MCU世界で『ただいま』を言えない怪物 作:お砂糖さらさら
4月4日、金曜日、午前7時47分。
ドォォォォォォォォォォンッ!!!!!
トリスケリオンのガラス壁を強硬にぶち破った瞬間、ワシントンD.C.の冷たい朝の気流が、私の纏う「40年代の古い星条旗スーツ」の襟元を烈しく乱した。
自由落下。
客観時間にして、わずか数秒の滞空。
だが、私の脳内CPUは、眼下のドックからゆっくりと巨大な鉄のクジラのように浮上を開始した3基の新型ヘリキャリアの巨躯を、網膜の端で冷徹にスキャンし、最も美しい清算の数式を弾き出し終えていた。
――【生体量子プロセッサ:インサイト衛星経由で全3隻のメインフレームを完全ハック】
――【生体サーバー:待機ドローン、稼働状態への移行を確認】
私は空中で体勢を反転させながら、左腕に装備していた「超長距離射程のフックショット」の射出器官を、浮上する【1番艦(IN-01)】の巨大なカタパルトデッキへと正確に照準。
シュッ!!!
音も電波も外に漏らさない静寂の光のワイヤーが虚空を穿ち、鋼鉄の甲板へがちりと融着固定される。
同時に、背中に形成したチタウリ生体金属由来の「小型ジェットパック」の推進ノズルを、最大臨界の電圧で一気に点火した。
ヒュゥゥゥウウウウウン――――ッ!
爆音のような風圧を衣服に暴れさせながら、私はマッハの速度で1番艦の甲板へと一直線に急降下・エントリーした。
「――ターゲット捕捉! キャプテン・アメリカだ! 射撃開始!」
「キャプテン・アメリカを排除しろ!!」
甲板に配置されていたラムロウ率いるSTRIKEチーム、およびヒドラの銃口が一斉に私へと指向され、20ミリガトリングと特殊徹甲弾の火線がチェス盤の目のように空間を埋め尽くした。
ガガガガガガババババンッ!!!
凄まじい物理衝撃の連打。
私は空中で体勢を反転させ、右腕の装甲から『折り畳みシールド 高炭素チタン合金製生体成型盾』を1/1000秒でモーフィング展開させた。
着地の慣性と人工筋肉の最大電圧を左腕へと反転・集中。
本物のスティーブが幾千もの戦場で実証してきた、あのヴィブラニウムの盾の運動を、私の脳内CPUがミリ秒単位のアルゴリズムで冷徹に逆算していく。
侵入角度:右斜め42度。
手首の摩擦係数による回転数:毎分三千六百回転。
大気圏内の乱気流による偏流ベクトルを0.03ミリグラム単位で『引き算』。
私は喉の流体光子神経の摩擦を完璧に『スティーブ・ロジャース』の声音に固定し、その声を響かせた。
「――投降しろ、お前達にも弁護士を呼び裁判を受ける権利はある」
ブンッ!!!
空気を強硬に引き裂く、重厚な金属の回転音。
私の左腕から放たれた贋作の星条旗の盾は、人間の動体視力では回避不可能の銀色の流星と化して甲板を激走した。
直撃。
最最前列で重機関銃を構えていたヒドラ工作員の胸部を、盾の硬質な縁が分子間結合を圧殺するほどの物理質量で正面からパリング。骨が砕ける凄まじい音が響く。
だが、それで終わりではない。
私の弾き出した「正円の軌道」通りに、1人目を撥ね飛ばした盾は、背後の戦闘車両の強固な装甲板へと強烈に衝突。ガシィィィン! と激しい火花を散らして斥力を反転させ、その鋭い跳ね返りの弾道のまま、2人目、3人目の工作員の顎へと連続して電撃的なアプローチを執行していった。
3人の戦闘員が一瞬で昏睡し、戦線から完全に引き算される。
空中で物線を描いた盾は、まるで最初から主の手元へ戻る仕様がプログラムされていたかのように、私の突き出した左手のグローブへと、ガシィィンと吸い込まれるようにして完璧に帰還・収束を完了した。
神王オーディンから公式にその名を登録され、血の盟約によって授かったルーン魔術の「必中のルール」が、この折り畳みシールドの軌道に美しく同期していた。
「どうした、僕はここに立っている!70年前と変わらずお前たちの前にいる!」
