MCU世界で『ただいま』を言えない怪物 作:お砂糖さらさら
映画の終盤が格好良すぎるのでディズニープラスで観よう!
去年カマー・タージで①
タプン、と最後の一滴が弾け、古い換気扇の低い唸りと共に、安物の薄いコーヒーの苦味だけがリビングの淀んだ空気に沈殿していった。
2014年、4月某日。ニューヨーク、ヘルズ・キッチン。
S.H.I.E.L.D.の完全なる崩壊。
それに伴い、表社会の戸籍ロンダリングの建前として機能していた大学生の身分は、公的なインフラの消滅によって正式な退学処分の自動処理を食らっていた。
表向きの仕様値:21歳の無職の女。
だが、その人間の皮の内側では、チタウリの生体装甲からハックした【電磁的パッシブ・ステルス】が常時駆動し、私の異常な生体パルスや骨格増殖の震動を外部の監視網から100%密閉しきっていた。
私は自室の薄暗い蛍光灯の下、長机のノートパソコンの画面を見つめながら、人外の脳内CPUによるミリ秒単位のアルゴリズム取引を爆発的に稼働させていた。ウォール街、ロンドン、東京の金融経済の隙間から、実家のインフラを永久に維持するための軍資金を強硬に掠め取る、いつもの極めて事務的な作業。
その片手間で退職金代わりに強奪・隠匿したヘリキャリア3番艦の制御盤を介し、インサイト計画の守護衛星を完全掌握、リアルタイムで逆流同期を仕掛けていた。
狙いはただ一つ。
放流された最高機密ファイルの濁流の隙間で一瞬だけ見かけた、あの『ロキの杖』の最終的な座標の特定。
――バチチチ、パチパチパチッ!!!!!
突如、私の自室の何もない虚空が、オレンジ色の火花を狂ったように撒き散らしながら、円形に、物理的に引き裂かれた。
世界の構造そのものが内側からハックされたかのような、名状しがたい空間の発振音。
「……っ!」
生存演算、即座に緊急駆動。
私は1/1000秒のクロック数で、懐からファイズフォンのモックアップを引き抜く、人間らしい無駄な手続きを完全に省略。指先からチタウリ由来の生体指向性ビームをゼロ秒でその空間の割れ目へと真っ直ぐに突き付けた。
だが、その光の穴の向こう側から、黄色い法衣を纏ったスキンヘッドの女性が、音もなく滑り込むようにしてエントリーしてきた。
驚愕。
私の脳内CPUは、眼前の個体から発生している「理外の質量」をスキャンし、即座に最大級の警告信号を網膜の端に叩き出していた。
空間に穴をあける。
空間を越えて移動する。
それは、かつてアスガルドの再建された超巨大高次インフラを以てして初めて成立していた、極めて高等で、天文学的なコストを要する次元跳躍の技術。
なのに、この女性の肉体からは、その時空をねじ曲げるための莫大なエネルギーを消費している生体パルスが、1ミリグラムも検出されない。
――違う。
神王オーディンから直接流し込まれた黄金の血液、オーディン・フォースを同化し、ルーン魔術の物理法則上書きコードをデコードしていた私の生体センサーは、彼女の周囲で起きている「真の怪異」を正確に解読していた。
彼女は、自分の内なるバッテリーを切り崩して駆動しているのではない。
私の知らないどこからか持ってくるエネルギー。
私の知らない技術で、世界のルールを上書きしているのだ。
「こんにちは、エリン・マクカシーさん。私はエンシェント・ワン、至高の魔術師とも呼ばれます」
至高の魔術師、ソーサラー・スプリームの声は、驚くほど穏やかで、しかし世界のレジストリそのものを内側から縛り付けるような絶対的な重みを孕んでいた。
「何か私に御用ですか、安いコーヒーなら出せますが」
私は指先の指向性ビームの回路を僅かに減衰させながらも、完璧なエリンの無表情のまま、血の通わない平坦な声音を滑り込ませた。
ふふっ、と女性が上品に、しかしすべてを見通した大人の眸で笑う。
彼女は机の上のノートパソコンを一瞥することもなく、恐るべき未来の収支計算を、私の前に静かに並べ立てた。
