MCU世界で『ただいま』を言えない怪物 作:お砂糖さらさら
4月3日、木曜日、深夜23時45分。
カツン、カツン、カツン。
ローファーの硬質なヒール音が、その暗闇の静寂を極めて規則正しいロジックで叩いていた。
白いブラウスに、茶色のプリーツスカート。上から羽織った黒いコートの裾を燕の尾のように不気味に、そして美しく翻しながら、私は冷え切ったコンクリートの通路を滑らかに直進していた。スティーブ・ロジャース、そしてナターシャ・ロマノフが、プロの隠密の足取りで音もなく並走している。
チリ、チリ、チリ……。
ポケットの中の専用端末――ファイズフォンのモックアップが、皮膚の内側の流体光子神経へ向けて、微微なシステムバイブレーションを震わせていた。
画面には文字など表示されていない。ただ、通信ログの最下層に流れ込んでくる不調和なバースト信号の並びを、私の脳内CPUがモールス信号のアルゴリズムで冷徹にデコードしていく。
――『ト・ト・ツ・ト』『ト・ツ・ト・ト』
識別:『H-I-D-E(隠れ家)』。
「……長官殿。ご丁寧なアプローチですね」
低く、わずかに掠れた、血の通わない平坦な声音。
4月2日の夕方、インド洋の衛星管制船で私が仕込んだインサイト防衛衛星のバックドア。フューリーは自分がウィンター・ソルジャーの銃撃によって公的な死人になった際、そのバックドアの回線をハックし、万が一の時の極秘アジトの座標を、この私へ向けてモールス信号のパルスでサイレント送信していたのだ。
彼にとっての世界のすべてがヒドラの毒に汚染されたこの盤面において、組織の規律ではなく自分自身の計算だけで動く人外こそが、最も情報漏洩のリスクが低い、安全なブラックボックスであるという算定の結果だった。
通路の最奥、何の特徴もない高圧変電盤の鉄扉。私は指先の皮膚をコンマ数ミリだけ変態させ、電子ロックの分子の隙間へ直接、生体組織の触手を滑り込ませて電圧を1/1000秒で強制降下させた。
ガシャリ、と音もなく重い扉が開き、空間が切り替わる。
そこは、シールドの主流派や理事会の検閲網から完全に隔離された、フューリー個人の特級セーフハウス。
透過ディスプレイが発する冷たい青白い光の海の中心、何枚もの滅菌シーツとバイタルモニターの影に、仕立ての良い漆黒のロングコートを纏った男――ニック・フューリーが、片目だけを残した眸をギラつかせて直立していた。
彼の胸部には、ウィンター・ソルジャーが放った3発の徹甲弾による凄惨な破壊の痕跡が、シールドの最新の生体修復技術によってジリジリと塞がれていく生の残熱を帯びている。
私はアタッシュケースを無造作に置き、完璧なエリンの無表情のまま視線で隻眼の管理官を射抜いた。
「マクカシーか。……ここに一番乗りでやってくるとはな。死人は何もできないと思っている浅はかな連中に、お前のその徹底的さを見せてやりたいものだ」
フューリーは低い喉を鳴らし、画面に浮かび上がるインサイト衛星の最新の軌道ログを指先で叩いた。
「スティーブ、ロマノフ。お前たちがデータを持ってここへ辿り着いたのなら、仕事の時間だ。明日の朝、トリスケリオンのドックから3隻の新型ヘリキャリアが起動する。計画が発動すれば、ゾラ・アルゴリズムが世界中を同時に狙撃・抹殺する。
……世界が、終わるぞ」
「いいや、終わらせない。僕たちが必ず阻止する。ヒドラにウィンター・ソルジャーとして使われているバッキー救って見せる」
私は長机の前に一歩、無音の足取りで踏み出した。茶色のプリーツスカートの裾が、地下の冷たい風に微かに揺れる。
「とはいえ長官殿。
本題の前に、現時点での財務監査を執行させていただきます。