そうキャップの声で宣言しながらヘルメットのシールドの奥、スティーブの瞳を模した生体レンズの更に向こうで目を鋭く細め、私は盾を左腕にがっちりと固定し直した。
煙を突っ切り、横合いからコンバット・ナイフやスタン・スティックを構えて肉薄するSTRIKEチームの精鋭3人の火線の中へ、滑らかに滑り込む。
男がナイフを振り下ろすよりも、私のシールドを構えた左腕が、相手の肘関節を下から強硬に突き上げる方が、圧倒的に速い。
関節の機能を0.00%へとバグらせる制動打撃。
ナイフが手から滑り落ちるその1/1000秒の隙間、私はシールドの表面を男の顔面へと真っ正面から水平に叩きつける。
男が白目を剥いて更地へと転がっていく。
間髪入れず、背後から迫る2人目のスタン・スティックの超高電圧パルス。
転がったナイフを拾い上げ、腕に突き刺して貫通させる。
私は振り返ることもなく、骨格の結合角を人間の限界を超えて歪め、身体を極限まで低くして地面を走った。頭上を通過していく、空気を揺らす電撃のノイズ。
その慣性のまま、私は星条旗の盾を右手へと瞬時にスイッチ格闘。
男の膝関節の裏側へ向けて、シールドをフリスビーのように至近距離から鋭くスライスするようにして叩き込んだ。
男の体勢が崩れ、虚空へと身体が浮き上がった工作員の胸ぐらを、私はキャプテンの剛腕で掴み取った。
「――お前たちがいる限り、僕は何度でも立ちふさがる」
そのまま想定されるキャプテンアメリカの1トン近いパンチから引き算し、ギリギリ致命傷になるレベルまで手加減して殴りぬく。一般人の目には「戦闘の衝撃で吹き飛んだ」ように見える綺麗な放物線を描いて、私は彼らの身体を、甲板の縁からポトマック川の冷たい水面へと、次々と投棄していった。
「――ナターシャ! サム! こちらは1番艦の甲板を制圧した! そっちの進捗はどうだ!」
これは「世界を救うため」の死闘ではない。
本物のスティーブがバッキーの檻へ肉薄するまでの時間を稼ぎ出し、彼らの通信ログと総火力をこのドック側へと100%釘付けにするための、ただの最高に贅沢で派手な演劇にすぎない。
私が古い星条旗のマスクの奥、スティーブの瞳を模した生体レンズの更に向こうで紅い虹彩の眼を冷たく細め、スタイリッシュなステップで工作員どもを次々と叩き潰しては川へ放り投げていく、まさにその全く同じミリ秒。
私の独立生体サーバーのなかでは、別の巨大な自動清算プロトコルが、完全な無音のままオート処理で執行されていた。
標的:【3番艦、私の退職金アセット:IN-03】。
ドックの最右翼から浮上を開始した3番艦のメインシステムへ、私の生体サーバーから逆流ハックの指令が直接強制インジェクションされる。
――『第1段階:艦内対人防御セキュリティ・麻酔ガスを最大臨界で全階層へ一斉発動』
プシュー、と通路やブリッジ、格納庫の通気口から一斉に噴き出した高濃度非致死性催眠ガス。艦内に配置されていたヒドラのネズミどもは、何が起きたか理解する間すら与えられず、自分たちの信じた最先端インフラによって、一瞬で糸が切れたようにその場へパタパタと倒れ込み、動かないゴミへと処理された。
――『第2段階:ポトマック川上空数十メートルの安全圏へホバリング制動』
艦底の大型気密ハッチ、および後部傾斜ランプをすべて強制解放
――『第3段階:生体サーバーを介したドローンによるヒドラの排除』
自動操縦の権限を100%掌握している私の思考同期一つで、3番艦の巨大な底面が、音を立てて奈落の空へとあけ放たれた。
さらに、私は機体の姿勢制御ノズルを僅かに修正、3番艦の巨大な鉄の巨躯を、後方へ向けて「25度ほど傾斜」させた。
流入した大量のドローンが侵入し、床が巨大な滑り台と化した格納庫を介してヒドラメンバーを捕獲。