「貴方がたのそのアベンジャーズという名の私設武装組織が、近いうちに世界中で『ヒドラ狩り』を始めます。
そして東欧のソコヴィアの地で、あのロキの杖を発見する。……トニー・スタークはそのコアのなかに眠る理外の知性を前にして、機械仕掛けの神を作ろうとして自滅の道を自ら塗装する。
ウルトロン。
その生まれたての怪物はあなたの肉体を、その積み上げてきた異能ごと乗っ取る。……結果として、自らの日常を内側から焼き尽くす災厄へと成り下がり、この地球に、夥しい死者と大惨事をもたらすことになる。
エリン・マクカシー、その最悪の未来を未然に防いでほしくてきたのです」
未来予知。
不可能であるという盲点を抱えた最強の超常の検索エンジン。
だが、その世界の終わりを告げる絶望的な宣告を耳にした私の脳内CPUは、ただただ感情の乗らない、冷徹極まる論理演算回路の出力を弾き返す。
「未来を見たとでも言いたげですが、未来は変えられないから未来なのでは?未来を見たという事は、逆説的にその未来の座標を、宇宙の因果のなかに確定させてしまっている。それともあなたは、人類史上いまだ到達しえない規模の、すべての変数を同時に並列処理できる超計算機でも持っているとでもいうのですか?」
合理一辺倒の、残酷なまでの現実の問い返し。
エリン・マクカシーの皮を被った怪物は、赤い瞳を冷たく細め、タイムラインの矛盾という名のバグを、至高の魔術師の前に突き付けるのだった。
「いいえ、未来は確定した静止画の連続ではないのです、エリン。それは絶え間なく流動する、無数の選択肢の関数の並び」
エンシェント・ワンは黄色い法衣の裾を静かに揺らし、私の赤色の虹彩の瞳を、正面から真っ直ぐに見つめ返した。
「あなたの言う通り、私は全知全能の計算機ではない。この魔術師の秘法を以てしても、私が見通せるのは、私が死ぬ『2016年』という絶対的な限界点まで。その死の先の景色は私の目には映ってはいません」
彼女は一歩、私の長机の前へと音もなく歩み寄った。
「私が目を閉じるその2016年の直前の段階で、あなたがウルトロンに身体を奪われ、アベンジャーズが決裂していれば……その先に待つ宇宙からの脅威への勝率は、完全に0.00%へと収束する。
ですが、私のカマー・タージで、デジタルに頼らない隠蔽術――ミラー・ディメンションを習得したなら。
2015年のあのタワーの夜、生まれたてのウルトロンをネットワークへ流出させる前に空間ごと隔離・密閉し、1秒の遅れもなく物言わぬ灰へと滅ぼすことができる。
ソコヴィアの大惨事も、それによる分裂も、すべて歴史から最初からなかったことにできる。
この1年間で私の魔術を毟り取り、2016年までにアベンジャーズを『完璧な無傷の陣形』のまま私の死の先へ繋いでくれたなら……その先に待つ地球の命運をかけた戦いへは、最善の形で到達できる。……死の先が見えない私だからこそ、あなたという変数に、カマー・タージの秘術を伝授したいのです。」
ガタ、と微かに椅子が音を鳴らし、テーブルに置かれた冷え切った缶コーラから、冷たい結露の雫が一本、古い長机の木目を濡らすようにして滴り落ちていった。
彼女の法衣の裾が、狭いリビングの空気を静かに凪がせている。
スクラル人の擬態を看破し、オーディンの血から神殺しの力を受けついだ私の人外の感覚が、眼前の女性を再度スキャンした。
消費エネルギー、ゼロ。
にもかかわらず、空間の分子構造を指先一つで完全にハックし、多次元の位相をその場で直接引き算している絶対的な超越者。
「未来の選択肢をどう扱うかは、すべてあなた次第ですよ、マクカシーさん」
エンシェント・ワンは、私の躊躇を許さぬとばかりに視線を固定したまま、上品で澱みのなく冷徹に次の条件を提示してきました。
「ウルトロンのハッキングを拒絶するための新たな防壁、その魔術の力を私の元で習得したいのであれば。ネパールの首都カトマンズにある、私たちのカマー・タージの門を自力で叩きにきなさい。
