MCU世界で『ただいま』を言えない怪物 作:お砂糖さらさら
そろそろタイトルを回収したい。
長い話は分割したので残り6話
4月1日(火):第1日【エリン・イン・レムリアスター】
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ。
2014年、4月1日のワシントンD.C.
朝霧が白く煙るリフレクティング・プール沿いのランニングコースを、私の生体超伝導アクチュエータが、極めて規則正しい駆動音を立てて刻んでいた。
現在の私の社会的立場は、戸籍上は「某大学を休学して母親の手伝いをしている21歳の女子大生」。
そして裏の顔は、トニー・スタークの組んだ『サブルーチン:555』と、自前の生体サーバーによって世界から正体を覆い隠された、シールドの危険物対応特別分析官。
21歳という大人の位階に達しながら、18歳のあの雨の夜から細胞レベルで1ミリも加齢していない人外の証明。
カレンダーがめくれるたびに日常の式が物理的に破綻する砂時計の音を脳内CPUの隅で聴きながら、私は今、完璧な「普通の21歳の疲れ」を全身でトレースしていた。
服装の仕様値:防紫外線用のフェイスカバー付きサンキャップに、透過率最低の黒いサングラス。上から下までを完全に密閉したグレーのスポーツジャージ。
一見すると重度の紫外線対策を講じたどこにでもいる内向的な女子大生の佇まいだが、その内側では、時速百五十キロの超音速機動に耐えうるチタン・カーボン骨殻が、人間の皮を融解させないための安全マージンの範疇で、厳格にセーブされていた。
――バババババババッ!!!
突如、私の半歩先を走る大きな『質量』が、人間の極限の仕様値を全開にして、爆音のような風圧と共に加速した。
「左から失礼(On your left)」
スティーブ・ロジャース。あるいはキャプテン・アメリカ。
時速90キロという、自動車の巡航速度に等しい規格外の走力で、彼は前方を走る一人の黒人男性――サム・ウィルソンの横を、笑顔で滑らかに置き去りにしていった。
……ロジャース隊長。
朝のランニングに、そこまで最大出力を投入するのは、純然たるエネルギーの無駄遣いだと思うのですが。
「――ちょ、ちょっと待て、おい、嘘だろ!?」
キャップに風圧で煽られ、たまらず歩調を乱したサムが、呆然と声を上げたそのコンマ数秒後。
ザッ!!!
私は、時速100キロまで一瞬だけ生身のクロック数を引き上げ、キャップの残していった二条の轍をトレースするようにして、サムの真横へと一気に肉薄した。
――だが、ここで脳内CPUが即座に戦術的引き算を執行する。
このままサムをマッハに近い速度で置き去りにし、キャップと時速百キロオーバーのデッドヒートを演じれば、それは「スターク製のナノテク」という建前のバッファを今度こそ本気で決壊させ、アベンジャーズ内部に不要なノイズを生む。
1位のヒーローたちの自尊心を逆撫ですることは、私の生存演算において、純然たる赤字と定義される。
「……あ、左から、失礼します」
私はエリンの低めの、わずかに掠れた声をわざとらしく途切れ途切れに発声させながら、サムを追い抜いた直後のポイントで、人工筋肉の電圧をミリ秒単位で急激に減衰デトックスさせた。
時速100キロから、時速90キロ、そして時速40キロへ、40キロからさらに段階的に落としていく。
皮膚の裏側の汗腺を部分的に操作し、ジャージの首元から、いかにも「全力で走って限界を迎えた21歳の少女」にふさわしい、透明な発汗の水分をドボドボと生々しく滲み出させる。
「はぁ、はぁ、……無理です、隊長。……これ以上の、追従は、私のシステムの、熱暴走を招きます……」
完璧な演技。