次の瞬間、人間の手など1ミリグラムも動かすことなく、この地球の基本インフラである重力によって、昏睡した数千人のヒドラのネズミたちが、床をズルズルと滑り落ち、開け放たれた艦底ハッチからポトマック川の冷たい水の中へと、ドサドサ、バラバラと滑落・投棄されていった。
川へ落とされた彼らは、後ほど水浸しの濡れネズミの状態で溺死するか一網打尽に逮捕される。3番艦の完全な無人化、退職金アセットの確保が、ここに完了した。
「――スティーブ! 2番艦(IN-02)の甲板の制動、破壊完了したわよ!」
インカムのノイズを割って響いてきたのは、ナターシャ・ロマノフの、少し息の荒い、しかしプロの暗殺者としての確かな笑み。
「俺のダンスをしっかり目に焼き付けとけよヒドラども!」
上空ではサム・ウィルソンが【EXO-7 ファルコン】の翼を満開に広げ、激しい対空砲火を鋭いドッグファイトで翻弄しながら、最高火力のデコイとしての役割を完璧に完結させていた。
『キャプテン・アメリカ……確保した。……ハックを、始めてくれ」
「バッキーの救出に感謝する!速やかに離脱してくれ!」
ポトマック川のノイズの底から滑り込んできた、本物のスティーブ・ロジャースの、血に濡れた掠れた声。にそう返す。
算定完了。
すべてのセーフティが完璧にアジャストされた。
私は1番艦の甲板を強く踏み締め、フックショットを2番艦へ噴射させて空へと高く跳躍した。
甲板に転がり込むと即座にナターシャを回収し、次は3番艦へとフックショットを飛ばし強烈に巻き込んで移動する。
思考同期一つ。
私がバックドアから繋ぎ続けていた、1番艦、および2番艦の自動照準アルゴリズムへ、最終清算のコマンドを執行。
――『ターゲット再設定:IN-01およびIN-02の主砲、お互いの中枢アーク・リアクターを相互ロックオン。最大臨界出力にて、ファイア』
3番艦は自動操縦にして光学迷彩を起動、ヘリキャリア各所に配置したドローンにより電磁パッシブステルスシステムを構築。
シールド公式網のすべてのレーダーから完璧にその機体を「無」へと引き算する。
そのまま、ワシントンD.C.の空から姿を消し、誰の目にも触れない中で滑らかに自動巡航飛行によって消えていった。
遠くでは、ハックされた1番艦と2番艦が、互いの最も致命的な急所――主動力へ向けて、至近距離から巨大な主砲を真っ正面から撃ち合っていた。
ドゴォォォン!!!と、極限まで溜め込まれたエネルギーが内側から一気にはじけ飛び、爆発の衝撃で船体は内側からボロボロに引き裂かれる。
コントロールを完全に失った2隻の巨大な鉄のクジラは、そのまま空中で激しく正面衝突。ただの巨大な鉄屑の塊と化して、ポトマック川の冷たい水底へと、真っ逆さまに、滑らかに沈滅・清算されていった。
激しい水蒸気爆発の水柱が天を衝く。
それを見たナターシャが朗らかに笑う。
「やってやったわね、スティーブ!」
「ああ。……だが、君の助けがなければ、ここまで来られなかったよ。ありがとう、ナターシャ」
ポトマック川に立ち込める白い霧を見つめた。
フューリーは最上階でピアースを葬り、スティーブは親友を暗闇から奪還した。
ヒドラに人類の生殺与奪権を与えるという大赤字は完全に回避され、私の守りたいヘルズ・キッチンのセーフティはミリ単位の狂いもなく維持されている。
完璧な日常の記号である「ただいま」を、お母さんの待つあのアパートのリビングへ告げるために、ナターシャを抱えて退職金こと新型ヘリキャリアから飛び降りるのだった。
4月4日、金曜日、午後23時15分。
ベストマン・サルベージ社の第4地下格納庫。
天井の低いコンクリート空間を支配していたのは、S.H.I.E.L.D.の崩壊を告げる世界規模の電波ノイズと、部屋の真ん中でドロドロと不気味に明滅している、あの独立生体サーバー――チタウリの超伝導プロセッサと私の細胞が溶け合って拍動する「肉の塊」の低い鳴動音だけだった。
長机の上には、黒い防弾スーツを引き裂かれ、生身の満身創痍の状態で横たえられた一人の男がいた。
