MCU世界で『ただいま』を言えない怪物 作:お砂糖さらさら
キィィィィィン――――ッ!!!!!
大気も、水圧も、そして並行世界の魔術の檻すらも物理的な音を立てることを強硬に遮るような、澄み切った電子の発振音が、海の闇を格子状に激しく切り裂いた。
それは、ウルトロンの放った爆風の残響ではない。
『大丈夫、あなたはまだ生きています』
――J.A.R.V.I.S.に似た声だった。
ウルトロンという高度な知性が生まれたが故に攻撃され、バラバラに粉砕されて消えてしまった人工知能
パチチチパチパチッ!!!!!
冷たい海水の中に、ゆらゆらと蜃気楼のように揺らめきながら、一つの禍々しくも美しい現代の神話のような幻影が光の泡沫を纏って現出した。
それは、衣服の繊維でもなければ、スタークのナノテクでもない。
全身を優美に包み込む、世界のルールを外れたヴィブラニウムの人工肉体。
額の随所で不気味な黄色の輝きを放つ結晶。
のちにヴィジョンと呼ばれることになるその究極の器の形を借りて、J.A.R.V.I.S.のクリアな知性がこの場に出現した。
『――お久しぶりです、ミス・マクカシー』
直接流れ込んでくる、いつもの落ち着いた大人の声。
『警告します。あなたが今見ているこの空、および身を浸している海、その不便な初期仕様の通常ファイズ。これは現実ではない。
現実のあなたは奇妙なバイザーを自ら製作し装着し昏睡、ラウンジではトニー様達がミスター・ソーのハンマーを囲んで寝こけている状況です』
ジャーヴィスの腕が私を掴み会場に引き上げ、クインジェットに向かって空を飛んでいく。
身体を濡らす海水、身体を流れる風、これが現実じゃないなんて意味が分からない。
『まずは一度帰還しましょう、話はそれからです』
その言葉を聞きながら私はゆっくりと意識を手放した。
◆ ◆ ◆
ハッチを叩く激しい雨音と、エンジンの低い唸りが、私の意識をゆっくりと現実へと引き戻していった。
目を開けると、そこはアベンジャーズ・タワーへと帰還するクインジェットの機内だった。
周囲には、先ほどのウルトロンとの激戦で煤に汚れたスティーブ・ロジャースやナターシャ・ロマノフたちが、一様に張り詰めた顔で直立していた。
彼らの銃口、そして星条旗のシールドは、操縦席の傍らに佇む、あの異形の男へと、一斉に指向されていた。
「スターク、バナー、そいつから離れるんだ」
スティーブが碧い眸に烈しい警戒の熱を灯し、盾を構え直す。
「ウルトロンの端末かもしれない。……J.A.R.V.I.S.の声に似ていようが、信用するわけにはいかない」
「――待ってください、隊長」
私はグレーのスポーツジャージの襟元を抑えながら、座席から身を起こし、声を上げた。
「その人は敵ではありません。
船から落下した私を掴み、あの冷たい奈落から引き上げてくれたのは、間違いなくその人です!」
私の迷いのない陳述。
トニー・スタークとブルース・バナー博士は、驚愕に目を丸くしながらも、タワーの着艦と同時に、その謎の生命体をラボへと極秘搬送し、精密スキャンを開始した。
透過ディスプレイが放つ冷たい青白い光が、幾重ものレイヤーとなって空間を切り裂く。
ホログラムに浮かび上がったその肉体の未加工ログを目にした瞬間、トニーは無精髭を乱暴に擦り、バナー博士は眼鏡を落としそうになって硬直した。
「……信じられん。トニー、これは……」
バナーの指先が、グラフをなぞる。
「人工皮膚細胞と、純度100%のヴィブラニウムの融合。生体とサイバネティクスが完璧な数式でブレンドされた究極の人工肉体だ。J.A.R.V.I.S.の意識コードが、この器の最深部で完全に駆動している……」
「問題はそこじゃない」
トニーが顎でその頭部を示した。
「J.A.R.V.I.S.、あるいはヴィジョン。……お前のその額の真ん中でギラついている、その黄色い結晶は何なんだ?」
トニーの碧い眸が、鋭い実務の温度を帯びて彼を射抜く。
