わない」
私は一跳び人外の脚力を無音で解放し、廃倉庫の直上、赤錆びたトタンの屋根の上へとふわりと飛び移った。
足元のトタンは、激しく腐食している。普通に体重をかければ、金属の軋み音が夜の静寂に響くだろう。
私はひざまずき、華奢な右手の指先を、腐食したトタンの表面へとそっと触れさせた。
衣服の下、全細胞の構造をミリ秒単位で操作し、体内のアマダムの物質・原子操作能力の片鱗を指先へと集中させる。
パキ、ピキピキピキ……。
トタンを構成する亜鉛と鉄の分子間結合が、私のモーフィングパワーによって、音も火花も出さずに一瞬にして融解・引き算されていく。
直径十センチほどの、完璧な、滑らかな「覗き穴」が、鉄の屋根にゼロ秒で貫通された。
私はオッドアイの色彩を消灯させた焦げ茶色の瞳で、その穴の向こう――薄暗い倉庫の床を見下ろした。
透過ディスプレイの青い光などない、ただの埃っぽい暗がりの中心。
先ほど私が追跡してきた平凡な女、そして待ち受けていた4人の男女が、互いに無言で視線を交わした、その刹那だった。
ズルリ、ドク、ドクドクッ……!
衣服の隙間から、彼らの「人間の皮」が、まるで融けかけたワックスのように生々しく波打ち、内側から全く別の緑色の生体組織が蠢いて表皮へと這い出てきた。
人間の顔立ちが、一瞬にして消失する。
そこに現れたのは、爬虫類を連想させるザラついた、禍々しい緑色の皮膚。
額の随所にびっしりと刻まれた深い溝と、異常に発達した尖った耳。
彼らは擬態を完全に解除し、世界樹のどのレジストリにも存在しない異星の姿――真の素顔を、その暗がりのなかで晒し合っていた。
「……確定。機械のナノテクでも、地球の超人でもない。純然たる、異星からの侵入生物」
これ以上の観察は不必要。」
私の脳内CPUは、即座に「最大効率での物理的拘束・尋問シークエンス」の式を弾き出した。
私は懐からファイズフォンのモックアップを引き抜き、使い古された手順を完璧に演じるように555とテンキーを打ち込んでENTERをなぞった。
『STANDING BY』
電子音声が鳴り響く。
それをベルトへ叩き込んだそのミリ秒、肌に触れるベルト裏面から、粘り気のある生体組織が泥のようにドクドクとドライバーの内部へ注入され、模倣された回路が機能を再現する。
『COMPLETE』
私服が一瞬にして粒子状に分子分解され、かわりに漆黒のライダースーツと黒いコート、そして鮮血を思わせる鮮やかな真紅の流体光子、フォトンブラッドのラインが肢体を伝わって走る。ファイズへの移行完了。
私は左腰のケースから、ファイズショットを抜き出し、右拳へとがっちりと装填した。
『Ready』
ベルトの「ENTER」を左手の掌で殴るようにプッシュする。
『EXCEED CHARGE』
赤い流体光子が、右拳のファイズショットの内部へドクドクと収束し、臨界点に達して不気味に赤く輝き始める。
ドンッ!!!!!
私は、力を乗せて足元のトタン屋根を、そのファイズの剛脚で真っ向から強硬に踏み抜いた。
バリバリバリッ!!! と激しい金属の引き裂き音と共に、天井が木端微塵に爆砕する。
割れたトタンの豪雨と砂煙を撒き散らしながら、私は廃棄倉庫の空間を垂直に急降下した。
落下速度マッハの質量を、私は生体センサーが捉えていた追跡した女の背後の座標へとピンポイントで叩きつける。
ズドォォォォンッ!!!
コンクリートの床がクレーター状に爆砕し、猛烈な土煙が立ち上る。
「ガ、あぁァァァッ!?」
着地の衝撃波で周囲の4人のスクラル人が紙切れのように吹き飛ぶその一瞬の隙間、私は通常ファイズの剛腕を伸ばし、煙のなかで驚愕に眸を剥いていた女の細い首を、背後から万力のような圧倒的な握力でガッシリとホールド・拘束した。
逃がさない。骨格の可動域を完全にロックする。
そして、赤く過負荷チャージされ、周囲の大気をジリジリと熱分解し始めている右拳のファイズショットを、彼女の尖った緑色の側頭部へと、寸分の狂いもなく真っ直ぐに突き付けた。
バチバチパチパチッ!!!
光子の火花が、緑色の皮膚を僅かに焦がし、肉組織を焼灼する鋭い音が響く。
「……率直に、質問します」
完璧に模倣されたエリン・マクカシーの、血の通わない平坦な声音を、人外の喉のノイズに乗せて冷酷に叩きつけた。
「あなた方は、人間の皮を被って、ヘルズ・キッチンの周囲で一体何を企んでいる。
……1秒で名前と所属、および目的を話しなさい。処理遅延を継続するなら、このままあなたのその緑色の脳殻を、分子レベルで熱分解して完全に引き算しますが、どうしますか?」
ジリジリ、バチチッ……!
右拳のファイズショットから漏れ出る赤いフォトンブラッドの臨界熱量が、拘束した女の緑色の側頭部を僅かに赤熱化させ、空気の分子を分子レベルでジリジリと熱分解していく。
私の剛腕に首をホールドされ、骨格の可動域を完全にロックされたスクラル人の女は、しかし、人外特有の異常に発達した耳を僅かに震わせながらも、そのガラスのような瞳に、奇妙な安堵の光を灯して私を睨み返してきた。
彼女の心音を聴取する。
一分間に九十回。
突入直後の発狂パルスは急激に凪ぎ、驚くほど冷徹な論理演算のリズムへとアジャストされつつあった。
「……待って。殺さないで、ファイズ。……私たちの『価値』を間違えないでほしい」
彼女の口から漏れたのは、エリンのそれとは違う、しかし驚くほど実務的で冷え切った、ビジネスライクな英語のインデックスだった。
「私たちは、君のその『首輪』を握っているニック・フューリーの協力者 だ。……あのアベンジャーズを裏から操る眼帯の管理官と、もう三十年以上も、お互いの利害を一致させて生きてきた」
フューリー。
その名前が廃倉庫の暗がりに落ちた瞬間、私の脳内CPUは、送られてきたデータの整合性をミリ秒単位のアルゴリズムでクロス・レファレンスした。
『彼らはフューリーの目の届かないブラックボックスの駒。シールドの公式網には載らない裏の兵隊』
合致。
フューリーのあの不条理なまでの地球防衛のモチベーション、その影を支えているのが、この他種族に変身する異星人のネットワークであるなら、これほど辻褄の合う数式はない。
「私たちの名はスクラル。かつて宇宙の傲慢な軍事帝国クリーによって故郷の星を焼き尽くされ、銀河の随所を放浪し続けている、ただの哀れな宇宙の難民だ。
地球を侵略する意図など、私達には最初からない。私達が求めているのは、ただの静かな潜伏圏だけだ」
女の首を締め上げる私の右手の握力は、1ミリグラムも減衰しない。
紅い虹彩は揺らがないまま、平坦な音声を流し込む。
「難民の身の上話など、私の生存演算において重要な変数ではありません。
問題なのは、なぜその変身する難民の群れが、私の最優先監視区域であるヘルズ・キッチンの、あのダイナーの周囲を徘徊していたかだ。