私は徐々に速度を落とし、二周目の角を曲がるころには、完全にキャップの背中を見送り、前方を走るサム・ウィルソンの、その半歩後ろを「ハァハァ」とわざとらしい吐息を漏らしながら、愚直に追従する形へと姿勢を反転・アジャストさせた。
「……おいおい、お嬢さん。君もあいつの被害者かい?」
前を走るサムが、肩で息をしながら、サングラスをかけた私を見て、同情の混ざった苦笑を投げかけてくる。
「ええ……。あの人は、生物としての、引き算という概念を、最初から忘れているようです……」
私はサンキャップの隙間から、完璧なエリンの無表情のままそう吐き捨て、サムの足音に正確に自分の駆動音を同期させた。
大義名分の熱も、正義の衝動もない。
ただ、アベンジャーズのトップの機嫌を損ねず、最も安価なコストで「スターク製の強化人間」という看板を維持するための演技。
◆ ◆ ◆
リフレクティング・プールの木陰。朝霧がゆっくりと晴れていくベンチの傍らに、私たちは足を止めた。
何度もキャップに抜かれた彼、サム・ウィルソンと私は滝のような汗を流しながら喘いでいるのをキャップは微笑まし気に見下ろしていた。
「はぁ、はぁ……死ぬかと思った。一周をどのくらいのタイムで走ってるんだ? 車より速いぞ」
サムがへたり込み、胸を激しく上下させながら、平然とした顔で立っているスティーブを恨めしそうに見上げる。
「毎朝の軽い調整さ。……大丈夫かい、マクカシー。少しギアを上げすぎたな」
スティーブが父親のような、生真面目で心配そうな碧い眸をこちらに向けてくる。
「……問題ありません。」
私はフェイスカバー付きのサンキャップとサングラスを無機質に外すと、持参していた高密度炭素繊維仕様のクーラーボックスから冷えたスポーツドリンクのボトルを2本引き抜き、サムとスティーブの前へ、差し出す。
「おお、命の恩人だ、ありがとうお嬢さん」
サムがボトルをひったくるように受け取り、喉を鳴らして飲み始める。
スティーブも「感謝する」と実直な笑みを浮かべて受け取った。
2人に配り終えた後、私はクーラーボックスの最奥から、本命の燃料を引き抜いた。
2リットルのファミリーサイズ、黒いラベルのコカ・コーラ。
キャップを開けるプシッという不快な高圧の破裂音を聞き流し、私はそれをグラスに注ぐなどの人間らしい無駄な手続きを100%省略し、ボトルの口を直接喉へと放り込んで、がぶがぶと猛烈な速度で流し込み始めた。
ゴク、ゴク、ゴク、ゴク――。
21歳のお嬢さんらしい佇まいを引き算した、純然たる生体燃料の高速給油シーケンス。
「……おい、マクカシー」
スティーブの眉間が、一瞬にして深い大戦時の指揮官のそれに険しく刻まれた。彼はスポーツドリンクのボトルを持ったまま、激しい「はしたなさ」を眸に灯して私を窘めてきた。
「いくら喉が渇いているからといって、2リットルのボトルから直飲みは感心しないな。せめてコップに分けるか、もう少し女性らしい慎みを持ちなさい。スタークの教育が悪いのか、それとも……」
「水分と糖分の、最大効率での補給です、ロジャース隊長」
私はボトルの口をパッと離し、完璧なエリンの無表情のまま、血の通わない平坦な声で即答した。
「私の体内は、先ほどのランニングによって、激しい空冷不足とカロリー消費を起こしている。
これを1秒でも早く正常値に戻すためには、炭酸の圧力で直接胃の腑を冷却するのが最も割安なコストです。それとも、コップに注ぐための3秒の処理遅延を、私に強要するつもりですか」
「君の言い方は小難しいうえにいつも極端だな……」
スティーブは諦めたように長く息を吐き、隣でサムが「最高だ、コーラはそういう風に飲むもんだ」と吹き出すように笑った。