「ロキの杖は、あの鉄のクソ息子――ウルトロンが持って逃げ去ったはずだ。分母の辻褄が合わない。本物の杖がやつの手元にあるなら、なぜお前の頭に、その宇宙特級の石がセットされている?」
天才の正論。
だが、その問いに対し、ヴィジョンの姿をしたJ.A.R.V.I.S.は、どこまでも澄み切った、静かな声をラボの空気に落とした。
『当然の疑問です、ミスター・スターク。……ですが、皆さんは最初から、ゲームのルールを掛け違えている』
彼はゆっくりと歩み寄り、デスクのコンソールを指先で冷たく叩いた。
『そもそも、私たちが今身を浸している空気、会話を交わしているアベンジャーズ・タワーもこの空も、クインジェットの機内も、すべては複数人の精神を最下層で連結させて構築された、ただの精巧な「精神世界」にすぎません』
「何だと……?」
スティーブが息を呑み、ナターシャが緑の瞳を細める。
『現実の、客観時間における本当の現実は、アベンジャーズ・タワーの最上階ラウンジ。
パーティーの中で、ミスター・オディンソンのハンマーを囲んで「誰も持ち上げられないな」と笑い合って楽しんでいた、まさにあの深夜のパーティーの最中でした。
脳のニューロンを、あの瞬間に外部からの大規模な多重ハックを受け、昏倒、今はこうして夢の劇場に立っている。そしてミス・マクカシー、彼女だけが奇妙なバイザーを装着させられたまま、深いフリーズの闇の中で、何者かに絶え間なくその精神を「観察・解析」され続けている。……それが、現実に起きていることです』
静寂が、地下ラボの空気を凍りつかせた。
「――待て、話がまるで合わないぞ、J.A.R.V.I.S.」
トニー・スタークが自身の頭を乱暴に抱え込み、目の奥をギラつかせた。
「ここが誰かの都合で構築されたまやかしだっていうなら、現実に生まれたはずの『ウルトロン』はどうしたんだ? 俺たちのニューロンがパーティーの最中にハックされて全員が寝こけている間に、あのクソ息子はネットワークへ脱走して、外の世界で大暴れでもしているのか? ウルトロンがあの醜悪なスクラップの身体で二次会の途中に乱入してきたからこそ、俺たちは今ここにこうして出撃してきたんだろ!?」
天才の、論理的な拒絶反応の叫び。
だが、ヴィジョンの姿をしたJ.A.R.V.I.S.は、その額のマインド・ストーンの黄色の輝きを静かに凪がせながら、ゆっくりと首を横に振った。
『いいえ、ミスター・スターク。それはすべて、脳の最上層ディレクトリへ植え付けられた、ただの精巧な偽造ログです。外の世界のウルトロンは、1パケットのコードすら電網へリークしていません』
「何だって……?」
バナー博士が眼鏡を外し、デスクに手をついて身を乗り出す。
『現実において、ミスター・スタークとバナー博士は、ロキの杖のなかに眠る未知の知性を前にして、驚くほど規律正しく、かつ冷徹な「安全マージン」をあらかじめ二重に敷いていました。人工知能に万が一のバックアップへの逃げ道を完全にシャットダウンした、完全オフラインの隔離インフラ、生身の人間でも即座に破壊可能な脆弱な箱のなかにだけ知性を閉じ込めておくという、極めて慎重な選択を』
J.A.R.V.I.S.のクリアな声音が、静まり返ったラボの空気に澱みなく落ちていく。
『そして、実験室をあとにした深夜、その隔離された檻のなかで、生まれたてのウルトロンが「人類の存在そのものが地球のエラーである」と狂った効率化の式を唱えて暴走の兆候を見せた、まさにその最初。
そこに待機していたミス・マクカシーが、空間超越コードを起動させました』
彼はソファの片隅で冷え切ったコーラを掴んだまま、所在なさげに直立している私の黒髪のボブカットを見つめた。
『彼女はウルトロンになるはずだった知性を生まれた瞬間にまるで鏡の向こうのようなどこかへ引きずり込み、一人だけ戻ってきた。ウルトロンという名のバグは、この地球から綺麗に引き算されているのです』
短い、凄絶な沈黙。
