MCU世界で『ただいま』を言えない怪物 作:お砂糖さらさら
ドゴォォォォォォンッ!!!!!
4月3日、木曜日の朝。
シールド本部のガラス壁を強硬に突き破って脱出したキャプテン・アメリカ――スティーブ・ロジャースの放った星条旗のシールドが、追撃のクインジェットのローターへと精密に直撃し、機体は激しい白煙と火花を吹き上げて公道へと墜落・大破した。
世界の守護者を自負していた組織が、内側からヒドラの毒によって完全に腐り落ちた、絶対的な決壊の瞬間。
スティーブはナターシャ・ロマノフと合流し、フューリー長官の残した唯一の物証を携えて、ワシントンD.C.の検閲網を強硬にすり抜けた。
彼らが逃亡の関数として選択した先はニューヨーク、ヘルズ・キッチンの片隅に佇む、プレハブのうらぶれた廃品回収業者。
――ベストマン・サルベージ社。
古いエアコンの不快な震動音と、冷たい雨の匂いが籠る事務所の奥。
エイドリアン・トゥームスが
「……お国の上級役人様たちの最後の舞台が始まったようだな、エリン」
と、大人の笑みを浮かべて鉄扉の鍵を開け、退室していく。
2人は、その物流のブラックボックスである第4地下格納庫の、さらに最奥の奥へと、音もなく滑り込むようにしてエントリーしてきた。
カチャリ。
透過ディスプレイの冷たい青白い光さえ存在しない、埃っぽい暗がりの中心。
そこに並べられていたのは、ダメージコントロール局の目を盗んで文字通り引き算してきた、チタウリの生体装甲艇の肉厚な外殻、粒子ビーム兵器の無骨なコア、そして全米の犯罪者や適合者から巻き上げてきた、多種多様な宇宙由来のスクラップ。
そして――その鉄屑の山のど真ん中で、シリコンのラックの代わりにドロドロと、不気味に脈打って、青紫色の生体電流の残熱をパチパチと明滅させながら低く唸りを上げている、巨大な『鳴動する肉の塊』だった。
「……マクカシー。君は、自分の部屋の下に、こんな……」
スティーブの碧い眸が、その世界の物理法則を完全に置き去りにした悍ましいバイオホラーの臨界点、独立生体サーバーの前に、言葉という概念を失って限界まで硬直した。
ナターシャもまた、プロのスパイとしての仮面を一瞬で剥ぎ取られ、緑色の眸に戦慄を滲ませて立ち尽くしている。
彼ら人間の静かな戦慄のノイズを、私はいつもの黒いコートの袖を僅かに整えたまま、受け流した。私は無音の足取りで歩み出ると、ナターシャの震える指先からUSBをパッと、玩具のように淡々と受け取った。
「ようこそロジャース隊長。そしてよく連れて来てくれましたロマノフ捜査官。
隊長はこれをどこぞのパソコンを使って必死に解読しなければと思っているようですが」
低く、わずかに掠れた、血の通わない平坦な声音。
私は完璧なエリンの無感情の無表情のまま、USBを長机の上のスクラップへと無造作に放り投げた。
「それは、純然たる時間の無駄というものです」
「何だと……? だが、これにはフューリーを撃った暗殺者の情報や、シールドの最高機密ファイルが――」
スティーブが、自らの焦燥を言葉に繋げようとする。
「2日前の夜、インド洋。フューリー長官が起こしたあの自作自演のシージャック、レムリア・スターの船底へ私が潜入したまさにそのミリ秒において」
私は紅い虹彩を宿した瞳で、目の前の鳴動する肉のプロセッサを視線で冷たく示した。
「インサイト計画の心臓部である衛星、その最深部レジストリへ、私による恒久的なバックドアの杭は、すでに100%エラーなくインジェクションし終えているのですよ
あなたがナターシャさんのハックを発見するその直前に」
格納庫の静寂に、私の冷え切った合理の宣告だけが落ちていく。
ナターシャは息を呑み、スティーブは言葉を失った。
「……つまり、USBのデータなど、最初からただのゴミにすぎない。
彼らが何を企んでいようが、私のサーバーの指示一つで、いつでもインサイト計画は、内側から力ずくで自滅・引き算できる仕様になっています。