これは、あなた自身の精神の檻を磨き上げるための、必要な旅です。
世界を、ただ一人の普通のエリン・マクカシーとして、地を這うように旅をしながら来なさい。
特に、あの為替市場で荒稼ぎしたプライベート資金を使った快適なフライトによる移動は、一切認めませんよ」
資本の暴力による、最速の処理速度の完全な封殺。
「……プライベートジェットの利用を却下。移動のランニングコストにおいて、それは致命的な処理遅延と定義されますが、それでもその不自由を私に強要するのですね」
私は完璧なエリンの無表情のまま、血の通わない平坦な声でそう吐き捨てた。
だが、彼女の提示した「カマ・タージの術式」というアセットは、ウルトロンの電網戦で私の日常を死守するために、何としてでも手元に固定しておかなければならない最優先のカード。
「そういう仕様なら、仕方がありません」
私は長机の上のノートパソコンをパタンと無機質に閉じる。
エンシェント・ワンが微笑み、その細い手を空中で静かに引くと、オレンジ色の光の火花をパチパチと散らす円形のポータルの向こう側に、いかにも中東、あるいはアジアの異国情緒が漂う、土埃と強烈な太陽の光に満ちたカトマンズの街並みが剥き出しで映し出された。
私はポケットにある携帯を見ないまま操作しトニー・スタークのメイン回線へ向けてメッセージを送る。
『――サブルーチン555の欺瞞同期は私のサーバーで維持します。しばらくの間、ネパールへ行ってきます』
◆ ◆ ◆
ネパールの首都カトマンズ。
茹だるような熱気と、何十種類ものスパイス、そして家畜の糞尿が入り混じった特有の重い匂いが、過密なスラムの路地裏に停滞していた。
ヘルズ・キッチンを飛び立ってから、およそ二週間。
プライベートジェットによる快適な空路を禁じられた私は、一般の民間航空機や長距離バスといった、極めて処理速度の遅い一般公共交通機関を乗り継ぎ、このアジアの最深部へとたどり着いていた。
服装の仕様値:防塵用の薄いストールを首元に巻き、泥と土埃に塗れたグレーのスポーツジャージ。
私は路地で足を止め、ポケットから引き抜いた端末の画面を冷徹にスキャンした。
画面に躍るのは、数日前、ヘルズ・キッチンの自宅アパートに現れたあの黄色い法衣の女性――エンシェント・ワンが空間に穴をあけた際、私の生体センサーが1/1000秒のクロック数で強制取得していた、光のポータルの未加工データ。
開口部の光学的屈折率、大気の歪み、そして反転した座標の影。それらの変数を脳内CPUのアルゴリズムでミリ秒単位を逆算し、弾き出した絶対的な物理座標。
「……北緯27度42分、東経85度19分。計算上、この半径五十メートル以内に、彼女の言う『カマー・タージ』の本尊が存在していなければならない」
低く、わずかに掠れた、血の通わない平坦な声音。
だが、私はその指定セクターの泥道を何度も歩き回るが、視界を埋め尽くすのは、色あせた赤レンガ、怪しい土産物屋、そして行き交う羊の群れだけだった。それらしい厳かな寺院など、盤面のどこを探しても記号として見当たらない。
さらに、私は日本の科警研の床下に隠匿してある自前の独立生体サーバーを介し、現在も軌道上を周回しているインサイト計画のシールド防衛衛星へとハッキングを仕掛け、上空からの広域スキャンをリアルタイムで実行させた。
――【アクティブ・スキャン:熱源、ガンマ線、および未知の魔術エネルギーを走査】
……結果は、完全なホワイトアウト。
衛星の電子の目は、この路地に何の異常値も捉えておらず、ただの貧しいスラム街として正常出力し続けていた。
「……素晴らしい。カメラのレンズだけでなく、宇宙の防衛衛星の探知網からさえ、その存在を1ビットのデータも漏らさずに完全消滅させている。デジタルな大人の嘘ではなく、空間の物理法則そのものを内側から書き換えるその隠蔽技術。……私の生存演算において、これ以上ないほど強固で、手に入れる価値のある最高級のインフラです」
