MCU世界で『ただいま』を言えない怪物 作:お砂糖さらさら
◆ ◆ ◆
――パリン、パキパキパキッ!!!!
カマー・タージの空間にソースコードが内側から強硬にハックされたかのような、名状しがたい硝子の割れる爆音が轟いた。
次の瞬間、世界の物理法則がパリンと鏡の向こう側へと強硬に反転・密閉され、私たちは現実のインフラから100%引き算された独立領域――『ミラー・ディメンション』へとエントリーしていた。
そこは、天地の概念すら存在しない、絶対的な視覚的カオス。
先輩魔術師であるカール・モルドの振るう木製の杖の軌道に同調し、重力のベクトルが真上、真横、斜めへと目まぐるしく相転移を繰り返していく。
壁が天井へとメキメキと音を立てて波打ち、床が奈落の底へと垂直にスライドし、万有引力の数式が完全にバグを起こして狂い狂い狂い続けていた。
並の人間――いや、まっとうなアベンジャーズの戦士であっても、突入した瞬間に三半規管の伝達パルスが深刻なエラーを起こし、激しい吐き気と目眩によって、その場に無様に転がって胃液のログを床に吐き散らすであろう絶望的な空間。
だが、私はそのカオスのど真ん中、上下左右が逆転し続ける更地の上で、ただのグレーのスポーツジャージ姿のまま、静かに、胡坐をかいて直立、瞑想していた。
「……生体プロセッサ、三半規管の感覚レジストリの強制切断を承認。……これより、視覚データと脳内CPUの空間認識マトリクスを直接、手動同期します」
低く、わずかに掠れた、血の通わない平坦な聲音。
エリン・マクカシーの皮を被った怪物は、肉体が叫ぶ「天地がひっくり返っている」という原始的な生物学的エラーパルスを、精神の最深部でただのノイズデータとして完全にフィルタリング・引き算し、脳のクロック数を一定に保ち続けていた。
目まぐるしく変異するミラー・ディメンションの中で空間に働きかけ自分の位置を固定し続ける修行。
普通の人間のように感覚で世界を捉えるから目が眩むのだ。
脳内CPUの計算シートの上で、歪む空間のベクトルをミリ秒単位のアルゴリズムで冷徹に相殺・水平化し続ければ、私の精神のセーフティが揺らぐリスクは、最低値へと抑え込まれる。
「――マクカシー、まだ正気でいるか! 空間の震動率をさらに30%励起させるぞ!」
遥か真横、重力を無視して垂直の壁に直立したモルドの叫び声が、無音の空間を震わせて滑り込んでくる。彼の肌からは、これほど狂ったカオスの中心にいながら数時間1ミリもバイタルを乱さない私の「硬質な静寂」に対する、烈しい戦慄の匂いが漂っていた。
「問題ありません、モルドさん。そのまま出力の連続投下を継続してください。……ここでの静坐は、私のシステムにとって、ただの不慣れなチューニングにすぎませんから」
私は完璧なエリンの無表情のままそう吐き捨てると、ジャージの膝の上で、ゆっくりと右手を掲げ、その指骨に適合させた金属の輪――スリングリングの分子構造を、体内の霊石アマダムの波長と同調させた。
バチチ、バチバチバチパチッ!!!!!