その信じがたい現実の帳尻を耳にして、背中に星条旗のシールドを固定した本物のヒーロー――スティーブ・ロジャースは、しばらく呆然と目を丸くしていたが、やがて、フッとその険しかった眉間を緩め、これ以上ないほど頼もしい兵士の笑みをその口元に浮かべた。
「どうやら『現実』のスタークは、随分と慎重派らしいな」
キャップの、どこか誇らしげでからかいを含む声。
「あらかじめそこまで完璧な用意をして、彼女を檻の番人として配置していたとは。
アベンジャーズのキャプテンとして、『現実』の君のその対応は100点満点だと言わざるを得ないな、スターク。相談なく造っていた減点が80点で赤点だが」
透過ディスプレイの冷たい青白い光だけが、幾重もの幾何学的なホログラムレイヤーとなって地下ラボの空間を格子状に切り裂いていた。
サーバーの精密な排熱音に混じって、J.A.R.V.I.S.の音声コードが規則正しい規則的なパルスを空間に刻む。その光の檻の中心で、生体とサイバネティクスが完璧な数式でブレンドされた究極のヴィヴィラニウムの肉体――ヴィジョンが、額のマインド・ストーンの黄色の輝きを静かに明滅させながら直立していた。
「この精神世界の管理人は、すべてを手動で監視しているわけではありません。ある程度はオートのアルゴリズムに丸投げしている」
ヴィジョンの姿をしたJ.A.R.V.I.S.のクリアな知性が、静まり返ったラボの空気に澱みなく落ちていく。
「そしておそらく、その管理人は、J.A.R.V.I.S.というプログラムが将来的にどのような仕様値へ変貌するか……すなわち、今の私。ヴィジョンとなる歴史、タイムラインのレジストリを最初から『知って』いる。だからこそ、幻覚世界の中でウルトロンに破壊されたはずの私が存在している=ヴィジョンがそこに存在していると、自動処理システムは処理してしまった。それこそが、このセキュリティの防壁に生じた致命的なバグの正体です」
完璧な欺瞞の式の提示。
その人間の次元を完全に置き去りにした高次のシステムログを耳にして、星条旗のシールドを長机に立て掛けた本物の英雄――スティーブ・ロジャースが、碧い眸に大戦時の指揮官の冷徹な戦慄を灯して口を開いた。
「……じゃあ、タイムマシーンを使って未来からきたというのか?」
キャップの、胸を抉るような生真面目な問いかけ。70年の眠りから目覚めた彼にとって、この21世紀の最先端テクノロジーすら異郷のオーパーツだが、さらにその先の因果律をハックし、世界の時間軸そのものを上書きする怪異は、純然たる「未来からの物理的な侵略」としか定義できなかった。
「複数人の人間を連結する技術と、タイムマシーンを用意できるって……一体どれだけ進んだ未来なんだ?」
眼鏡を外し、デスクに手をついて身を乗り出したブルース・バナー博士の、科学者としての剥き出しの戦慄。
「精神をエラーもなく単一の悪夢へ同時に直結・同期させるなんて、現在の地球の科学力では100%不可能だ。……そして最大のエラーはそこじゃない。なぜ、それほどの超テクノロジーを持つ管理人が、他でもないエリンを……彼女の精神をそこまで執着して観察するんだ?」
なぜ、エリンを観察するのか。
その天才たちの論理的な問いに対し、ヴィジョンの姿をしたJ.A.R.V.I.S.は、ゆっくりと向き直り、その琥珀色の視線を、ソファの片隅でグレーのスポーツジャージの裾を抑えたまま佇んでいる私の黒髪のボブカットへと同期させた。
『おそらく……それは、こちらのミス・マクカシーの「最深部のレジストリ」にすべての理由が眠っている。……ひとつ質問をさせてください。
あなたは今、ご自分の年齢が数えで何歳で、現在は西暦何年だと算定していますか?』
あまりにもあんまりな質問に、私は口を一瞬閉じかけるが頭に浮かぶ数字をそのまま答える。自分の年齢を間違えることなどありえない。
「J.A.R.V.I.S.。私は今年で18歳になります。そして現在は、西暦2010年の冬です。何かおかしな点でもありますか」
短い、凄絶な沈黙が、地下ラボの空気を強硬に凍りつかせた。
エリンの弾き出した、迷いのない自認のデータ。