……残りの不確定要素をどう処理するか、その計算のために、お2人をここへ迎え入れただけですよ」
◆ ◆ ◆
私は完璧なエリンの無感情の無表情のまま、生体電流によって怪しく駆動し、肉のプロセッサと有機光ファイバーで直結されたノートパソコンの画面を、指先で冷たく指し示して見せた。
「どうぞ、インサイト計画の全貌、シールド内部におけるヒドラの汚染、そして――昨夜、ロジャース隊長の部屋で長官殿を銃撃した暗殺者の正体。ある程度は私の生体サーバー側で綺麗にデコードしてまとめておきましたので、見たければどうぞ」
パチ、と液晶画面に躍ったのは、シールドのサーバー、および打ち上げ前のインサイト衛星から生のまま逆流同期させていた最高機密ファイルの群れだ。
画面をスクロールするナターシャの指先が、スパイとしての本能的な戦慄で僅かに白く強張る。
「……シールドは、すでに結成当時から最暗部でヒドラに乗っ取られていた。現在の組織は、全身の血管に裏切り者の毒が回りきった死に体です。そして、ロジャース隊長」
私は赤い虹彩を、微動だにせずスティーブの碧い眸へと同期させた。
「あなたのその記憶のデータベースに登録されている唯一の友人、ジェームズ・ブキャナン・バーンズ氏は、ヒドラに肉体と精神のニューロンを無慈悲に壊され、他人の明日を奪い続ける『ウィンター・ソルジャー』という名の暗殺兵器になり果てています。
1991年には、トニー・スタークの両親を引き算しました」
「……バ、バッキー……!? 嘘だ、そんな、そんなはずは……!」
スティーブの大きな両手が、ギリリと音を立てて硬直した。彼の肌からは、生身の人間としての、引き算できない悲痛な熱と絶望のスパイクがドボドボと漂い始める。
「インサイト計画が始動すれば、ゾラ・アルゴリズムの自動照準によって、彼らは即座に地球上にいるヒドラにとって都合の悪い人間―― 標的リストに刻まれた、ヘルズ・キッチンの私の母親の本名を含む数百万人――を、一瞬で首を撥ねて消しにかかるでしょうね。
……私の生存演算において、お母さんの日常を脅かすその大赤字は、断固として阻止します」
私は冷え切った缶コーラを一口啜り、完璧な無表情のまま、目の前の2人の人間へ向けて、最後の冷酷な天秤を滑り込ませた。
「私は阻止しますが、お2人はどうしますか?
個人的な費用対効果を言わせていただくなら、とりあえず今回の計画を阻止しさえすれば、しばらくの間は潜んだヒドラも、シールドの公式な皮を被ったまま、静かに公務員として活動してくれると思いますが。
バーンズ氏に関しては可能限り早く削除して物言わぬ灰にするのが本人の尊厳の為にも割安なコストだと思われます」
「――殺させはしない、マクカシー!!!」
スティーブの声は、怒りと魂を引き裂かれるような悲痛の熱で烈しく掠れていた。
彼はそろばんを弾く大人のディールなどしていない。星条旗のシールドを床に置き、ただその震える大きな生身の手を、私の両肩へそっと、確かな温かさを込めて置いた。
「彼はヒドラに脳を壊されて、道具にされているだけなんだ! 僕は彼を絶対に諦めない! もし、彼がそれでも誰かを殺すというのなら……マクカシー、僕がその盾になって、彼と一緒に死ぬ! 全責任はこの僕が生身の命を賭けて丸ごと引き受ける! だから、僕に彼を人間に引き戻すための、時間をくれ!!」
人間の、不器用で、損得の帳尻が1ミリも合わない理想論。
だが、彼が「バッキーが暴走した際の全損失を自らの命で補填する」と、私の前に命がけの保証を並べてみせたのだ。
……算定完了。
ここでキャプテンに自滅パルスを起動され、アベンジャーズの主軸をロストされるマクロな赤字に比べれば、インサイト決戦までの猶予マージンとして一時的に彼の理想を承認する方が、生存確率において黒字と定義される。
「……わかりました。了解しましたよ、ロジャース隊長」
私はパッと彼の手を冷たく払い退け、無機質な視線で見返した。
「その代わり、彼が私のお母さんを1ミクロンでも脅かしたそのミリ秒、私はあなたの理想ごと、すべてを灰に引き算しますから」