逆転し、回転し、引き裂かれ続ける重力場のど真ん中。その静寂を切り裂いて、私の右手の指先から、マルチバースの別層のレイヤーから直接引き算された初期エネルギー――エルドリッチ・ライトが、激しいオレンジ色の火花を散らして爆発的に噴き出した。
ミラーディメンションにポータルの穴が空き、外に繋がる風穴が形成された。
空間がどれだけバグを起こそうが、魔術という名のアプリケーションの出力波形は、1ミリのブレもなく、完璧な仕様値のまま更地へ固定される。
――算定完了。第一歩のデコードを完了。
生まれたてのウルトロンを鏡の向こうへ引きずり込みクリムゾンスマッシュで一瞬にして引き算するための、空間閉塞プロトコルの基礎が、このネパールのカオスのなかで、完璧な黒字の軌道を描いて上書き保存されるのだった。
◆ ◆ ◆
ミラーディメンションを会得するための修行は続く。
ミラー・ディメンショの特設演習セクター。
空間のレジストリが完全に書き換えられたその隔離世界では、物理的な崩壊の質量が、すべて私を圧殺するためのベクトルを帯びて牙を剥いていた。
頭上から猛スピードで自由落下してくる、何十トンものビル一棟分の鉄筋コンクリートの破片。
さらに前後左右からは、回廊の床が生き物のようにうねりを上げてメキメキと音を立て、視界を完全に遮断する超巨大なコンクリートの「肉厚な壁」と化して、私を挟み潰さんと超高速で肉薄してくる。
一瞬の判断ミス、コンマ数ミリ秒の処理遅延が、この鏡の檻のなかでの完全な圧死、システムの全損へと直結する、最高に過酷なリアルタイム・テトリス。
「これより、迫り来る危機の引き算を開始します」
低く、わずかに掠れた、血の通わない平坦な聲音。
私はグレーのスポーツジャージの裾を風に暴れさせながら、地を蹴り、その質量兵器の濁流のなかへと単騎で突撃した。
正面から迫る、巨大なコンクリートの壁。
私は右手のスリングリングを嵌めた指先を翳す。
――カシャ、カシャ、ガチィィン!!!
激突するわずか数センチ手前の段階で、迫り来る壁の空間そのものを折りたたみ、パズルのピースをスライドさせるようにして、その進行ベクトルを真上へと強硬に受け流す。私の鼻先を、へし折られたコンクリートの巨躯が、凄まじい風圧と共に垂直に通過していく。
間髪入れず、頭上から降り注ぐ、隕石のようなビルの破片の雨。
私は動体視力を最大励起させ、落下してくる瓦礫の分子間結合を先代クウガのアマダムの物質変換能力でハック。
彼らが私の頭部へ直撃するその最後の1ミリ秒の隙間において、高熱を帯びた手触りでその形状を直前で滑らかな流線型の形へと強制的に変態・書き換え。すべての瓦礫が、私の身体を避けるような弾道を描いて、床の更地へと虚しく激突し、砂煙へと還元されていきました。
感覚で動いているのではない。
脳内CPUの計算シートのうえで、すべての落下速度と空間の変数をリアルタイムで逆算し、最も割安なコストで「隙間」を作り続けている。
「空間を固定するだけでなく、動的にそのルールを書き換えて流動させる感覚。これでウルトロンの鋼鉄の肉体を、鏡の向こうへ引きずり込むための戦術的な式が、より強固にアジャストされました」
――キィィィィィン――――ッ!!!!!
空間のソースコードが極限まで引き裂かれ、格子状に明滅する割れた硝子のカオス。
ロンドンやアスガルドでの絶滅戦争、ワシントンでのインサイト決戦、そのすべてを置き去りにした『ミラー・ディメンション』において、世界の物理法則は完全に狂い、そして沈黙していた。
対峙するのは、カール・モルド。
彼の突き出す木製の杖の先端から、マルチバースの別層から引き算されたオレンジ色のエネルギーが、鋭利な「光のフレイル」や、「光の鞭」となって、私のグレーのスポーツジャージへと猛烈な速度で殺到してくる。
さらには構造物そのものを薄いカミソリの刃のように変形させ、大気ごと私を両断せんとする、現実世界では絶対に変数を許容できない高次の質量兵器の乱射。
「……ターゲットの攻撃ベクトルを識別。……ですが、私の戦術目標は、彼の命を引き算することではありません」
低く、わずかに掠れた、血の通わない平坦な聲音。
私の剥き出しの赤い瞳は、迫り来る魔術の濁流を冷徹に見つめ、脳内CPUの論理演算回路を極限のクロック数で駆動させていました。
戦闘能力、および破壊の質量なら、私はすでに通常ファイズ、アーマーファイズ、そして特異点クリムゾンスマッシュの式を自前で100%完成させている。
生身であっても、人工筋肉とチタン・カーボン骨殻を最大励起させれば、モルドの懐へ肉薄し、その喉元を生体指向性ビームでゼロ秒で消滅させることなど、至って単純な引き算の作業。
だが、この修行の最終章において、私の計算が弾き出すべき真のリターンは、そんなインフレした暴力ではない。
大事なのは、「空間の感触」をこの肉体へ完璧にレジストリさせること。
ガガガグォッ!!!