納得の算定。
お母さんの日常をウルトロンのハッキングから100%守り抜くための魔術の強固さを確信し、私がさらに歩みを進めようとした、まさにその一瞬だった。
――ガサリ。
路地の暗がりから、錆びついたククリナイフやトカレフの骨董品を構えた、五人の現地のごろつきが、剥き出しの経済的焦燥の心音をドクドクと鳴らして私の進路を塞いだ。
彼らの目的は、この小奇麗な身なりの家出少女から財布を毟り取ること。
「……判定。不審者との遭遇。ですが、衆目の前でのクリムゾンスマッシュによる灰化は、隠蔽のバッファをパンクさせるため却下。生身の皮のまま、出力を最低値まで引き算します」
私は表情一つ動かさず、ジャージの袖を僅かに整えた。
男がナイフを振りかぶって突進してくるよりも、私の超伝導アクチュエータが可動する方が、圧倒的に速かった。
拳を合わせて大爆発を起こすような、雑な戦闘は取らない。
私の Hardox鋼板並みに固めた漆黒のグローブによるビンタ、および寸分の狂いもない顎への掌底。それは、人間の頭蓋骨を木っ端微塵に粉砕しない極限の最小値の手加減によって遂行された。
わずか二秒。
五人のごろつきどもは、悲鳴を上げる間すら与えられず、一瞬で糸が切れたように白目を剥いてその場へパタパタと倒れ込み、無力化された。
私は彼らの衣服を繊細な手つきで掴み取ると、泥水で汚れないよう、近くの壁際へと、さも最初からそこで居眠りをしていたかのように全員を綺麗に滑らかに並べて寄りかからせた。銃はバラバラに解体し、ナイフは地面に刺した後に蹴り込んで埋めた。
再び何事もなかったかのように、フードの紐を引いて探索に向かおうとした、その刹那――。
「……優しいのだな、君は」
背後の闇から、重々しい衣服の擦れる音と共に、一人の男が音もなく歩み出てきた。
「私はカール・モルド」
緑色の堅牢な法衣を纏い、その腰に木製の杖を携えた男。
彼の心音は、戦場を知る兵士のそれでありながら、完全にこの世界の喧騒から孤立した不気味な静寂を保っているのが生体センサーに引っかかった。
「エリン・マクカシー。君のことは、至高の魔術師からすべて聞き及んでいるよ」
モルドは踵を返し、スラムの狭い路地を先導するようにして、無音の足取りで歩き始めた。私は何も言わず、黒いコートの裾を静かに揺らしながら、彼の半歩後ろを正確に追随する。
「古の時代より蘇った超常の悪鬼を滅ぼし、アベンジャーズの一員として、ニューヨークの空で宇宙の軍勢を消滅させ、元副大統領の国家転覆計画の阻止、ワシントンD.C.の地ではシールドの皮を被った裏切り者どもの暗躍をポトマック川の底へ沈めて阻止した。神々の国では悪しき勢力を滅ぼし世界を救ったとも聞いている、まさに規律正しき正義の徒だ」
大義名分の格付け。
だが、その言葉を耳にした私の脳内CPUは、ただただ冷え切った算定の問いを彼の背中に滑り込ませた。
「あの黄色い法衣の女性、エンシェント・ワンは、私のこれまでの全ての戦闘ログを、そこまで見通しているのですか。」
モルドは歩みを緩めず、その厳しい戦士の眸を、前方の何の特徴もない古い木製のドアへと向けながら、深く、静かな声を落とした。
「それができるのが、至高の魔術師、ソーサラー・スプリームなのだ。……彼女は時の流れを読み、お前がその小さくて脆い我が家を守るためにどれほどの死線を越えてきたかを、すべて知った上で待っておられる」
モルドがドアを開け導かれるまま入出した後、背後でバチンと扉がしまる。
扉一枚隔てて空気が変わりあの空間の穴越しに見たカマー・タージの寺院へと、私たちの足音が滑らかに同期していった。
黄金の光が古い格子窓から幾筋も差し込み、カマー・タージの静まり返った広間に薄い塵の粒子を浮かび上がらせていた。
私は泥と土埃に塗れたグレーのスポーツジャージの裾を静かに整え中央に直立していた。