明日、あなた方が信じてきたシールドという巨大なインフラは、ヒドラの毒によって完全
に崩壊する。それは、ロジャース隊長との契約によって、すでに100%確定したルートで
す。……組織が死ねば、あなたがの裏金口座から私に支払ってきた特殊嘱託職員としての公式な
固定給のシステムも、ここで永続的にロストする」
「金融経済で金をあれだけ収奪しておいてまだ金の話か」
飽きれた風に肩をすくめるフューリーを私は冷たい赤い虹彩の瞳を僅かに細め、唯一の目を真っ直ぐに見据え返した。
「私の生存演算において、労働対価の未払いは許容できない絶対的な赤字と定義されます。
そこで、事後承諾のディールを突きつけます。
明日、ドックから浮上する最新鋭の新型インサイト・ヘリキャリア、計3隻。
……そのうちの『3番艦』を、私のこれまでの危険物対応の労働対価、いわゆる退職金の現物として、私が 個人的に丸ごと強奪し、もらい受けます。……異議はありませんね、長官殿?」
セーフハウスの空気が、一瞬にして完全に凍りついた。
背後でスティーブが息を呑み、ナターシャが「……本当に、身ぐるみを剥ぎ取る気なのね」と嘆息する。
国家の最高機密である飛行要塞を、失脚する直前のトップに向かって「退職金として毟り取る」と平然と言い放つ怪物の合理主義。
フューリーはしばらく無言で私を睨みつけていたが、やがて、その口元に冷酷な現実主義者としての、しかしどこか深く感嘆した大人の歪な笑みを浮かべた。
「……ハ、大きく出たじゃないか、お嬢さん。国家の盾を退職金代わりに分捕ろうとはな。だが、お前がその3番艦の搭乗員、ヒドラのネズミたちをどう処理するつもりだ? 浮上した機体の中で内輪揉めでも起こす気か?」
「システムの上書きですよ、長官殿」
私は透過ディスプレイのコンソールへ指先を触れさせ、仕込み済みのバックドアのプロトコルを弾いて見せた。
「インサイト計画の銃座は、ゾラ・アルゴリズムが過去のデータを分析して未来の脅威を予測し、一瞬で狙撃する仕様になっている。……ならば、浮上直前の1ミリ秒において、私は3番艦のアルゴリズムの判定基準を100%反転ハックします。
『3番艦に現在搭乗している全構成員のバイタル固有ID = 世界に害をなす最優先抹殺対象』だとね」
私は缶コーラのプルタブを精密に弾き、キンと内側が冷える不快な感触を喉奥へと滑り込ませてから、冷酷な戦術のインデックスを繋げた。
「システムが自動起動した最初の1ミリ秒、3番艦自身の艦内対人防御セキュリティが、一斉に牙を剥き、ピンポイントで照射を執行。彼らは何が起きたか理解する間すら与えられず、一瞬で昏睡・無力化されて盤面から完全に沈黙します。
その後、私は自動操縦の権限を完全掌握した3番艦を、ポトマック川の上空へと無人で飛行させ、開け放ったハッチから、事前に待機させたドローンで艦内の動かないゴミどもを川の冷たい水の中へ、一括投棄します」
フューリーは葉巻を灰皿の端へ置き、その唯一の目に、この人間の皮を被った計算機への底知れない信頼の熱を灯して、書類に乱暴に、しかし強固な筆跡で自らの非公式承認サインを滑らせた。
『Faiz-Asset Transfer: IN-03 Approved(3番艦の譲渡を承認)』。
「ディールは成立だ、マクカシー。このサインが通用するかは知らんがな。
お前たちがウィンター・ソルジャーを救いたいならやれば良い。……だがあいつの過去のキルスコア、およびハワード夫妻殺害の全隠蔽ログの辻褄合わせと、新しいクリーンな社会的戸籍の捏造実務。死人となった俺のネットワークへすべて押し付けるつもりだろ?」