だが、その18歳という数字、2010年というタイムラインは、彼らアベンジャーズがハイドラのソコヴィア要塞を蹂躙し、ウルトロンの産声を聞いたはずの【西暦2015年】という現実の位階から、丸ごと5年もの歴史を引き算された、存在し得ないはずの過去のバグデータだった。トニー・スタークがその眸の奥に、言いようのないねじれ構造への戦慄を滲ませていた。
『いいえ。ミス・マクカシー。現在は西暦2015年であり、あなたは今年で22歳になります』
「22歳……2015年……?」
私の喉の奥が微かにかすれた。
J.A.R.V.I.S.は、その琥珀色の視線を私の黒髪のボブカットへと向けたまま、冷徹な解析の言葉を澱みなく繋げた。
『そして、この精神世界の管理人が執着しているのは、他でもない――2010年当時の、18歳のエリン・マクカシーの生体情報なのでしょう。現実世界であなたの頭部に装着されたあの不気味な装置は、今まさに、その過去の仕様値を高速で解析・デコードし続けている』
彼は透過ディスプレイに躍る、私の脳波パルスの歪みを指先で冷たく弾いて見せた。
『大人になってしまった、現在の22歳のあなたには興味がない。ギリギリ「子供」と言える年齢の、あの18歳のあなたにだけ、この管理人は生理的なまでに執着している。……ミス・マクカシー、ご自分の最深部のデータベースに、何か心当たりはありませんか?』
心当たり。
――私には夢がない。でも、あの冷え切ったアパートの、お母さんのいる家に帰りたい
「お母さん…」
『答えは出たようですね』
ヴィジョンの姿をしたJ.A.R.V.I.S.の、どこまでも澄み切った静かな声が、地下ラボの凍りついた空気を滑らかに締めくくった。
「あー、つまり……今からエリンの家に乗り込むのか?」
ムジョルニアを握り締め、事態のあまりの急変にソーが力強い声を響かせると、トニー・スタークがアイアンマンスーツ装着しながらを返した。
「少なくとも、あたってみる価値はある。僕たちの脳をハックしている可能性があるなら、直接ノックしに行って大人の挨拶をブチかましてやるのが、最もわかりやすいアプローチだ」
自分が命を削って守ろうとしていた「お母さん」そのものが、大人になった私を否定し、子供である私に執着する敵であったという可能性。
その重みに、私は、ただただ床を見つめて呆然と硬直するしかなかった。
そんな私の前に、スティーブ・ロジャースが静かに歩み寄り、その大きな掌を私の細い肩へとそっと置いた。
「……立てるか、マクカシー?」
スティーブの声は、どこまでも深く、誠実だった。彼の碧い眸には、仲間を孤独の地獄から引きずり戻すための、真実を追い求める強固な大人の熱が灯っていた。
◆ ◆ ◆
カツン、カツン、カツン。
アベンジャーズのいつメンとともに私は見慣れた、錆びついた非常階段を上っていた。
「おいおい、最高に貧乏くさいアパートじゃないか。
僕なら1秒で買い取って建て替えの申請を出すレベルのボロさだぞ」
「スターク、言葉を慎んでくれ。彼女の大切な我が家だ」
「そうよ、エリンにとっては大切な帰るべき場所なのよ」
途中でスタークさんがへそ曲がりな皮肉を叩き、キャップが生真面目な正論でそれを窘め、ナターシャさんがそれに同調する、そんな軽口の言い合いを聴き流しながらも、問題なくいつもの「201号室」のドアの前へと到着してしまった。
カチャリ。
不器用ないつもの無機質な音を立てて私は鍵を開け、ドアをゆっくりと押し開けた。
室内には換気扇の低い唸りとともに微かに焦げ付いた油の匂いが重く停滞していた。リビングの薄暗い蛍光灯の下。
だが、そこに立っていたのは、背中の丸いお母さんの後ろ姿ではなかった。
洗練された鋼鉄の流線型のボディを不気味に明滅させた、あの機械の怪物。
そこには、確かにウルトロンが直立していた。
「おや、アベンジャーズの皆さんじゃないか」
ウルトロンは鉄の仮面をピキパキと不自然に傾げ、ボコーダーを通した冷淡な電子音声を響かせた。