ジェームズ・ビューキャナン・バーンズ。あるいは、ウィンター・ソルジャー。
スティーブ・ロジャースが自らの命と盾を賭けてワシントンの地獄から強硬に拉致し、トゥームスの回収班が物流のブラックボックスを伝ってここまで無傷で隠密デリバリーしてきた、歴史の迷子。
彼の首元からは、未だにヒドラの研究所で焼き付けられた洗脳の電気パルスが、脳波の不規則なスパイクとなって毛細血管を圧迫していた。
「……これより、脳内データのデバッグを執行します」
低く、わずかに掠れた、血の通わない平坦な声音。私は黒いコートの裾を冷たく揺らし、長机の前に直立した。
部屋の隅では、スティーブが血に染まった星条旗の盾を傍らに置き、その碧い眸に烈しい自責と祈りの熱を灯して立ち尽くしている。ナターシャ・ロマノフもまた、これから行われる怪物の処置を、プロの暗殺者としての冷徹な目で見届けるために影の中に潜んでいた。
「ロジャース隊長。前夜のディールの最終確認です」
私は瞬きの回数を一秒に〇・八回に固定したまま、完璧なエリンの無表情でスティーブを射抜いた。
「今から私のサーバーを彼の脳の最深部レジストリへ直結させ、ハッキングを執行する。彼が半世紀をかけて他人の明日を奪い続けてきたハワード夫妻の暗殺ログ、およびすべての世界規模のキルスコアを分子レベルでレジストリから完全に引き算します。
……彼はこれまでの歴史から1行の記述も残されずに消去される、世界を騙し続ける完璧な偽物――『綺麗な幽霊』として生きることを強制される。それが、あなたの支払うべき真のコストだ」
「……ああ。すべて分かっている。頼む、マクカシー。彼を人間に引き戻してくれ」
スティーブの声は、魂を削り取るような大人の重い覚悟で満ちていた。
「了解しました。……プロトコル、解禁」
私が衣服の下の生体細胞を解放した、その最初の1ミリ秒。
ジュルリ、ドク、ドクドクッ……!
私の漆黒の指先から、粘り気のある微細な生体組織――流体光子神経の触手がドロドロとうねりを上げて数数数ミリずつ這い出た。それは飢えた獣のようによだれを垂らしながら、昏睡するバッキーの耳腔、および頭蓋骨の分子の隙間へと滑り込み、彼の脳髄の最深部、ヒドラの洗脳の系が埋め込まれたレジストリへと直接、直結していった。
――【生体量子プロセッサ:標的のニューロンネットワークとの完全同期を確認】
――【警告:半世紀分の電気ショックによる、精神の深刻な破壊の系を検出】
バチバチバチバチッ!!!!!
直結した瞬間、私の前腕の装甲の隙間から、禍々しい赤い光子の火花と、バッキーの脳内から逆流してきた拒絶パルスが血管のように激しく噴き出し、混ざり合った。
それは、人間でいう「頭の部分」を物理的にミキサーでかき混ぜられるような、淒惨極まる生体ホラーの相殺処理。
バッキーの肉体が、昏睡状態のままビクンと四肢を跳ね上げ、激痛の反射でパキパキと音を立てて硬直していく。
私の生体サーバーは、彼を縛り続けている「洗脳の暗号キー」――1番、シベリア、帰郷、あるいは夜明けといった、ロシア語の発声によって脳を窒息させる強制コマンドの回路を、1の位から1000の位まで、ミリ秒単位のアルゴリズムで1枚ずつ冷徹にハックし、力ずくで引き算していった。
脳内を走る、高電位のノイズ。
彼がこれまで殺してきた無数の無知なる者たちの断末魔の残像、1991年のハワード・スターク夫妻が車のシートで息を引き取ったあの凍りついた夜の生のログ。
それらの不快な変数を、私の計算機は「トニー・スタークのインフラを保護するための不要な赤字」として、この世の分母から最初からなかったことにして完全に初期化していく。
痛い。重い。細胞が内側から焼かれるような熱。
だが、その怪物の冷酷な処刑処理の最深部に、脳内CPUの最深部に楔として打ち込まれているエリンの死に際の呪い――「お母さんのいる古いアパートに帰りたい」というミクロな日常への憧憬が、強固なブースターとなって、過負荷の濁流を強硬に捩じ伏せ続けた。