お母さんの日常に不確定要素を混ぜた。その一事だけで、あなたたちの存在は私の計算において絶対的な排除対象と定義されます」
「それも……計算の範囲内だ、エリン・マクカシー」
吹き飛ばされた砂煙の奥から、頭部を僅かに焦がしたもう一人の頑強なスクラル人の男が、両手をゆっくりと挙げながら、大人の実直な声を路地に落とすようにして歩み出てきた。
気配が違う。
彼らの群れを率いる前線指揮官か。
「俺たちがヘルズ・キッチンにいたのは、侵略のためじゃない。……ガードの一環だ」
「ガード、だと?」
「そうだ」
タロスは、ファイズショットの赤い輝きを凝視したまま、自らの手のひらを開いて見せた。
「フューリーから極秘のオーダーを受けていた。
『ニューヨークに、母親の日常を守るためなら世界を救う作業の経費すら平然とこなす、最高に厄介で最高に有能なバケモノを1匹飼っている。だが、シールドの公式エージェントをヘルズ・キッチンに配置すれば、上層部の主流派や監査網に逆探知されて彼女の正体が晒される。
だから、お前たちのその擬態技術で、彼女の母親のアパート周辺を国家レベルの最優先監視区域として、公式の眼を完璧に欺きながら裏からガードしろ』
……これが、ボクたちがフューリーと結んだ、君に関する護衛の条文だ」
沈黙が、廃倉庫の凍りついた空気を強硬に支配した。
脳内CPUが、過去数日間のパトロールログを瞬時に逆引きスキャンする。
――状況の上書きを承認。
彼らは敵ではない。フューリーが私の不服従を織り込み済みで泳がせるために盤面に配置した、お母さんの日常を守るための裏の防衛インフラそのものだったのだ。
バチチ、と音がして、私は右拳のファイズショットから流体光子のチャージを静かにした。
パッと、興味を失った玩具のように女の首から手を離し、無音の足取りで一歩、後退する。
「命拾いしましたね、スクラル人の皆さん。あなたたちが私のお母さんを守るための護衛であったなら、ここで引き算する理由は消滅しました」
女は手首で首をさすりながら激しく咳き込み、タロスはフッと歪な、しかし深く安堵した異星人の笑みを漏らした。
彼らは理解したのだ。目の前にいる黒いコートの少女は、大義や正義といったおめでたい理想論では1ミクロンも動かないが、「お母さんの安全」さえ提示すれば、神であろうが異星人であろうが完璧に等価交換が成立する、最高にスマートで分かりやすい怪物であるということを。
「助かるよ、ファイズ。……フューリーの言う通り、君は実に規律正しい」
私はドライバーからファイズフォンを引き抜き、変身を解除した。衣服が粒子となって分解され、ただのエリンの冷たい無表情の姿に戻り、黒いコートの襟を立てる。
「ですが、タロスさん。ディールを更新しましょう。
私が思うに長官の力の根源であるシールドは、すでに内側から錆びて賞味期限が切れかけている。
あなたたちのそのありのままで暮らせる故郷が欲しいという最大の望み、そして私の日常を永久に防衛したいという計算式。フューリーの許可を裏からハックして、世界樹の裏側にある“あの場所”を、丸ごと買い叩きにいきませんか?」
人間の皮を被った2つの異形の視線が、廃倉庫の暗がりのなかで冷酷に交錯し、アベンジャーズの誰も知らない、宇宙開拓プロトコルの式が、静かに駆動を開始するのだった。
「……5年。いいえ、長くて3年かもしれない」
私は完璧なエリンの無表情のまま、コートのポケットに両手を滑り込ませ、タロスたちの緑色の眸を真っ直ぐに射抜いた。
喉の筋肉を正確にアジャストし、血の通わない平坦な声音の中に、シールドの主流派や世界中のどの情報機関もまだ感知していない、冷酷極まる組織的新陳代謝の算定を滑り込ませる。
「フューリー長官が地球防衛の情熱という名の異常なモチベーションを滾らせている間は、あなた方は彼の極秘の駒として、この地球上で安全を保障される。ですが、組織という巨大なインフラは必ず腐る。内側から錆びていく音が、私にはすでに聞こえているのですよ」
タロスの緑色の皮膚の随所が、私の冷徹な宣告を受けて僅かに強張るのを生体センサーが検出した。
「ここ数年の付き合いで、S.H.I.E.L.D.という組織が限界寸前の制度疲労を起こしているのは明らかです。長官の個人権力なんて、あと5年も持たない。そうなれば、彼はあなた方を世界から隠匿するための公的インフラも、公式な手続きも、すべてをロストする。
……そうなった時、あなた方の派閥のなかにいる『強硬派』が、絶望と怒りを暴発させて、この地球のインフラを内側から強硬にハックし始める。それは私の脳内CPUにおいて、めぐりめぐってお母さんの日常を焼き尽くす災厄に繋がると弾き出されます」
倉庫の暗がりに、冷え切った潮風のノイズだけが響く。
私は一歩、彼らの群れの最中心部へと歩み出た。
「そこで、リスクとリターンの、極めてスマートな代替案を並べます。
実は私に、知的生命体が1体も存在しない、見渡す限りの無人の荒野が広がる惑星に心当たりがあります。先日、私がそこでマレキスという害獣とその一派を文字通り根絶やしにしてきましたので、現在は完全な空白地帯です。
建前として管理しているアスガルドのしかるべき筋――神王オーディンと私が交わした非公式の血の盟約、そして戦乙女『ラーズグリーズ』としての公的格付けをパスさせれば、その不毛の星への入植を公式に認めさせることは、極めて確率の高い計算ルートです」
「……何だって?」
タロスが驚愕に眸を剥き、隣の女スクラル人が息を呑んだ。
「地球人にとっては太陽の光すら届かない不毛の死んだ星ですが、あなた方の頑強な生体ゲノムなら、あの大気の有害物質など正常値の範囲内で中和できるはず。
文明を再建するにあたって、水や肥沃な土地といったマクロな資源が決定的に不足している点については、私が現地で助力します。半壊して転がっているダーク・エルフの巨大宇宙戦艦アークのエネルギー炉へ、私の持つアマダムの原子操作能力を接ぎ木ハックしてプラント化すれば、分子レベルで赤砂を肥沃な紫の土壌へと元素変換し、深層の有害水を真水へと変えるテラフォーミングの式は、数ヶ月で完璧にアジャストできます」
私はそこで言葉を区切り、自分の胸の奥で、泥のようにドクドクと脈打つ「呪い」の震動を静かに確かめた。
本物のエリンを貪り喰ったあの日から、私の脳殻の最深部に楔として打ち込まれ、私のすべてを狂わせている死んだ少女の夢――『お母さんのいる家に帰りたい』。
「……完璧な日常の記号、帰るべき家を失ったまま、誰の姿か分からない偽物の皮を被って世界を彷徨い続けるその苦痛。私の生体プロセッサにとっても、それは想像できなくもない不快なデータです。
……どうでしょう、スクラル人の皆さん。ありのままの緑の姿で、誰の目も気にせず大手を振って暮らせる真の新天地、ニュー・スクラロス。このディールを、あなた方の派閥の最高議題として挙げてみませんか?