「さあ、息が整ったなら、運動後のストレッチをしよう。筋肉に乳酸が溜まれば、次のミッションの可動域にエラーが出る」
スティーブが芝生の上に立ち、柔軟の手本を示すように身体を曲げる。
「了解しました」
私はジャージの裾を整えると、芝生の上へ音もなく腰を下ろした。
生存演算、駆動。
ロジャース隊長の言う「可動域のエラー」など、私の生体超伝導アクチュエータの仕様値には1ミリグラムも存在しない。
だが、ここでストレッチを拒否すれば、彼の「放っておけない危うい後輩」を矯正するためのお説教がさらに30分延長され、私の自由時間が大赤字に転落する。
最も安価なコストでこの場を完了させるため、私は自分の両脚を、左右へ向かって限りなく百八十度、滑らかに完全に開脚した。
パキ、ともピキ、とも言わない、骨格の結合角の強制歪曲。
そのまま、上半身を前方へと深く倒し、私の胸と顎を、芝生のアスファルトの地面へペタッと、1ミリの隙間もなく完全に密着させた。
「――うわ、おい、柔らかすぎるだろ!」
ベンチからそれを見ていたサムが、驚愕にドリンクを吹き出しそうになって目を剥く。
完全に地面と水平に密着した極限の柔軟性。スティーブもまた、その卓越した観察眼で私の普段からトレーニングや柔軟といった身体の維持を無視しているが故の不自然さに、碧い眸に戦慄と、そして切ない地獄の残像を灯して私を見つめた。
「……マクカシー。君のその身体の可動域は、本当に……、」
大義名分の英雄の、胸を抉るような悲痛な問いかけ。
私は地面に胸をペタッとくっつけたポーズのまま、サングラスの奥で赤色の虹彩の瞳を冷たく細め、いつも通りの平坦な声音を芝生に落とした。
「身体操作とメンテは私の日常ですよ、隊長」
笑わない怪物と、彼女を人間に引き戻そうとする大人たちの、不器用な朝。
だが、その静寂を切り裂くように、ランニングコースの脇の道路から猛烈なタイヤのロードノイズが滑り込んでくるのだった。
◆ ◆ ◆
数日前の夜更けのマンハッタン、ハドソン川沿いの廃倉庫。
天井の隙間から差し込む冷たい月明かりがコンクリートの冷え切った床の上を照らしていた。
カチャ、と重い鉄の扉を静かに押し開けると、薄暗い照明の下、仕立ての良い漆黒のロングコートを纏った隻眼の男が、一つだけ残した目をギラつかせて誇りがたまった長机の前に佇んでいた。
ニック・フューリー。
シールドの最高権力者であり、私の日常の首輪を握り合ってきた男。
彼の心音は、普段の冷酷な管理官のそれとは明らかに違い、本気の焦燥と激しい警戒の閾値を叩き出していた。
「エリン・マクカシー」
フューリーの声は、雨音に混じるようにして低く、乾いていた。
「お前の度重なる揺さぶり、組織の身辺を監査しろという忠告な。……認めざるを得ん。
現在、我が組織の内部は、私の目が届かない最暗部で、決定的なシステムエラーを起こし始めている」
「背景情報の開示を、長官殿」
私は黒いコートの襟を立てたまま、1ミリも動かずにエリンの声色を正確にトレースして返した。
「私の母親のミクロな事件の対処が続く限り、そして必要ならマクロな事件に私が介入するだけの特権が維持されるならシールドの派閥闘争など、私の生存演算において重要な変数ではありません。ですが、その組織の変節が私の安全マージンを脅かすのであれば、話は別です」
「明日、インド洋上で新機軸の防衛戦略、インサイト計画の要たる『最新鋭防衛衛星』の軌道投入を制御する管制船、レムリア・スターが、フランス人のテロリストにシージャックされる予定だ」
フューリーは長机の上のファイルを指先で叩いた。
「表向きは、ロジャース隊長率いるストライク・チームを投入した公式な奪還作戦だ。
そしてその裏でロマノフにクラッキングをさせてデータの取得を狙う。