「当然です、長官殿。トニー・スタークという私の最大の隠蔽インフラに過去の暗殺ログを踏ませないための、これは共同の維持費用ですから。私も可能な限り削除するのでお互い様にしておきましょう」
私は端末をアタッシュケースに収め、黒いコートの裾を冷たく翻して、セーフハウスの出口へと滑らかに向き直った。
「……マクカシー。お前のその徹底的な合理主義が、シールドという巨大なインフラをヒドラごと完全に終わらせる答えを弾き出した。それはいい。戦術的には100%正しい正常値だ」
フューリーは低く、しかしコンクリートの壁を震わせるような重々しい声を落とした。
「だが、ロジャース隊長。……お前は、本当にそれでいいのか?」
スティーブの碧い眸が、微かに揺らぐ。フューリーは一歩、ベッドのシーツを揺らして前に踏み出した。
「ハワード・スターク。そして、お前が病室で見届けてきたはずの、ペギー・カーター。……あの2人が第二次世界大戦の泥と硝煙の底から、世界の明日を繋ぎ止めるために私財と命を賭して作り上げてきた、このS.H.I.E.L.D.という歴史の結晶だぞ。
その終焉を、身内の裏切りの毒ごとまとめてポトマック川の底へ沈めて終わりとする現実を、お前は本当に、何の後悔もなく受け入れられるというのか」
創設者たちの名前。マクロな博愛と歴史の重み。
フューリーの問いかけは、時代に取り残された孤独を知る英雄の胸を、鋭く、深く抉るものだった。
隣にいたナターシャ・ロマノフもまた、自らの血に塗れた過去のログが世界へ放流される未来を前にして、静かに息を呑んでスティーブの横顔を見つめている。
だが、キャプテン・アメリカ――スティーブ・ロジャースの心は、1ミリグラムも日和っていなかった。その大きな生身の手を固く握り締め、フューリーの隻眼を見据え返した。
「――ああ。迷いはないよ、フューリー」
低く、しかし絶対的な決意の熱を孕んだ、一人のキャプテンとしての声。
「ハワードも、ペギーも、もし今この場所に立っていたなら、僕と全く同じ結論を選ぶはずだ。彼らが命を懸けて守ろうとしたのは、シールドという組織の看板なんかじゃない。
世界で生きている、みんなの『何気ない明日』だ。
今はもう彼らの作ったシールドじゃない。……ここで完全に終わらせる。それが、彼らの遺志を本当に引き継いだ者の覚悟だ」
フューリーはしばらくスティーブの眸を睨み返していたが、やがて、フッと自嘲気味な、しかしこれ以上ないほど誇らしげな大人の笑みを口元に浮かべると、ベッドの横に置かれていたシールド公式のタクティカル・ベストを、その逞しい隻腕で乱暴に掴み取った。
「……だったら、話は決まりだ。俺も連れて行け、ロジャース隊長」
「フューリー、君はまだその胸の傷が――」
「死に損ないの幽霊に、今更セーフティを気にする理由など残っちゃいない」
フューリーはベストを身に付け、壊れかけた心音のリズムを無視しながら、不敵に笑ってみせた。
「俺がトップの席に座り、酸いも甘いも噛み分けてコントロールし続けてきた我が家の終焉だ。……それが文字通りポトマック川の底へ沈んでいくカーテンコールを、一番の特等席で見届けることこそが、このニック・フューリー最後の実務だろ? 邪魔はさせんぞ」
私はコーラのボトルをアタッシュケースの横へと静かに置き、無機質な紅い虹彩の瞳を、隻眼の男へと向けた。
「いいでしょう。ただし生き残って処理していただきたい雑務が山とあるので安全な退避ルートの確保にだけはその知性を動かしてください。……それでは、行きましょう」
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