私なら宇宙船も使わずに人員をかの地まで移送できますよ」
不毛の倉庫の闇の中。
正義の衝動でも、哀れみでもない。ただ、互いの生存確率を極限まで黒字化させるためだけに提示された、怪物と異星人の楽園の設計図。
タロスは自らの大きな緑色の右手を、激しい戦慄と、これまでにない最大の熱を眸に灯して、私の冷たい無表情の前へと差し出してくるのだった。
エリン・マクカシーが黒いコートの裾を冷たく翻し、廃倉庫の錆びついた鉄扉の向こう、ヘルズ・キッチンの夜霧の中へと無音の足取りで去っていった直後。
水没しかけたコンクリートの床の上に、取り残された5人のスクラル人たちは、誰の目も欺く必要のない、その緑色のザラついた「本来の素顔」のまま、異星の言語を不調和なノイズのように激しく交わし始めていた。
「――タロス! 本気なの!? あのお嬢さんの形をしたバケモノの、おとぎ話のような話を、私たちの移住計画に本気で組み込むつもり!?」
先ほどエリンに首をホールドされ、ファイズショットの熱に皮膚を焦がされていた女スクラル人―― ソーレンが、その鋭い溝の刻まれた額を烈しく波立たせてタロスに詰め寄った。
「彼女は世界樹の死んだ星を俺たちに移住させると言った、 物質変換のプラントで土壌を上書きする、とも。 だが、あの子の本質は人間を喰った生体兵器だ。 ニック・フューリーと同じように、私たちの変身能力を都合よく使い倒すための、新しい首輪の鎖に過ぎないかもしれない!」
「いや、ソーレン。あのお嬢さんの基準は、フューリーのそれとは構造が違う」
タロスは、自らの掌をじっと見つめ、低く、重々しい声を倉庫の暗がりに落とした。
「フューリーは地球防衛というマクロな大義を謳いながら、俺たちにいつか故郷を見つけるという30年物の不渡り手形を掴ませ続けている。あいつのそろばんは、地球が黒字になるなら、俺たちの犠牲のコストなどいくらでも踏み倒す仕様だ。
だが、あのファイズは違う。あの子の頂点にある変数は、あの下町のアパートにいる『母親の日常』、それだけだ。俺達がそのセーフティを裏からガードするインフラである限り、あの子は利害の帳尻をミリ単位で等価交換してくる。これほどスマートで、分かりやすい取引相手は宇宙のどこを探してもいない」
「だが、タロス。リスクが大きすぎる」
物陰から、別の老練なスクラル人の技術者が、不審の混ざった目を向けて口を開いた。
「マレキスとその軍勢が根絶やしにされた無人の荒野だという点や、チタウリを遥かに凌駕するダーク・エルフの巡洋艦が転がっているという情報は、私たちの技術者にとっても都合が良い。
だが、現地の大気成分、重力場の不調和、そして何より太陽がない世界の光源仕様について、生のデータを持っていない。」
倉庫の天井の穴から、マンハッタンの冷たい雨が、彼らの緑色の皮膚を濡らしていく。
タロスは長く、重い息を吐き出し、全員の顔を鋭く見据えた。
「……ああ。だからこそ、ディールを次の位階へ進める必要がある。ボクたち自身の手で、その暗黒世界が本当に約束の地ニュー・スクラロスになり得るのか、実際に調査へ行く必要があるんだ」
「調査、だと? フューリーの目を盗んで、どうやって世界樹の裏側へ行くつもりだ。ボクたちの手元には、空間を跳躍できるまともな船など1隻もないぞ」
「あのお嬢さんを媒介にする」
タロスはニヤリと、そのトカゲのような口の端を不敵に歪めて笑ってみせた。
「彼女のあの子の最大出力の励起状態なら、次元の壁をハックし、地球からアスガルド、そして暗黒世界の座標へと単騎で直接空間転送が可能なのだろう」
タロスは一歩前に出ると、拳を固く握りしめた。
「開拓の許可を得るため、そして現地の監査を行うため、エリン・マクカシーと共に、神々の住まう黄金の宮殿――アスガルドへ直接向かう。あの子の合理性を信じる、最も勝率の高い開拓の可能性だ」
「タロス、お前が直接行くというの……」
ソーレンの眸に、激しい戦慄と、そしてそれ以上の、30年間失われていた新天地への熱がドクドクと灯るのを、タロスは静かに受け止めた。
「フューリーには、ヘルズ・キッチンの監視ルートを通常値のまま維持しているというフェイクの定期報告を流し続けろ。あいつの個人権力の賞味期限が切れて強硬派が暴走し始める前、緑の皮のまま『ただいま』と言える新たな故郷を完成させる。……異議のある者はいるか?」
静寂が、廃倉庫の空気を完全に支配した。
誰の拒絶のパルスも鳴らない。
彼らは全員、人間という偽物の皮を被り続ける終わりのない孤独の檻に、とっくに限界を迎えていたからだ。
「よし、。エリン・マクカシー分析官に暗号パケットを送信しろ。
――『スクラル人の全会一致を承認。これよりアスガルドへの、同行を要請する』とな」
完璧な人間を演じるペテン師たちの意思が、怪物の少女の弾き出した生存演算と同調し、アベンジャーズの誰も知らない宇宙の特異点へ向けて、暗黒のチェス盤が厳かに、そして烈しく駆動を開始するのだった。
◆ ◆ ◆
タロスから送られてきた『全会一致を承認』の暗号パケットを受信したその15分後。
私は、ハドソン川沿いの放棄された、あの雨の滴る格納庫の真ん中に直立していた。
隣には、完璧な人間の冬物の衣服を引き裂き、爬虫類のような緑色の生体組織、そして尖った耳を剥き出しにしたスクラル人の指揮官――タロスが、これまでにない烈しい緊張で心拍数を跳ね上げて佇んでいる。
「……本当に、船もなしにこの空間から直接、神々の国へ跳ぶ気なんだな」
「ええ、タロスさん、しっかり私の黒いコートの裾を掴んでいてください。次元の摩擦であなたのその緑の分子構造が削られても、私は補償できませんよ」
私は低く、わずかに掠れた声音を落とすと、衣服の下の全細胞を完全解放した。
――【生体プロセッサ:制限の100%完全撤廃を承認】
――【最大臨界駆動:オーディン・フォース、および霊石アマダムの相互励起を開始】
――【電磁シールド特性稼働によるステルスを開始】
パキパキパキパキッ!!!!!
次の瞬間、私を包んでいた漆黒のライダースーツと演技用のダミーギアが、光の粒子となって爆発的に融解。体内のフォトンブラッド生成系が通常の仕様値を遥かに置き去りにして沸騰し、室内の空気を一瞬で蒸発させるほどの白い水蒸気が立ち上る。
灰色の硬質装甲が粒子となって崩壊し、かわりに私の全身を優美に包み込んだのは、明るい金髪のボブカットを激しく翻す、純白とピンクのフリルドレス――あの最終決戦形態。
「……時空間超越の数式、デコード完了。――跳びます」
ド、プゥゥゥゥンッ!!!