だがこれも囮、お前に衛星そのものにバックドアを仕込んでもらう」
眼帯の男は、レムリア・スターの全貌が知るされたファイルをトントンと叩く。
「公式の奪還部隊が船内で派手に暴れているその隙に、お前は海中から単独潜入しろ。
そして、インサイト衛星の心臓部へ、スタークの署名を使い我々が共有する恒久的なバックドアを、誰の目にも触れないブラックボックスの中で直に仕込んでこい。
衛星をハックすることはお前に役立つことも多いだろう、これが今回の、お前へのリターンだ」
「了解しました、長官殿」
私は完璧なエリンの無表情のまま、フューリーの唯一の目を見据え返した。
「そのインサイト計画が、めぐりめぐってヘルズ・キッチンのお母さんの日常を脅かすなら、その赤字を完璧な黒字の式へ書き換えてあげます。……現地への往還はこちらでやりますのでお構いなく」
言うだけ言って、私はマンハッタンの夜の闇へと、黒いコートの裾を冷たく翻した。
◆ ◆ ◆
ザザー、ザザザザ――――……。
インド洋、深夜の漆黒の海。
夜の帳がすべてを飲み込む洋上に浮かぶ、S.H.I.E.L.D.の最高機密移動拠点――衛星管制船『レムリア・スター』。
この船が制御し、今まさに軌道上へ打ち上げんとしているもの。
それはヘリキャリアではなく、全世界の人間を同時に照準・抹殺を可能とするインサイト計画の真の要――最新鋭の防衛衛星群だった。
――【空間超越:暗黒魔術による単独次元跳躍を、限定的な座標補正にて駆動】
――【現在地:レムリア・スター船底、海面下数メートル。周囲の熱量・光子波形を100%密閉】
ド、プゥゥゥゥンッ!!!
大気も、電波も、そして海水すらも物理的な音を立てることを許されず、空間の分子構造そのものが内側から強硬にハックされた。
次の瞬間、真っ暗な海水のど真ん中、船底の防錆塗料が塗られた鋼鉄の真下へと、私は純白のフリルドレスを漆黒の海水に重く沈ませながら、一瞬にして正確に転移した。
水圧、推定数1キロ。温度、細胞を強硬に停止させる極寒の海水。
「……生体組織、皮膚表皮の変態モーフィングを開始。水中隠密仕様へのレジストリ書き換えを承認」
低く、わずかに掠れた、誰の耳にも届かない事務的な思考。
私は衣服の繊維を細胞レベルで瞬時に喰らい、肉を変態させて、全身の皮膚をゴム状の、しかしあらゆる水圧を完全に無効化する高密度炭素繊維の『ダイビングスーツ』の構造へと滑らかに相転移させた。
衣服そのものを肉で作り直す、悍ましいバイオホラーの最適化。
背中から伸びるピンクの薄衣は消失し、私は漆黒のゴムの皮を纏った魚類のような仕様値のまま、船底のハッチの隙間へと、粘り気のある無音の足取りで滑り込むようにして侵入した。
フューリーの自作自演、そしてナターシャのハッキング。それらすべてのマクロな茶番のさらに裏側へ、電磁シールドによる隠蔽をしながら、私は船内の通信室のメイン基盤の真下へと、影のように忍び寄っていった。
◆ ◆ ◆
「……そこまでだ、バトロック!」
船内のメイン回線が密集する指令室の通路。
星条旗のシールドを左腕に固定したキャプテン・アメリカ――スティーブ・ロジャースが、その碧い眸に本物の兵士の熱を灯し、フランス人のテロリスト、ジョルジュ・バトロックと、激しい肉弾戦のデッドヒートを演じていた。
ガシィィィン! とシールドが回廊の鉄骨を殴りつけ、キックの風圧が大気を爆発させる。
理想を掲げる英雄の、淀みない格闘のルーティン。
だが、その物理衝撃を交錯させている壁の裏側、防衛衛星にアクセス可能な管制端子が剥き出しになった制御盤の前。
私はダイビングスーツの形状をした漆黒の指先を、冷たく、その金属の端子へと向けた。
