MCU世界で『ただいま』を言えない怪物 作:お砂糖さらさら
4月2日(水):第2日
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ。
床を踏み締める規則正しい足音が、ドーム状の天井へと静かに吸い込まれていく。
ワシントンD.C.、スミソニアン航空宇宙博物館。
朝の柔らかな光が差し込む広大な館内は、1940年代の「キャプテン・アメリカとハウリング・コマンドーズ」の華やかな特別展示を目的とした観光客たちの喧騒で満ちていた。
その歴史の劇場の片隅を、私はスティーブ・ロジャースの半歩後ろを歩いていた。
現在の私の服装の仕様値:清潔感のある白いブラウスに、膝下まで綺麗に揃った茶色のプリーツスカート。
S.H.I.E.L.D.の極秘予算から支給される公務員としての潤沢な固定給を原資に、昼間の社会へ溶け込むためにアジャストされた完璧な日常の景観だった。
スティーブは、展示壁に飾られた自分の古いセピア色の写真や、すでにこの世界から失われて久しい戦友たちの顔写真を、碧い眸を堪えるように細めて見つめていた。
当時の仲間の多くはとっくに鬼籍に入り、この世には一人も残っていない。1940年代から現在へと、一瞬にして時代を飛び越えてしまったスティーブにとって、この眩い21世紀の首都は、かつて愛し、命を賭して守り抜いた場所でありながら、同時に耐えがたい「孤独」を突きつけてくる冷たい異郷そのものだった。
やがて、彼の大きな足取りが、一枚の巨大な展示パネルの前でピタリとフリーズした。
セピア色の写真の中で、不敵に笑う一人の若い兵士の姿。
――ジェームズ・ビューキャナン・バーンズ。あるいは、バッキー。
大戦の最前線で、スティーブが超人になる前からの泥臭い日常を共有し、列車から雪深い奈落の底へと滑落していった、彼の人生における最大のロスト。
そして今はヒドラに改造と洗脳を施され都合のいい暗殺者になり果てている。
スティーブはそのパネルを見つめたまま、微動だにしなかった。彼の肌からは、激しい心拍の不調和と、引き裂かれるような悲痛な熱が漂い始めている。
私は白いブラウスの袖を僅かに整え、感情の乗らない平坦な声音を、彼の斜め後ろから静かに滑り込ませた。
「……ロジャース隊長。質問をひとつ、よろしいですか」
低く、わずかに掠れた、血の通わない事務的な声音。
「もし仮に、そのバッキー・バーンズ氏が、今もこの現代に生き延びているとしたら、あなたはどうしますか」
スティーブの碧い眸が、驚愕に大きく見開かれ、私の無表情な横顔へと同期した。
私は彼が何かを言いかける前に、脳内CPUが弾き出した冷酷な『天秤の数式』を、澱みなく彼の前に並べ立てた。
「これは思考実験です。
彼が通常の仕様値を外れ、現代まで生き延びるという奇跡がこの盤面に成立しているとする。……ですが、この世界にタダで手に入る黒字など存在しない。
奇跡の天秤の反対側には、相応の、あるいはそれ以上の絶対的な悪夢が積み上がっていると見るべきです。
例えば……ヒドラの残党、あるいはどこぞの組織によって、その人間の肉体を無慈悲に改造され、脳のニューロンを電気ショックで幾重にも上書きされ、自分の意志とは無関係に他人の明日を奪い続ける『物言わぬ暗殺者の兵器』に変態させられていたとする。
過去の記憶をすべてバグとして隔離され、暗い檻の中で半世紀をただ凍結されて過ごしてきた成れの果てだとしたら。……隊長。それでもあなたは、彼に生きていてほしいと願いますか? そのような無惨な生存ログを、あなたは心から誇るべき仲間の形として、承認できるのですか。
いっそ楽にしてやるのが真の友情ではないでしょうか?」
私のあまりにも冷淡で、しかしやけにリアルな問いかけを聞いて、スティーブは言葉を失い、戦場で星条旗のシールドを固定している左腕をギリリと硬直させた。