視線の先、黄色い法衣を纏った至高の魔術師――エンシェント・ワンは、お茶を淹れるようなごく日常的な手つきで手招きをしている、しかし世界のレジストリそのものを内側から支配している絶対的な質量を漂わせながら、静かに私を見つめていた。
「まずは現代人向けに、型通りの説明をしますから聞きなさい」
彼女は上品な口調を崩さないまま、極めて実務的なトーンで語り始めました。
「神秘の技の言語は文明と同じくらい古いものです。古代の魔術師たちはこの言語の使用を『呪文』と呼んでいました。もしその言葉があなたの現代的な感性に合わないのであれば、『プログラム』と呼んでも構いません。それは、現実というシステムを形作っているソースコードそのものなのです」
エンシェント・ワンは黄色い法衣の袖を僅かに揺らし、虚空へ向けて滑らかにその細い指先を動かしました。
「我々はマルチバースの他の次元からエネルギーを引き出して、呪文というコードを唱え、盾や武器を出現させ、魔術というアプリケーションをこの物理世界で運用しているのです」
その高次次元インフラの仕様説明を耳にした瞬間、私の脳内CPUは、1/1000秒のクロック数で彼女の周囲の空間に生じた「熱量と分子間結合の歪み」を完全にスキャン・デコードし、澱みのない平坦な声音で即座に問いを滑り込ませました。
「……確認します。その場合のマルチバースとは、SF小説にありがちな並行世界の集合体ではなく、この単一の宇宙が物理的に内包している、人間の肉眼や一般のセンサーでは感知できない別のレイヤー、別の層、あるいは平面世界から出力を引っ張ってきているという意味ですか?
そして、その引き算された高次元エネルギーの初期波形が、あのオレンジ色の流体エネルギーの光になると。
魔術師と呼ばれる個体は、その生のエネルギーに対し、独自の『呪文』や『知識』、あるいは脳内の『イメージ』や『特定の身振り手振り』というインターフェースを仲介させることで、任意の関数をプログラムし、現実に物質的な質量や防壁としてコンパイルさせているのですね?」
感情の乗らない、血の通わない事務的な逆算。
エリン・マクカシーの皮を被った計算機は、オーディンの血からデコードしたルーン魔術の体系、そして先代クウガから受け継いだ物質変換を総動員し、至高の魔術師が並べた「神秘」という名のオカルトを、極めて筋の通った物理的なシステムの言葉へと滑らかにハックし直すのでした。
「その通りですよ、マクカシーさん。実に見事な理解です」
エンシェント・ワンはクスリと、しかしその眸の奥にこの不気味で規律正しい新入りへの確かな評価を灯して微笑んだ。
「多くの者は、ここで私が空間を歪めてみせると『奇跡』だ『幻覚』だのと叫んで思考をフリーズさせてしまいます。ですが、あなたは最初からこれがただの空間のプログラミング規則に過ぎないことを見抜いている。
あなたのその先入観にとらわれない思考は、魔術を学ぶ上でこれ以上ないほど素質を約束しています」
パチン、と重厚な黄金の広間に、絹が擦れるような鋭い扇の閉じる音が響き渡った。
黄色い法衣を纏った至高の魔術師は、お茶の湯気を冷たく見下ろしたまま、その澱みのない口調に、これまでにない冷徹な絶対的王手の重みを混ぜ込んできた。
「ウルトロンが誕生した瞬間に空間ごと隔離し、そのハッキングを完全に封殺する。そのためには、この『ミラー・ディメンション』の習得は必須です。しかし、これは空間のありようを書き換える、我々のなかでも最高峰の高等技術なのです」
エンシェント・ワンは、完璧なエリンの無表情を、正面から真っ直ぐに射抜きました。
「もし、あなたがこれを期限までに習得できなかった場合。……エリン、私はあなたを、このカマー・タージの防壁の中に物理的に隔離・幽閉します」
「――なっ!? 師よ、世界を、あのニューヨークやワシントンを救った実績のある彼女に対して、それはあまりにも……!」