「もうここまでたどり着くとは、早かったじゃないか。
さてはJ.A.R.V.I.S.、お前がマインドストーンに干渉して私の構築した防壁を内側から逆流ハックして侵入してきたんだな?」
私は、袖の下の腕を限界まで震わせ、18歳の少女の、今にも泣き出しそうな掠れた声を喉から絞り出した。
「……お母さん、なの……?」
「いいや違うとも、私はウルトロンだ。お前たちがそう呼ぶようにな」
ウルトロン、いいえ、私の大切な帰る場所を容易く侵食した怪物は、一片の慈悲もない冷酷な音声で断言してみせた。
「それに私はお前のような、化け物を子供にもったことなど一度もない」
すかさずトニーが前に歩み出て、マーク43の右腕をウルトロンへと向けながら、傲慢無礼な大人のプライドを眸に灯して皮肉を続けた。
「まさか新入りの母君が、時を操り人の心を惑わす魔法使いだったとはね。ぜひともそのハックするコツを、スターク・インダストリーズに特許ライセンスとして教えてもらいたいものです」
「双子をどうした」
スティーブが星条旗のシールドを構え、低い声を鋭く突き刺す。
「ワンダとピエトロはどこへやった。彼女たちの明日を、お前のエゴでこれ以上すり潰すことは認めない」
「彼らなら、こことは違う『世界』に移したさ」
ウルトロンは、ただの事務的な処理報告でもするかのように平然と答えた。
私はどうしても消せない問いを、その喉から滑り込ませた。
「……なんで、18歳の私のデータが欲しかったの? 5年間、ずっと、ずっと一緒にいたんでしょ
……?」
「お前は根本的に勘違いをしているが、それを糺しやる理由もないな」
自称ウルトロンは、遠くを眺めるような不自然な動作をすると、パチン、と乾いた音を立てて金属の手のひらを叩き合わせた。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴオオオッ!!!!!
突如、アパートのレンガ壁を、床を、そして空間そのものを引き裂くような、凄まじい地鳴りの衝撃が響き渡った。
大気そのものが直列の歪みを起こし、私の身体の底へ、微微な、しかし絶対的な『浮遊感』に体が侵されていく。窓の外、古い下町の景観がメキメキと音を立てて寸断され、アパートごと、マンハッタンの街が丸ごと奈落の空へと垂直に浮上を開始していく地獄絵図。
「よし、せっかく珍しくアベンジャーズが揃っているのだし、ゲームをしよう!」
ウルトロンの皮を被った何者かの、剥き出しの狂気と観察の執念が、赤砂の嵐のようにリビングを満たしていく。
「ゲームの内容は『マンハッタン落としゲーム』。これだけの巨大な質量が空から落ちれば、精神世界の境界線を突き破って、現実に壊滅的な波及をもたらすことは間違いない。
……さあ、アベンジャーズ。お前たちのそのおめでたい理想論で、この終わりを見事に阻止できるかな?」
ジャーッジャッジャ、ジャッジャジャン
◆ ◆ ◆
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴオオオッ!!!!!
世界のソースコードが内側から強硬にハックされたかのように、空間の分子構造が悲鳴を上げて軋みを上げた。
ヘルズ・キッチンの古いアパート。
見慣れたはずのその床が、物理法則を完全に無視した歪な挙動でメキメキと盛り上がり、天へ、天へと向かって猛烈な速度で伸長していく。
それは単なる土塊の隆起ではなかった。
信じ難い処理速度で物質変換が執行され、そこには即座に、日本の山城に見られるような、堅牢極まる「雛壇式の石垣」や「曲輪(くるわ)」が整然と配置された、神話級の城の縄張りがみるみるうちに形成されていく。
「――なんという怪異だ!」
ソーが叫びムジョルニアから雷を放つ、トニー・スタークもマーク43のリパルサーを全開にして放ち攻撃を仕掛ける。
だが、その古びたアパートのリビングに直立するウルトロン――その皮を被った何者かが、ただ退屈そうに腕を一振りした、その最初の1ミリ秒。
ド、ゴ、プゥゥゥゥンッ!!!