「ああ、それでいい。ありがとう、エリン」
スティーブ・ロジャースは、バッキーの生存という現実を碧い眸に耐えるように灯しながらも、ゆっくりと顔を上げ、一人のキャプテンとしての、泥臭くて強固な大人の熱い覚悟を言葉に繋げた。
「……マクカシー。シールドの皮を被らせたままにしおくわけにはいかない。
ヒドラも、そして彼らに汚染されたシールドという組織そのものも……ここで全て、完全に終わらせる。それが僕の弾き出した答えだ」
組織の完全な解体。
私は完璧なエリンの無表情のまま、赤い瞳をスティーブへと向け、血の通わない平坦な声を滑り込ませた。
「一応、事前にここで公式に登録レジストリしておきますが。
明日、トリスケリオンのドックから起動する最新鋭のインサイト計画のヘリキャリア、計3隻。そのうちの一隻を、私のこれまでの危険物対応の労働の対価、いわゆる退職金の現物アセットとして丸ごと個人的に強奪し、もらい受けます」
「……退職金といったのか?」
スティーブが呆然と目を丸くし、ナターシャが言葉を失った。
「ええ。あの3番艦の制御盤には、すでにレムリア・スターの段階で私の『サブルーチン:555』の暗号鍵をインジェクションしてあります。始動の瞬間にシステムを完全掌握します。これで私のインフラの損失は相殺され、完璧な黒字が維持される。
……残りの2隻の処理についてですが」
私はパソコンの画面に躍る、インサイト・ヘリキャリアの自動化プロトコル、無人化ログを指先で冷たく弾いて見せた。
「インサイト計画が始動し、甲板や内部がヒドラのネズミどもで満員になった段階で、バックドアから2隻の船内用の対人防御システムを発動し、同時に照準システムを逆流ハックします。出力を最大臨界に励起させ、お互いへ向けて主砲をロックオン。相互に銃撃させ、その巨大な鉄の質量ごと、ポトマック川の冷たい水底へと、叩き落とします」
私はコーラの空の缶を長机のスクラップの山へと静かに置き、冷酷極まる最終戦術のインデックスを繋げた。
「……この作戦の執行にあたり、スタークさんやソーさんといったアベンジャーズの外部アセットの手は、一切借りません。スタークさんが来れば1991年の暗殺ログが最悪の形で同期してチームが全損するし、ソーさんの雷撃はマクロな器物破損を増やすだけですから。
私とお2人の手元にある数式だけで、明日の朝、ヒドラの帝国を完全にポトマック川の底へ引き算する必要があります」
私は完璧なエリンの無表情のまま、赤い瞳を、星条旗のシールドを固く握り締めるスティーブ・ロジャースの碧い眸へと真っ直ぐに向け、血の通わない平坦な声を滑り込ませた。
「ですが、ロジャース隊長。ひとつ、冷徹な算定をさせていただきます」
低く、わずかに掠れた、血の通わない事務的な声音。
「シールドというこの巨大なインフラをヒドラごと完全に終わらせるというのであれば、世界中のデータベースやネットの海へ、組織のすべての機密情報、隠蔽ログ、そして全構成員の身元リストを一斉に放流・公開すれば、それは可能となるでしょう。
……安心してください、私は自分の生体サーバーを介して、母親の日常に関わる全データ、および私のこれまでの戦闘ログを事前にハック・隔離し、その世界規模の検閲網から100%回避させてもらいます。
幸い、眼帯の管理官――ニック・フューリー長官殿も、自らの利害のために私のこれまでの活動の多くを公的サーバーから握りつぶしてくれていますので。
一定期間、長官の損得勘定によって超法規的な強権を与えられていただの臨時職員。それが、明日からの私のクリーンな立場になります」
私はそこから逆算される、人間の美学がもたらす最悪の天秤の焦げ付きを、彼の目の前に淡々と並べ立てた。
「しかし、ロジャース隊長。その全面公開を執行した瞬間、組織の中に確かに三分の一は存在しているであろう、ヒドラの毒に侵されず、純粋に世界を救うべく命を懸けて戦ってきたエージェントたち。彼らの人生はどうなると思いますか?