モルドが放った刃が、私のジャージの裾を掠めて背後の赤レンガのビル一棟をプラスチックのように水平に両断し、大音響と共に崩落させていく。どれだけ街を破壊しても、この鏡の檻のなかであれば、一瞬でリセットできる最高効率の演習場。
私はあえてファイズへの変身を却下し、生身のステップだけでその大波を躱し続けた。
迫り来るコンクリートの歪み、大気の摩擦、オレンジ色の光の重み。それらすべてを直接、肉体の最深部にある生体CPUへと同期させていく。
モルドの放った光の鞭が私の首根っこを絡め取ろうとしたそのコンマ数ミリ秒の隙間、私は右手を滑らかに一閃させ、彼が構築していたミラー・ディメンションのレジストリの一部を、内側からハック・オーバーライド。
反転の式。
足元の床を引き延ばし、迫り来る光の鞭に盾にして無効化、ただの物言わぬ無害な空気のゆらぎへと変えてみせる。
「な……、バカな!? 私の展開していた鏡面の位相が、制御を奪われた……!?」
モルドの眸が驚愕に大きく見開かれ、垂直の壁に張り付いたまま硬直。
彼の肌からは、どれだけ絶対的な死の火線を浴びせても、心音一つ乱さずに空間の檻のルールだけを淡々と盗み取り続けているこの少女への、底知れない戦慄のスパイクが漂う。
「ミラー・ディメンションの閉塞・隔離に関するすべての固有波長のデコードを承認。……完璧な、黒字です」
私はジャージの袖を無機質に整え、床に散らばったコンクリートの残骸が、鏡の世界のリセット機能によってサラサラと元の綺麗な床へと復調していくのを、冷たく見届ける。
新たに強力な魔術を覚えて戦闘の選択肢を複雑化させる必要など最初からない。
私はただ、生まれたてのウルトロンを即座に閉じ込めるためだけの空間の切り離し、その特化型アプリケーションの仕様値を、この模擬戦のなかで完全にマスターしてみせた。
パチン。
カマ・タージの歴史が沈殿する空気。
黄色い法衣の裾を静かに揺らした至高の魔術師――エンシェント・ワンは、手元の扇を実務的な温度で閉じ、私の完璧なエリンの無表情を見つめた。
「凡才なら一生を、マスタークラスでも数年を要するミラー・ディメンションを、ただウルトロンを隔離するためだけに特化させて習得してきたその成果。
……これより、カマー・タージの最後の試験として、私自身が直接、その精度を試験させていただきますよ、マクカシー」
彼女が静かに両手をあけ広げた、その最初の1ミリ秒。
――パリン、パキパキパキッ!!!!
空間のソースコードが内側から強硬にハックされ、世界のレジストリが一瞬にして鏡の向こう側へと完全閉塞。
気づけば私は、彼女の全力を以て展開された、現実世界から100%引き算された特級の独立領域――『ミラー・ディメンション』へと、グレーのスポーツジャージの姿のままエントリーしていた。
「試験の仕様はいたってシンプルです。私は今から、この鏡の檻の出力を最大臨界まで励起させ、空間の歪みそのものであなたを完全に圧殺しにかかります。
あなたが自前のシステムで私の構築をハックして上書きし、さらにそのスリングリングを使って、現実のヘルズ・キッチンへと繋がるポータルをあけ放って脱出できれば、合格と判定しましょう。……もしできなければ、約束通り、アベンジャーズがウルトロンを倒すまでここに隔離・幽閉します」
――グオォォォォン、ズドォォォォンッ!!!!!