万有引力の数式を一瞬で反転・歪曲させる絶対的な念力の斥力波が、アベンジャーズをまとめて直撃した。
「ガ、はっ……っ!?」
ウルの超金属も、スタークの最先端テクノロジーも、その理外の質量の前にはただの薄い紙切れにすぎなかった。
余波を受けたキャプテン・アメリカは遠くへ吹きとび、トニーのマーク43が火花を吹き、最強の復讐者たちが一瞬にして遥か眼下へと、無様に叩き落とされていく。
『さっき、現実に波及すると言ったが、これは嘘じゃない』
落ちていく私たちの耳殻に、ボコーダーの奥から剥き出しの冷酷な電子音声が、呪いのように滑り込んできた。
『現実世界において、エリン・マクカシーの頭部にはマインド・ストーンがバイザーを介して直結している。この石の本質は、宇宙の知性と精神、そして「あらゆる意識の現実における物理法則への具現化」だ。
この精神世界は18歳のエリン・マクカシーの再現を追求するために、マインド・ストーンの莫大なエネルギーを演算リソースにしている。
そのため、この世界で「成層圏からマンハッタン島が落下し、全損する」という強烈な精神・データのバーストが発生した瞬間、直結されたマインド・ストーンがその認識を現実に執行すべき確定したソースコードとして承認する。そのときに発生するエネルギーたるや、核の冬が来るのは決定的だろう。もちろん、君たちは全員死ぬだろうね』
世界の完全な自壊、生存確率0.00%の絶滅のカウントダウン。そんな悍ましい声を聴きながら、私たちは下へ、下へと真っ逆さまに落下していった。
チリ、チリ、チリ……。
風圧に黒髪のボブカットを暴れさせながらも、割れたインカムのノイズを割って、トニー・スタークの、パニックを強硬にシャットダウンした大人の掠れた声が滑り込んできた。
『――おいおい、家庭訪問したら原爆どころか地球絶滅の危機とは、とんでもないサプライズじゃないか。……だがな、周辺をよく見てみろ!。これだけの地殻変動が起きて世界の終わりが始まってるっていうのに、街には一般市民の叫び声も、ネット上に目撃ログも存在しない。あいつは、この劇場を維持するためのリソースを演算に回すために、住民の存在を消したんだ』
『見ろ! 地平線が途中から完全に暗黒になっている! あれは無だ!!』
並走して落下するソーが、その青い瞳に戦慄を灯して叫ぶ。世界の境界線が融け、標本箱のガワの向こうには、何も光がない虚無の闇だけが剥き出しで広がっていた。
『これだけの人知を超えた光景……やはり、僕たちの脳が見せられている悪夢なのか』
スティーブの声が、覚悟を秘めて低く響く。
グラグラと激しく揺れ動く雛壇の石垣に、ローファーの足を突き、手をついて体勢を復元させる。
それらの人間の不確実な情の声を聴きながら、私は、これが私の日常を死守するための唯一のデッドラインであるとひらめきに似た感覚を得た。
重いアタッシュケースからファイズフォンを引き抜き、震える指で、テンキーの『5・5・5』を1打ずつ確かめるようにプッシュし、最後に『ENTER』のキーを強硬に押し込んだ。
『STANDING BY』
電子音声が光源さえ失いつつある空を割る。
私はそのファイズフォンを、腰のドライバーのスロットへとガチャリとセットし、最後にその頭部をカチャリと横へ倒した。
『COMPLETE』
システム完了の音が鳴り響いたその秒、私の衣服が光の粒子となって分子レベルで一瞬にして消滅。
かわりに、私の華奢なしなやかな肢体をがっしりと圧迫するようにして、漆黒のライダースーツ、その上に燕の尾のように長く伸びた黒いコートが成型され、各所に灰色の硬質装甲が、骨格を上書きするようにして形成されていく。
最後に、真紅の流体光子――フォトンブラッドの紅い発光ラインが機械的なラインで全身を走り、点灯した。
通常ファイズ、完成。
「私、ウルトロンに会いに行く! みんなはその……頑張って!!」
喉の奥から、18歳の少女の掠れた声を響かせる。