彼にはわからない。
今さっき私が口にした悪夢の仕様値、ウィンター・ソルジャーの正体が、すでに私の生体サーバーのなかで100%完全解読されている生のデータであるという事実が。
長い、重々しい沈黙が、博物館の喧騒の底へとゆっくり沈殿していく。
スティーブは再びバッキーのパネルへと視線を戻し、固く拳を握り締めながら、絞り出すような、しかし強固な大人の熱い覚悟を言葉に繋げた。
「……ああ。それでも、僕は彼に生きていてほしいと願うよ、マクカシー」
スティーブの声には、微塵の揺らぎもなかった。
「君の弾き出したその予想が、どれほど冷酷で、バッキーの肉体がどれほど無惨に壊されていようとも関係ない。生きてさえいてくれれば、その悪夢の帳尻は、僕がこの生身の命とこの盾を賭けて、すべて力ずくで引き受けてみせる。
彼がどれほど暗い地獄に落とされていようが、彼を絶対に諦めない。
もう一度、何度でも言葉を交し、人間に引き戻す。それが、キャプテンとしてスティーブとして、僕の答えだ」
無償の博愛。
不器用で、損得の帳尻が1ミリも合わない人間の理想論。
私はプリーツスカートの裾を静かに揺らしながら、その例外個体の熱いバイタルを赤い瞳で静かに見つめ返した。
理解はできない。
だが、彼がそこまでのコスト、責任を自らの背中に背負うと言い張るのなら、利用価値はある。
「そうですか。高リスクな変数ですが、あなたのその頑固なまでのルールは承認します」
私はブラウスの襟元を整えると、再び無音の足取りで歩み出した。
カツン、カツン。
ワシントンD.C.郊外にある、最高級の医療設備を誇る隔離静養施設。その白を基調とした廊下を、私のローファーの硬質なヒール音が規則正しく叩いていた。
現在の時刻:4月2日、水曜日の午後。
スミソニアン航空宇宙博物館でやりとりを終えた私たちは、そのままシールドの公式公用車を用いて、一つの特殊なノイズ領域へとエントリーしていた。
部屋のドアの前に貼られた名前はペギー・カーター。
かつて大戦時、S.H.I.E.L.D.の創設メンバーの一人であり、1940年代の戦場でスティーブ・ロジャースの隣を歩いていた、真の歴史の生き証人。
「……マクカシー。少し、ここで待っていてくれないか」
ドアノブに手をかけたスティーブが、碧い眸に戦場とは違う、ひどく脆くて不器用な熱を灯して私を振り返った。
彼の心拍数は救国の英雄としての統制をすり抜け、内なるブルックリンのひ弱なもやしっ子としてのセンチメンタルな動揺が、生体センサーに生々しく引っかかる。
「問題ありません、ロジャース隊長。私は肩書通りの危険物対応スペシャリスト、この場合、時間という不可逆な天災老いによってバグを起こしている重要アセットの監査として、舞台袖で見守らせていただきます」
低く、わずかに掠れた、血の通わない平坦な声音。
私は白いブラウスの袖を整え、茶色のプリーツスカートを静かに揺らして、部屋の片隅のパイプ椅子へと腰を下ろした。
「要はそこで待ってくれるってことだな」
私の逆に非効率的な物言いに苦笑いをするとガチャリとドアが開く。
室内に満ちていた薬品の匂いと、急速に枯れていく人間のバイタルパルスが私の鼻腔を刺激した。
ベッドの上に体を起こし、白いシーツにその痩せ細った腕を預けていたのは、御年九十を超えた老婦人。
ペギー・カーター。
「……スティーブ? ああ、本当にあなたなのね……」
老いた彼女の濁った眸がスティーブを捉えた瞬間、室内の時計の針が、物理法則を容易く無視して「1940年代」へと急激に逆流を始めたのを、私の脳内CPUが即座にデコードした。
認知症という名の、脳細胞の不可逆的な伝達バグ。
彼女の精神のクロック数は、21世紀の現実を一瞬で引き算し、あの泥と硝煙のブルックリンへと完全に退行しきっていた。