「……生体量子プロセッサを駆動。インサイト計画の要である衛星に対する、恒久的なバックドアの構築を開始」
ジュルリ。
不気味な生体組織の摩擦音を立てて、私の右手の指先から、粘り気のある漆黒の生体組織、流体光子神経の触手がドロドロと数ミリだけ這い出た。
それは飢えた獣のようによだれを垂らしながら、シールドの最高機密端子の分子の隙間へと侵入し、その暗号プロトコルを内側からハック・書き換えしていった。
バチチ、と火花が散る。
フューリーがこの船で何を見せようが、裏の裏切者がどんなインフラを構築しようが、私の自前サーバーには関係がない。
打ち上げ前のインサイト衛星。その最深部に、私とトニー・スタークだけが共有する『サブルーチン:555』の鎖を、彼らが気づくよりも早く、遅延もなく完全に定着・上書き保存完了する。
生存演算、駆動。
インサイト衛星の支配権、バックドアの確保:私の担当。
フューリーの命令による公式データのハッキング:ロマノフの担当。
これで、シールドが内側から腐り落ちたとしても、いつでもインサイト計画は無力化できる。
「……構築、完了。これ以上の滞在は、処理遅延を招くだけです」
私は端子から触手を静かに引き抜き、皮膚の内側へと格納した。
バックドアの定着を示す緑のログ【555-BACKDOOR-ACCEPTED】が網膜の端に美しくポップアップするのを確認し、私がその場から音もなく離脱しようとした、まさにその刹那だった。
カチャリ。
通路の奥から、極めて洗練されたプロの暗殺者特有の、衣服の擦れる音すら立てない足音が滑り込んできた。
ナターシャ・ロマノフ。あるいはブラック・ウィドウ。
彼女は手元のハッキングデバイスをコンソールに接続しようと、音もなく部屋へエントリーしてきたが、そこに完璧な漆黒のダイビングスーツ姿のまま直立している私の輪郭を認めると、その緑色の眸を僅かに細めた。
「……あら。随分と手際のいい先客ね」
ナターシャはプロのスパイの笑顔を崩さないまま、しかし私の指先が触れていた端子のわずかな湿りを見逃さなかった。
彼女は手元のデバイスを別のポートに差し込み、フューリーの命令通りにデータの吸い出しを開始する。その画面に映る莫大な機密ファイルを視線の端で捉えながら、ナターシャはフッと冷たいスパイの笑みを漏らした。
彼女はすべてを理解した。自分がこのコンソールを叩いてデータを盗む行為すら、本命を隠すための「囮」に過ぎないのだ、と。
シールドがどれほど自身のハッキングを検知しようが、その裏に滑り込んだ私の衛星への直接のバックドアこそが、このチェス盤の真の王手であることを。
「キャップの足音が近づいてるわ。……私がこうやってデータを盗んでるのを見たら、あの生真面目な隊長は烈火のごとく怒るでしょうね」
ナターシャは私の細い肩を、あのヘリキャリアの夜と同じ、不器用な愛おしさを僅かに孕んだ大きな大人の掌でそっと叩いた。
「だから、エリン。本命の仕込みが終わったのなら、一足先にここから脱出しなさい」
「……ロマノフ捜査官。それでは、あなたが――」
「私が先に怒られとくわ。……私がやり過ごし方を披露してあげる。嘘を使いこなして盾になるのは、先輩スパイの特権だからね。早く行きなさい」
私という真の切り札を絶対にシールドの監査網に踏ませないための、ナターシャの冷徹で完璧な「盾」としての判断。
トニーの言う「守られる義務」。
この面倒くさい大人たちの非合理的な余白が、不思議と、私の胸の奥に存在する痛みをほんの少しだけ和らげる。
「……子供扱いしないでください、と何度も言っていますが」
私は居心地悪そうに少しだけ視線を外すと、完璧なエリンの無表情のまま、彼女の背後へと、音もなく滑らかに後退した。