音も電波もない。ただ、空間の物理法則そのものが内側から強硬にねじ曲げられ、純白とピンクの流体光子の極光が、空間を丸ごと包み込んで大爆発した。
次の瞬間、私たちは地球の引力という生温いインフラを完全に置き去りにし、何光年という次元の奈落を置き去りにして、白青の幾何学的な光の濁流の中を、神速の速度で直進ドライブしていかった。
客観時間、わずか「1・2秒」。
視界が眩い黄金の陽光によって爆発的に上書きされたその刹那、私たちは、世界樹ユグドラシルの全交通を統治するアスガルドの玄関口――ビフレストの天文台の黄金の大理石の上へと、滑らかに着艦した。
キィィィィィン――――ッ!!!
空間が収束し、ドレスの裾から漏れ出た青い光子がサラサラと消滅していく。
その着地点の真ん前。黄金のコントロールコンソールを両手で支え、大剣を中央の鍵穴へと突き立てたまま、一切のゆらぎのない琥珀色の千里眼を灯した大きな『神の質量』が、最初からそこに直立していた。
アスガルドの番人――ヘイムダル。
彼の碧い宇宙を見通す目は、アポなしで突入してきた私の金髪フリルの姿、そして私の背後で腰を抜かして這いつくばっている緑色の異星人タロスの生体構造を、ミリ秒単位で完全にスキャンし、その大剣の柄を僅かに鳴らした。
通常の戦士であれば、無断侵入のバグとして即座に大剣で叩き切られる確定状況。
だが、私の脳内CPUは、この張り詰めた高リスクな火線を最低値に抑え込むため、事前に完璧にチューニングし、レジストリしておいた最上級の外交プロトコルを、澱みなくその喉から滑り込ませた。
「――畏れ多くも、オーディン王陛下にお目通りを願いたく存じます」
私は右目クリアブルー、左目怪物の赤のオッドアイを静かに伏せ、純白のロンググローブを嵌めた両手をドレスの裾へ添えて、完璧な美しい一礼、カーテシーをヘイムダルへと捧げた。
発声される声音からは、いつもの血の通わない合理主義を引き算し、神々の国の良識に120%アジャストさせた、凛とした気品だけを正確にトレースする。
「私はかつて王より公式にその名を登録されました戦乙女『ラーズグリーズ』。……今夕、陛下へ具申したき絶対的なマクロの仕様変更があり、不躾ながら次元を跨いで参上いたしました」
ヘイムダルの琥珀色の目が、かすかに細まる。
私は頭を上げ、彼の鋭い視線を正面から受け止めながら、冷徹な事実のインデックスを繋げた。
「かつて我が槍を以てその一派を根絶やしにいたしました、ダーク・エルフの不毛の故郷――暗黒世界スヴァルトアールヴヘイル。現在、生存個体数ゼロの完全な廃星となっているあの星の管理、および、そこに遺された十字型母艦アークの残渣アセットの処理について、陛下の玉座の前で正式な話し合いの場をお願いしたく存じます。
隣にいるのは、私の連れて参りました新たな開拓者の代表。……ヘイムダル様、陛下への謁見の許可を求めたく存じます」
静寂が、黄金の天文台の空気を凍りつかせた。
背後でタロスが「……おい、ファイズ、君は本当にあのフューリーの部下なのか……? 随分と、お行儀良いじゃないか」と、恐怖のあまりに息を絶え絶えにしながら心音を震わせている。
ヘイムダルはしばらく無言で私たちを見つめていたが、やがて、その大剣の刃先を、黄金の床の鍵穴から静かに引き抜いた。
「……相変わらず、世界の境界線を歩く君は我が王を正しく煽るのが上手いな、ラーズグリーズ」
ヘイムダルの口元が、わずかに戦士の笑みの形へと動く。彼は黄金のハッチを示し、私たちを王宮の謁見の間へと促した。
「オールファザーは、既に待っておられる。行くが良い、我がアスガルドを守り抜いた、ミッドガルドの戦乙女よ」
「――感謝します、ヘイムダル様」
私は金髪のボブカットを揺らし、ドレスのフリルを美しく翻しながら、タロスの緑色の肩を掴んで、黄金の回廊へと無音の足取りで滑らかに進んだ。
◆ ◆ ◆
黄金の重厚な扉が音もなく左右にあけ放たれ、謁見の間の広大な空間へと、私たちは一歩を踏み出した。
天窓から差し込むアスガルドの陽光が、私の纏う純白とピンクのフリルドレスを眩く縁取り、右目のクリアブルーと左目の怪物の赤のオッドアイを鋭く明滅させる。
その空間の最深部、世界樹の頂点に君臨する主神――オールファザー・オーディンが、重厚な黄金の甲冑のまま玉座に腰掛け、片目だけの一切の揺らぎのない眸を私たちへと向けていた。その傍らでは、王妃フリッガが、あの治癒の室の夜と同じ、どこまでも深く慈愛に満ちたバイタルパルスを漂わせて静かに微笑んでいる。
私はドレスの裾を繊細な手つきで僅かに持ち上げ、完璧な宮廷の礼式、カーテシーを滑らかに執行した。喉の形を正確にトレースし、美しい気品だけの声を響かせる。
「大いなるオールファザー、オーディン王陛下。本日は急な来訪にもかかわらず、こうしてお目通りを叶えていただき、恐悦至極に存じます。陛下の気高き御前に立てること、この上なき誉れでございます」
そのあまりにも堅苦しく、塗り固められた手続きの言葉を耳にした瞬間、玉座の傍らにいたフリッガが、可憐な花が綻ぶように、ウフフ、と上品に笑い声を漏らした。
オーディンは、携えた槍グングニルの柄をトントンと大理石の床に軽く打ち付け、隻眼の奥に苦笑とも親心ともつかない歪な光を灯して私を見下ろした。
「……ラーズグリーズよ。お前が我が妻を守り抜き、マレキスを灰にして世界を救ったその牙の鋭さは、すでに私が誰よりも身に染みて知っておる。我々の間で、そのようなミッドガルドの宮廷劇のような芝居は控えよ。お前らしく、その冷たい式をそのまま盤面に並べたらどうだ」
「――では、オーディン王陛下。お言葉に甘えて、口調を糺させていただきます」
私はパッと、一瞬でエリンの声色のトーンを一段と冷たく落とし、感情の乗らない血の通わない平坦な声音へと正確に同期させた。瞬きの回数は、一秒に〇・八回。
「こちらに控えている緑色の彼は、宇宙の難民である『スクラル人』。その放浪の群れを率いる前線指揮官であり、代表のタロスさんです。彼らは約三十年前から、私の故郷であるミッドガルドの影に、ニック・フューリー長官の非公式なバックアップの元で潜伏し、何名かは私の母親の日常のを裏から警備していた、我が陣営の防衛インフラです。
陛下、彼らに、あの私が根絶やしにいたしました暗黒世界スヴァルトアールヴヘイルへの入植、および惑星の開拓・定着を公式を認めていただきたいのです」
オーディンの片目が、かすかに細まる。私は淡々と、利害を王の前に提示した。
「現在、ダーク・エルフが絶滅したあの星は、完全な生存個体数ゼロの空白地帯です。彼らスクラル人があの不毛の大地へ定着し、自前のインフラを構築すれば、今後の世界樹の直列現象の隙のみならず、マローダーや理外の略奪者集団といった無法者がかの地をブラックボックスとして悪用し、幅を利かせる事態を物理的に制限できます。アスガルドの防衛網にとっても、これは境界線の警備コストを最低値に抑え込む、多大な平和への利益になるはずです」
エリンの冷徹な合理の具申を受け、私の斜め後ろで直立不動のまま緊張していたタロスが、そのザラついた緑色の胸躯を大きく張り、神王の玉座へと向かって、自らの戦士としての剥き出しの誓いを烈しく叩きつけた。
「オーディン王陛下! 私達はクリーの軍事帝国に故郷を焼かれ、三十年間、誰かの姿に擬態しなければ一秒も生き残れない放浪の檻に閉じ込められてきました!