スティーブはベッドの傍らに膝をつき、彼女のしわくちゃの小さな手を、自分の超人血清の剛腕から極限までミリグラム単位で力を引き算して、優しく握りしめた。
「ああ、ペギー。僕だ。戻ってきたよ」
「まぁ……それなら、彼は? あのお行儀の悪い、ブルックリンの伊達男はどこへ行ったの?」
ペギーの視線が、スティーブの肩越しをすり抜け、部屋の暗がりに直立不動のまま佇んでいた私の「黒髪のボブカット」へと向けられた。
――【警告:標的個体による、対象認識の致命的なレジストリ書き換えエラーを検知】
私の網膜の端で、不穏なシステムログが点滅する。
彼女のバグった脳のグラフィック・インターフェースは、私の華奢な21歳の女子大生の輪郭を、あのセピア色のパネルの中で不敵に笑っていた大戦時の親友――ジェームズ・ビューキャナン・バーンズ軍曹の幻影へと、強硬に上書きコピーしてしまっていたのだ。
「バーンズ軍曹? そこにいるのね? スティーブを置いて、またどこの女の子を口説きに行っていたの?」
スティーブの身体が、ピキリと音を立てて硬直する。彼の肌から、激しい自責と悲痛の熱がドボドボと漂い始める。
「ペギー、違うんだ。彼女は、マクカシー分析官といって、シールドの――」
「退いてください、隊長。……処理遅延の継続は、彼女のバイタルに余計な負荷を強いるだけです」
私は無音の足取りでベッドサイドへと歩み出た。
生存演算、駆動。
ここでバッキーではない別人だと突きつければ、この老婦人の心音はショックで一瞬でロストし、最大級の赤字に転落するリスクがある。
さらに、スティーブとの信頼マージンも完全に決壊する。
ならば、最も原価の安いコストで、この老婆の脳のバグに『正常な応答』をインジェクションしてアジャストする他ない。
「――まったく、カーター。相変わらず、レディの勘ってやつは恐ろしいほど正確だね」
瞬間、私の喉の流体光子神経、有機光ファイバーが、ミリ秒単位のアルゴリズムで摩擦係数を完全変態させた。
エリン・マクカシーの掠れた少女の声が完璧に引き算され、私の唇から溢れ出たのは――驚くほどハハハとハキハキとした、明るく頼もしい『ブルックリンの青年男性の声』そのものだった。
女性の扱いに手慣れた、特有の陽気な軽口のリズム。
自らの若さと魅力に絶対的な自信を持つ者だけが回せる、1940年代のニューヨークの下町訛りの、洗練されたトーン。
「ちょっとそこらの可愛いお嬢ちゃんに、ブルックリンの最新のステップを教えていただけさ。……だけどさ、カーター」
私は茶色のプリーツスカートの裾を静かに揺らしながら、完璧なエリンの無表情のまま、声だけを極限まで『バッキー・バーンズ』の仕様に同期させて、ハキハキと言葉を繋げた。
「このひょろひょろのロジャースの坊やが、やっと戦場から戻って顔を見せに来たんだ。その相棒が、傍にいないわけないだろ?」
ペギーの濁った眸が、歓喜の熱にパッと明るく輝いた。
「まぁ、バーンズ……! 相変わらず口が減らないんだから。スティーブ、お行儀の悪さを、あなたからきっちり糺しておいてちょうだいね」
「ああ……。約束するよ、ペギー」
スティーブはベッドに顔を伏せるようにして、バッキーの声を完璧にトレースしてみせた私の横顔を、碧い眸に戦慄と――そして、言葉にならないほどの烈しい引き裂かれるような悲痛の情を灯して見つめていた。
怪物が弾き出した、最も合理的な「大人の嘘」。
それは時を忘却した老婆と、死んだ少女の夢を抱えた怪物と、親友を失った英雄の狭間で、静かに浮かんでは消えていった。
◆ ◆ ◆
カツン、カツン。
ワシントンD.C.のありふれた退役軍人省の施設。その一角にある、パイプ椅子が円状に並べられただけの簡素な集会室の隅で、私は白いブラウスの袖を静かに整えていた。
現在4月2日、水曜日の午前。