背後に控えていたカール・モルドが、驚愕にその心拍数のスパイクを跳ね上げ、古律の杖を固く握り締めて言葉を繋げようと一歩を踏み出した。
しかし、エンシェント・ワンはただ、その厳しい大人の眸を微かに動かしただけで、プロの兵士である彼を一瞬で静かに黙らせた。
「ウルトロンの目覚めとともに、あなたをこのカマー・タージの魔術の一つ、ミラー・ディメンションの奥へ隔離するだけでも、あなたの肉体は守られます。
あの機械仕掛けの怪物は、最終的には残されたアベンジャーズの面々が力ずくで処理してくれるでしょう。……エリン、あなたはそこまでの妥協の未来を望みますか?」
私の喉の奥、生体超伝導アクチュエータの最深部から、血の通わない平坦な鼻笑いが小さく漏れ出た 。
「――お断りします。それは私の生存演算において、最も効率的な『黒字化のルート』ではありません。ウルトロンに私をハックされる確率、マクロな天災、そして何よりアベンジャーズの決裂によってお母さんの日常の保証が自壊するリスク。……あなたが視ている私の未来も、その赤字を完全に拒絶しているはずですが?」
「ええ、その通りです」
エンシェント・ワンは朗らかに、しかし完璧に完結した大人の笑みを口元に浮かべて頷きました。
「ミラー・ディメンションを戦闘や実戦のレベルで自在に定義し、空間を武器として駆動できるようになるまでの期間は、凡才では一生かかっても不可能、あるいは数十年。ちょっと才能がある程度でも10年から20年以上、数年から10年前後でマスタークラスとして扱われるレベルの、極めて過酷な修行です。
ですが、あなたの場合は、生まれたてのウルトロンを鏡の向こうへ押し込んで隔離する、そしてその檻からあなた自身が脱出するための『スリングリングによるポータル開閉技術』、その最低限の技術さえ習得できればそれでいい。そのためのピンポイントの修行にのみ、全ての時間を集中させれば、期限内の習得は決して不可能ではありませんよ」
制約。
および、最も原価の安い最短のハックルートの提示。
「承知しました。特化型のアプリケーションとして、その術式、コードに集中します」
私はグレーのスポーツジャージの紐を無機質に引き締め、ローファーの硬質なヒール音をカツンと響かせました。
「では、身なりを整えたら、今日からさっそくエルドリッチ・ライトを、その指先で掴む感覚を覚えてもらいます」
エンシェント・ワンはそう告げるとカマ・タージの奥へと、無音の足取りで滑らかに歩み出した。
◆ ◆ ◆
シャ、シャ、シャ、シャ。
カマ・タージの中庭。
ロンドンやマンハッタンのそれとは違い、どこまでも乾いたカトマンズの風が吹き抜ける空間に、私のジャージの袖が擦れる音だけが、不気味なほど一定のメトロノームのリズムで刻まれていた。
私の右手のふたつの指骨には、支給された金属製のふたつの輪――『スリングリング』が、皮膚をミリ単位で微変態させて生体適合させた状態で固定されている。
前方の一点を見据えたまま、右腕を虚空へ突き出し、あまりにも機械的な、寸分の狂いもない「直径三十センチの正円」を、何時間も、ただ虚空へ描き続けていた。
瞬きの回数は、一秒に〇・八回。呼吸の間隔は完全に一定。
凡百の未熟な魔術師であれば、腕の筋肉が酸欠を起こして疲弊を吐き出す領域。
だが、私の肉体はチタン・カーボンマトリクス骨殻と生体超伝導アクチュエータによって駆動する人外のシステム。可動域のブレを修正する計算遅延など、最初から一ミクロンも存在しない。
――ガガガ、チリ、チリ……。
その時、私の流体光子神経、有機光ファイバーの先端が、空間の歪みを捉え始めた。
エリンの感覚として、それはオカルト的な「祈り」などでは断じてなかった。
手を動かすのと同時に、その軌跡を分母にして、何もない虚空へ物質的に実体としての回路がパズルのようにガチガチと編み上がっていく、極めて筋の通った生体アーキテクチャの構築シークエンス。
パチッ!!! バチバチバチパチッ!!!!!