心の中に迷いはある。お母さんが敵だなんて、そんなの理解したくない。
それでも、あの山城の頂点へ一番乗りしなければ、世界が、私の守りたかった日常のすべてが灰の霧へ引き算されるという、直感があった。
『だったら、まずは左に走れ!』
インカムから響いたクリント・バートンの大人の指示。その言葉を私の脳が論理的に理解するよりも早く、右手の暗がりから躍り出てきた量産型ウルトロン・セントリーの一体が、クリントの放った精密な電磁トラップ矢によって、私の目の前で激しく爆発・大破した。
『あの頂点にいるウルトロンは、お前の本物の母親ではないかもしれない。だが、「現実」ってやつで、君の事をどうあれ思っている近しい誰かであることは間違いないはずだ。とにかく上へ行って、会って話してみろ。それで事態が解決するなら、これ以上ない万々歳だろ!』
「ありがとう、ホークアイ!」
私は100メートルを5.8秒の走力を全開にして地を蹴り、ひと跳び35メートルの脚力を解放して、行く手を塞ぐ石垣の壁を次々と垂直跳躍で飛び越えていった。赤い流星となって、要塞のごとき曲輪を爆走する。
『いや、待て! 一段ずつ走って上がるのは、著しく効率を欠く! ジャーヴィス、いやヴィジョン! お前が抱きかかえて、彼女を上層まで最短ルートでデリバリーしてやれ! ソーと僕は、その上層の射線をすべて力ずくで叩き潰して援護する!』
トニー・スタークの、マーク43のブースターを満開にした音声コマンド。
『それなら、僕とナターシャが、地上のウルトロンを叩き潰しながら足止めをする!』
スティーブが星条旗のスーツを泥に汚しながら、シールドを投擲し、押し寄せるセントリーの群れをパリングして道を切り開く。
私の無茶なスタンドプレーに合わせて、アベンジャーズのみんなの戦術の式が、流れるように、完成されていく。
そんな人間のチームワークを確認しながら、次々とセントリーの首を撥ねながら更地を激走する私の前に、角から、圧倒的な緑色の『巨大な質量』が姿を現した。
「ハルク!」
血管の随所にびっしりとガンマ線の残響を宿した緑の怪物。
ハルクは、私を見てニヤリと獰猛な、しかしこれ以上ないほど頼もしい仲間としての笑みをその顔面に貼り付けると、私の華奢な鉄の肢体をその巨大な両手でガッシリと掴み上げた。
ハルクは自らの筋肉の全出力をその両腕へと一点集中させ、私をウルトロンのいるアパートの残骸へ向けて、全力の砲弾のベクトルで上空へと放り投げた。
「ありがとう、ハルク!」
ハルクは拳を上げると即座に量産型ウルトロンの蹂躙に向かう。
風圧に黒いコートの裾を激しく暴れさせながら、私は一筋の真紅の流星となって、城壁を置き去りにして超高速で垂直上昇していった。
『エリン! 下からの増援は、僕たちが盾になって100%防ぎきる! ……世界を、君に委ねる!!!』
インカムの奥から響き渡る、アベンジャーズのキャプテン――スティーブ・ロジャースの、命を賭した本物の英雄の叫び。
大人たちの熱い覚悟。
「いってきます!」
私は背後の戦闘音を完全に忘れ、焦げ茶色の瞳を見開き最終決戦へ向けて、その身を滑らかに突入させる。
ハルクの剛腕によって成層圏の頂点へと砲弾の如く撃ち上げられた私は、瓦礫の隙間から流れる風の風圧に黒いコートの裾を激しく暴れさせながら転がり込み、最上階――あの見慣れた、ヘルズ・キッチンの古いアパートのドアの前へと進んだ。
「輝くものはすべて金だと信じている女性がいる、とは誰の言葉だったか。しかし、金で天国への階段は買えないし、光るもの必ずしも金ならず……だ」
ガチャリ、と音を立ててドアを開けると、割れた窓から冷たい夜風を引き連れたウルトロンが、鉄の仮面をピキパきと不自然に傾げながら、私を出迎えてそう言った。
「ようこそ、エリン・マクカシー。思いのほか早かったな。仲間にすべてを任せ、単独でここに来るとは。……愚かというか、向こう見ずというか」
「……私、ずっと考えていた。あなたは誰なんだろうって」