ペギー・カーター氏の隔離静養施設へ向かうその前の時間軸、私はスティーブ・ロジャースの半歩後ろを歩き、彼が目を留めた男――サム・ウィルソンの主宰するカウンセリングのグループワークを、完璧なエリンの無表情のまま、赤い瞳の光を黒いサングラスの奥に沈めて見つめていた。
部屋を支配していたのは、無数の人間の「不調和な心音」と、特有の重苦しい空気のノイズ。
車椅子の脚を震わせる退役兵。
あらぬ方向を見つめて指先を小刻みに動かす元狙撃手。
彼らの脳内を絶えず苛んでいるのは、戦場で浴びた爆風の残響、あるいは自らの手で他者の命を引き算してしまったことによる、深刻な精神の機能不全――PTSD。
――【生体プロセッサ:対象のバイタルに物理的な破損は非検出。脳波パルスの不規則なスパイクのみを感知】
私の脳内CPUは、彼らの心拍の揺らぎを冷徹にスキャンしながらも、そのバグの本質を1ミリグラムも理解できずにいた。
生存を最優先し、日常の破綻を避けるための行動と計算を回し続けている私にとって、敵が消え、戦場から遠く離れた安全圏に身を置きながら、なぜ脳が勝手に過去のログを再生してフラッシュバックを起こすのか、その処理ロジックは存在しない無縁の領域だったからだ。
理解はできない。
非効率な脳のバグ。
だが、集会の中心に座るサム・ウィルソンという男の「声」だけは、その不調和な空間を、驚くほど穏やかな周波数で凪がせていった。
「……誰もが、あの戦場に自分の何かを置いてきてしまう。だけどな、俺たちはそこから戻ってきたんだ。その痛みを抱えたままでも、前を向いて生きていかなくちゃならない。そのために、俺たちはここで互いの背中を支え合っているんだ」
サムの声は優しく、しかし叩き上げの兵士特有の確かな質量を持って、傷ついた男女の防壁をじわりと融かしていく。
スティーブは、その非効率なまでに人間臭い救済の光景を、碧い眸に深い敬意と――そして、自分と同じように時代から取り残された孤独の残像を灯して、静かに見つめていた。
やがて集会が終わり、椅子を片付ける足音が遠のいたガレージの片隅。
サムはスポーツドリンクのボトルを片手に、私たちの前へと歩み寄ってきた。彼の卓越した観察眼は、スティーブの背筋の伸ばし方に刻まれた、昨日から続くシールド内部の「不穏」を見逃していなかった。
「……なぁ、何があったかは訊かないが、随分と張り詰めた顔をしてるな。もしかして――」
サムはボトルのキャップを開け、スティーブの碧い眸を真っ直ぐに見据えた。
「何がしたいのか、何が正しいのか、分からなくなっちまったのか?」
直球。
その人間の核心を突いた問いかけを耳にした瞬間、キャプテン・アメリカ――スティーブ・ロジャースの唇が、ピキリと凍りついたように沈黙した。
彼の心拍数が一瞬にして危険な閾値へと跳ね上がる。シールドという巨大な世界の守護者が内側から腐り落ちかけている現実。そして、自分が信じてきた正義の関数が、完全にエラーを起こして崩壊しつつあるという、英雄の絶対的なフリーズ。
その重々しい静寂、私はローファーのヒール音をカツンと響かせ、一歩、前に踏み出した。茶色のプリーツスカートの裾を整え、完璧なエリンの無表情のまま、血の通わない平坦な声音を淡々と滑り込ませた。
「……私は、自分が正しいか、正しくないかで判断しませんよ、ウィルソンさん。
そんな不確実な変数で目を曇らせるのは、私の生存演算において純然たるロスです。必要か、必要でないか。私の計算式には、ただそれだけが全てとして固定されています」
合理一辺倒の冷酷な回答。
サムはサングラスをかけた私の無機質な無表情を見て、一瞬だけ驚いたように目を丸くし、それから
「若いうちはそういえるが、歳を重ねるとそうも言ってられなくなるのが人間なのさ」
そうあきれたような同情の混ざった苦笑を漏らした。