主神オーディンの神血や先代クウガのアマダムの記憶データベースを総動員しても、一瞬で全損を感知するほどの、理外の絶対的な守護者としての力。
エンシェント・ワンの放った制動により、床が幾重もの万華鏡のような硝子の刃となってメキメキと波打ち、前後左右の壁が時速数百キロの超高速で私を挟み潰さんと突進してくる。
一瞬の判断ミスが、この鏡の檻のなかでの即死へと直結する、究極のデス・マッチ。
「……生体プロセッサ、三半規管のデバッグ。……これより、時間と空間の相互ハックを執行します」
低く、わずかに掠れた、血の通わない平坦な聲音。
私はファイズへの変身を却下し、生身の右腕を掲げ、そのふたつの指骨にレジストリ定着させた金属の輪――スリングリングの分子構造を、体内の流体光子神経の電圧と直接、100%同期アジャストさせた。
【生体インフラの更新を承認:多次元位相跳躍膜、エルドリッチ・ポータルの自律発振コードを定着】
ただただ貪り喰うようにして盗み取ってきたミラー・ディメンションを操る感覚。
たとえエンシェント・ワンの制御下にあろうとも、自前アセットであるアクセルフォームの引きの明日時間で同期しハックする。
儀式のように腰に収まったファイズドライバーにファイズフォンを叩き込む。
『COMPLETE』
システム完了の音が鳴り響いたその刹那、迫りくる壁を避けて斜めに低く転がった。
――瞬間、泥に塗れたグレーのジャージが、光の粒子となって分子レベルで一瞬にして消失。かわりに、私の華奢なしなやかな肢体をタイトに縁取るようにして、夜の闇に完全に融解するマットな質感の漆黒のライダースーツが、急速に細胞レベルで再構成され、全身を完璧に覆い尽くしていく。
次いで、黒いコートが腰回りから太腿の後ろにかけて燕の尾のように長く伸びた裾が重なるようにして出現。風を切って不気味に、そして美しく翻る。
同時に、胸部、肩、前腕、そして膝や脛へと、骨殻を連想させる鋭利で精密な白い硬質装甲が、整然と追加・固定されていく。
最後に、密閉されたスーツの全身、そして長いコートの背面に、鮮血を思わせる鮮やかな真紅の流体光子――フォトンブラッドの紅い発光ラインが、生き物の血管のようにドクドクと脈打って激しく走り、点灯した。
首元で短く切り揃えられた、艶のある黒髪のボブカットの隙間から覗く、紅い虹彩の眼。
この魔術師の居城で初めてファイズが完成した。
私は左腕に、赤白のファイズアクセルをモーフィングで直接生やし、スタータースイッチを激しく押し込む。全身の黒が白銀へ、赤いラインが黒へと反転する。
『START UP』
機械的な電子音が静寂を割り、現実世界のたった10秒、主観時間にして約2時間46分のアクセルモードが起動。
世界からすべての音が消え去り、私を押し潰さんと肉薄していたエンシェント・ワンの魔術の刃も、空間操作によって迫りくる壁も、すべてがガラスの彫刻のようにピタリと完全停止した、無音の世界。
「……残りの主観時間、すべてを空間の反転と門の構築に費やします」
私は静止した世界の中を、右手を空中へと正確に滑らせました。あまりにも機械的な、寸分の狂いもない正円のトレース。
パチッ!!! バチバチバチパチッ!!!!!