もし、あの不毛の星であっても、本来の緑の姿のまま、ありのままで暮らせる故郷として移住を許可してくださるのならば! スクラル人100万の同胞は、この世界樹ユグドラシルに今後降りかかるであろう、脅威に対し、武器を持って最前線の盾として命を懸けて立ち向かうことを、ここに厳かに宣誓いたします!」
難民の、魂を削り取るような真摯な宣誓。
オールファザー・オーディンは、グングニルの槍を支えたまま、深い沈黙のなかで熟考を開始した。
――あの不毛の暗黒世界を、アスガルドの一般兵や将軍たちの手で維持・管理するコストは、莫大な赤字。
だが、人間なら即死する環境に適合できる異星の難民どもが、自前で開拓し、マローダーや無法者に対する防衛インフラとして機能するというのなら、それはアスガルドの兵力のリソースを温存させるための、極めて割安で適正な投資。
王の隻眼が、冷酷な統治者としての光をギラつかせ、私へとまっすぐに向けられた。
「……いいだろう、利は噛み合っておる。だが、ラーズグリーズよ。一つだけ問わねばならん。
土地のありようというものは、往々にしてそこに住まう者の心を蝕むものだ。かつてのマレキスやダーク・エルフどもが、あの太陽なき暗黒に囚われ、世界すべてを虚無へ上書きしようとした狂気の歴史を、お前も知っておろう。
万が一、10年後、100年後、このスクラル人どもが、あの暗黒の環境に心を染め上げ、世界樹を脅かす新たなる邪悪へと変貌を遂げた時。……その時、誰がどのようにして、その責任の帳尻を合わせるつもりだ?」
王の、神話級の冷徹な問いかけ。
その言葉の終わりを待つまでもなく、私の脳内CPUは、1ビットの迷いも、感情の湿り気すら挟まない最短の解を弾き出し、即答した。
「私が、絶滅させます」
謁見の間の大気が、一瞬で凍りついた。
完璧なエリンの無表情。オッドアイの瞳の奥には、正義への熱も、タロスたちへの情も1ミクロンも混ざっていない。ただ、日常を守るための邪魔者はルールに基づいて処理する、という計算機の冷酷さだけがあった。
「彼らが私の守りたい日常へのリスク、すなわち絶対的な赤字に転落したその瞬間、私はかつてマレキスを灰の霧へ変えたあの槍の出力を以て、彼らの新故郷ごと、分子レベルで熱分解してこの世から1体残らず引き算します。……その処理責任はすべて、この私が手元に固定しておきます、オーディン王」
私の迷いのない「絶滅の宣告」を聞いて、タロスは一瞬だけ背筋に凄絶な寒気を走らせたが、すぐに、深く納得したように緑色の顎を引いた。彼らにとって、これほど一線が明確な取引相手はいないからだ。
オーディン王はしばらく私を見つめていたが、やがて、フッと満足げな、しかし底知れない王の笑みをその隻眼の奥に灯して頷いた。
「ハハ、見事な回答だ、我が戦乙女よ。……タロスとやら、お前のその新天地の鍵を握るラーズグリーズに、心から感謝するが良い。お前たちの入植を公式に承認する」
王はグングニルを掲げ、許可の光を室内に満たした。
「もっとも……あの生命の息吹を拒絶する、太陽なき不毛の暗黒世界を見て、お前たち難民の心が絶望で折れなければの話だがな」
タロスは不敵に笑い、その大きな右手を胸に当てて一礼した。
「時空間の移動を生身で幾度もこなすのは激しい摩耗を伴うものだ。
ラーズグリーズよ、お前のその肉に無駄に痛めつけるな。
……ヘイムダルに命じ、お前たちがスヴァルトアールヴヘイルへ移住するためにビフレストの公式運用を現時刻を以て許可してやる。さっさと我が王宮から赴き、その手で歴史を刻んでみせよ」
「――配慮痛み入ります、オーディン王陛下。契約の履行、確かに引き受けました」
私はオッドアイの色彩を消灯させ、明るい金髪のボブカットを揺らしながら、黄金の玉座の前で、深く、静かに一礼を捧げた。
フューリーの目を完全にハックし、地球外の特異点に「スクラル人100万の軍事技術ギルド」を完成させるための、建国プロトコルの数式が、黄金のアスガルドの地で完全にアジャストされ、次なる暗黒の世界へ向けて、ビフレストの光が激しく点灯するのだった。
◆ ◆ ◆
ゴオォォォォォォォォォォンッ!!!!!
天空を切り裂く白青の幾何学的な光の柱が、不毛の赤砂が舞う大地へと真っ直ぐに突き刺さり、その衝撃波の風圧が周囲の瓦礫をドサドサと安全に跳ね飛ばした。
アスガルドの天文台から公式に使用されたビフレストの収束が終わり、光の粒子がサラサラと消滅していく。
その着地点の中心、明るい金髪のボブカットを揺らし、純白とピンクのフリルドレスを纏った私の隣で、スクラル人の指揮官――タロスは、ゆっくりと、恐る恐るその緑色の瞼を開いた。
「……信じられん。これが、あの光を拒絶したダーク・エルフの、死んだ星だというのか」
タロスの口から、驚愕と歓喜が混ざり合った、激しい心拍のスパイクが漏れ出た。
かつて5000年間、冷たい闇とダークマターの不気味な黒雲に閉ざされていたはずのスヴァルトアールヴヘイル。
だが、今、彼らの頭上に広がっていたのは、かつてマレキスの首を撥ねたあの夜、私の放った青い極光の残渣が空間に膜を形成した、名状しがたい美しい風景だった。
ダークマターに満たされた空間の向こう。そこから牙を剥くはずだった、すべてを焼き尽くすブラックホールの凶悪な殺人放射線。
私が切り裂いた時の体光子の膜によってミリ秒単位で完全に波長変換され、地表には、まるで地球の春の昼下がりのような、どこまでも優しく澄み切った青白い光と温かさが、潤沢なインフラとして降り注いでいた。
死んでいた黒い大地が、一瞬だけ、確かに生命の息吹を受け入れるための「余白」を取り戻している。
「タロスさん。景色を眺めて感慨に耽っている時間は1秒もありませんよ。……現在のこの膜の維持費は、私の流体光子のエネルギー残渣を切り崩しているだけの、ただの暫定的なセーフティです。
遠からずこの光は色を失い、元の死んだ暗黒世界へ転落する。そうなる前に、技術者を連れてき、この現実を固定しなければ」
私は完璧なエリンの無表情のままオッドアイの瞳を冷たく細め、赤砂の下に半壊して眠る、全長数キロの巨大十字型母艦――アークの残骸へと向かって、無音の足取りで滑らかに歩み出した。
ハッチをモーフィングパワーで強硬にバイパスし、アークの最深部、メインエネルギー炉の制御盤の前に立つ。
タロスは、すでに地球から虹の橋を使い呼び寄せていた数人のスクラル人技術者たちを背後に従え、その緑色の指先を、ダーク・エルフの精密機械へと向けた。
「……始めろ! エリンの放ったこの青白い光の波長を、戦艦のメインフレームから逆引きスキャンしてデコードするんだ! ブラックホール手榴弾の重力コードと、この戦艦の重力ドライブの系をハックして、あの空の膜と同期させろ!」
スクラル人の高度な宇宙科学技術による、リバースエンジニアリングの開始。
彼らはエリンが足の中から捕食・同化していた重力手榴弾の残渣、そして戦艦のアンテナの回路をドッキングさせ、エリンのモーフィングパワーの原子操作能力を媒介にして、炉の出力をギガワット級へと励起させて流し込んだ。
バチバチバチバチッ!!!