だが、その私の冷え切ったスタンスを聴き流しながら、スティーブはゆっくりと顔を上げ、その碧い眸の奥に、魂を引き上げるような静かな熱を灯して、私のサングラスの奥にある赤い瞳見つめ返した。
「……マクカシー。君はそう言うけれど、それでも君は――」
スティーブの声は、どこまでも深く、誠実だった。彼は私のボブカットの頭へ手を置くことはしなかったが、その脳裏にはいつかにかわされた言葉が蘇っていた。
「他人の明日を奪い、無知なる者を利用する、あの『吐き気を催す邪悪』だけは、利害や契約を超えて絶対に許容しないんだろう?」
人間の理想の英雄からの、不器用で、しかし完璧に私の最深部のレジストリを見抜いた問いかけ。
私は居心地悪そうにほんの少しだけ視線を外すと、プリーツスカートの裾を揺らし、エリン・マクカシーの完璧にトレースされた平坦な声音のまま、即答した。
「……当然です、隊長。あれらは計算の枠にすら入れておく価値のない、ただの害獣ですから。世界から引き算して、物言わぬ灰にするほかありません」
いつもの声。いつもの、血の通わない事務的なトーン。
だが、その私の不器用な回答を耳にした瞬間、スティーブの口元には、安堵に満ちた確かな笑みが浮かんだ。
サムもまた二人の間に流れる、ルールを肌感覚で察し、フッと頼もしい兵士の目を向けた。
ブウゥウウン、ブウゥウウン……。
ワシントンD.C.の郊外からトリスケリオンへと引き返す、シールド公用車の車内には、タイヤがアスファルトを削る激しいロードノイズだけが支配していた。
ステアリングを握るスティーブ・ロジャースの大きな両手は、先ほどペギーのベッドサイドで見せたひ弱なブルックリンの少年のそれではなく、再び世界の守護者としての冷徹な兵器の仕様値へと強硬にセーブされていた。
私は後部座席に茶色のプリーツスカートの裾を静かに滑り込ませたまま、冷え切った缶コーラを一口啜り、キンと体内のフォトンブラッド生成系が冷えるいつもの不快な感触を喉奥へと滑り込ませていた。
「……マクカシー」
スティーブがバックミラー越しに、私のサングラスの奥にある瞳を真っ直ぐに捉えてきた。
彼の心拍数は一分間に八十五回。安定しているように見えて、その声の最深部には、未だに1940年代の幻影に脳の回路を引っ掻かれている大人の不器用な熱が燻っていた。
「先ほどの、ペギーの部屋でのことだ。……ありがとう。君のおかげで、彼女は穏やかな時間を過ごすことができた。感謝するよ」
「……お礼を言われる理由はありません、ロジャース隊長」
私はボトルの口を離し、完璧なエリンの無表情のまま、血の通わない平坦な声を滑り込ませた。
「あの隔離空間において、認知症という脳の伝達エラーを起こしているペギー氏に対し、正面から現実を突きつけて心拍数をバーストさせるのは、シールドの重要アセットの保全という観点から見て絶対的な赤字です。
あの場においては、バッキー・バーンズ氏の仕様をトレースすることが、最も場が収まる割安な選択肢だった。ただそれだけです」
「……いや、違うんだ」
スティーブの言葉が、私の事務的なそろばんを強硬に遮った。
彼は正面のフロントガラスを見据えたまま、かつて超人血清を打たれる前から、ブルックリンの裏路地や吹雪のハイドラ基地で聴き続けてきた『あの男の残像』を締め直すように、低い声を車内に落とした。
「あれは……ただの形だけの真似事じゃない。マクカシー、君のさっきの声の高さ、響き、あの軽口を叩くときのごくわずかな息の抜き方……あれは僕からしても、間違いなくバッキーの声であり、バッキーの振る舞いそのものだった。……君は、なぜあそこまで彼を『知っている』んだ?」
「極めてシンプルな科学的アジャストですよ、隊長」
私はコーラのボトルを静かに膝の上に置き、平坦な聲音を淡々と返した。