止まった世界の中で、私の指先からオレンジ色のエルドリッチ・ライトが爆発的に噴き出していく。
目の前にミラー・ディメンションから脱出する穴を生成する一方
エンシェント・ワンが仕掛けたミラー・ディメンションの制御の最下層ディレクトリへ、私の生体CPUを全力稼働させ逆流ハックの指令を直接強制インジェクション。
彼女の空間結界の数式を1枚ずつ剥ぎ取り、オーバーライド。私の周囲数メートルだけの空間のルールをエンシェント・ワンから強奪し完全に隔離、地面に折りたたんで無効化させた。
主観時間、残り1時間6分。
私はその切り離した檻のど真ん中で、右手を空中でクルクルと回す「魔術の手続き」を完璧に執行。脳内CPUが描いたイメージは、世界で唯一の安全装置、お母さんの待つヘルズ・キッチンの日常――。
――同期完了。
光の火花をパチパチと散らす、完璧な円形のポータルが、静止した虚空に美しく完成。
その門の向こう側、古い換気扇の低い唸りと古い油の匂いが重く沈殿する、あのアパートのリビングの灯りが、12,000キロを引き算して、白銀の奈落の底へ完璧に剥き出しで現出するのを、冷たく確認。
その向こうに足を踏み入れ、ポータルを消す。
即座にファイズアクセルのスターターを押してアクセルフォームを解除
『REFORMATION』
「そして時は動き出す」
通常の漆黒と真紅のファイズに戻った私の黒いコートの裾は、完成したポータルの向こう側へと、一音も残さずに一足先に滑らかに完全脱出を完了していた。
非合理な感覚だった。
遠い彼の地では異空間でエンシェント・ワンは暴虐の限りを尽くしているのにそこから出た私は自宅にいる。
ポータルの残滓がサラサラと空気の中に溶けて消え去る。
残されたのは、ファイズの紅いフォトンブラッドの輝きを、夜のアパートの自室に漂わせる私の姿だけ。
――最終監査、オールグリーン。カマー・タージの試験の完全な黒字化を承認。
トニーのJ.A.R.V.I.S.が機能停止するその運命の夜、生まれたてのウルトロンを1秒でミラー・ディメンションに押し込んで、特異点クリムゾンスマッシュで分子レベルに熱分解・デリートするためのすべての数式が、今ここに完璧に、強固にアジャスト完了するのだった。
ファイズフォンをベルトから外して変身を解除する。
後に残されたのは、ファイズの変身を解除し、元のグレーのスポーツジャージ姿へと戻った私の、感情の乗らない無機質な輪郭だけ。
ヘルズ・キッチンの自室。
薄暗い蛍光灯の下、換気扇の低い唸りと古い油の匂いが停滞する、見慣れた私の日常というインフラ。
――【生体プロセッサ:カマー・タージ全監査ログのクリーンアップを完了】
――【判定:ミラー・ディメンションの完全掌握。生存マージンは莫大な黒字を維持】
脳内CPUが網膜の端に弾き出した正常値のインデックスを確認し、私がジャージを脱ぎ捨て着替えようとした、まさにその刹那だった。
バチチチ、パチパチパチッ!!!!!