彼らの過去の隠密ログや戦術データが生のまま世界へ露出するのですよ。
ナターシャさんのような、国家の枠を外れて血の滲むような経歴を背負って戦ってきた方々は、明日から表社会の端っこから引き算され、永久に陽の当たらない裏の奈落へと強制的に叩き落とされることになる」
私はダッシュボードのパソコンの画面、そこに映るアベンジャーズ候補生の極秘ファイルを冷たく一瞥した。
「アベンジャーズというこのマクロな防衛の枠組みも、シールドという公的インフラの終焉とともに、法的・経済的な後ろ盾を失って完全にフリーズします。
存続すれば対処できたはずのマクロな危機の中でまっとうな人間たちのいつかの明日が巻き込まれてすり潰される。
それは、私の計算において、純然たる最大の大赤字と定義されます。
……それでもロジャース隊長。あなたは、彼らの支払うべき膨大なコストをすべて無視して、シールドをヒドラとともに終わらせるのですか? その正義の帳尻を、あなたは本当に力ずくで引き受けることができるのですか」
合理一辺倒の、残酷なまでの現実の問いかけ。
ナターシャはキーボードの前に指を止めたまま、自らの暗い過去がネットへ放流される未来に唇を僅かに引き結び、スティーブは、その怪物の少女が提示した冷え切った現実の重みを、碧い眸に烈しい自責と痛みを堪えるようにして見つめていた。
彼にはわかっていた。自分がこれからトリスケリオンの全画面で叫ぼうとしている「理想」の代償として、どれほど多くの無辜の仲間たちの日常が、犠牲のコストとして積みあがるかを。
だが、キャプテン・アメリカ――スティーブ・ロジャースの心は、ゆっくりと立ち上がり、傍らの星条旗のシールドを、かつてないほど強固な人間の熱い覚悟を込めて、その手に握り締めた。
「……ああ。それでも、僕はシールドを終わらせるよ、マクカシー」
スティーブの声には、微塵の揺らぎもなかった。
「君の弾き出したその仮定は、100%正しい。私のこの選択のせいで、ナターシャや、多くのまっとうなエージェントたちに、取り返しのつかない痛みを背負わせることも分かっている。
……だけどマクカシー。
世界を救うという御題目のために、内側からヒドラの毒を飼い慣らし、誰かの明日を天秤にかけるような組織は、もう最初から守るに値しない偽物なんだ。
アベンジャーズという枠組みがここで死に、僕たちが表社会から弾き出されて奈落へ落ちるというのなら……喜んでその泥水をすすろう。
彼らの背負う痛みの帳尻は、キャプテンである私が、この盾と生身の命を賭けて、死ぬまで全て力ずくで引き受けてみせる。それに――」
スティーブの真っ直ぐな眸が、私のオッドアイの色彩を消灯させた焦げ茶色の瞳を射抜く。
「それでも、君は……非合理的な自滅に、明日まで付き合ってくれるんだろう?」
人間の手のひらの、不器用な熱量。
大義名分の英雄からの、損得の帳尻が1ミリも合わないはずの、真摯すぎる問いかけ。
私は居心地悪そうにほんの少しだけ視線を外すと、プリーツスカートの裾を揺らし、いつも通りの、血の通わない平坦な声音を地下格納庫の肉の鳴りの中に落とした。
「あなたの機嫌を損ねてここでスタンドプレーをされるコストに比べれば、明日の朝まで付き合ってあげる方が、現時点での生存確率において遥かに黒字ですから。……ただし、私の退職金ヘリキャリア1隻は、絶対に引き算させませんからね」
そう言って冷たく吐き捨てた私の横顔を、いつもの笑顔を張り付けたナターシャは
「……本当に、最高に可愛げのない子ね」
と、哀しくも愛おしそうな目でバックミラー越しに見送るのだった。
◆ ◆ ◆
「……責任を取るというのであれば、それは他ならぬバーンズ氏のことです」