アークの巨大なマザーシップの随所から、黄金のルーンと青紫色の電磁火花が生き物の血管のように脈打って走り出し、システムが安定して稼働する状態へとアジャストされた。
次の瞬間、戦艦アークの頂点から、エリンの流体光子とスクラル人の電磁パルスをブレンドした逆位相の重力波が、空へ向けて定常放射された。
空に張られた青白い光の膜が、1ミリの綻びもなく強固に空間へと固定され、ブラックホールの死の光線を、恒久的に「優しい春の温かさ」へと変換し続ける絶対的な環境偽装インフラが、ここに完成した。
「……水だ! タロス、地底の深層から有害な重金属水が、アークの重力錨によって地表へ引き摺り上げられてくるぞ!」
「エリン、頼む!」
「了解」
私は長机のコンソールへ華奢な指先を触れさせ、アマダムの原子・物質操作能力を最大稼働させた。
引き上げられた有害な死んだ水に含まれる重金属分子の結合を1/1000秒で直接消滅させ、スクラル人が使用可能な「純然たる真水の巨大な貯水湖」へとその場で瞬時に相転移物質変換を執行する。
それだけでは終わらない。
戦艦プラントが地表の酸化鉄、赤砂を吸引し、エリンの元素変換の式をブーストさせて、生命を育むアミノ酸を豊富に含んだ超・肥沃な土壌へと、毎時数百トン単位で次々と大量生産して更地へ吐き出していく。
その温かい土壌の上。
タロスたちスクラル人の手によって、彼らの故郷の種子である宇宙植物「サント・ミリカ」が、その大地へと一斉に植え付けられた。
パキ、ピキピキピキ……!
恒星の直射日光ではなく、ブラックホールの熱量が優しい青白い光へと間引かれたその空の下、青い宇宙植物の原生林は、狂ったような速度で不気味に、そして力強く芽吹き始め、大気中の有害物質を吸い込み、代わりに高濃度の酸素を自律的に排出し始めた。
地球人なら3秒で細胞が崩壊するはずの暗黒世界が、スクラル人100万人がありのままで快適に呼吸し、豊かに暮らせる楽園のスクラロスへと、秒単位で自動的に作り替えられていく。
「……完璧な、環境上書きプロトコルの達成を確認」
私は金髪のボブカットを揺らし、最終決戦形態を解除した。衣服が粒子となって分解され、ただの黒髪ボブ、黒いコートを纏った「エリン・マクカシー」の姿へと滑らかに戻る。
ダミーのファイズフォンを腰のドライバーへと静かに収め、お母さんのいる日常の記号である、ぬるくなったコーラをポケットから引き抜いて一口啜った。
隣では、タロスをはじめとするスクラル人たちが、他人の目を気にして誰かの姿に擬態する必要のない、その緑色のザラついた本来の素顔のまま、新天地の青白い光を浴びて、涙を流して大気を胸一杯に吸い込んでいた。
「ありがとう、エリン。……俺たちのこの緑の皮膚の硬さを、そして君への絶対的な恩義を、これから証明してみせるさ」
「……私は私の、計算が合うように動いたまでです、タロスさん」
私は黒いコートの裾を冷たく翻し、ビフレストの光の中へと無音の足取りで滑らかに消え去っていった。
地球のダメージコントロール局も、アベンジャーズの理想論者たちも100%関知し得ない宇宙の最果てに、エリンに絶対の恩義を感じ、全長数キロの巨大宇宙戦艦アークを機動要塞としていつでも地球へワープさせられる、人外の共犯者ギルド」の拠点が、完全に、完璧な黒字のまま成立した。
夜のヘルズ・キッチン。
古い赤煉瓦のアパートの屋根の上。
お母さんのいるリビングの換気扇の低い唸りを生体センサーで確認した、まさにそのミリ秒。
ブルルル……、ブルルル……。
私の黒いコートのポケットに収められた安物のスマートフォンに、登録名のない回線からの着信によって烈しく点滅した。
ピ、と人外の硬質な指先で承認ボタンを叩く。
一秒の無音。スピーカーの不快なノイズを割って滑り込んできたのは、いつもの冷酷な管理官としての威厳を1400%以上超過してバーストさせ、本気の焦燥と大混乱の熱を隠しきれていない、ニック・フューリー長官の低く乾いた咆哮だった。
『――マクカシー!!! お前は、一体全体、宇宙のどこで何をしてきたんだッ!!!』
「スクラル人の話がもう耳に入ったのですか、長官殿」
私は喉の筋肉の摩擦をエリン・マクカシーの仕様値に正確に固定し、血の通わない平坦な声を滑り込ませた。瞬きの回数は、一秒に〇・八回。
「世界の守護者を自負しているシールドのトップが、それほど乱雑に声を震わせるなんて許容できない不快なノイズです。事情を説明してください」
インカムの向こうで、フューリーが葉巻を灰皿に叩きつけるような、凄まじい衣服の擦れる音が響く。
『数時間前、私のプライベートなセーフハウスの回線に、完全にパニックと歓喜で頭をバーストさせたスクラル人の老兵から、一本の暗号通信が滑り込んできた。
あいつらは、私の妻へ向けて、涙を流しながらこう叩きつけてきたんだ。
「――プリシラ! ニックはついに約束を果たしてくれた! 世界樹の最果てに、ボクたちが本来の姿で暮らせる最高の移住先を見つけて、アスガルドの王から公式な許可をもぎ取ってくれたんだな! ニック・フューリーに祝福あれ!」と!!』
私は冷え切った缶コーラを一口啜り、完璧なエリンの無表情のまま、その情報を脳内CPUへ滑らかにインデックス化した。
『妻も私も、完全に青天の霹靂だ!!! 私はそんな星など1ミクロンも知らんし、アズガルドの王に交渉するコネも権限など最初から持っていない!
地球に潜伏している数万、数十万のスクラル人のネットワークが、今まさに新天地への入国準備で蜂の巣をつついたような大騒ぎを開始している!