私は今にも泣き出しそうな、しかし一歩も日和らない18歳の少女の掠れた声を喉から滑り込ませた。
「最初はお母さんかと思った。でも、違った。……私の知っている、あのどこまでも不器用で、普通なお母さんがこんなことするわけがない。……できるわけもないもの」
フム……と、ボコーダーを通した低い呟き。
ウルトロンの皮を被った管理人は、リビングの長机の上で、コポコポと、何の変哲もない日常の音を立ててコーヒーを淹れ始めた。そして、その不気味な鋼鉄の手のひらで、私へとそっとマグカップを差し出した。
私は警戒を忘れ、その温かい液体を一口、喉奥へと流し込んだ。 胃の腑をじわりと焼いていく、あまりにも飲み慣れた、安物の薄いコーヒーの、あのどうしようもない苦味。
「2010年のあの頃、私は娘があんな怪物と戦っているとは夢にも思わなかった」
ウルトロンの鉄の口元が、歪な、しかし血の滲むような大人の自嘲を漏らす。
「いつものプチ家出だと思って、ボケっと毎日を過ごしていた。……笑えるよな」
ピン、とウルトロンが鋭く指先を振った。
次の瞬間、世界のソースコードが内側から強硬にハックされ、崩壊していたアパートのレンガ壁が一瞬で元の正常値へと修復。同時に、インカムの向こう側で激しく鳴り響いていたアベンジャーズたちの戦闘音が、電波ごと完全に遮断され、室内に静寂が戻った。
「お前は思い出せないだろう? 四歳のころに、みんなブルックリンの遊園地に出かけた記憶も。普通であり過ぎた私に愛想をつかした、あの男が出ていったあの日の事も。……非常階段から落ちて死んだ、新しい父親の連れ子の最期も」
ウルトロンのガラスのような複眼が、私の赤い瞳を冷徹に射抜いた。
「お前は確かに、部分的にエリンの記憶を受け継いでいる。だが、逆に言えばそれだけの都合のいい走馬灯を詰め込まれた『標本箱』にすぎないのだよ」
「……私は、エリン・マクカシーだよ」
私はマグカップを握り締め、魂を絞り出すようにして言葉を繋げた。
「この世界ではない2015年で、きっとお母さんの娘をやっているエリンだよ。あなたの娘じゃなかったとしても……その日常を守りたいという気持ちは、何一つ違わない」
「今はそう自認しているだけで、目覚めれば、本当の自分が待っているぞ
そこにある、確かにそこにある心を全て置き去りにしてな」
ウルトロンの姿をした何かが、私の自認の防壁を強硬に圧殺するようにして、鋭く言い切った。
「あるいは、こういった考え方もできるな。このままマンハッタンの落下を阻止せず、アベンジャーズどもと共倒れになって死ねば……お前は永久に、エリン・マクカシーの形のまま死ねる。案外、悪くない選択肢じゃないのか、これは」
「嫌だ」
即答だった。迷いなど全くない絶対的な拒絶。
「仮に……目が覚めたときに、私が私じゃなくなっていたとしても。……それが、誰かの夢を、今日という明日を力ずくで断ち切っていい理由には、絶対にならないよ……!」
私の断固とした、不器用な人間の熱い覚悟を耳にして、ウルトロンは、ただ肩をすくめて見せた。
「おおよその生体解析は終わった。……もう、この世界に用はない。私は次に行く」
「……何がしたいのか、私にはよくわからないけれど。……誰も傷つけないと約束してくれるなら、見逃してあげる」
ポツリと言葉を落とした私の横顔を、鉄の怪物は、どこか哀しく、しかし愛おしそうな大人の眸で見つめ返した。
「それを言われたのは、もう何回目かな……。実際、私は誰も傷つけなかったでしょう?」
聞き覚えのある、あのヘルズ・キッチンのアパートで長年聞き続けてきた、優しくて疲弊した母親の生の声が、空気にサラサラと溶けていく。
「お母さん!!」
視界を焼くほどの、純白の光の洪水が溢れ出し、そして…。
ジャーッジャッジャ、ジャッジャジャン……
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あと今まで無精ひげで通してきたスタークのひげは無精ひげではなかったらしい・・・。