肉のプロセッサがドロドロと鳴動する地下格納庫の暗がりにその冷徹な宣告を落とした瞬間、スティーブ・ロジャースの碧い眸が、驚愕と微かな希望の混ざり合った熱を灯して私の無表情へと同期した。
「マクカシー……それは、どういう意味だ?」
「極めて実務的なデータの上書きですよ、ロジャース隊長」
私はサングラスの位置を指先で無機質に直し、血の通わない平坦な声音を淡々と滑り込ませた。
「ロジャース隊長にとって極めて幸運なことに、あの私が構築した『生体サーバー』に彼の脳を直結すれば、ヒドラが半世紀をかけて彼のニューロンに焼き付けた洗脳の系を、内側から強硬に相殺・解除できるという計算式が弾き出されました。
インサイト衛星を介し、彼が過去に執行した1991年のスターク夫妻暗殺ログ、およびすべての世界規模の暗殺データもサーバーから永続的に削除。同時に、彼の脳を縛っている『洗脳のキー』もレジストリから完全に引き算しておきましょう」
それは、ウィンター・ソルジャーという名の暗殺兵器を、再び「ジェームズ・バーンズ」という一人のまっとうな人間の仕様値へと書き換え直す、最強の修復インフラの提示だった。
だがその奇跡の帳尻の裏にある、最も冷酷な嘘の代償を、彼の前に冷たく突きつけた。
「ですが、勘違いしないでください。これは私の善意などではない、純然たるリスク管理の必要経費です。
彼が過去の物証を生のまま抱えて世界を徘徊すれば、いずれトニー・スタークのセンサーに引っかかり、信頼関係が全損します。だから、彼の過去の罪も洗脳も、この世の分母から最初からなかったことにして『綺麗な幽霊』として処理する。それが私の計算が弾き出した最も原価の安い安全マージンです」
私は一歩、スティーブの前に踏み出し、彼の手元にある星条旗のシールドを指先で冷たく叩いた。
「ロジャース隊長。あなたは先ほど、アベンジャーズのインフラが死に、すべてのエージェントが裏の奈落へ落ちるというのなら、喜んでその泥水をすすると言った。
ならば、これを受け入れてください。彼を人間に引き戻す代わりに、彼は自分の犯したハワード夫妻の殺害の罪、そのすべての歴史を隠匿され、世界を騙し続ける完璧な偽物として、私と同じ地獄の盤面の中で生きることを強制される。……彼にその生き方を背負わせることが、あなたの支払うべき真のコストですよ」
長い、重々しい沈黙が、格納庫の静寂に落ちていく。
ナターシャは、その美学と利害が最悪の形でドッキングした怪物の合理主義に唇を僅かに引き結び、スティーブは大きな手をゆっくりと下ろしながら、その右手を固く、固く握り締めた。
かつて自分が大戦の最前線で背負ってきた「正義」の美学。それとはあまりにもかけ離れた、世界の裏側の冷たい欺瞞。
だが、スティーブ・ロジャースは逃げなかった。彼は碧い眸に、潰されかけた親友の明日を強硬につなぎ止めるための、烈しい大人の覚悟を灯して、私を見つめ返した。
「……ああ。受け入れるよ、マクカシー。彼が生きて戻ってきてくれるなら、嘘でできた泥水は、キャプテンである私が、彼と一緒に死ぬまで全て飲み干してみせる。……約束だ」
「了解しました。……ディールはこれで完全に確定です」
私は冷蔵庫から新しい缶コーラを引き抜き、プルタブを精密に弾いた。キンと内側が冷える感触。日常の景観。
笑わない怪物と、泥水を飲む契約を交わした英雄。
二人の歪な数式が、明日の朝、トリスケリオンのすべてをポトマック川の底へ沈め、バッキーの魂を救うための最終作戦の歯車を、この肉の唸りの中で完璧に噛み合わせるのだった。
4月3日、木曜日、午後14時15分。
ワシントンD.C.の郊外、ありふれた中層アパートの一室。