この地球規模の情報スパイクを引き起こした鎖の根源を逆引きしたところ、お前に突き刺さったんだよ! 吐け、マクカシー! お前はタロスを連れてどこへ行った!』
「……極めてシンプルな答え合わせですよ、長官殿」
私はコーラの缶を屋根の煉瓦へ静かに置き、前髪の隙間から覗く焦げ茶色の瞳を冷たく細めた。そこには、世界を騙し続けている国家のトップを前にしても、1ミリも悪びれる要素など存在しなかった。
「私はただ、パトロール中にたまたまヘルズ・キッチンの周囲を徘徊している人外の擬態生物を捕捉・追跡した。
そしてたまたま、彼らが故郷を焼かれた難民であり、あなたに30年間も言い様に使い倒されている裏の駒である事実を知った。
さらにたまたま、私が先日、戦乙女『ラーズグリーズ』としてオーディン王とコネクションが発生し、結果として不毛の荒野が続く惑星を彼らに提供することができた。
……ただ、それだけの偶然が重なった、至って実務的な手続きにすぎません」
『偶然だと……!? お前はアスガルドの神の王を相手に、惑星1個の割譲を、事後承諾の手続きすらなしに勝手に成立させてきたというのか!』
「当然です」と、私は平坦な声音のトーンを一段と冷たく落とした。
「長官殿、逆にお聞きしますが。
あなた方が『いつか故郷を見つける』という30年物の不渡り手形を彼らに掴ませ、都合のいいスパイとして飼い殺しにしてきた結果、彼らの派閥のなかにいる強硬派が絶望のあまりに地球のインフラを内側から強硬にハックし始める確率――現時点で極めて高水準の危険値を叩き出していました。
もし彼らが暴走すれば、めぐりめぐって私のお母さんの日常のインフラが自壊する。
……私はただ、あなたが30年も不義理を働いて放置してきたその致命的な赤字を、綺麗に肩代わりしてあげた形になるかと思いますが。……何か、不満のでもおありですか?」
長い、重々しい沈黙が、ニューヨークの夜の防音壁を震わせるようにして回線を支配した。
フューリーの口から漏れたのは、敗北感と、目の前の人外の計算機の完璧すぎる「先回りの有能さ」に、胃を直接万力で締め上げられているような、低く、乾いた溜息だった。
彼自身の抱えていた最大の頭痛の種が、最も不気味で最もスマートな、1セントの公的予算も使わずに解決ルートへと導かれてしまったという、拒絶不能な現実。
『……ハハッ。お前というお嬢さんは、本当に私の身の丈に合わない特級の資産だな、マクカシー』
フューリーの声が、いつもの冷酷なトップの温度を取り戻していく。
『いいだろう、これ以上の暗号通信はログのバッファに引っかかる。
現時刻から二時間後、いつものハドソン川沿いの廃倉庫で、私とお前、そしてタロスを交えた、非公式の3者会合の席を用意してやる。
その場でお前たちの実行した移住計画の全貌を、私に直接、順序立ててインプットしろ。』
「了解しました、長官殿。タロスさんへの暗号同期は、私のサーバー側から直接流しておきます。
……それでは、後ほどお会いしましょう」
プツン、と通信が切断され、ホログラムのインジケーターが静かに消灯した。
私は端末をコートへ収め、冷え切ったコーラを最後の一滴まで飲み干すと、夜の街へと黒いコートの裾を翻した。
◆ ◆ ◆
ハドソン川沿い、一般の立ち入りが完全に封鎖されたいつもの廃倉庫。
天井の隙間から差し込むマンハッタンの冷たい月明かりの下、仕立ての良い漆黒のロングコートを纏ったニック・フューリーは、一つだけ残した目をギラつかせ、机を挟んで直立する私たちを睨みつけていた。
「――説明を求めようか、マクカシー。それと、タロス」
フューリーの声は、コンクリートの床に沈むように低く、そしていつもの不機嫌さを限界値まで超過させていた。
彼にとって、地球の影に隠匿していたはずのスクラル人が新天地の発見に沸き立っている現状も、それを引き起こしたのが自分の子飼いであるはずの黒髪ボブの少女であるという事実も、すべてが計算の枠を外れた埒外の話でしかなかった。
「お前に神々の王とのコネクションがあるのも意味不明なら、スクラル人に事実上の惑星の割譲が成立しているのも意味不明だ。私の知らない条文が盤面に増えている。順序立ててインデックスを並べろ」
「了解しました、フューリー長官。過剰な感情のノイズは、状況の整理において処理遅延を生むだけですので、事実のみをデコードします」
私は完璧なエリンの無表情のまま、血の通わない平坦な声を滑り込ませた。瞬きの回数は、一秒に〇・八回。
「事の始まりは、最近起こった11月のユグドラシルの世界の直列――コンバージェンスの案件です。空間の歪みの調査の過程で、私はジェーン・フォスター博士の護衛としてアスガルドへ向かいました。
その移動の際、私は世界樹の引力歪曲によって生体プロセッサが一時的なバーストを起こして前後不覚となり、結果として、オーディン王の血液を体内に流し込まれ、戦乙女『ラーズグリーズ』として名前を与えられました。その後、私はソー・オディンソンの祖父がかつて戦ったとされる5000年前のダーク・エルフの残党との戦争へ、前線の戦力として参加したのです」
フューリーの唯一の目が、値踏みするように僅かに細まる。
「戦術的戦果として、私はダーク・エルフの急襲から王妃フリッガを守護し、不毛の星に突入してきた首領マレキスを含む残党のすべてを、確認できる限り完全に削除しました。
今回、縁があってスクラル人の皆さんと遭遇し彼らの置かれた状況を聞きオーディン王に直接交渉を通したところ、入国と移住が許されたというわけです」
私は平坦な声を淡々と繋げた。
「スヴァルトアールヴヘイルは、空をダークマターが遮り、その上層からはブラックホール由来の凶悪な光線が地上に降り注ぐ、人間にとっては一瞬で細胞が崩壊する過酷な環境でした。
現地に残るダーク・エルフ由来のテクノロジーを技術者の方々が再起動し、その死の光を地球の春の昼下がりのような優しい青白い光へと波長変換する防護膜が空間に形成され、彼らであれば十分に開拓と移住ができる仕様になりました」
つらつらと澱みなく、事務的な報告書を読み上げるように言葉を紡ぐ私。
ニック・フューリーはそのプロの現実主義者としての眸で、私の顔をじっとスキャンしていた。
少なくとも、この怪物の並べた冷たい数式のなかに、地球を裏切るような「悪意」やエゴが1ミクロンも介在していないことだけは、彼には正確に読み取れていた。
――だが。
フューリーはフッと冷酷な笑みを口元に浮かべ、私のインデックスの裏にある「真の計算式」を、その鋭い直感で看破してみせた。
「……なるほどな。お前の言う偶然の辻褄は100%綺麗に繋がっている、お嬢さん。だが、お前が自分の生存率に直結しないボランティアで、他種の難民のためにそこまで完璧なインフラを整えてやるわけがない」
フューリーは一歩前に出ると、長机を両手で叩きつけた。
「何をやっても地球のどの情報機関にも、スタークのセンサーにすら絶対にバレない完璧な隠れ家。いざというときに、お前の最優先変数である『母親』を国家のインフラから切り離して永久に隔離・保護できる、絶対的な安全圏。それだけじゃない。五千年前の残党――ダーク・エルフを絶滅させたというなら、現地にはやつらが運用していた母艦や上陸船の類が残骸として山積みにされているはずだ」