「人間の声という物理現象は、声帯の長さ、首の骨格の密度、そして身長や胸躯の体積といった身体的な特徴から、解剖学の体系においてある程度自動的にその『高さ』や『響き』を科学的に絞り込むことが可能です。……私は今日、対象の映像データをこの目で精査しました。おかげで再現が比較的容易だっただけです。あとはペギーさんの言葉から、バーンズ氏の人物像を逆算したまでです。何か不自然な点でもありますか」
淡々とした、大根演技すら挟まない事実の陳述。
私はサングラスの位置を指先で微かに直し、嘘を1ミクロンも混ぜずに、完璧な欺瞞の式を彼のバックミラーへと提示した。
私が今日「精査した映像データ」とは、数時間前にレムリア・スターの公式バックドアから掠め取った、現在もヒドラの暗殺兵器、ウィンター・ソルジャーとして世界を徘徊しているバーンズ氏の最新の骨格・声帯データのことだ。
だが、スティーブがそれを「午前中にスミソニアン航空宇宙博物館で私が見せていた、当時の資料映像や展示動画のことだ」と勝手に都合よく誤解してくれる分には、私の生存演算において何の問題もない。
キャプテンが自らのセンチメンタルなフィルターで勝手に辻褄を合わせてくれるのは、最も安価なコストでカモフラージュを維持するための、正常なバッファだった。
「……そうか。データと、逆算か」
スティーブは小さく苦笑し、しかしその碧い眸の奥に、この不気味な後輩への消えない生真面目な熱を灯したまま、ゆっくりと首を振った。
「君の使う言葉はいつも冷たいな、マクカシー。だが……ありがとう」
私はエリン・マクカシーがそうするように居心地悪そうに少しだけ視線を外すと、再びぬるくなったコーラを喉奥へと流し込んだ。
――だが、その私の細い喉の奥で、独立生体サーバーの処理パルスが、絶え間なく不快な火花を散らし始めていた。
先ほどレムリア・スターの喉元に仕込んだバックドア『サブルーチン:555』から、リアルタイムで逆流同期されてくるシールド内部の大量虐殺アルゴリズム。
その最深部に埋め込まれたデジタル署名を私の脳内CPUがデコードした結果、組織の最暗部で背中から銃口を向けている裏切り者の毒がヒドラの亡霊であることは、すでに99.98%の確率で確定している。
そして――1991年12月16日、トニー・スタークの両親の命を引き算した、あの銀色のチタン合金の腕を持つ暗殺者こそが、今まさにバッキーの本名そのものとして盤面を徘徊している。
私の生存演算の数式が、皮膚の内側で激しくそろばんを弾き、揺らぎの状態に陥っていた。
トニー・スタークという私の最大の隠蔽インフラを保護し、ヘルズ・キッチンのセーフティを死守するためには、あのバーンズは確実に排除すべき絶対的な赤字。
私がアクセルフォームを起動し、今すぐ市街地を爆走して彼の脳殻を『とりあえず削除』するのが、最も原価の安いコストだ。
だが、その冷徹な引き算を執行すれば、目の前でハンドルを握っているこの男との信頼マージンは完全に決壊し、アベンジャーズの主軸が内側から自壊するという、別次元の最大の大赤字を招くリスクがある。
「生かすか、殺すか。……保留コストの増加は、私のプロセッサにとって極めて不快なノイズです」
私が心音一つ乱さずに次の反撃の式を弾き出そうとした、まさにその瞬間だった。
キィィィィィン――――ッ!!!
突如、フロントガラスの向こう、数ブロック先のワシントンD.C.市街地の大気そのものが激しく発振し、私の流体光子神経(アンテナ)へ、フューリー長官のシボレーの異常な熱源臨界パルスがドクドクと流れ込んできた。
昼の市街地急襲戦の勃発。
警察の皮を被ったヒドラのネズミどもが、いよいよその牙を剥いて大通りを血の海へと変えようとしている。
私は缶コーラをホルダーへ静かに戻し、サングラスの奥の紅い虹彩の瞳を冷たく細め、迫り来るインフラの崩壊という名の大嵐のタイムラインへと、その身を滑らかに滑り込ませるのだった。
誤字報告、お気に入り、感想をありがとうございます。