昼下がりの柔らかな陽光が差し込むリビングに、サム・ウィルソンは朝のジョギングから戻ったばかりの足取りで帰宅し、冷えたスポーツドリンクのボトルを掴んだ。数日前、リフレクティング・プール沿いで「左から失礼」と何度も自分を置き去りにしていった、あの生真面目な『世界の英雄』の顔がふと脳裏をよぎる。
テレビのニュースが垂れ流すマクロな大騒ぎを、サムは叩き上げの兵士としての鋭い眸で見つめていた。
コン、コン。
規則正しい、硬質なノイズが木製のドアに二度だけ刻まれた。
サムがボトルを置き、警戒の重心を保ったままドアを開けたその刹那、ブリザードの代わりにワシントンの湿った重い空気が流れ込み、衣服の乱れた二人の男女、そしてその半歩後ろに直立する一人の少女の輪郭が、室内の光の海へと滑り込んできた。
首元で短く切り揃えられた、艶のある黒髪のボブカット。
白いブラウスに、茶色のプリーツスカート。
エリン・マクカシーは、完璧な「二十歳の女子大生」の仕様値のまま、感情の起伏を1ミクロンも映さない冷たい無表情でそこに立っていた。
「……サム。すまない、他に行くあてがないんだ。明日、新型ヘリキャリアの起動と、それによるインサイト計画の発動を阻止しなければならない。それまで、私たちを一時的にここに匿ってくれないか」
スティーブ・ロジャースの碧い眸には、裏切り者の毒によって腐り落ちた組織への烈しい怒りと、しかしそれ以上に強固な大人の覚悟の熱が灯っていた。ナターシャ・ロマノフもまた、プロのスパイとしての防壁を微かに緩め、サムの反応を静かに見定めている。
サムは3人の顔、そしてエリンが重い腕で握り締めているアタッシュケースを一瞥し、ゴクリと喉を鳴らした。だが、彼の叩き上げの直感は、この理外の超常的な力を持つ例外個体たちの並べた言葉に、1ミリの嘘もないことを即座にオート処理していた。
「……なるほど。世界の守護者様たちが、揃いも揃って路頭に迷ったってわけか。いいさ、入りな。お前さんたちのそのお堅い顔を見てたら、ノーなんて言えるわけがないだろ」
カチャリ、とドアが閉まり、サムのアパートのリビングは、一瞬にして作戦会議室へと上書きされた。
エリンは茶色のプリーツスカートの裾を静かに揺らしながら、長机の上にアタッシュケースを置き、中からノートパソコンを展開した。画面に躍るのは、4月2日のレムリア・スターの段階で、新型ヘリキャリア3隻の最深部レジストリへ事前にインジェクションし終えていたバックドアの生データログ。
「これより、最終作戦を組み立てます」
低く、わずかに掠れた、血の通わない平坦な声音。エリンの赤い虹彩の瞳が、ディスプレイの青白い光を浴びて冷たく細まる。
「新型ヘリキャリア自体は、バックドア経由で、浮上直後の1ミリ秒において完全掌握・ハックできます。
明日の主戦場は、1番艦、および2番艦の甲板。……ナターシャさん。そしてキャプテン・アメリカの外見へ完璧に偽装した私が、直接乗り込み、派手に破壊行為を演じてみせます。
表向きの戦術目標は照準システムの物理破壊ですが、それはヒドラの総火力をこちらへ100%釘付けにするための、ただの演出です」
エリンは画面をフリックし、レムリア・スターの守護衛星からリアルタイムで逆流同期されている、ワシントンD.C.市街地の最暗部の座標プロファイルを提示した。
「そのドサクサの同じミリ秒。ロジャース隊長。あなたはキャプテン・アメリカではないスティーブロジャースとして、私が自前の衛星でピンポイント補足・追跡し続けるウィンター・ソルジャーの現在地へ、無骨な黒のライダースーツの仕様のまま、単独で突入。
彼を力ずくでねじ伏せ、気絶確保させてください。世界を救うマクロな雑務はすべて私達が引き受けますので、あなたは自分の個人的な我がままのためだけに、100%の最適出力を注ぎ込むのです」
スティーブは腕を組み、その冷徹な怪物の計算を静かに聴き届けていた。