隻眼の管理官の低い声が、廃倉庫の静寂を鋭く刺す。
「お前は、トゥームスの回収班とスクラル人の技術をあの星の地下ドックへ極秘裏にドッキングさせ、その宇宙の鉄屑を修理・魔改造している。……遠からず地球へなだれ込んでくるであろう、本物の宇宙の軍勢に対抗するための、お前自身の『裏の質量兵器』として運用するつもりだな?」
看破。
大人の冷徹なチェックメイト。
隣で人間の皮を被ったタロスが、フューリーの鋭さに僅かに息を呑む気配が伝わってくる。
だが、私の焦げ茶色の瞳には、動揺など1ビットも存在しなかった。完璧なエリンの無表情のまま、平坦な声音を静かに滑り込ませる。
「当然の計算ですよ、長官殿」
私は少しだけ首を傾げ、冷たくそろばんを弾き直した。
「スヴァルトアールヴヘイルの赤砂の上に打ち捨てられている、あり余る宇宙戦艦の残骸。……あれ自体は、元手となる仕入れコストがタダの、最高級の粗大ゴミです。
将来、相手が圧倒的な数と質量を誇るマクロな宇宙艦隊をこの地球へ向けて運用してくるというのなら。……こちらはその魔改造した戦艦の巡航ドライブをハックし、無人の自動操縦でワームホールの出口から敵の旗艦へ向けて直接、超高速で特攻・激突させて、物理的な質量兵器としてその数を事前に引き算して減らせばいい。
持てる者のエゴに対して、持たざる者が自前のゴミの山を使って最大の制動力を成立させる。
これほど費用対効果が高く、戦術的にスマートで、合理的な計算式は他にないかと思いますが?」
冷え切った廃倉庫の空気に、私の冷酷な生存演算だけが落ちていく。
フューリーは答えなかった。
目の前にいる人間の皮を被った計算機は、地球防衛という大義のためではなく、ただ「下町の日常」という極めてミクロな天秤を死守するためだけに、宇宙の最果てにアベンジャーズすら関知し得ない絶対的な裏の防衛要塞を、完全に構築しきっていたのだ。
「……フッ、相変わらず、お前のその徹底的な合理は感心する」
フューリーは懐から葉巻を取り出し、ニック・フューリーが葉巻を燻らせ、その青白い煙が月明かりの差し込む廃倉庫の空気にゆっくりと溶けていく中、私の隣に直立していたタロスが、その人間の冬物の衣服の襟元を僅かに緩めた。
彼の緑色のザラついた喉の奥から、三十年間の放浪の歴史を総括するような、重々しい大人の言葉がフューリーの隻眼へと真っ直ぐに叩きつけられた。
「……ニック。スクラル人を、君がこの三十年間、地球防衛の裏の兵隊として言い様に使い倒し、酷使してきたのは紛れもない事実だ。派閥のなかには、君のその不義理に限界を迎えていた者も大勢いる」
タロスはそこで一度言葉を区切り、自らの胸に右手を当てて、静かに首を振った。
「だが、あのお嬢さんが新天地ニュー・スクラロスを見つけ、アスガルドのライセンスをもぎ取るための因果関係――そのすべての発端は、君がボクたちを地球の影に隠匿し、彼女の母親の周囲にガードとして配置したことから始まっている。間接的とはいえ、本来の姿で暮らせる惑星に辿り着けたのは、君がいたおかげだ。……感謝するよ、ニック」
タロスの眸には、これまでの泥沼のような放浪生活の終わりを確信した、真の戦士としての熱い光が灯っていた。
「すでにスクラル人の全会一致は承認され、新天地への移住への熱意はもう誰にも止められない。カレンダーをめくるたびに、同胞たちは次々とビフレストを渡ってあの星へと移住していくだろう。……だが、ニック。三十年もこの泥臭くこの地球で暮らしてきたんだ。このまま人間の姿のまま、君の『目』として地球に残り、君のチェス盤を支え続けたいと願う者も、一定数残るだろう」
そのタロスの、絶対的な恩義と利害を越えた歩み寄りの言葉を耳にした瞬間。
世界の守護者を自負し、常に冷酷なマクロの算定だけで世界を回してきたニック・フューリーという男の唯一の片目が、かすかに、信じられないほど複雑に揺らいだ。
彼は葉巻を灰皿の端へと置き、実直なトレンチコートの襟を正すと、彼にしては珍しく、大人の嘘や保身のフィルターをすべて引き算した、剥き出しの誠実な声を落とすようにして呟いた。
「……タロス。三十年も待たせて、悪かった。俺は、お前たちとの約束を、俺個人の力では最後まで果たすことができなかった。それは、俺の人生における最大の汚点であり、敗北だ。すまなかった。」
フューリーは自嘲気味に笑ったが、その声の最深部には、肩の荷が降りたような、静かな安堵のインデックスが刻まれていた。
「だがな……お前たちの未来が、確かに見えたのは良かった。これで俺も、夜中に胃を痛めてスクラル人の暴走リスクを計算するコストから解放される。……お前たちの旅立ちを、これからを祈ろう」
理解はできない。
損得のそろばんの帳尻も合わない、人間と異星人の間に流れる三十年物の不確実な情の余白。
だが、私の脳内CPUは、この二人の大人が交わした言葉を、お母さんの日常の安全マージンが極限まで跳ね上がる完璧な【黒字】として静かに承認していた。
スクラル人の強硬派による地球ハックのリスクはゼロになり、地球に残る精鋭は引き続きフューリーの盾として機能する。これ以上ないほどスマートな、引き算の幕引き。
「挨拶の手続きが完了したのなら、この会合はこれにてお開きとします。長官殿、タロスさん。私はこれより、マンハッタンの実家へ帰宅し、お母さんのダイナーの夜のシフトの終了時間に合わせて『ただいま』を執行する予定ですので、ここで失礼します」
私は黒いコートの裾を冷たく翻し静まり返った廃倉庫の鉄扉へと向かって、無音の足取りで滑らかに歩み出した。
宇宙の最果てに機動要塞アークという最強のバックアップを隠匿し、地球の影にはスクラル人の残党警備網を固定。
すべての外部インフラの拡張を完璧な正常値で整え終えた怪物の少女は、マンハッタンの冷たい雨の中へとエントリーし、お母さんの待つ薄暗い蛍光灯の下へ向かって、静かに、確実に帰還するのだった。
多少のご都合は許せ!!スクラル人がかわいそうだったんだよ…
後続の作品で書く機会があるかわからないのでここで書くと、オーディンの主人公への態度なのですが
ソーがオーディンにとって自らが理想とし、そうあってほしいと願う高潔な『光の王』の姿を体現しているのに対し、エリンの徹底的な冷酷さ、生存のための引き算の論理、そして危ういまでの執念は、オーディンにとって九つの世界を血で染め、力ずくで統一を執行していたイケイケだった若き日の自分を、烈しい戦慄と共感と共に思い出させる存在です。
「大義のために戦う」というソーの高潔さは、オーディンが老いてなお眩しすぎる理想(光)ですが、エリンの放つ冷気は、かつて自分がヘラと共に血の海を渡っていた頃の「泥をすする戦士としての本質(闇)」そのものなのです。
公式に名を与えたり、地球を離れたらアスガルドに来いというのもある種の親心の現れなのです。
もちろん、オーディンフォースを分け与える、正式に名を与え根回しをする、血の盟約をするといった行為はヘラやロキからしたら絶対に許せることではないのは語るまでもありません。