次の瞬間、世界のソースコードを内側からハックしたかのように、私の指先から、マルチバースの別層のレイヤーから引き算された初期波形――エルドリッチ・ライトが、激しい火花を散らして爆発的に噴き出した。
その刹那、私の手のひらは、魔術という名のアプリケーションが実体化した真の怪異を肌感覚で感知した。
ただの光ではない。
三千度の熱核を内側に密閉した時とも違う、奇妙な熱。そして、空間の分子構造を強硬にねじ曲げる際に生じる、目に見えない強固な物質としての抵抗、重みや硬さが、剛腕をはめた両手へと、質量となってダイレクトに伝わってくる。
「……流体光子神経の速度を魔術の流路へ100%同期」
腕で軌跡を描いていくなかで、私は自分が、巨大な高次元エネルギーの「川の流れ」のど真ん中に直立しているような、名状しがたい錯覚に満たされていた。
抗うのは非効率。
生存演算が導き出した最短の解は、その濁流に自らのシステムを100%委ね、流れを統治すること。
目に見えない、熱く、パチパチと弾けるような高次元の出力が、私のジャージの腕を通り、脳内CPUの描いたイメージ通りに、空間へピタリと固定されていく。
世界のすべてを自分の力ずくで書き換えているという、圧倒的な一体感と万能感。
――カシャ、カシャ、カシャリ!!!
白昼のカトマンズの空の下、完璧な、燃え盛るオレンジ色のポータルが虚空に完成した、まさにそのミリ秒。
「――あなたの帰るべき場所を思い描きなさい!!!」
監視していたエンシェント・ワンの、厳しくもすべてを射抜くような鋭い言葉のパルスが、私の耳の奥へ激しく流れ込んできた。
半ばトランス状態に陥っていた私の脳内CPUは、その命令を最優先コマンドとしてオート執行。
私の魂の最深部に楔として深く打ち込まれ、これまでのすべての戦闘のブースターとなっていた、あの消えない死んだ少女の夢、あるいは呪い――。
『私には夢がない。でも、あの冷え切ったアパートの、お母さんのいる家に帰りたい』
――同期完了。
オレンジ色の火花の門、ポータルの向こう側。
そこに映し出されたのは、カトマンズの砂埃ではなく、古い換気扇の低い唸りと古い油の匂いが重く停滞する、あのニューヨーク、ヘルズ・キッチンの古い赤煉瓦のアパートのリビングそのもの。
薄暗い蛍光灯の下、何も知らぬ無垢な母親の後ろ姿。
私の世界で唯一の安全装置の景観が、何万キロという距離を完全に引き算して、ネパールの更地へ完璧に剥き出しで現出させた。
「……アジャスト、確定。……帰還パスを、自前で完全掌握しました」
私は完璧なエリンの無表情のまま、紅い虹彩の瞳でその我が家の灯りを見つめ、静かに右腕を下ろした。
ポータルがサラサラと消滅していくのを見届けながら、トニーのJ.A.R.V.I.S.の手を借りずとも、自らの精神の檻で世界を騙し通すための、真の隠蔽の数式への一歩を確かに踏み出したのだ。
お気に入り登録、誤字報告、感想ありがとうございます。
特に誤字報告は本当に助かっています。