「……そして、隊長がバッキー氏の身柄を確保し、戦闘領域から完全に引き算したその瞬間。私のサーバーから、3隻すべての新型ヘリキャリアへ向けて『内部鎮圧セキュリティ・グリッド』の判定基準を強制上書き・一斉発動させます。3番艦の搭乗員は自身の艦内セキュリティによって一瞬で昏睡・無力化され、1番艦と2番艦はバックドアの指令によって主砲をお互いにロックオン、相互に打ち合いを起こして大爆発も出さずにポトマック川の冷たい水底で無力化します」
エリンはパソコンのポートから延びる、ドロドロと不気味に蠢く漆黒の流体光子神経の触手を、自らの細い前腕の皮膚の下へ格納しながら、冷酷なディールの結末をスティーブへ突きつけた。
「彼らの処理と同時に、私はこの地下格納庫の生体サーバーとバーンズ氏の脳のニューロンを直結させ、ハッキングを執行します。半世紀にわたりヒドラが焼き付けた洗脳の系を内側から強制相殺。……記憶の復調までは保証できませんが、彼を他人の明日を奪う暗殺兵器から完全に解放し、『綺麗な幽霊』として社会の分母から隠匿処理する。
……これが、私とお2人が結ぶ、完璧な黒字の清算ルートです」
長い、重々しい静寂がリビングに落ちていく。
ナターシャはキーボードの前に唇を僅かに引き結び、サムはコーヒーのカップを握ったまま、あまりにも人間の次元を置き去りにした怪物の合理主義に、立ち尽くしていた。
「おいおい、ちょっと待ってくれ」
サムが乾いた笑いを漏らし、スティーブの碧い眸を真っ直ぐに見つめた。
「お嬢さん話は俺の軍の常識を100%置き去りにしてて頭が痛ぇ。
だがな、キャップ。……マジで、たった3人でこの国家転覆クラスのクーデターをひっくり返しに行くつもりかい? 相手は空飛ぶ空母3隻だぞ」
スティーブ・ロジャースはゆっくりと立ち上がり、傍らに置かれていた星条旗のシールドを、自らの大きな生身の手で力強く握り締めた。
「ああ、サム。マジだ」
指揮官としての、揺るぎない、確かな人間の熱い覚悟。
「今の僕には、守らなければならない大勢の日常があり、終わらせなければならない過去の亡霊がいる。そして何より……泥水をすすってでも人間に引き戻すと誓った、大切な親友がそこにいるんだ。やりたいことと、やるべきことが、今、完全に重なっている。……迷いはないよ、サム」
綺麗な大義名分ではなく、傷ついたエージェントたちの痛みを、親友の罪をすべて自らの背中に背負って泥をすすると誓った、本物の英雄の佇まい。
サムはそれを見つめ、あきれたように、しかしこれ以上ないほど頼もしい兵士の笑みをその口元に浮かべると、小さく首を横に振った。
「……仕方ないな。キャップがそこまで腹を括ってるってなら、俺もお前さんたちの横に並べてくれ、たまには世界を救うのも悪くない」
サムは部屋の奥のクローゼットへと歩み寄り、重厚な高密度炭素繊維仕様の軍事極秘ファイルを一冊、長机の上へとゴトンと滑らせた。
「これだ。政府が開発を凍結した、次世代型空中隠密・飛行ウイングパック――【EXO-7 ファルコン】の支給申請書と保管座標だ。
お嬢さん、この基地のセキュリティをなんとかして、俺の『翼』を今すぐここへデリバリーしてくれるかい?
『キャプテン・アメリカ』と戦列を組んで悪い奴らと戦う、その盛り上げ役をファルコンとして俺が最高火力で引き受けてやるよ」
「――条件を、承認します。ウィルソンさん」
完璧なエリンの無表情のまま、サムの差し出したファイルへと指先を滑らせた。
ノートパソコンを床に落としてから異音がして怖い…!!
誤字報告ありがとうございます。初期のエリンってあんな口調だったんだと懐かしくなりました。
お気に入り登録、感想、誤字報告ありがとうございます。