私の自室の何もない虚空が、再びオレンジ色の火花を激しく撒き散らしながら、円形に、滑らかに引き裂かれた。
光の穴の向こう側に黄色い法衣を纏ったスキンヘッドの女性――エンシェント・ワン、そして彼女の半歩後ろを歩く緑色の法衣の魔術師、カール・モルドの二人が立っていた。
「見事な脱出でしたよ、マクカシーさん。これであなたが未来に立ち向かう術は正しく得られました」
エンシェント・ワンは、すべてを見通した大人の眸で私の無表情を射抜き、上品な口調のまま、静かに微笑みを浮かべた。
「わずか1.5秒。その刹那のなかに、私の構築したミラー・ディメンションの制御を奪い、自前のポータルで脱出してのけた。……文句なしの合格点です」
彼女は静かに言葉を繋げた。
「これで、来たる機械の怪物を生まれた瞬間に排除するための準備は整った……エリン、未来を頼みますよ」
「当然の計算ですよ、エンシェント・ワン師」
私はローファーの硬質なヒール音をカツンと響かせ、完璧なエリンの無表情のまま、血の通わない平坦な声を滑り込ませた。瞬きの回数は、一秒に〇・八回。
「私があなたの提示した不自由な修行コストを半年で飲み干したのは、すべてウルトロンのハッキングという絶対的な大赤字を未然に0%へ引き算するため。……ですが、師よ。ひとつ、疑問が残されています」
私は紅い虹彩の瞳を冷たく細め、至高の魔術師の顔を真っ直ぐに見据え返した。
「私にこれほどの空間超越の適性を認め、合格を言い渡したというのなら。……なぜ、私をあなた方の魔術師の陣営へ正式に引き込んで、戦力として永続的に運用しようとは思わないのですか。
いるのでしょう? この地球の最暗部、あるいはマルチバースの深淵には。科学の火器やアベンジャーズの物理質量では1ミリグラムも傷つけられず、あなた方の魔術でなければ追い返すことすらできない、世界のルールを外れた『理外の存在』が」
直球。
その世界の核心を突いた怪物の問いかけが落ちた瞬間。
背後に直立していたカール・モルドのバイタルサインが、急激な揺を起こしたのを、私の生体センサーが明瞭に感知した。
モルドは古律の杖を握る指先を白くさせ、戦士としてのセルフコントロールでその動揺を強硬に抑え込もうとした。だが、その強引な力みが逆に彼の周囲の空気をピキリと不自然に揺らしてしまい、その微細な大気の歪みそのものが、私の脳内CPUにとって「100%の肯定コード」として滑らかに翻訳されていく。
「……いたとしても、それは我々の領分です、マクカシーさん」
エンシェント・ワンはモルドの動揺を窘めるように扇をパチリと閉め、どこまでも優しく、しかし絶対的な拒絶の質量を孕んだ声を空気に落とした。
「あなたはその華奢な身体は尋常ではないほどの業と、死線を積み重ねてここに立っている。
その細い肩に、これ以上の世界の重責を載せようとは思いません」
至高の魔術師は、自らの死の壁の向こうを一本の黒字の数式で繋ぐと誓っている。
だが無慈悲さにも寛容さに限界やルールはある。
「あなたが守りたいのは、自身の生存と母親の日常、それだけでしょう。あるべき戦場で、為すべきことをなしなさい」
そのエンシェント・ワンの冷たい優しさを受け、モルドもまた、自らの不器用な心拍のリズムを整えながら、私に向けて頼もしい戦士の目を向けた。
「師の言う通りだ、マクカシー。我々の志は一致せずとも、この地球の何気ない明日を守るために戦う同志だ。……ただ、戦っている戦場が違う。お前が表社会で日常をせき止めるように、裏の奈落をせき止め続けよう。」
「そうですか。私の余剰リソースを割かずに済むのであれば、その役割分担は極めて費用対効果の高い、黒字なディールと定義します」
私は居心地悪そうにほんの少しだけ視線を外すと、エリンとしての礼儀が極まった、寸分の狂いもない完璧な角度の会釈を二人の魔術師へ向けて捧げた。
「では、お手数をお掛けしました。私物を引き上げたらこれよりアベンジャーズの『ヒドラ狩り』への手続きへと移行します」
「――エリン」
背後から、エンシェント・ワンの一人の人間としての静かな声が私の黒髪ボブカットの背中に落ちた。
「負けてはなりませんよ。」
「師よ。私の生存演算は、今も完璧な黒字の軌道をアジャストしています」
私物を引き上げ、ドアから出るとカマー・タージの気配は完全に引き算された。
扉を開ければ中に入れてくれるかもしれないと思考し、即座に切り捨てた。
年度は既に2015年に変わろうしている
イコンの形像を習得させたかったのだけど、契約が必要なので正規の魔術師じゃないからダメだなと却下。
お気に入り、感想、誤字報告ありがとうございます。
モルドさん好きなんですが、闇落ちしちゃうんですよね。
エンシェントワンとかいう弟子が闇落ちする以外欠点がない人物。
あの死に方は悲しい…。