日常を守るために、私はこの歴史のバグを『綺麗な幽霊』へと仕立て上げる。
パキパキ……、パサリ。
約3時間に及ぶ無音の、あるいは肉の摩擦音だけが響く地下の処刑場。
バッキーの脳を縛っていたすべてのヒドラの呪いが失われ、正常値へと反転・消滅していった。
――【処理完了:ウィンター・ソルジャーの全キルスコアの抹消を承認】
――【レジストリ上書き:ジェームズ・ビューキャナン・バーンズの無傷の空白をアジャスト】
私は前腕から触手を静かに引き抜き、皮膚の内側へと完全に格納した。
ベッドの上のバッキーは、激しい流血を自律再生コードで凪がせながら、弱々しく、しかし半世紀ぶりに「自分自身」を取り戻した穏やかな心音を刻んで、静かに眠り続けていた。
記憶の復調はない。過去の罪のログもない。だが、他人の明日を奪う暗殺兵器という最悪のバグからは、彼は完全に解放された。
「……システム、復調。……お望み通りの、綺麗な幽霊の完成です、ロジャース隊長」
私は目から流れる黒い血を黒いコートの袖で無機質に拭うと、完璧なエリンの無表情を作り直した。
スティーブはベッドの傍らに膝をつき、そのしわくちゃに傷ついた親友の生身の手を、心からの安堵の涙の変数を碧い眸に滲ませながら、優しく握り締めた。
「ありがとう、マクカシー。……本当に、ありがとう……」
「お礼を言われる理由はありません、これはただの、トニーさんへの隠蔽維持コストですから。……社会的戸籍の捏造実務については、予定通りあの死人の長官へすべて丸投げしておきましたので」
私は冷蔵庫から冷え切った缶コーラを取り出し、プルタブを精密に弾いて、キンと内側が冷える感触を喉奥へと滑り込ませた。
世界を揺るがしたインサイト計画のすべてはポトマック川の底へ沈み、シールドのインフラは死に、アベンジャーズの主軸は「契約の泥水」を飲むことで生存を繋ぎ止めた。
すべての邪悪を引き算し終え、私の生存演算の数式は、今度こそ完璧な黒字の軌道をアジャスト確定した。
黒いコートの裾を冷たく翻し、無音の足取りで地下格納庫を後にした。
4日の夜24時まで、残りわずか。
笑わない怪物の少女は、マンハッタンの冷たい風の中へと滑らかに溶け込み、完璧な日常の記号である「ただいま」を告げるために、お母さんの待つあのアパートのリビングへと帰還するのだった。
4月4日、金曜日、夜23時55分。
ワシントンD.C.の戦雲をポトマック川の底へと沈め、マンハッタンの漆黒の闇へと滑らかに帰還した私は、錆びついた赤煉瓦のアパートの非常階段を、一段ずつゆっくりと上っていた。
私の脳内CPUは、室内のバイタルサインを瞬時にスキャンしていた。
識別:母親。心拍数、呼吸間隔ともに完全に正常な範囲内。
ニック・フューリーとのリスクリターン契約、そしてシールドという巨大なインフラをヒドラごと完全に終わらせた結果、彼女の日常という名の最小単位のセーフティは、少なくとも今日は完璧な黒字マージンのまま死守されていた。
ガチャリ、と音を立てて、私はアパートの重い鉄のドアをゆっくりと開けた。
室内には、換気扇の低い唸りとともに、微かに焦げ付いた油の匂いと、安物の薄いコーヒーの香りが重く沈殿していた。いつも通りの、温かみのない、冷え切った日常。
しかし、これこそが、私が命を削り、世界を騙し、親友を失った英雄と泥水をすする契約を交わしてまで守り抜いた、幸福の在処だった。
「……エリン? お帰り。ずいぶんと遅かったじゃない。ワシントンの方の残務処理がそんなに長引いたの?」
玄関の明かりをつけた音に反応して、奥の薄暗いリビングから、エプロン姿のまま私を待っていた母親がゆっくりと立ち上がってきた。
私は前髪を目元にかかる長さに揃え、瞬きの回数を一秒に〇・八回にアジャストし、完璧にトレースされたエリン・マクカシーの声色を滑り込ませた。