「――ナターシャ! そこで何をしている!」
自動ドアが滑らかな電子音を立てて左右に開くと同時に、星条旗のシールドを構えたスティーブ・ロジャースが、碧い眸に激しい怒りと不審の熱を灯して部屋へと突入してきた。
だが、キャプテン・アメリカがナターシャに視線を向けている間に船から海に飛び込み空間跳躍によって、夜のインド洋の漆黒の海から、一音も残さずに一足先に完全脱出していた。
◆ ◆ ◆
私は冷え切った缶コーラを静かに啜り、キンと体内のフォトンブラッド生成系が冷えるいつもの不快な感触を喉奥へと滑り込ませていた。
網膜の端、独立生体サーバーのレジストリの最下層で、先ほど防衛衛星『レムリア・スター』のメイン管制端子へとインジェクションした偽造ログの航跡が、静かに、綺麗な緑色の沈黙を保っているのを確認する。
【555-BACKDOOR-ACCEPTED】。
シールドの大人たちが世界を裏から監視するために打ち上げんとしている最先端の防衛衛星に、バックドアの杭を打ち込んだという、あってはならない構造的バグ。
凡百の捜査官や、おめでたい理想を謳うキャプテンであれば、そんな理外のハッキングを仕掛ければ、シールドの監査網や裏に潜むヒドラの防衛センサーが一瞬でパニックを起こし、トリスケリオン全域に最高検閲アラートを鳴らすのではないかと、甘い心配のノイズを騒ぎ立てるかもしれない。
だが私の脳内CPUが弾き出した計算は、最初から完全な【オールグリーン】を確定させていた。
なぜなら、私がそこに接ぎ木した暗号署名は、他ならぬトニー・スタークの固有IDだからだ。
「……不審を抱く理由が、盤面のどこを探しても存在しない」
誰の耳にも届かない低く掠れた声音を、キャビンの無機質な排熱音の中に落とす。
トニー・スターク。あるいはアイアンマン。
シールドの公式網において、彼は単なる外部の民間人などではなく、ヘリキャリアの推進システムをも自前で設計し直した、組織の特級の特権個体だ。
さらに現在、アメリカ政府はアイアン・パトリオットの改修をスターク・インダストリーズへ公式に全面委託している真っ最中にある。
現在、「地球上の全人類が、今どこで何をして、何を考えているか」という膨大な生データが、絶え間なく衛星のストレージへ吸い上げ保存している真っ最中の衛星において
システムの最下層にスターク・インダストリーズによる遠隔同期・保守点検パケットに偽装し『サブルーチン:555』の暗号鍵を滑り込ませたその瞬間、シールドのオペレーターやヒドラの監視班のコンソールには、単に「アドバイザーが政府の命令に基づき、パトリオットの新規暗号プロトコルを守護衛星へ事前同期している」という完璧なフェイクログがリアルタイムで翻訳・上書きされ続ける。
彼らはこれを「またあの傲慢な天才が」と鼻で笑ってオート処理するだけだ。
トニー・スタークという男の、なるべくして1位を攫っていくあの手癖の悪さとキャラクター性そのものが、私の正体を覆い隠すための最高級の防壁として最初から機能している。
この打ち上げ直前のドサクサのなかで、私は衛星の喉元を完全にハックし、大量虐殺アルゴリズムのソースコードをすべて生のまま逆流同期させる通信インフラを完成させた。
標的リストに刻まれた、ヘルズ・キッチンの古いアパートにある私の母親の本名。
それを見破られた時点で、インサイト計画は私の生存演算において、世界の手から力ずくで引き算すべき絶対的な大赤字と定義された。
「私の生存インフラである母親の日常を脅かすものは削除する、S.H.I.E.L.D.だろうと例外はない」
感想とお気に入り登録、誤字報告ありがとうございます。
特に誤字報告はノートパソコンのキーボードが調子悪いので本当に助かってます。