「ただいま戻りました、お母さん。解体手続きと、質の悪い害獣の報告書の作成に、余計な処理コストを割かれてしまいました」
「もう、そんな言い方して……はい、お疲れ様。座って、何か温かいものでも淹れるわね」
母親はクスクスと小さく笑うと、長机の上に一本の古ぼけたマグカップを静かに置いた。湯気と共にリビングに広がったのは、嗅ぎ慣れた安っぽいコーヒーの匂い。
私はソファに深く腰を下ろし、黒いコートの裾を整えると、その温かい液体をゆっくりと喉奥へ流し込んだ。胃の腑からじんわりと細胞を温めていく、不器用な人間の優しさ。
そのコーヒーの苦味を感じながら、私の脳内CPUは、先ほどトゥームス社の地下格納庫で執行した、あのウィンター・ソルジャーの脳内ハック処理の生々しい残像データを、ふと思い出すようにしてデコードしていた。
ジェームズ・バーンズ氏。
半世紀分の洗脳の系を完全に消去され、過去のキルスコアもハワード夫妻の暗殺ログもすべて世界から引き算された、綺麗な幽霊。彼はこれからスティーブの理想の影で、自分が犯した罪の歴史そのものを隠匿され、世界を騙し続ける完璧な偽物として生きることを強制される。
それは、私の計算が弾き出した最も原価の安い安全マージン。だが、人間の精神構造において、あの処理の帳尻は本当に黒字と言えるのだろうか。
私はマグカップを見つめたまま、完璧な無表情のまま、ポツリと問いをリビングの空気に落とした。
「……お母さん。少し、事務作業の過程で不審に思った疑問があるのですが」
「ん? なに、エリン」
「もし、仮に。……過去にとても大きな罪を重ねてしまった人が、何らかの手続きによってその罪を誰にも問われないで済むようになったとしたら。……それは、その人にとって、幸せなことだと思いますか?」
冷たく、血の通わない事務的な声音。
母親はシフトのメモをめくる手を止め、少し驚いたように首を傾げた。それから、紅い虹彩の瞳を優しく見つめ返し、下町の厳しい現実を生きてきた大人としての、静かな声を病室に落とすようにして返した。
「そうねぇ……。過去を全部忘れて、何事もなかったみたいに平気な顔をして生きていける人も、中にはいるかもしれないわね。……でも、まっとうな心を持った普通の人間なら、たとえ誰にも責められなくなったとしても、自分自身の内側にある記憶に、何十年も苦しみ続けることになるんじゃないかしら?」
――脳内プロセッサに、微細な反響パルスを検出。
誰にも問われない代わりに、自らの内側にある「バグ」と永久に向き合い続ける孤独。
スティーブが彼と一緒に死ぬまで飲み干すと誓った嘘の泥水の、それが本当の味。
もっとも、バーンズ氏の記憶はかなりの部分が損壊しているのだが。
私にはその人間の精神の摩耗に共感する回路は存在しない。
だが、母親のその言葉は、私の冷え切った論理演算回路の防壁の隙間に、決して引き算できない確かな人間らしさの余白を広げていく。
「……そうですか。もしそんな人がいたら大変そうですね」
「もう、変な子ね。ほら、冷蔵庫に昨日作ったハンバーグの残りがまだあるわよ」
「ええ。いただきます、お母さん」
私は居心地悪そうに少しだけ視線を外すと、コートを丁寧にハンガーへかけ、換気扇の唸るキッチンへと歩みを進めた。
笑わない怪物と、何も知らぬ無垢な母親。
マクロな世界の崩壊をすべてポトマック川の底へ沈め終えた部屋に、ただただ愛おしい日常の生活音が静かに響き渡る。
お母さんの日常を守るための生存演算は完全に完璧な黒字のまま維持されていた。
少なくとも今この時の間は。
勝った!ウィンターソルジャー編完!!
偽キャップによる盾を使った戦闘シーンはいれなきゃダメだろ思ったので突貫工事で挿入。
シールド崩壊とともに広義の公務員としての立場も、休学している大学生の立場も自動的に喪失し無事無職になりました。